シルバーコード
唯一無二のパートナーと死に別れる系の悲恋ストーリーが嫌いで、そういう映画を観に行こうと人から誘われるとどう断ろうか必死に考えた。そこまで好評ならもしかしたらいいものなのかもしれない。断るのはもったいないかも。思い改め、いざ観てみるとやっぱり想像通りの展開だったなーとシラける。
泣けるほど好きな相手がいただけ主人公は幸せじゃんかよ。
と。妬みなんだと思う。私には、死んだからと言って泣いて長年引きずってしまうような恋人などできたことがないから。それだけじゃなく、登場人物の誰にも感情移入できないというのも大きかった。そういう物語の主人公はたいてい純粋で真っ直ぐ裏表のないひたむきな性格の女子で、性悪なひねくれ者の私とは大違い。〝性格の良いピュアな人しか幸せになれません。〟そんな無言のメッセージにも感じられて癪に触った。エンタメでしょコレ楽しませる気ある? と、内心ブツクサ文句を垂れる私の隣で、感動したと告げる同行者の感性についていけず、眩しかった。どう生きたらそうなれるのか。
かつてそんな風だった私がようやくその痛みを理解できるようになったのは、可愛さんと離れた時だった。
この先も仕事を通して細く長く関わっていられる。そう思っていた矢先、可愛さんは会社を辞めた。先に辞めたいと申し出たのは私だったのに、意味が分からなかった。隣県に行ってからも私を続けさせようとしてくれた可愛さんがなぜか先に辞めてしまった。事務員さんからそのことを聞いた時は「そうなんですね。可愛さんには良くしてもらってたので残念です」と明るく言ったものの内心受け入れられなくて、次第に悲しい気持ちに襲われた。引越し後も続けられると決まっていたマンション清掃の仕事もやる気が失せてしまい結局は辞退した。あの仕事は可愛さんがいたから続けられたというのが大きい。一人気楽な仕事とはいえ時に厳しいこともある。清掃した場所があっけなく汚れて管理会社から注意を受けたり、リフォーム業者が出しっぱなしにしていった水道を私がやったと住民から疑われたりと、理不尽なことは時々起きた。窓の拭き方ひとつ取っても細かく難癖をつけてくる住民もいたりした。ああめんどくさい。私はなんでこんなことやってるんだろう。こんなことしたくてしてるわけじゃないのに。不快な気持ちになってもそれが自分の能力や環境のせいだと理解し、それをどうすることも出来ず苛つき、投げやりな気持ちになりそうな時も何とか続けてこられたのは、可愛さんが助けてくれ、励まし、フォローなどしてくれたからだ。その繋がりがあっけなく簡単になくなって痛感した。私は自分で思っている以上に可愛さんに依存していたのだと。
あの時私が可愛さんに引越しをすると伝えたのは、雄亮との離婚を決意したからだ。不本意だし悔しいが、一時的にあの両親が居る実家に戻ってでも人生をやり直したいと強く思った。なので、可愛さんからマンション清掃のパートを引き続きやってほしいと言われた時は正直困った。マンション清掃は物件によって働く時間帯が違うが、一日あたり二時間から三時間ほどの短時間労働で、扶養に入る前提の勤務形態。もうそんな悠長な働き方をしている余裕があの時はなかった。でも、副業としてなら週一か二日程度なら続けられるかもしれないと思い可愛さんの提案にうなずいた。私も可愛さんとの繋がりが切れるのは正直つらかったので、引き留められたのは嬉しかった。なのにどういうわけか可愛さんの方が先に辞めてしまいあっけに取られた。最後に道具の返却について連絡する時も、丁寧ながらも関係性を発展させるようなやり取りはなく、好かれていたのは私の勘違いだったのだと急に思い知り恥ずかしくなった。付き合ってすらいない、単に親しい職場の人、それだけなのに実質はそれ以上の存在だった。昔から何かと死にたいと思うことが多かったけど、可愛さんの退職を知った日、私は本格的に自殺の方法を調べるほどに落ち込んだ。身を引き裂かれるような激しい痛み。彼の気持ちに気付いていながら知らないフリをし、それでも関わっていられることにあぐらをかいていた臆病な自分。自業自得だと思った。来る日も来る日も泣き暮れて、悲しいとかつらいでは表現しきれない毎日だった。半身を失ったように軽く、拭い切れない重たい気持ちがのしかかって来る。眠れず食べれず、体重は短期間で一気に五キロ以上落ちた。灰になって消えてしまいたいと思いながら、日々可愛さんとの会話を脳内で繰り返していた。何がいけなかったのだろう。いや、初めから全て間違えていたのだろうか。もういっそ、記憶を保持して生まれるところからやり直したい。何度もそう思った。
