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さらに深く


 『お前はいいよな。この家で一番遅く産まれたってだけで死ぬまでいい思いができる。感謝料くれよ』

『いっそ死んでくれれば、私がそこに行けるのに』

 どうしてそんなことを言うの。やめてよ。僕はあなた達の……。


 風岡かざおかさんにかかってきた職場からの電話が気がかりで、それからしばらく考えていた。そのことを風岡さんにいたとしても事情を話してくれるか分からない。尋ねたとしてもつらいことを話させる気がする。それなら無理に聞き出したくはない。勝手に電話に出てしまったことも、もしかしたら怒られるかもしれない。それもそうだ。部外者の俺が勝手に首を突っ込んで、風岡さんの社内での立場を悪くした。たとえ不審な会社かもしれなくても風岡さんにとっては大事な場所かもしれない。じょじょに冷静になると、考え無しに衝動で動いてしまったことを後悔した。

「ごめんなさい」

 眠る風岡さんの左手を取った。ひんやりして冷たい。春も終わりに近づき夏かと思うほど暑い日もあるのに、風岡さんの手は雪景色の中にいるみたいだ。もう一枚毛布を持ってこよう。起きた時、食事は摂れるだろうか。

 一方的に離れておいて今さら何をしているんだろ。勝手だと分かっていても、やっぱり放っておけなかった。もしあの時、想いを伝えていたら一一。何も言わずにあの会社を去っておいて、今さら何なの? と思われるかもしれない。親しくしていたと思っていたのは俺だけで、風岡さんからしたら俺の存在なんて取るに足らないものかもしれない。今は他人以下の存在かもしれない。それでも……。死なないでいてくれて、こうして生きていてくれて、本当に良かった。

 まだ色々考えたいのに、のしかかるような眠気がやってきていつの間にか眠ってしまった。さっきの結婚式で飲んだ酒が今さら影響したのかもしれない。

 風岡さんに再会したのは結婚式の帰り道、母校に寄る途中の事だった。時間にしたらほんの数時間前の出来事なのに、色々ありすぎて何年も経ったような気分だ。静まり返った室内に風岡さんの寝息が小さく響く。不思議だった。ラインはつながっているのに連絡も取らないまま五年が経った。もしかしたらもう一生会えないかも。そう考えてしまう時もあったのに、今はここに風岡さんがいる。寂しかった気持ちが一気に癒されていくのが分かった。現状分からないことばかりで先のことも全く見えないけど、風岡さんさえそこにいてくれたら何とかなりそうな気がする。彼女と離れてから初めて、熟睡できそうな予感がした。

 どれくらい眠ってしまったんだろう。スマホの着信で目が覚めた。一瞬また風岡さん宛にあの運送会社から電話がきたのかと思い身構えたが、鳴っていたのは俺のスマホだった。電話は春海はるみからのもので、画面を見て肩透かしを食らう。

「はい」

『寝てた?』

「ちょっとね。どうした?」

『いや、気付いたらほまれいなくなってたから心配で』

 どうやら二次会の後、高校の仲間やその知り合いなどを集めて、春海夫婦が泊まるホテル内のバーで飲み直しをしようという話になっていたらしい。風岡さんを起こさないよう、

「ちょっと待って」

 マンション敷地内にある駐車場の自分の車に移動し、車内で話した。

『皆でしばらく探したんだからなー』

「ごめん。あれで解散かと思って」

『もう家?』

「うん。用事それだけならもう切らせて」

 今はなるべく風岡さんを一人にしたくない。目を離すのは心配だった。

『冷たいなー。こっちはめっちゃ心配したってのに』

「ごめん。でも大丈夫。ちゃんと無事に帰ってるから」

『そうじゃなくて。式中なんか変な飲み方してたから』

「そう? 美味しかったからかな、つい。ごちそうさま」

『今もあの人のこと引きずってんのか? 五年前同じ会社にいたっていう』

「もういいよ、その話は」

 イイヤツだけど、お節介なとこは少しめんどくさい。放っておいてほしい時もあるのに。でも、奥さんと一緒にいるはずなのにわざわざ電話してきてくれたのか。そう思うと邪険にもできない。

