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失ったもの


 意固地な山本さんを残し、カフェまで飲み物を買いに来た。まだ心臓が変な音を立てて動揺している。まさか山本さんが離婚していたなんて……。それならもう〝山本さん〟ではないってことか。

 マンション清掃の仕事で業務連絡のメールをやり取りする必要があったので、山本さんとは出会った日に連絡先を交換していた。その時自動的にラインも繋がって、今もそれは続いている。ラインで個人的な連絡を取り合うことは一切なかったけど、気になって時々こっそりプロフィール画面は見に行っていた。山本さんのアカウント名は五年前からずっと変わらずアルファベットでSHIKIになっていたから、名字の変化はまるで分からなかった。俺もそれに合わせるように、ラインのアカウント名を漢字のフルネームから下の名前のアルファベットにしたけど、そんなささいな変化を大胆だと思ってしまう自分。山本さんがマンション清掃を辞めてから一気に疎遠になり、それが怖くて何とか話しかけるきっかけがほしかったのだけど、アカウント名を変更したことは何の意味もなさなかった。それどころか、関わらない期間が長くなるほどまずいことをしたと後悔が深くなる。一方で、俺のアカウント名が変わったことに気付いて山本さんから連絡してきてくれないだろうかと、何度か淡い期待を抱いたりした。ここ数年の自分の心情に思いを馳せつつ、到着したカフェで二人分の注文をし、テイクアウトした。

 あの頃も、何かと口実を見つけてはこうして山本さんへの差し入れを調達し、彼女の顔を見に行っていた。会いに行き過ぎて引かれているかもと思う日もあったが、だからといって引くという選択がどうしても出来なかった。お互いのことを全然知らないし、相手は結婚している。それだけで充分焦る。既婚者だと知って初めは諦めようと努力した。結婚とは一生一人の相手に添い遂げるということ。婚姻届を出すとはすなわち恋愛終了の儀式。俺などが本気になったところで相手にされるはずがない。そう思い一社員として振る舞おうと一度は決めた。下手なことをして山本さんに迷惑をかけるのも嫌だった。恋愛断ちすると決めたのにうっかり好きになってしまったばちが当たったんだ、そう割り切ってみたりして。でも、そんな決意や割り切りは早い段階で崩れてしまう。引くことを完全に忘れ、気付くと山本さんのことばかり考えてしまう毎日。だからといって旦那さんから略奪するーとかダークなこともする気はなかったが、諦めるというのも釈然としない。出会うべくして出会った人。なぜかそんな気がした。俺一人の思い込みならそれはストーカーの始まりかもしれないが、山本さんからもほのかに好意めいたものが伝わってくることがあった。現実を直視できない俺の弱さがそんな妄想を生み出したのかもと思ったりもしたけど。少なくとも嫌われていないのは分かった。それならもういっそ仕事仲間として最高に仲良くなってみせればいい。困った時には真っ先に助け合える心友しんゆうのような存在を目指そう。そういう相手もそうそう見つかるものではないし素晴らしいことだ。最終的にはそういった妙な楽観思考に行き着いた。

 毎回仕事をキッチリしてくれ、いつも笑顔で対応してくれる彼女に、こちらも思わず何かしたくなった。ただ笑ってお礼を言ってくれる、それだけで天にも昇る気持ちになれた。山本さんのため。頑張って週五で働いてくれてる彼女を労うため。そんな言い訳をしながら、実は全部自分のためだったのかもしれない。


 再会の衝撃と感動で動揺してしまい、思わず山本さんの元から離れてしまったけど、彼女は大丈夫だろうか。思いつめた表情をして自殺未遂。あれはけっこうな確率で車にはねられにいこうとしていた。離婚のショックからそんなことをしたのだろうか。旦那さんといつ別れたのかは知らないが、離婚は結婚の何倍も労力を使うとよく聞く。少し前に知り合いも泥沼離婚をして大変だったらしい。俺なんかには未知の話だが、山本さんが今何かに苦しんでいるのかもと思うといたたまれない。急ぎ足でさっきの場所に戻ると、山本さんは倒れていた。

「山本さん! 大丈夫ですか?」

「…………」

 苦しそうに眉間にシワを寄せ、山本さんはうなされていた。バカだ、俺は。こんな状態の彼女をひとりにするなんて……。

 まだ信じられないんだ。山本さんに再会できた今を。夢の中にでもいるかのように頭の中がフワフワして現実味がない。でも、倒れている山本さんの肩を抱き上げてようやく、これは実際に起きたことなんだと実感した。

「すみません、ひとりにして……」

 抱きしめたくなった。あの頃と同じ愛しい顔も、今はひどくやつれていた。再会の衝撃でさっきは気付けなかったが、あの頃より痩せてしまっている。ダイエットしてそうなったというより不健康な痩せ方だ。元々細い人だった。こんな体で今までよく立っていられたものだと驚く。やっぱり離婚のダメージが大きかったのだろうか。なんて言うのか、山本さんは出会った頃からあやうい雰囲気はあった。常に何かの苦しみを心の奥で握りしめているような、それでいて決してそれを人に悟られないように明るく控えめに振る舞う。深い痛みを知る人にしか出せない慈愛の空気が人を癒す、そんな感じだった。対して苦労などしてこなかった俺がそんなことを感じてしまうのも至極不思議でしょうがないけど、そう感じたのは確かだ。山本さんは見た目以上に苦労している人のような気がした。つらさがわかるから人には柔らかい対応をしようとするのだと思う。本人はきっと無意識なんだろうけど、かもし出す癒しの波長に俺自身が癒されていたし、それを求めて彼女に接していたのかもしれない。

 でも、再会した彼女はどこかトゲがあった。前はもっと柔らかい雰囲気の人だったのに、そういうものがごっそり削ぎ落とされている気がした。殺伐さつばつとしている。気持ちがやさぐれてそうなってしまう経験なら俺にもあった。そうなりたくなくてもなってしまう。きっと今の山本さんも。

 考えたいことはいろいろあるが、今は山本さんの体調を何とかするのが最優先。スマホを取り出し救急車を呼ぼうとすると、察したみたいに山本さんは目を開けた。

「救急車は呼ばないで、お願い」

「でも……」

「医療費、使いたくない」

「それなら俺が…!」

「それはダメだよ」

 キッパリとした拒絶の声。こんな時にも頼ってもらうことができない。悔しいが、仕方ないのかもしれない。そりゃそうだ。同じ仕事先で親しかったとはいえそれは以前の話。あれから五年間の時が流れた。生後間もない赤ちゃんが五歳になる歳月だ。時の流れなんて普段はあまり意識しないのに、こういう時、突然頭を殴られたかのように実感する。もしずっと接点を持てていたら、今何かが違っただろうか。あの時、逃げずにいたら……。いや、そんなこと考えても無意味だ。分かっていても悔しい。五年もこの関係を放置してしまったこと。いや、放置なんて冷めたものではなかった。いろいろ口にすると結局離れたことの言い訳ばかりになってしまうけど、この五年間、山本さんのことを忘れたことは一日たりともなかった。毎日毎日、偶然どこかで会えないだろうかと願っていた。自分から距離を置いたくせに、矛盾している。



















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