そんな私を悲しみの沼から救ってくれたのはとあるホームページだった。スリピチュアルカウンセラーというあまり聞き慣れない職業の人が、スピリチュアル的観点から見たあらゆる物事について色んなメッセージを伝えるという趣旨のブログを書いていて、その中のある一文がとても印象的だった。
《人との出逢いも別れも必ず意味があるものです。好きで好きで仕方がないのに離れてしまった関係というのは、そのお相手が前世で兄弟姉妹だった可能性が高いからなのです。》
ああ、そうか。可愛さんは前世で兄弟だったかもしれないんだ。だから仲良くなったのに離れたのか。そういう運命だったんだ。
前世なんて言われてもそんなの覚えてないし、スピリチュアルなんてやっぱり怪しいと思ってしまう部分もある。それでも、その時はその文章にとても救われた。都合が良いなと自分でも思うが、それに納得することで傷を癒し、なんとかどん底から抜け出すことが出来た。身近な友人のどんな励ましより、心に届いた言葉だった。
結婚当初、雄亮に訊いてみたことがある。
「どうして私と結婚したいと思ったの?」
『大好きだから』そんな答えを望んでいた。妥協しておいて相手にそこまで求めるのは傲慢だろうか。こっちは純粋な恋ではないとしても、百パーセント求められて結婚したと自信を持ちたかったのかもしれない。恋愛結婚した美凪のように、職場で好きな人ができて結婚した凜音のように、私もパートナーに愛されているのだと確信を得たかった。今までどの男からも愛想を尽かされたけど、最終的には幸せな結婚をした、そんな風に。たとえこちらが妥協でも、雄亮さえちゃんと私を好きでいてくれたらもう何も望まない。そんな気持ちだった。しかし、返ってきた言葉は想像の斜め上を行っていた。
「出世のため」
雄亮は一寸の躊躇いもなくそう言った。昔に比べると現代では薄まりつつあるのだろうが、まだまだはびこる『結婚している男は信用に値するから、より責任ある仕事を任せられる』という価値観。結婚イコール社会的ステータスの底上げ。雄亮の会社にもそういった思想の経営者がいたのだろう。でも、まさか。そんな。雄亮が仕事熱心なのは知っていた。大学卒業後、内定をもらっていた創業百年以上になる歴史ある会社に就職し、今も雄亮は順調に昇進を重ねていた。時に悩みながらも仕事に邁進する姿は立派だと思った。そのおかげで私はパート勤務だけでぬくぬく暮らせている。感謝していた。けれども。思いのほか衝撃を受けた私は、意外にも雄亮に情を持ってしまっていたことに驚き、愕然とした。同時に女としてのプライドが傷ついたのかもしれない。期待通りの言葉が返ってこなかったことに失望し、私は静かに腹を立てた。気の利かない類の人間だとは思っていたけど、ここまでとは。嘘でもいいから「一生そばにいたかったから」とは言えないのか。
それから、年に一度はそのことで雄亮を責めた。
「どうせ仕事のための結婚だもんね」
言っていても全然気が晴れないのに、言わずにはいられなかった。自分のことは完全に棚に上げていると分かっていても、妻なのだからそのくらい言っていいと思った。そんな私の言動に雄亮も少しずつ不満をためていたのだろう。義両親の金銭問題が深刻化するほど、雄亮の私に対する苛立ちも頂点に達したようだった。
「またそれか!? いい加減にしろよ!」
離婚の一年ほど前だったか、とうとう雄亮は怒鳴り声を上げ怒りをあらわにした。
この人とはもう無理。
気持ちが一気に冷えていき、家族の情さえ消えた瞬間だった。雄亮との関係はもう良くなることはないだろう。この人のために何か努力しようとも一切思えなかった。以来、ほんの少しでも雄亮に触られるのが嫌になり、徹底的に体の関係を避けはじめた。雄亮も内心では怒鳴ったことを気にしているのか、機嫌を取ろうと抱きしめてきたりすることがあったがサラッとかわして取り合わなかった。触れ合いで全てチャラにできると考えていそうな雄亮を理解できず嫌悪感しか湧かなかった。気持ちに向き合ってくれず話し合いすらまともにできない。欲望優先で動く下等生物と暮らしている感覚だった。ひどい言い様だけど、そう感じてしまったのだから仕方ない。だんだん同じ人間とは思えなくなっている。どんな男も最初はいい格好をしてだんだん素が出てくるものだけど、この人の場合はいらない部分まで出しすぎ。私と付き合うまで彼女がいなかった理由がよく分かった(これを本人に言わないでおいただけ、私の方がまだ少しだけ人格的にマシなのではないだろうか)。
