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灰色の日々


 失恋なんてものはどれも同じ。別れたら、罪悪感でざらつく気分を抱えて交際する前の元の日常に戻るだけ。そう思っていたのに全然違った。山本さんから離れた、あの時は一一。


 倒れた山本さんを抱き抱えてタクシーに乗り、一人暮らしのマンションに帰宅した。客用布団を出して寝室の空きスペースに敷き、そこに山本さんを寝かせる。本当なら救急車を呼んで医療機関に適切な対応をお願いしたかったが、山本さんがそれを望まなかったのでこうする他なかった。タクシーを降りる間際、運転手に話しかけられた。

「兄ちゃん、若いのに良いとこ住んでるね」

「宝くじが当たったんです」

 真に受けてビックリする運転手。内心少し申し訳なくなり、微笑する。

「ホントなら良かったんですけど、冗談です。一人だと支払いきついので友人とルームシェアしてるんです。どうしてもセキュリティ充実した所に住みたくて」

「この辺も夜は治安が悪くなってるからねぇ」

「ええ。運転ありがとうございます。運転手さんも帰り道はどうかお気をつけて」

 タクシーが見えなくなると同時に小さくため息をついた。ルームシェアだなんて大嘘。致し方ない。無用なトラブル回避のため、お金を持っていることは赤の他人に極力悟られてはならない。両親からそう教えられて育ったせいか自衛にはできるだけ気を配っている。それもあり日頃は自分の車で移動がメインだが、今日は緊急事態だからやむを得ない。

 このマンションは以前親が管理していた物件のひとつで、そのうちの一部屋に住んでいる。現在は俺が管理している土地のひとつだ。本来なら就職する必要はなかった。専門学校を出てすぐに親からこういう土地や物件の管理業務を引き継いでいたら話は簡単だったかもしれない。でも、それはどうなんだろうと思い外部に就職した。昔から地主の家の子ということで近所の人達や同級生から特別扱いされたり、そうでなければ嫌味を言われたり悪口を言われることもあった。中学の時に通っていた学習塾でも、普段ほとんど関わりのない気の強そうな女子からショックなことを言われた。〝可愛君は親のお金で遊び呆けて過ごして結婚とか一生できなさそう〟面と向かって決めつけるにも程がある! と一瞬ムカッとしたけど、そういう意見を持つ人もいるのだと知って衝撃を受け、学びになると同時に傷ついた。その子の発言は長い間胸に刺さったままで、なんとも言えない嫌な感じがした。それを払拭するためにも、大人になったら必ず親の目の届かない所で就職すると決めていた。両親は俺の考えに初めは反対した。地主には地主の生き方がある、経済を回し、世の中の人々に回り回って得を巡らせている、だから周囲に合わせる必要はない、と。その通りなのかもしれないが、どうしても譲れなかった。たしかに労働せずとも生活していけるのはありがたい。ただ、それではいけない気がした。低所得の人が富裕層を目の敵にすることがあるのはなぜか、敵を作るリスクを犯し労力をかけてまで嫌な事を言いに来るのはなぜか、その気持ちを理解したかった。そう話したら両親は渋い顔をしながらも最終的には俺の意思を尊重してくれた。そのまま実家を出て自分で部屋を探して住む場所を決めるつもりだったが、わざわざ他所よそに部屋を借りる必要はないと両親は強く言った。外部での就職を許可したのだからそこは飲んでもらうと言って取り合ってくれなかった。両親は昔から無駄遣いを嫌う人達で、お金は必要な時のために大事にとっておいてここぞと言う場面では惜しみなく感謝して使うものだという考えを持っていた。ブランド物や高価すぎる外食には興味を持たず、普段から自炊をしたり低価格の店で買い物や外食をするなどして節約する一方で、必要なことにはポンとお金を出してくれた。車はある程度高価な方が乗り心地や性能も良く安全性に優れているという理由で、就職祝いにとハイグレードな国産車を贈ってくれた。これまで大切に育ててくれ、大事なことを教えてくれた。感謝はもちろん、親としても人としても尊敬している。とはいえ成人したのに親の言いなりなんて大人の男としてどうなんだろうとも思うが、たしかに無駄遣いは良くないと最後は納得できた。浮かせたお金を未来に有効活用できるのかもしれない。それが今のはずだった。頼まれなくとも山本さんの医療費を出したかった。なのに叶えられず、どうしようもないモヤモヤが心に広がっていった。甘えてほしい。頼ってほしい。会社勤めしていた期間に貯めたお金もいくらかある。一方で、とても気になった。どうして山本さんはあんなに頑なにお金を使いたがらないのだろう。以前からかなり働き者だった。マンション清掃だって他の既婚パートさんは週二、三日の勤務で抑える人がほとんどだったのに、山本さんは週五日も働いていた。今も黒のポロシャツにスキニーパンツと、見た感じ仕事着っぽい格好をしている。今もお金は稼いでいるはず。それなのに最優先事項である医療費を払いたくないなんて、よほど切羽詰まった状態に思える。そういえばさっきからずっと山本さんのスマホが鳴っている。サイレントモードにしているようで音こそ鳴らないものの、着信のたび画面が光るので視界に入りどうしても気になる。プライバシーなのでなるべく画面を見ないよう、山本さんの枕元に伏せるようにスマホを置いた。もしかして元旦那さんから? 嫌な可能性に胸がチクリと痛む。それは嫌だ……。世の中には、書類上で別れても縁を切れきれずズルズル関係を続ける元夫婦もいる。でも、山本さんの場合それはないか。そうだとしたら元旦那さんに医療費をお願いすることもできるはずだから。頼るアテもない雰囲気だった。元旦那さんについても「いないよ」ときっぱり言っていたし。