「心配かけて悪かったよ。別にホント何でもないから」

『俺、あの時よけいなこと言ったよな。ごめん』

 急にどうしたんだろう。春海は神妙だった。

『他にも女はいるからーとか言って、無理に出会いの場に連れてったりさ。しんどそうな誉見て、それが最善だってあの時は思い込んでたんだ。アイツと出会って、そういうことじゃないよなぁってしみじみ分かったよ』

 アイツとは奥さんのことか。

『もし今アイツがいなくなったら、俺も誉みたいになるかもしれない。そういう想像すらできなかった。浅はかだった。あの時は本当にごめんな、俺の主張ばっか押し付けて』

 たしかに、うん。正直うっとうしいと思わなかったと言えば嘘になる。でも、

「いいよもう。俺もあのままは良くないと思ったし、他の人と会ってみて気付くこともあったから」

 春海の世話焼きは昔からでそこに悪意がないのは分かっていたし、実際気付けたことはたくさんあった。なぜ風岡さんがいいのか、どうしていつまでも忘れられないのか。他の女性と会ってみることでそれを確認できた。失礼な話だけど、他の人と話してみることで風岡さんの何が好きなのかを理屈抜きで実感した。存在そのものに惹かれていたのだ、と。

「この先ずっと独りだとしても、そういう人生なんだって納得してるから」

『だよな。その気持ち、今はよく分かるよ。そこまで深く人を好きになれる誉が羨ましくて、俺もあの時は焦ってたのかもな』

「そうだったの? でも結局こっちが先越されたよ」

『そんなの人それぞれペースがあるだろ』

「余裕だな既婚者め」

『あははっ。誉とはさ、また一緒に悩んだり楽しんだりしたかったんだよ。一生一緒に青春したいって。いくつになっても』

「うん。そうだな。もう切るよ」

『そういうとこ!』

「え?」

『何か用事か?』

「ちょっとね。気が向いたら話すかも」

『かもって、おい!』

 なんだかそれ以上しゃべっているのが照れくさくて、逃げるように電話を切った。春海も変わっていってる。昔のままだと思っていたけどそうじゃないんだ。微妙に少しずつ、目に見えない速さで、普段は気付かないように変化していってる。何事も。想いが通じない苦痛から逃げたあの時の俺も変われているだろうか。良い方向に。どうかもう悪い流れになりませんように。

 電話を切るなり車を出て、急いで部屋に戻った。風岡さんは眠っていた。起きた気配はなさそうでホッとした。心配なのは体調面でもそうだが、目を離したらどこかへ消えてしまいそうという不安もあった。春海には悪いことをした。そのうち何か埋め合わせをしよう。

 さっきまで眠かったのに電話で一気に目が冴えた。おかげでやりたかったことが少しできそうだ。風岡さんがいつ目を覚ましてもいいように、何かしら軽い食事を作っておきたい。冷蔵庫の中を見ると、雑炊なら作れそうくらいの食材があった。料理の習慣があってよかった。でも、飲み物はあまりない。少し歩いて近所のコンビニまで行くことにした。あまりここを離れたくないけど、急げば十分ちょっとで帰ってこられるはず。意識はハッキリしているのに、アルコールが残っているせいでまだ少しぼんやりもする。

「少しだけ行ってきます」

 寝ている風岡さんに小声で話しかけ、家を後にした。エレベーターに乗り、徒歩三分のコンビニへ。普段の買い物はスーパーや通販がメインであまりコンビニには来ないので少し新鮮だった。風岡さんはお茶より水が好きだった。マンション清掃は基本的に車通勤で彼女もそうだった。マンション敷地内の指定された場所に車を停めており、風岡さんの車のドリンクホルダーにはいつも水のペットボトルが置かれていた。それに気付いてからは、飲み物類の差し入れはほとんど水にした。思い出し、水を何本かカゴに入れる。甘い物はあまり好きではなさそうだった。好意的に受け取ってくれていたけど、何が好きかまだ分からなかった初めの頃、ロールケーキを渡すと一瞬顔を曇らせ、その後ごまかすように笑顔でお礼を言っていた。あ、これは苦手なのかも、と感じた。一方で、チョコレートの差し入れはとても喜んでくれていた。