痛みを理解してくれない、親優先の男と暮らしていく苦痛は想像以上だった。天国に行くはずの結婚が地獄と化す。恐かった。そう思っても、お金の心配が先立ち離婚の決断はなかなかできなかった。正社員だったら迷わず踏み切れただろう。安定した収入さえあれば住む場所だってすぐに見つけられる。でも、今の私にはそんな貯金も資格もない。ここ数十年で女性の社会進出が進んだというが、誰もがその波に乗れるわけではない。向き不向きは必ずある。私は決定的に労働に向いていない。短時間のバイトやパートでも正直ダルいのに、不得意な人間関係をやりながら一日八時間も九時間も働きたくない。そんな現実逃避から、雄亮との結婚をしぶしぶ継続させていた。もしかしたら時間を置けば状況が変わり、またお互い歩み寄れる日が来るかもしれない。我慢していれば、いつかは義両親も寿命を終えていなくなる。そしたら私達夫婦は金の無心から解放されストレスも減る。そんな未来を励みに乗り切ろう。頑張ろう。……そうは言っても、来る日も来る日も雄亮の顔を見る日々。義両親と雄亮はどこか似ている。仕草や性格がどことなく。嫌いなのは義両親なのか雄亮なのか、どちらもなのか、両者への嫌悪感が混在してわけが分からなくなることもあった。雄亮の声を耳にするだけでウザいと感じるようになり、だんだん顔を合わせるのが嫌になった。一日の中でもっとも会話する時間だった夕食の時間をわざとズラしはじめた。雄亮は友達付き合いには寛容だったので、時には嘘の予定をでっちあげ夜は家を空け当てのないドライブに繰り出した。仕事に使うのもありそれぞれ車は一台ずつ所有していた。好きに運転するのが唯一の自由時間。じょじょに変化する私の行動に雄亮も何かを感じているのか、妙に優しく話しかけてくる時があったり、洗い物や料理をしてくれたり、以前はしなかったことを突然するようになった。それでも気持ちが和らぐことはなく拒否感が強まり、夫婦の溝はどんどん深くなる。代わりに、パート中に可愛さんと話せる時間が癒しになっていった。いい人なのは分かっていたので元々楽しくはあったが、雄亮への情が消え失せるほど、具体的に可愛さんと付き合う未来を想像するようになった。先に出会えていたのが可愛さんだったらよかったのに。そう思うこともあったけど、結婚して安全な未来が確定しているからそんなお花畑な妄想ができるのかもしれないとも思った。もし独身だったら出会えていたかどうか分からない。時々可愛さんから感じる好意に気付かないフリをするのも大変だった。既婚者はよく余裕があるからモテやすいと聞く。もし本当に可愛さんが私を好きだとしても、結婚しているからだ、そうに違いない。独身だったらここまで親しくはなれなかったはず。そう自分に言い聞かせていた。雄亮との会話は朝の挨拶すらめんどくさいのに、可愛さんとはどれだけ話しても飽きることなく、本当に救いだった。時間に余裕があり誰と付き合おうが自由だった独身の頃すら、こんな心地の良い相手には出会えなかった。なぜ今なんだろう。
ある日、いつものように事務員の人とシフトについてメールでやり取りをしていた。その事務員さんは私と同じくパート勤務ではあるけど会社ができた時からの創設メンバーで社長の右腕的な存在でもあった。それもあり、その時、いつも可愛さん経由でもらう社長からの差し入れのお礼をした。
《いつも差し入れありがとうございます。美味しく頂いています。社長にも宜しくお伝え下さい。》
《差し入れですか?なんのことでしょうか?》
その時はじめて可愛さんの嘘を知った。私への差し入れは社長のポケットマネーで買っているみたいなことを可愛さんは言っていたけど、実際は違った。
《あの、道具とかを持ってきてもらうついでにいつも飲み物などを頂いていたのですが……。》
《そうだったんですね!可愛の方から話は聞いていましたが、もし足りない道具などあるようでしたら山本さんの方でも自由に買い足して頂いて構いませんよ。
差し入れも、きっと可愛が個人的に感謝しているところが大きいと思います。私達も山本さんに来てもらえて以来、本当に助かっていますから。いつもありがとうございます。》