 ……ああ、俺は全然成長できていないんだな。

 年月だけがイタズラに過ぎ、今に至る。

 離れていたこの五年間、あなたはどうしていたんですか?

 悪夢にうなされているのか、苦しげに顔を歪める山本さん。その頬に指先をやりそうになり、そっと引っ込めた。


 山本さんと仕事で関わったのは五年間ほど。現在三十二歳。その長いとも短いとも取れる人生の中の五年なんて、八十年は続くだろう長い人生から見たら取るに足らないささいな歳月かもしれないが、俺にとってはそれまでの人生を塗り替えてしまうほど濃度の高い日々だった。

 職場での出会いということもあり、お互い初めは敬語だったが、いつからか山本さんはくだけた口調を混じえて話してくれるようになった。心の距離が一気に縮まったように思い、それがとてつもなく嬉しくて幸せだったのを昨日のことのように覚えている。山本さんの方が七歳年上というのもあったのかもしれないが、それは初めから不思議と気にならなかった。

「あっ、すみません。社員さん相手なのに、つい」

「全然いいですよ! その方が俺も楽しいですから」

「可愛さんだからかな、他の人にはこんな風に話せない」

「嬉しいです、それだけリラックスしてもらえてるってことだから」

 仕事なので私情を出しすぎるわけにはいかない。分かっていても、ついポロポロと本音がこぼれ落ちた。山本さんも楽しそうに笑っていて、俺も楽しくて、そんな日がずっと続けばいいなと思っていた。俺は全然知らなかった。恋の深みにハマるのがどういうことなのかを。これまで付き合ってくれた女性達にどんな痛みを与えていたのかを。毒にも薬にもならないお手軽な恋愛ごっこをしていただけだった過去の自分を。

 恋人になれないのなら心友しんゆうを目指す。そうやって前向きに恋を楽しめていたのは本当に序盤だけだった。山本さんのことを好きになればなるほど、自分の中から汚い感情も湧き上がってくる。どれだけ会話を重ねても、山本さんは俺に対して決定的な本音をさらすことはなかった。