「チョコレートっていつ食べてもおいしいんだよね」

 嬉しそうにそう言っていた。チョコレートも何種類かカゴに入れていく。

「甘い物苦手かと思ってました。チョコレートはいいんですね」

「甘すぎるのはあまり食べれないけど、チョコは高カカオのが色々あるから」

「誕生日のお祝いとかって、それだとケーキの代わりに別の物食べたりするんですか?」

「そうだね、ケーキはなくてもよくて、フライドポテトとかチキンナゲットとかピザとか、しょっぱいのをたくさん食べたいかも。あ、でも」

 そうだ。あの時たしか……。記憶を探りながら買い物を終え、すぐ部屋に帰った。風岡さんは寝ていてホッとした。つらいことが色々あったのかもしれないけど、今はただひたすら休んでほしい。買ってきた物を冷蔵庫やテーブル、ストック用の棚の上にそれぞれ置き、雑炊を作った。風岡さんがいつ起きてもいいように。そしてもうひとつ作りたい物がある。酔った頭でちゃんとできるか少し心配だが、レシピを調べたり動画を見ながらやったら何とか作り終えることができた。風岡さんがこんな状態の時にこんな物を作るなんてふさわしくないかもとも思うけど、喜んでくれるかもしれないのならきっと大丈夫!

 それからすぐシャワーを浴びたり風岡さんの着替え用の服を用意していると、風岡さんが起きてきた。その時には昼を少し過ぎていた。時間の流れが早く感じる。

「すみません。知らないうちに寝ちゃって……。ご迷惑をおかけしました」

「なんで敬語なんですか。やめて下さいよ」

「いや、だって……。あれから私達ずっと接点なかったのにいきなりこんなことになってるの、冷静に考えたらヤバいよね。本当に申し訳ないです」

 風岡さんはみるみる落ち込んでしまう。こんな顔、一緒に働いていた時ですら見たことがなかった。おかしくて可愛くて、つい吹き出してしまう。

「なんですかそのキャラ。関係性深まってるのか浅くなっちゃったのか、分からないですよ」

「関係性か……。私だってよく分からないよ」

 風岡さんは眉間にシワを寄せて複雑な顔をする。

「でも良かったです。顔色だいぶ良くなりましたね」

「うん。不本意にもぐっすり眠れたみたい。こんなの久しぶりで」

「不本意にもって、どういう意味ですか」

「だって、可愛さんちで寝ちゃうとか意味分かんないし」

「そんなこと言う人にはこれあげませんよ」

「えっ、何?」

 俺はわざともったいぶった言い方で冷蔵庫の前に立った。

「なんだと思います?」

「え、分かんないよ。何? 気になる!」

「見たいですか?」

「そんなに言われたら、うん」

「仕方ないなー」

 意地悪な言い方をして幼稚だな。そう思うも、つい風岡さんをイジりたくなる。冷蔵庫の中が気になって、でも遠慮して我慢してうずうずしている風岡さんがいじらしくて。抱きしめたくなるのを抑えるのが大変だった。冷蔵庫をゆっくり開けると、狙い通り風岡さんはみるみる目を見開いた。

「えっ、これ、なんで? わざわざ買ったの?」

「作ったんです。ついさっき」

「ウソでしょ?」

「たまたま実家から送られてきた苺が大量にあったんですよ。それで」

 薄力粉や生クリームも普段から使うのでストックがあった。それで苺のデコレーションケーキを作った。以前、風岡さんが好きだと言っていたから。昔友達に作ってもらった甘さ控えめの物がおいしかったとかで、苺のショートケーキだけは特別に好きだと話していた。

「だとしてもどうして? 手間もかかったんじゃない?」

 風岡さんが喜ぶ顔を見たくて、楽しみながら作った。だからなのか、手間とは思わなかった。

「全然です。意外と簡単なんですよ」

「……本当に、食べてもいいの?」

 戸惑いがちにおずおずと。幼い子供のように顔色をうかがう。そんな風岡さんも初めて見た。きっと今、仕事場だけでは知れなかった彼女を見ている。それが嬉しくて、俺は弾む気持ちで二人分の食器を用意した。

「もちろんです。食べてもらいたくて作ったんで」

「ありがとう。他に何か手伝えることある?」

「じゃあ、そこの棚からティーカップ出して下さい」

「わかった」

 なんか夫婦のやり取りみたい。なんて、こっそり思ってしまった。まだ壁はあるけど、前よりもっと近くに風岡さんを感じる。倒れた時はものすごく心配したけど、眠ったことで少し回復したのか、彼女の顔色はずいぶん良くなっていて、昨夜倒れたのが幻だったかのようだ。