そのやり取りから、可愛さんは有給を使ったりわざわざ自分が休みの日に私の元に道具を届けに来てくれていたのだと知った。毎回スーツ姿なのも仕事中のフリをするため。社長から差し入れのお金を出してもらったという嘘も、私に気を遣わせないため。事務員さんとの連絡が終わってからも、しばらく胸のドキドキはおさまらなかった。
そんなにあからさまに好意を向けられて、これまでの人生にないほど心揺さぶられている。昔から男に好かれる場面は多々あったが、そんな過去と可愛さんの件は全然別物のように感じる。若い頃は、努力してるのだからその分好かれて当然とも思っていた。周りから良く見てもらうため給与のほとんどを美容院や洋服、メイク道具など自分を飾る要素に注ぎ込んでいた。結婚してからは気持ちを上げるためだけにヘアケアやスキンケアの努力をしていたけど、派遣のフルタイム労働していた独身時代より収入もグンと減ったので昔ほど外見磨きにお金を注ぎ込むことはなくなっていた。昔だったら〝ああ、またか。どうせすぐ飽きていなくなるクセに〟と男の好意を軽んじる場面すらあったのに、可愛さんに対してはそういう気持ちは全く湧かなかった。歳を重ねたせいかもしれないが、もし本当に好いてくれているのならありがたく大切に受け止めたいと思う。ひとかけらも取りこぼしたくない。もし結婚していなければとっくに二人で出かけていただろうし、もっともっと関係を深められたはず。可愛さんも可愛さんで、私に好意があるはずなのに、やはり決定的な言動は見せず一線引いているみたいだった。それなのにたまに核心に迫ることを言ってくる。ジェットコースターに乗っているように心拍が激しく上下しハラハラした。口説く目的でクサイ事を言う男は過去にもたまにいたけどここまでときめかなかったし、可愛さんの発言はそういう上っ面なセリフとは何かが違う。何気ない会話の中に本音を薄く織り交ぜているような、そういう話し方をしてくる。それが心地よくもあり、想いの深さが垣間見えるようで怖くもあり、内から溢れる熱で瞳が潤んでしまうほど幸せでもあった。時々会っている美凪から「最近綺麗になったね」と褒められた時はドキッとした。
「一時しんどそうだったから少し心配してたけど、元気そうでよかった」
美凪はそう言いカラッと笑った。罪悪感に近い、なんとも言えない心地悪さ。悪いことなどしていない。仕事場で面倒見てくれる社員さんとたまに顔を合わせて数分話しているだけ。それはしょっちゅうの事ではなく、可愛さんの方も忙しそうなので月に一度、ほんの数分しか会えない時もある。そんな日常で終始しているのに、美凪にはなぜか話せなかった。誰かに話したいような、黙っておいた方がいいような。やましいことなど全くしていないはずなのに、黒に近いグレーのような心持ち。可愛さんと話せた週は、苦痛で仕方なかった義実家への訪問を明るく乗り切れた。可愛さんとの関わりは間違いなく私を救ってくれた。雄亮との結婚生活はやはり義務的で窮屈で不満まみれで、自律神経にも不調をきたすほどになっていた。
凜音からラインがきたのは、そんな鬱屈した時期のことだった。凜音は高校で親しくなった子で、以前はしょっちゅう会っていたのに最近は疎遠気味だった。
《話したいことがあって。久しぶりに会えない?》
そんな風に誘ってもらえたのが嬉しくて、私は喜んで凜音と会った。最後に会ったのはたしか五年前、私の結婚が決まった頃だった。そんなに長い間会っていなかったのが信じられないほど、私達は再会するなり嬉しくなって昔のノリで話しはじめた。凜音の提案でランチバイキングがおいしいと評判のお店に入った。それぞれに食べたい物を盛り付けテーブルに着くと、話はどちらかともなく結婚生活の話題になった。凜音は二十四歳で同じ職場の人と結婚し、元々旦那さんが一人暮らしをしていた隣県のアパートに引っ越したので、お互いの生活環境の違いや距離の問題もあり会いづらくなってしまった。時々ラインで近況報告はしあっていたけど細かなところは分からなかった。うちと同じで子供はなく、結婚当初と変わらず夫婦仲も良さそうだった。だからこそ、
「私、実は他に好きな人ができて……。その人と再婚しようと思ってる」
そんな話をされた時はビックリした。
「え!? 旦那さんめっちゃいい人って言ってなかった?」
「初めは良かったんだけどね……。結婚して少し経ってからモラハラしてくるようになって。付き合ってた時は優しかったから気付かなかった。それでずっと悩んでたんだけど、体調悪くしたのをキッカケに、パート先の社員さんに告白されてね」