「そういえば、この前友達にラインする時チラッと見えたんですけど、山本さんアイコン変えました?」

「ああ、うん」

「あれ、もしかして隣県の水族館じゃないですか? 俺も昔行ったことある気がして」

「そう、友達と行ったの。久しぶりに綺麗な画像取れたからアイコンにしたくなって」

「可愛かったです、イルカ」

「ありがとう」

 友達と行ったなんて絶対嘘だ。旦那さんと行ったに決まってる。黒いモヤモヤが胸に広がるみたいだった。心なしか山本さんの表情はなにかをごまかすようにこわばっている。やっぱり触れてはいけない話題だった。踏み込みすぎている。まずい。せっかく会えたのだから楽しい会話がしたいのに、わざわざ自分から地雷源を探して踏みつけに行っているような心地の悪さ。アイコンのことになんて無闇に触れるべきじゃないのに、痛い思いをするだろうってことが分かるのに、突き詰めたくなってしまう。旦那さんとは仲が悪いとか、実はうまくいっていないとか、そういう話を聞きたいと願ってしまう自分がいた。夫婦仲を引き裂くつもりなどないなんて、よくそんな綺麗事を言えたものだ、最初の俺。この話題で山本さんが気まずそうにするのは、俺に対して多少なりとも気持ちがあるから。旦那さんの話なんて一ミリも口にしたくないのだろう。それならアイコンになんてしなければいいのに、どうして見せつけるみたいにそんな写真を設定するんだろう。好きで好きで仕方ないのに、本気で嫌いになってしまいそうだ。

 まるで当てつけのように、俺は山本さんに反撃をした。昔の女友達がグループで遊んでいる様子を頻繁に投稿していたので、それにしょっちゅういいねを付けてタイムラインに上がるようにした。山本さんがそれを見つけたら、女友達とつながりのある俺に嫉妬してくれるかもしれない。それを狙った。タイムラインはラインでつながる色んな人の投稿が見れるようになっているので、他の人の投稿に流されて俺のは見られることもなく終わるかもしれない。そう思い、何度か時間を変えてそんなことをした。それからしばらくした頃、仕事中のマンションに訪ねると山本さんは言った。

「いつもすみません。他の仕事で忙しいと思うので、道具は自分で買いに行きますからあまり無理しないで下さい」

 敬語。これは効いていると思った。

「大丈夫ですよ、他の方の物件にも用事があって、そのついでなので」

「そうですか。いつもすみません」

 口調こそ丁寧なものの、山本さんの顔は曇っていた。嫉妬してくれているのが手に取るように分かって嬉しくなる。最低で幼稚なことをしていると分かる。それなのにやめられない。好意をおおっぴらにできない関係性であり立場だからこそ、こういう風にしか気持ちのつながりを見つけることができない。必死だった。山本さんが俺を好きになってくれるように。俺にだけ夢中になってくれるように。あの手この手を使った。陰湿で、臆病で、バカみたいで、それは好きになるほど巧妙になる。制御できない。自分が自分じゃなくなっていくみたいだった。今はほとんど交流のない高校時代の女友達をダシにして、そういう意味でも最低だ。高校の頃、クラスで仲が良かった男女グループでよく遊んだメンバー達。楽しい記憶を共有している仲間。俺の事情など知らない向こうは、久しぶりに俺からイイネをもらって喜んでいた。実際久しぶりの絡みが嬉しかったとラインがきた。そこから近況報告をしあってやり取りはすぐ終わった。そんなことを知らない山本さんは、俺がイイネをした相手はどんな女性なのかとヤキモチを焼いてくれているだろうか。仲間を利用する最低な人間に自分がなるとは思っていなかった。どちらかというとこれまでは、そういう人を非難する側にいたのに。人間性を落としてでもこの恋をつかみたかった。山本さんをあおったり、嫉妬されて喜んでみたり、恋愛がこんな風だということを知らなかった。同時に、過去に付き合った女性達は俺の空っぽさや関心の無さを見抜いて離れていったのだと初めて正確に理解した。山本さんを好きになってから知らない自分ばかりが出てきて戸惑う。腹の底をさぐり合うような会話をする日もあれば、差し入れだけして雑談をしたらすぐに帰ったり、メリハリをつける日々。どうしたら山本さんを独り占めできるのか、毎日考えた。実現は難しいだろうけど。旦那さんがいる以上、無理は言えない。でも、俺もそう長くは我慢できないかもしれない。好きで好きで、手に届く距離にいても遠すぎて、窒息しそう。そんな日がこれからも続いていくのか。苦しくも幸せな、綺麗な海の底にいるような不自由で楽しい毎日は唐突に終わりを告げた。

「結婚、憧れるなー」

 思ってもいないことを言ったりして。

「可愛さんはまだまだ若いから、これからチャンスいっぱいだね」

 そんなこと言わないでほしい。

「いえいえ、全然。山本さんと結婚できた旦那さんが羨ましいです」

 遠回しがダメならもう直接的に言うしかない。

「ありがとう。そんな風に言ってくれるの可愛さんだけだよ」

 違う。ほしいのはそんな言葉じゃない。

「それはないですよね。山本さん人気ありそうだし」

「そんなことないよ。本当に好きになった人にだけ好かれたいかな、今は」

 今は?