「あれ? このケーキ、中に白い苺が混ざってる?」

「正解です! 彩りを意識して」

 ホール状に作ったデコレーションケーキ。トッピングに使った苺は赤いものを、スポンジの合間に入れた苺には白のと赤のを交互に並べた。食べる時にランダムに違う色があったら楽しいかと思って。とりあえず一人分ずつ切り分けてそれぞれの皿に盛り付ける。紅茶を淹れ、風岡さんが出してくれたティーカップに注ぐ。

「すごいね。カフェとかで出てきそう。オシャレ」

 嬉しそうに目を輝かせている。本当に好きなんだ。

「おいしいといいですけど」

「いただきます。っ!」

 食べながら風岡さんは、閉じた口の中でおいしいと感想を言う。よかった。

 久しぶりの再会。しかもああいう成り行きで、風岡さんは多少なりとも気まずさがあるかもしれない。俺もそうだ。それを少しでも和らげて、今を少しでも楽しい時間にしたい。それがまずは叶った。喜ぶ顔も見られた。ケーキを作って本当によかった。

「すごいね。短時間でこんなおいしく作れるなんて。普段から作ってるの?」

「いえ。クレープとか簡単なものはたまにやりますけどケーキ類はほとんど作ったことなくて、こういうデコレーションケーキとかって実は初めてで」

「初めてでこんな完璧に!? 美凪ですら初めの頃は失敗したって言ってたのに」

「美凪って、もしかして昔苺のケーキを作ってくれたっていう?」

「うん。思わず名前出しちゃったよ」

 風岡さんは食べると話すを交互にする。

「スポンジケーキって上手にふんわり焼くの難しいみたいで。小麦粉の配合とか色々。美凪も、生地が膨らまないとか生っぽいとか、そういう失敗たくさんしてやっと焼けるようになったって言ってた」

「そういう失敗はよくあるみたいですね。同級生からよく聞いたし、うちの祖母も同じこと言ってました」

「おばあさんも作ってたんだ!? 皆すごいね。私は料理ほんっと苦手で……。必要だから生命維持のために最低限は作るけど、ケーキ作りなんてハードル高すぎてやろうとも思わないから」

「生命維持!」

「いや、本当にすごいよ。美凪も、可愛さんも、可愛さんのおばあさんも」

 離れていた五年間を取り戻すように、俺達は話した。たわいない話なのに、知らなかった風岡さんを知る。以前もたくさん話した気がするのに、こうしていると全然だったんだと思う。こうして顔を合わせてゆっくりケーキを食べれる日が来るなんて、あの頃は想像もできなかった。

「料理苦手なんですね。普段は外食とかがメインですか?」

「うん。恥ずかしながら。節約考えると自炊しなきゃいけないのに、好きな物をとなると出来合いばかりになるよ。揚げ物好きだけど油はねがこわくて」

「フライドポテトとかチキンナゲットですか?」

「よく知ってるね!」

「前に話してたから」

「あ、そうだったかな」

 照れたようにはにかむ風岡さん。可愛いなぁと改めて思う。

「これからは俺が料理担当しましょうか?」

 なんて、つい調子に乗ってそんな冗談(ほぼ本音)を言ってしまう。さすがにまずいかな。引かれるかと思ったけど、風岡さんは冗談だと思ったらしく意地悪な顔で、

「可愛さん、料理できるの?」

「はい。昔からけっこう好きで、最近では得意になってきたかもです。今は動画見てアレンジしたりオリジナルとかもいろいろ試したりしてますね」

「むうう……」

 悔しそうに、でも穏やかに風岡さんは笑う。

「でも、意外でした。風岡さんが料理苦手だなんて。ふふっ」

「あー! 何その笑い!」

「いえいえ。そういうのは個性ですから」

「こんなんでよく結婚してたよねって自分でも思うけどさ」

「そこまで言ってませんよ」

 バカになんて全然してないけど、もう少しいじけた風岡さんを見ていたくてわざとからかうような態度をとってしまう。こういう時間、なんかすごく幸せ。ケーキ効果なのか、風岡さんは昨夜に比べるとだいぶ元気さが増した気がする。声に生気が戻ってきた感じすらある。思ったより食べれていて安心した。