「パート先の人と?」
驚くなんてものじゃなかった。凜音の現在は、今の私と似たような状況だった。可愛さんの顔が浮かんでしまう。
「告白かぁ。そういう時だとよけい嬉しくなるよね。向こうは凜音が結婚してるの知ってるの?」
「うん。知ってる。だから私も最初は断った。離婚なんて考えてなかったし、向こうも最初は軽い感じでカラオケとか誘ってきて本気かどうか怪しかったし。向こうも結婚してるし」
「え!?」
「現状はダブル不倫っていうやつかな。うちと違ってあっちには未成年の子供がいるから、子供が成人するまで離婚はできないって言われてる」
「あんまり言いたくないけど……。それ、不倫する既婚者がよく使う言い訳じゃない?」
「私もはじめはそう思って不安だった。でもね、いざ付き合ってみたらこの人が本当の運命の人かもって思った。旦那には自分の全部を見せられないし、見せたとしても否定される予想しかできない。でも、今の彼は全部受け止めてくれる。ダメなところも変な癖とかも」
「でも、お互い離婚しないと正式には付き合えないんじゃ……」
「そう思ってたんだけどね。この際形はどうでもいいかなって。一緒にいられる時間は限られるけど、あの人が好き。あの人も私を好きでいてくれる。それだけでいいんだ」
「本当に大丈夫? 凜音がそんなに言うなら応援したいけど、相手の奥さんにバレたら……」
「先のことは分からない。でも、この気持ちはお互いずっと変わらない。だから将来一緒になろうって約束してるんだ」
「そっか……」
よくある不倫男の言い訳に良いように丸め込まれているのでは? 子供がいる人との未来なんて何かとトラブルもあるんじゃ? そんな疑問が湧いて止まらないけど凜音の目は真剣で、一時の浮かれた感情ではないと伝わってきた。だからといって安易に背中を押していいのか、受け流すのがベストか、考えあぐねた。家が遠い今、久しぶりに会って話したいだなんてよほどのことだとは思ったけれど。
凜音は私の思考を全て見透かすみたいにこっちを覗き込んだ。
「ごめんね、こんな話。久しぶりに会えたのに」
「ううん。話してくれて嬉しいよ。ビックリしてごめんね。どう言葉を返していいのか考えてた」
「だよね。志輝は最近どうなの? 雄亮君とは順調?」
「あー。それが……。なんて言うかねー……」
上手くいっている。何の問題もない。そう言えたら良かった。雄亮との関係がこんなにも悪くなってしまうなんて、結婚当初は考えもしなかった。可愛さんと出会ってしまったことも。
「私と結婚したのは出世のためなんだって」
「え!? 雄亮君そんなこと言ったの!?」
「それも新婚の頃にね。けっこうショックだったよ」
「当たり前だよ。最っ低!」
「あはは……」
「そんなこと言う人には見えなかった」
凜音は雄亮と面識がある。結婚前に二、三回一緒にご飯やボーリングに行った。その時凜音は、雄亮を優しくて誠実そうな人で安心できると言った。
「やっぱり結婚してみないと分からないことってあるね。雄亮君、そのこと謝ってくれなかったの?」
「全然。問い詰めたら逆ギレされて、なんかシラけたよ。その言葉がどれだけひどいことなのかも理解してないっぽい」
「それ、大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも。それは理由のひとつに過ぎないけど、最近いろんなこと上手くいってなくて。結婚したのがそもそもの間違いだったというか。フルタイムで働きたくないとか、一生独り身は嫌だなーとか、打算で雄亮のプロポーズ受けたみたいなとこあるからさ」
「それは分かるよ。男と女じゃ時間の感覚も違うし。私もどっちかというと働きたくないし。旦那との結婚も、適齢期逃したら不幸になるって思って焦って決めたのはたしか。こんなこと志輝にしか話せないけどね」
そうだった。しぶしぶ就職していたけど、凜音も本当のところは専業主婦希望派だった。昔からそういう部分で意見が合ったのも大きかった。
「私が今こんなんだから言うってわけじゃないけど、志輝の本物の相手は別にいるのかもしれないよ」
「そんな、まさか」
「聞いたことない? ツインレイ」
「ツインレイって?」
初めて聞く言葉だった。
「私も、今の彼と出会うまでは知らなかったよ。知ってからも、しばらくはうさんくさいと思ってた。ツインレイなんてスピリチュアルな感じで怪しいし、不倫を肯定したい人のための耳触りのいい単語なんだろうなーって。でも、彼との関係が深まるうちにツインレイのことを知って。調べていくうちに、今の彼がまさにその相手なんじゃないかって思った」