「ごめん、変なこと言った。今のは忘れて?」

 本当に好きになった人。それが旦那さんのことではないように感じたのは気のせい? それまで隠されていた山本さんの心がハッキリ見えた瞬間だった。頬は赤く、目は潤み、困ったように下を向く彼女。

「それって…」

「あの!」

 はぐらかすように、山本さんは話題を変えた。

「引越しを考えているので近いうちにお仕事辞めさせて下さい。もちろん次の人が見つかるまでは責任持って働きますので」

「………引越し、ですか」

 目の前が真っ暗になった。苦しくても、窒息死しても、最低最悪な人間になっても、この綺麗な水の中に沈んでいたかった。どんな形でもいい。彼女のそばに居たかった。でも、それは叶わない。

「すみません。辞めるのは惜しいけど色々あって……」

「引越し先はもう決まってるんですか?」

 くと、山本さんは隣県に引越すと言った。

「よければ社長に相談して、山本さんを引き続き雇ってもらえないか話してみます!」

 山本さんを繋ぎ止めたい一心だった。一気に頭が回る。うちの会社はこの地域だけでなく隣県にもいくつか取引先のマンションがあり、清掃パートさんに空きがあれば引越し先でも同じ条件で山本さんに仕事をお願いできる。

「でも……」

「物件は変わってしまいますが、いったん会社に持ち帰って相談させてもらえませんか?」

 山本さんはしばらく考えてからうなずいた。

「はい。ありがたいお話です。ぜひお願いします」

 山本さんが隣県に行ってしまえば、俺はもう彼女の担当から外れてしまう。隣県には隣県の担当社員がいて、その人が山本さんのシフト管理などをすることになるだろう。それでも完全につながりが切れるよりはマシだ。山本さんが会社を離れてしまったら二度と会えなくなってしまう。支社は違っても会社が同じならいつかまた何かの用件で関われる日が来るかもしれない。その可能性に期待した。その件で社長からはあっさりOKをもらえて嬉しかった。これまでの山本さんの仕事ぶりが評価され、可能なら引き続き隣県でも仕事をしてほしいとのことだった。切れそうだった接点がギリギリのところでつながりホッとした。

 トントン拍子に物事が運ぶことに安堵あんどしたのも束の間、実家の父が貧血で倒れ病院に運ばれた。体調はそこまで深刻ではなくしばらく入院すればすぐに良くなったが、その事があって急きょ有給をもらって実家に帰った。今後のことについて両親と話し合うことになり、父は言った。そろそろ地主の仕事から手を引きたい、と。昔から質素倹約の精神で生きてきて全然母に贅沢をさせてあげられなかったので、健康でいられるうちに色んな場所へ夫婦で旅行に行きたいと思ったらしい。母はそんなこと気にしないと言ったが、父がそうしたいなら付き合うという感じだった。話し合いの末、俺が全面的に父の跡を引き継ぐことになった。不動産だけでなく農地なども管理しているし、株式投資など資産がいろいろある。大半は業者に任せているものの、今の会社で働きつつ地主をするのはどちらも中途半端になりそうで不安だった。不動産関係の専門学校で学んで資格を取得したものの、それだけでは不十分だろう。情報は日夜更新されていくし法律も変わることがある。不動産について改めて勉強しなければならないし、油断していたら赤字経営になりかねない。いつかこんな日が来るだろうことは想定していたが、意外と早くその時が来たと困惑もした。早くても資産を引き継ぐのは三十代半ばか四十代頃だろうと思っていたのに現実は二十七歳。この年齢で地主の仕事や資産運用なんて務まるのだろうか。父のように財産を守っていけるのだろうか。人生経験が足りなさ過ぎるのではないだろうか。家族会議を終えて風呂から出ても、絡まった思考はそのままだった。母が寝た気配を感じつつ、居間で少し酒を飲んだ。まるで待っていたように父が空のおちょこを片手にやってきて、そこに別の飲み物を注ぐと俺の隣にそっと座った。