「って、ん? 旧姓教えたことあったっけ?」

 何で知ってるの? と、風岡さんは首を傾げた。サーっと血の気が引いて、俺は椅子からフローリングの地面に降りて土下座した。

「すみませんっ。夜中に職場からかかってきてた電話に出てしまって……。本当にごめんなさい。勝手なことしました。殴っていいです気がすむまで」

「殴らないよ」

 風岡さんはそう言ってクスクスと笑った。

「そっか。出ちゃったんだ」

「怒らないんですか? 勝手なことしたのに……」

「鬼電だったからでしょ?」

「はい。なんか嫌な感じがして。夜遅いのに着信連続だったから」

「そりゃつい出ちゃうよね。会社の人、電話出ないことに怒ってた?」

「はい……」

「やっぱり。先週もそういうことあって。疲れに疲れて、次の日仕事の予約してたこと忘れて湯船に浸かってたらその間に電話かかりまくってて、お風呂出てすぐ折り返したら〝常に電話を気にしておけ!〟ってめっちゃ怒られて……。私が悪いし怒られてもしょうがないんだけど」

 風岡さんは大きくため息をついた。

「入社してけっこう経つんですか?」

「ううん。まだ二ヶ月くらい」

「二ヶ月ですか。まだ日も浅いですね。運送会社っぽい社名でしたけど、風岡さんが配達員してるってちょっと意外でした」

 運送関係の仕事はバイタリティがあって気の強い人が多く就いているイメージだ。風岡さんはどちらかというとアパレルや化粧品関係など、しっとり静かな店内で働いているような雰囲気だから。

「自分でもビックリする。よくこの世界に飛び込めたなって。体力もそんなある方じゃないし」

「それだと、今の仕事ってけっこうきついんじゃないですか?」

「うん。考え無しだったかもしれない。主にチャーター便を扱ってる運送会社だって話だったから入ったんだよ。勤務時間帯も仕事内容も日によって違うの。荷物もダンボール一箱分もない女性にも楽な案件がほとんどだってことだったから、それなら私でもやれそうとか思っちゃって。実際は、めちゃくちゃ重いダンボール何十箱も扱う案件ばかり。女性もいるけど少数で、完全に男性社会。でも、その辺りのことはまあ入る時に覚悟はしてたんだよ。でも……」

 聞くと、今の職場で風岡さんは、新人だということで単価の低い仕事ばかり割り振られ、ベテラン配達員からも会社からもいい様に扱われているようだった。

「仕事の技量に差があるのは分かってる。新人だし出しゃばる気もない。でも……。同じ内容の仕事をしてても、ベテランには高い単価、新人の私とかは低い単価。そのうえその日の仕事が終わって家でゆっくりしてると、単発短時間の仕事でまた呼び出される。しかもそういう現場はだいたいが遠方で単価の低い仕事ばかり。ベテランはうまくそういうのを断るから、下っぱの私とかにそういう案件ばかり来る流れ。ガソリン代ばかりかかって全然収入にならない。最初にそういう仕事だって聞いてたら絶対行かなかったと思う。求人情報も信用ならないね」

「それはちょっと継続ためらいますよね。風岡さんが決めたことなら応援したいですけど、倒れるまで追い詰められているのはとても心配です。どうにか辞めたり、休職する手立てはないんでしょうか?」

「入ってすぐの頃に社長に辞めたいって話してみたけど、まともに取り合ってもらえなかった。今でも本当は辞めたい。でもまだ辞めれない」

 会社と交わした業務委託契約で、三ヶ月以内に辞めた場合は三十万円の違約金を会社に支払わなければならない決まりになっているという。風岡さんはまだ二ヶ月目。今辞めるとその違約金を支払わなければならないらしい。

「そうだったんですね。それはたしかに簡単に辞められないですよね。でも、労働者にそういう罰金的な物を課すのはたとえ会社でも違法のはずなんですが……」

「そうなの? でも、契約書って法律で認められたものなんじゃ……」

「その契約書、よかったら見せてもらってもいいですか?」

 風岡さんのスマホに契約書本体の画像とPDFファイルがあったので、両方見せてもらった。たしかに、三ヶ月未満で辞めた場合は違約金を支払うようにと書いてある。風岡さんと会社、どちらのサインも記入済みだ。