「運命の人?」
「そう。前世から、ううん、過去世からずっとつながってきた魂の半身。もう一人の自分。それはシルバーコードで共鳴しあうって」
霊子線とは、魂と肉体を繋ぐ目には見えない銀色の糸のことで、人それぞれ違う性質を持つ。シルバーコードで共鳴しあう仲間は世界に何人かいるけど、その中でもツインレイと呼ばれる存在は唯一無二の魂の伴侶に当たるらしい。ツインレイは誰にでも必ず一人存在している。基本は男女のペアだが人によっては同性同士の場合もあるとか。ツインレイに出会った人の体験談などを見ると、人生で一番苦しい時にツインレイに出会うパターンが最も多いそうだ。
「私の時もそうだった。旦那との関係がしんどくて体にも異常が出て、パート先で倒れた。その時に懸命に支えてくれたのが彼」
「苦しい時に出会う、か……」
「あと、彼との距離が縮まる前はやたらエンジェルナンバーを見たよ」
「エンジェルナンバー?」
「222とか111とか、ゾロ目の数字のことだよ。それぞれの数字の羅列には意味があってね。222は特に、ツインレイに出会う前兆の数字だって有名なんだ」
「エンジェルナンバーかぁ」
「あと、相手の誕生日の数字をやたら見る! それもツインレイとの関係が深まる前兆なんだよ。私もよく見た」
「誕生日の数字?」
「レシートの金額とか車のナンバープレートとかデジタル時計の数字とか。相手の誕生日の数字を見る時は、リアルタイムに相手がこっちのことを考えてくれている時なんだって」
可愛さんの誕生日はいつなんだろう。
エンジェルナンバー。ツインレイ。シルバーコード。それまで全く知らなかった単語ばかりなのに、急に興味が湧いてきた。一度知ってしまうと知らなかった頃には戻れない。
「志輝のツインレイも、もしかしたら近くにいるのかもしれないよ」
そう言って優しく笑う凜音を見て、ふと思った。こんな顔で笑う子だったっけ? 以前より柔らかくなった気がする。久しぶりに再会したので印象が多少変わるのは普通かもしれないがそういうのとも違う。昔の凜音はもっと殺伐としていたというか、世の中をナナメに見て軽く毒を吐くことすらあった。私にも少なからずそんな部分があったので波長が合っていたのだろう。でも、今の凜音にはそういったトゲトゲしさが全くない。そういえば、最近の近況報告も明るい内容が多かった。結婚後は仕事の愚痴や義実家関連の悩み事を書いたラインが多かったのに。
「今の彼といるの、幸せ?」
「最高に。独身の時もそれなりに恋愛したはずだけど、こんな気持ち知らなかったよ。結婚してるのに何言ってんのって思われるかもしれないけど、この歳になってやっと純粋な本物の恋をしてるなって感じる」
恋愛感情の質が変化したのか、年齢を重ねて丸くなったのか、あるいは、それこそがまさにツインレイの影響なのか。凜音はとても幸せそうに、私が知らなかった表情で微笑んだ。そんな風に思える相手がいて、相手にも同じように大切に思われているなんて、どうしようもなくうらやましかった。胸が焼けるほどに。
凜音とバイバイしてからすぐ、ネットでいろんなことを調べた。忘れてしまわないうちに。ツインレイの項目を見ていると、私と可愛さんの関係に当てはまる項目がいくつかあって鳥肌が立った。ツインレイ同士は、片方または両方が既婚者の場合がある。二人でひとつ。魂の半身。もう一人の自分。魂の成長のために男女に分かれ、それぞれ現世で必要な経験を積んでいるのだという。そして、歴史上多くの魂達は悲しくもツインレイと結ばれない運命を辿ってきたが、近年、地球の次元上昇にともないあらゆる物事が好転しているおかげでツインレイとめぐり逢い結ばれるカップルが急増しているのだという。かつては引き離される道をたどった無数の魂が悲願を遂げた、ということらしい。凜音と彼もそのうちの一組なのだろうか。もしかしたら、私と可愛さんもツインレイなのか。いや、しかし。
そういえば、少し前にラインのタイムラインで可愛さんの誕生日通知がきていた。可愛さんはとても充実した人間関係を持っているようで、何人かの友達に誕生日おめでとうのメッセージをもらっていた。それを見て、疎外感と孤独に襲われたので見るのをやめてしまった。おかげで可愛さんの誕生日の日付を認識することはなかった。可愛さんには大人になっても誕生日を祝ってくれる友達がたくさんいる。自分との違いを見せつけられてヘコんだ。誕生日のことも、知ってしまえば今後その日が来る度に意識して想いが強まるのが目に見えていたのであえて見ないようにしていた。でも、エンジェルナンバーの話を知ると確認したくて仕方なくなる。