「心配するな。いきなり全部一人でやれってんじゃない。父さんと母さんがついてる」

「とはいえ、いつまでも頼れないよ。いずれは自分で全部やってかなきゃ」

「父さんだってな、一人じゃ無理だった。母さんが支えてくれたからここまでこれたんだよ」

「独りじゃなければ大丈夫、か……」

 これまで結婚したいと思ったことはなかったが、この時初めて明確に結婚を意識させられた。いつも仲睦まじく互いを思いやり合っていた父さんと母さん。俺もそんな結婚ができるのだろうか。全く想像つかないけど、人生を共にするなら山本さんがいい。強くそう思った。でも、それは無理な話。

「俺はきっと一生独りだよ」

「んなことない。見つかるさ、ほまれなら」

「親バカ」

「親なんてな、バカなくらいがちょうどいいんだ」

「何それ」

「母さんだけじゃないぞ。誉の存在だってな、かけがえのない支えだったんだ。言わせるな」

「恥ずかしいなら言わなきゃいいでしょ」

「酔いが回ったんだ」

「それノンアルじゃん」

 どちらかともなく笑い合う。悔しいけど少し気持ちがほぐれる。父は俺の悩みに気付いているのかいないのか。思いもよらない角度から励まされ、涙が出そうになった。こんな時にも山本さんの顔が浮かぶ。両親が元気なうちに彼女のことを紹介できる日がきたら。そう願い、一瞬で打ち消した。そんな日は来ないのに。

 俺は結局、山本さんが引越しをしたであろう時期に退職した。山本さんも最終的には隣県マンションでの仕事を断ったらしく、そこから完全に彼女とのつながりは切れた。その後一度だけマンション清掃に使っていた一部道具の返却について、どうすればいいか指示を伺うメールが山本さんから届いた。メールが届いた瞬間はドキッとして一瞬期待してしまった。もしかしたら特別な内容なのではないかと。そんなことはなく、あんなに会話を重ねた年月が幻だったかのように、やり取りはあっけなく終わった。

 それからは地主の仕事に邁進まいしんした。一人暮らしはそのままに、実家の両親に助けてもらいつつ必要なことを色々覚えた。忙しい日々。山本さんが引越しをしたのは旦那さんの都合か何かだったのだろうか。長く続けてきたマンション清掃を引き受けなかった理由も気になる。もしかしたら子供ができたとかで居住地を変えたいといった事情なのだろうか。夫婦だ、そんなことがいつ起きてもおかしくない。それなら一時的に仕事を辞める可能性はある。好きで好きで苦しいから諦めたくないが、もう追わない方がいい。想っていても報われない。

 会社を辞めて環境が変わったことをもっともらしい理由にしているけど、結局俺は逃げたのだ。自分の想いから。山本さんの存在から。息苦しくもどかしい初恋から。みにくくなる自分から。忙しさで大変になったとしてもしばらくはあの会社を続けられたかもしれない。でも、そうすればきっと俺は山本さんに冷たくしてしまっていただろう。旦那さんについての話をする時より俺と何気ない会話をしている時の方が楽しそうな顔をしている、それなのにどうして気持ちを隠すのかと問い詰めてしまうだろう。社員の領域を超えて。それだけは留まらなければいけないと思った。身勝手かもしれないけど、それがお互いの傷を浅くする唯一の方法。


 後悔した。離れたからって忘れられるほど簡単な想いじゃなかったと、離れてから気が付いた。会いたい。会いたい。離れたら楽になると思ったのに、それどころか後悔と寂しさで心身を引き裂かれるような痛みに日々襲われるようになった。

「元気出せよ。女性は他にもたくさんいるんだから」

「そう? 俺の視界には入ってこないけど」

「重症だな。自分の殻にこもってんのが良くねぇ!」

 見かねた春海はるみに半ば強引に街コンに参加させられたりマッチングアプリをやらされたりしたが、これといって成果は出なかった。春海はちょくちょく出会いがあったようだけど、俺にはどの女性もかすんで見えた。過去にどうやって彼女を作っていたのか、もう思い出せない。恋愛音痴もいいとこ。それでも荒療治的に無理矢理デートまではしてみるものの、やっぱり心がついていかず微妙な感じで解散。そんなことが続いた。〝お前が行くべき道はそっちじゃない〟どこからともなくそんな声が聞こえた気がする。