「でもこれ、法的な効力は持ちません。きっとこれ、法律をあまり知らない人が書いた文章だと思います」

「そうなの? サインしてしまった以上、契約書は絶対厳守なんだと思ってた」

「そうですよね。ほとんどの人がそう思ってしまうと思います。でも、これ、おかしいです。〝会社に損害を与えた場合は違約金〟とありますけど、風岡さんが辞めたことで会社に与えるダメージなんてありません。そんなことでダメージ受けるような会社があるとすれば、それは会社側の責任であって労働者は悪くないですから」

 それに違約金のこともだ。三ヶ月以内に辞めたら三十万円。その金額は仕事に使う車両保険や車両貸出料金として必要な額だと記載されているが、風岡さんが辞めた後彼女は一切車両を使わないのになぜ使用していない期間のお金まで払わなければいけないのか。ここからしてもう変だ。労働者を逃がさないために、あるいはそうやって社長が楽して多くお金を儲けるために作ったイヤらしい契約書に見える。

「こんなもの払う必要ありません。違約金とか言ってまるで退職を望む人に罪があるような書き方をされてますが、こちらが訴えたら百パーセント会社が負けますよコレ。そうやって風岡さんのように退職の自由を奪われないために労働基準法が存在するんです」

「そうなんだ……。そういうの知らずに辞めたくて違約金払った人が過去にはいるんだろうな」

「そうでしょうね。ひどいやり口です」

「収支がマイナスになるのが目に見えてるのに罵倒されてまで働くのかーって、最近いつも虚しかった。でももうそんな我慢しなくていいんだ……。辞めたっていいんだね」

「もちろんです! ひどい会社です。すみません。風岡さんが選んだ職場なのに悪く言ってしまって」

「ううん。可愛さんの知識に助けられたよ、本当に。なんかまだ実感湧かないけど。スムーズに辞められるのかどうか」

「大丈夫ですよ。退職を申し出る時、職場までついていきます。車両だけ返却して全て終わりです」

 この会社、よく今まで持っていたものだと本気でゾッとした。過去に誰かから訴えられていてもおかしくないレベルだと思う。

 改めて契約書を見ると、月の収入からあらゆる物が差っ引かれる仕組みだった。車両貸出料金七万円に続き、車両保険料一万七千円、事務手数料が給与の一パーセント、管理費が十五パーセント、制服代の五千円も自腹。風岡さんがお金を、医療費すら使いたくないと救急車を拒むのも当然だ。こんな給与形態で、会社もとい社長が決して損をしない仕組みになっている。業務委託という穴をうまく利用して。労働してくれる人がいるおかげで社内の仕事が回るのに、一方的に利用して全然ウィンウィンではない。正規雇用で働きたくても何らかの事情で働けない人がこういった業務委託の仕事に手を伸ばす、そういう側面もあるのだろう。そういう人々の弱みにつけ込んでそれを雇用関係と言っているなら、相当イカれている。

「話を聞いてくれなかった社長も、ひどいですね」

「入ってすぐおかしいって気付いて、契約書にサインしてしまう前に辞めたいって言ったの。そしたら、学生のバイトじゃないんだからってキツく言われて。面談の時は対応も丁寧で優しくていい人だった社長がそんな風になるのを見てすごく怖くなって、同時に落ち込んだ。そんないい人を私の無責任な発言で一瞬にして怒らせてしまったって」

「風岡さんのせいじゃないです、絶対に。どうか自分を責めないで下さい」

「そうなのかな……」

「そうですよ。風岡さんが押し負けたのをいいことに、高圧的な言動で追い込んでさらにしぼり取ろうとしてる。外からだとそう見えます」

 風岡さんにそんなことを言った社長とやらを叩きのめしてやりたくなった。会ったことはないけど、ろくでもない人なのは間違いなさそうだ。どこの世界でも同じなのかもしれない。悪人ほどいい人の皮を被って生きている。

「違約金を払ってでも辞めようかって何度も考えた。でもそんなまとまったお金もなくて……。最悪そのために借金するしかないのかとか、考えると絶望しかなくて」

「そうだったんですね。借金を考えるくらい追いつめられていたなんて、とても苦しかったですよね」

 風岡さんはどんどん小さくなる。こんな小さな体でそんな大変なことを抱え込んでいたなんていたたまれない。胸が苦しくなる。自信なさげに背を丸めて、風岡さんは事情を話してくれた。