可愛さんの誕生日は……。4月26日。またドキッとしてしまう。たしかツインレイは誕生日または誕生日の日付が同じパターンが多いと、さっき何かのサイトで見たばかりだ。私の誕生日は12月26日。誕生日の話題になると必ず「クリスマスの一日遅れ! すごっ」とよく人から驚かれる。そのたび話を合わせて笑っているけど内心この誕生日が好きではなく、良くない記憶ばかりが巡って気が滅入る。うちの親は子供のためだろうとお金のかかることは一切したくないというスタンスだったので、クリスマスや誕生日にお祝いをされたことはない。そんな風だったので、私は物心つく頃からクリスマスが近いとはしゃぐクラスメイト達に冷めた眼差しを向けていた。単に普通の平日。何がそんなに面白いのだろう、と。多くの家庭では子供の誕生日やクリスマスにケーキやご馳走を用意して楽しむものだと美凪に教えてもらって初めて、ああなるほど。と、クリスマスや誕生日を楽しみにする人達の心情を理解し、同時に虚しくなったのを覚えている。誕生日などあってもなくても私には何の意味もなく、ただ不本意にもこの世に生まれてきてしまっただけの忌々しい日でしかなかった。それなのに、可愛さんの誕生日を知った時に初めて、この誕生日で良かったと心底思った。可愛さんと私は何もかも違うけど、同じところがひとつだけあった。それを心の支えに頑張れる気がする。26という数字は不思議と私に大きな勇気をくれた。
そういえば中学の頃、私の誕生日を知った美凪が、クリスマスを兼ねた誕生日ケーキを焼いてわざわざ家まで持ってきてくれた。お菓子作りが趣味らしく、私に味を見てほしいと言って持ってきてくれたイチゴのデコレーションケーキは、売り物と遜色ないほど丁寧に作られていて感動した。せっかく来てくれたので部屋に入ってもらいたかったけど家に人を呼ぶと親が怒るので、美凪に謝って二人で公園のベンチに移動してそのケーキを頂いた。
「せっかくだからさ、なんかシュワシュワしたの飲も!」
美凪はそう言い、近くの自販機で二人分のサイダーを買ってお祝いしてくれた。
「ありがとう。うちのせいでごめんね、余計なお金使わせて」
「いいって。今月はおばあちゃんからおこづかいもらえたから全然大丈夫。だからそんな死にそうな顔しないで」
美凪には思い切り笑われたけど、あの時は自分のためにそこまでしてくれることへの申し訳なさと驚きと喜びで半泣きしてしまった。……そうだった。誕生日には少なくともいい思い出もちゃんとあった。灰色がかった過去にかき消されそうになっていた貴重な体験。可愛さんの誕生日を知っただけでここまで思い出すなんて。
美凪はよく私の事を褒めてくれたけど、美凪の方こそ優しい人間だと本気で思った。小学校三年生の頃、初めて同じクラスになった。特に何の取り柄もない私に話しかけてきてくれ、可愛いと褒めてくれ、男子達に貧乏だとからかわれるようになってからも構わず遊んでくれた。私と話すようになったばかりの頃、美凪には別のクラスにお金持ちの友達がいて、私と仲良くなる前はその子としょっちゅう遊ぶほど親しくしていたようだった。その子から私について「あの子の親おかしいって噂あるからあまり仲良くしない方がいいよ」と忠告されたらしい。近所どころか同じ学区内には有名な話だが、その噂はまさに本当のこと。父は私のために使うお金は惜しむのに自分のためにはザブザブお金を使う。一時プラモデルが趣味でそれにばかりお金を注ぎ込んでいた。高収入ならそれでもいいかもしれないが出世欲もなく低収入でそれだったので母のパート勤務の収入があっても生活が苦しくなるばかりだった。母は私との会話はろくにしなかったのに近所の人達には妙に愛想が良くおしゃべりで、私の発育のことや父の金遣いの荒さなどをペラペラ外でしゃべる人だった。家の事を何でもかんでも外で話すのはやめてほしいと何度も言ったのに聞いてはくれず、そのせいで噂はあっという間に広がった。あの頃、学年中ひいては学校中から笑い者にされているような気がして人目がこわく、生きているだけで恥ずかしかった。美凪もそこで私から離れていっても良かったはずなのに、「そういうのどうでもいい」と、その子の言葉をスルーして私と付き合い続けることを選んでくれた。なぜそうまでしてくれたのか。