 そうだよな、俺はやっぱり……。

 それからは出会いの場に行くのをキッパリやめ、自分磨きに取り組んだ。ジムに行って筋トレをし、動画サイトを見ながら趣味の料理に凝ってみたり、休日には一人旅に出た。たまに春海や他の友達も付き合ってくれたが、もし山本さんがそばにいたら。という想定で色んな場所へ行った。そして、いい感じの風景写真が撮れるとラインのアイコンに設定した。近況報告のために。山本さんはインスタやフェイスブックなど個人を特定できる類のSNSはやっていないようなので、こちらの近況を知らせるにはそこしか場所がない。だからといって彼女から連絡が来ることはなかったけど、俺は歩みをやめなかった。届くように。いつかまた再会()えた時に自分史上最高の自分になれているように。

 その相手が今、目の前にいる。俺はもう間違えない。

「独りで生きていける。時間が経てば忘れられる。そう思ったよ。でもダメみたい。あなたと出逢う前の自分には二度と戻れない」

 眠る山本さんに言うともなくつぶやく。そうだよ、もういいんだ。我慢なんてするだけ無駄。そう思い知ったはずだ。せめてちゃんと伝えよう。報われないとしても。この気持ちがったことを、この人にだけは知っていてほしい。

 山本さんの頬に指先を伸ばそうとした時、彼女の枕元に置いておいたスマホが画面を光らせた。隣の部屋の明かりが扉の隙間から細く差すだけの暗い室内。画面を伏せているとはいえスマホの光は目立った。さっきから何度目だ? 人のスマホを勝手に触るのは気が引けるが、思わず画面を見てしまった。聞いたこともない運送会社の名前が表示されている。宅配便の再配達の電話、ではないよな。こんな夜遅くに。もうすぐ二十二時だ。何度も着信があったせいで充電が切れそうになっている。やはり普通じゃない。用事があるにしてもしつこすぎないか? 嫌な感じがして、思わずその電話に出てしまった。

風岡かざおかさん!? やっと出た!  昨日からずっとかけてるのに何で出ないの!? そんなんじゃ仕事なくなるよ!』

 一気にまくしたてる男性の声。三十代から四十代くらいか。〝風岡さん〟とは、今の山本さんの名字か。相手の語気の強さに流されないよう、かつ話を合わせるべく、俺は口を開いた。

「風岡さんの親戚の者です。志輝しきは体調を悪くしており電話に出られない状態です。ご要件でしたら私が取り次ぎますが」

『はあ!? また!? 先週もそう言って仕事休んでるんだよ。働く気あります?』

「職場の方ですか? 体調不良で休めないのはなぜでしょうか。労働者の権利なはずですが」

『ああそう、もういいや。稼げなくてもこっちのせいにしないで下さいね。それじゃ!』

 一方的に言いたいことだけ言い、勢い良く電話を切られた。初対面の相手にこうも高圧的に話せるなんて、普段からこの電話の人は山本さんもとい風岡さんにもそうやって接しているのだろうか。だとしたら、とんでもないブラック臭しかない。体調の心配をするでもなく、まるで働く駒のような扱い。もしかして、これが風岡さんの自殺未遂の理由のひとつなのではないだろうか。

 人の電話に勝手に出てしまったのは良くなかったが、今のは出てみてよかったかもしれない。今の風岡さんの事情を少しだけ知ることができた。こんなひどい職場にいつまでも風岡さんを行かせるわけにはいかない。時間と労力の無駄だ。そして、もしこれが理由で死のうとしているならもっと許せない。許せないというのは会社に対して。もっと話を聞いてみる必要があるかもしれない。脅すように仕事をさせて、人間の扱いではない。風岡さんがやつれていた一因かもしれない。着信者名の通り、運送関係の仕事なんだろうか。

 こうして正義の味方みたいなことを思ってみたり、正論を盾に勝手に行動しようとしたり、そんなことする資格俺にはないのに……。せめて罪滅ぼしさせてほしい。それすら大罪になるだろうか。











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