「結婚中にパートで貯めてたお金も、離婚してから一瞬で無くなった。一人暮らしするために離婚後はすぐ派遣社員として働いたけど、ボーナスは出ないからやっぱり年単位での手取りは少なくて。働きながら正社員の仕事の面接も何度か行ったけど全部落ちた。もう少し若かったらまた違ったんだろうけど、大学も出てないうえに大した職歴もない私みたいな人間はどこにも必要とされてないみたい。歳下の可愛さんにこんな話するの恥ずかしいし情けないけど、今本当にお金がなくて。仕事を辞められたとして、辞めたところでこの先どうしたらいいのか……。誰にも頼れない。今をどうにかしないとと思ってもその気力すらなくて、現状維持も限界がきそう。親に頼ろうかって一瞬思ったけどそれは絶対したくない。かといって打つ手もなく、つらくて。全部何もかも自業自得なんだけど」

 そうか。そういう経緯があったのか。そうして思いつめて車道に飛び出した。そうだったのか……。

「つらかったですよね。誰にも話せず一人で考えるしかないなんて」

「……」

「でも、もう大丈夫です。風岡さんは独りじゃない」

 テーブル越しに風岡さんの両手を取った。驚いたようにこっちを見つめる風岡さんの目には涙がにじんでいて、俺も泣きそうになった。

「こうして再会できたのも、きっと何かの縁です。目に見えない何かが導いてくれたんだと思う。勝手にそう思うことにします」

「でも……。可愛さんに頼る理由がない。私たちは単なる知り合いで、ただ前に職場が同じだっただけの他人。そんな人に甘えるわけにはいかないよ」

「そうなんですか?」

「え?」

「俺はそんな風に思ってないんですけど」

 単なる知り合いとか、元同じ職場とか、そんな浅い関係性ではないと思っている。

「好きです。風岡さんにとって唯一無二の恋人になりたい。ううん。ならせて下さい」

 全力で支えます。俺の全てを賭けて。

 あの時言えなかったことをやっと言えた。ようやく、ようやく、伝えられた。胸が震える。

「ありがとう」

 風岡さんはうっすら微笑み、涙をひとつこぼした。きっと風岡さんも同じ気持ちのはずだ。うぬぼれではなく、過信でもなく、そう思う。前から感じていた空気感や、言動のあちこちからこぼれ出る赤く色付いた気持ち。俺の勘違いではないと教えてほしい。

「嬉しいよ。仕事でも、今も、可愛さんは本当に助けてくれた。話を聞いてくれた。このケーキもすごく嬉しかった。作ってくれたこともそうだけど、前に話したこと覚えててくれたのがすごく感動して。でも……」

 風岡さんはうつむき、使っていたフォークを皿に置いた。

「気持ちに応えられない。その価値が私にはない。可愛さんにはもっと他にふさわしい人がいる。私じゃない誰か」

「そんな人いな」

「今日あんま寝てないんじゃない?」

 被せるように、風岡さんは言う。

「え!? あ、はい。ちょっと寝不足ですけど」

「そういう時って判断力にぶるよね。後で後悔しそうなことを簡単に決断しちゃったりとかさ」

「後悔なんてしません。それだけは言える。だってずっと風岡さんのこと」

「好きだった?」

「はい」

 知ってますよね? 俺の気持ち。前からずっと。

「外面いいんだよね、私。昔からのクセで。無意識レベルで人に悪印象持たれないように振る舞うの。嫌われたくなくて、け者にされなくなくて、好かれたくて、どうしたらそういう存在になれるんだろうって、そんなことばっか考えてたから」

「はい。それはもうずっと前から知ってますよ。とても優しい人なんだって」

 きっと誰よりも傷ついて生きてきた人。だから他人に対して優しくできる。痛みを知っているから。他者を傷つける罪深さを体験しているから。

「優しくなんてないよ。買いかぶりすぎ。卑怯で臆病なだけ。好かれる要素なんて微塵みじんもない。深入りしたら後悔するよ。可愛さんと憎しみ合ったり嫌い合ったりするなんて絶対嫌。想像するだけでつらい。そんな関係になってしまうくらいなら、私は今のままがいい」













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