「親は親、志輝は志輝でしょ」
美凪はそう言ってくれた。そして、私の事が単純に好きだからと。美凪も親とケンカばかりして悩んだ時期もあるとかで、私の立場に寄り添ってくれた。それでも、美凪は私とは違い、友達を作るのがうまかったし誰とでも仲良くしていた。私の事を悪く言うから付き合いたくないと言い、それ以来そのお金持ちの友達とは距離を置いたみたいだけど、私と仲良くしていたら美凪まで変な目で見られるかもしれないのに、そんなリスクを少しも気にせず一緒にいてくれたし、家に招いてくれたりした。美凪の親も私の家の噂を知っているはずなのに、行くと気さくに話してくれた。冷たくされる覚悟もしていただけにとてもありがたかった。美凪がいなかったら学校に居場所などなく、私は完全に孤立していたかもしれない。それまでも特に誰かと親しくなることもなく孤りの状態だったのに、美凪と関わるようになってから彼女を通して何人か仲良くしてくれる子もできた。親には恵まれなかったけど、友情には本当に恵まれた。本当にもしそういうものがあるのなら、それこそシルバーコードなるものがもたらした縁なのかもしれない。美凪と私も、それによって強い繋がりがあるのかもしれない。理屈を超えて。
目が覚めると、左手が妙に温かかった。知らないうちに気を失って倒れてしまったらしい。そういえば、死のうとして可愛さんに止められて、それから少し立ち話をして。そこからの記憶があやふやだ。何だかたくさん夢を見ていたようで、目が覚めた瞬間に忘れてしまったけど、嫌なことも嬉しかったこともリフレインしていた気がする。気付くと私は知らない部屋の布団に寝かされていた。部屋の隅に置かれたオシャレな間接照明。その優しく淡いオレンジ色の光で、左手を包むのは可愛さんの両手だと分かった。器用にも私の手を包んだまま、彼は私の寝ている布団の脇で横たわっていた。可愛さんも疲れていたのだろう。さっきは自分のことで精一杯だったせいかパッと見スーツを着ていると勘違いしていたが、よく見たら可愛さんはよそ行きの格好をしていた。冠婚葬祭の帰りだった? タクシーか何かで送ってくれたのか。ここは可愛さんの家だろうか。一瞬手を離そうか迷ったが、温かさが心地よくてそのままにしてしまう。この温もりを、私はずっと永い間求めていた気がした。繋がれているのは手だけなのに、身体中に染み渡るような、心まで癒されるような、不思議な感覚。
可愛さんを起こしてしまわないよう首と目の動きだけで周囲を見回す。枕元にスマホが置いてあり、親切に充電されていた。きっと会社から恐ろしい数の着信が来ているのだろうなと思いつつ確認する気になれず放置した。車道に飛び出すことを思いつく直前までずっと仕事のことを考えていた。生きるために。行きたくないけど行かなければいけないと。でも、何のために生きるのか分からなくなった。子供がいるわけでも、旦那がいるわけでもない。世話したい親がいるわけでもない。たった独りで生きる価値がこの世にあるのか分からなかった。仕事さえあれば何とかなると思っていたが違った。世間の運送業者への扱いはなぜかひどい。もちろん優しく労ってくれる取引相手もいるがそれはほんのわずかで、少しでも遅れが出れば理不尽なまでに口汚く罵倒され、雑な少ない指示での完璧な理解を求められ、不規則な時間帯での運転を余儀なくされ、会社内外問わず様々な重圧を受ける。目先の金銭に目がくらんだ報いと言われたらそれまでだけど、生きるのにお金が必要と考えて何が悪いのか。
仕事どうしよう。初めて露骨にサボってしまった。しかも無断で。
思考は、左手のぬくもりにかき消された。可愛さんがこうしてそばにいるということは、私は本当の望みを諦めなくてもいいんだろうか。可愛さんも私を想ってくれていると、信じてみてもいいんだろうか。ふと視界に入るデジタル時計は《4:26》を示している。すっかりクセになってしまった。あらゆる数字に可愛さんの誕生日を探してしまうのが。近づいてくる朝の気配に身を委ねて、再び目を閉じた。こんなに安らかな気持ちで横になったのはいつぶりなのか思い出せない。
初回投稿時、凜音と疎遠だった期間を書き間違えてしまったので、一部その辺りの描写を修正しました。(2025.4.3 9:30)
一部分しっくりこない表現を修正し、足りないところを所々加筆しました。(2025.4.7 8:23)