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出逢いの記憶


 旦那の雄亮ゆうすけは自分の給与を私に預けることはなかった。私もそれでいいと当時は思っていた。結婚しているとはいえ他人の財布を管理するのは気が引けたからだ。雄亮の稼ぎから光熱費や食費を出してくれ、私には自分のおこづかいさえ稼いでくれたらそれでいいと雄亮は言った。自由に使えるお金はほしかったので、結婚してすぐマンション清掃のパート勤務に就いた。当時可愛かわいさんはその会社の社員で、私が新人だった頃に研修をしてくれたり、仕事に必要な道具をわざわざ私の勤務地まで持ってきてくれた。勤務地は毎日変わる。私の場合週五日で働いていたので、五つのマンションを週一ずつ巡回する形で月曜日から金曜日までそれぞれ物件を計五棟受け持っていた。なので、始めに会社から支給されたゴミ袋やゴム手袋などの清掃用具はすぐ使い切ったりダメになったりで、手元から無くなってしまう。そのたび可愛さんは私のところへ必要な物を持ってきてくれた。私の家は会社から遠いので、そういう遠方パートは基本的に自分で必要な用具を買ってきて一時的に立て替えという形を取り、領収書を毎月会社に郵送し、給与振り込みと共に経費として支払ってもらう決まりだった。人手不足で社員はみんな大変そうで、パートの急な休みの穴埋めなども社員にとって最優先の仕事だったので、遠方の物件で勤める私の元に来るのはかなり労力のいることだったと思う。それでも可愛さんはいつも明るい対応で私の元へ来て、

「いつもありがとうございます! 山本さんのおかげでいつもキレイな状態だって、管理会社の方からお褒め頂いてます」

と、労いの言葉をくれた。

 はじめは時間があってたまたまそうしてくれたか何かの用事のついでに来てくれたのだろうと思っていたけど、そのうち可愛さんはチョコレートや飲み物など、季節ごと変わる嬉しい差し入れをしてくれるようになった。

「いつもすみません。飲み物は自分で持ってきてますし、可愛さんの負担になるといけないので、これからはどうかおかまいなく」

「いえいえ。山本さんのおかげで会社はかなり助かってますから。仕事も丁寧にされているので事務所でも好評なんですよ。そのお礼です。っていうこともあってお金も社長が出してくれてるので気にしないで下さい」

「ありがとうございます。そういうことなら」

 たとえ社交辞令なのだとしても、その言葉にどれだけ救われたことか。当時の私は雄亮との結婚を毎日後悔しており、自分の価値を感じられないでいた。実家が貧困家庭だったのもあり、生活の面倒を見てくれている雄亮に感謝はしていた。けれど、愛されている実感はなく心はいつも満たされなかった。

 雄亮の両親は元資産家だった。義祖父母の代から料亭を経営し、いくつかビルを管理して家賃収入も得て、ハイレベルな生活を維持しつつ高級車に乗れるような暮らしをしていた。それが、だんだん料亭の経営が危ぶまれ、私達が結婚する頃には赤字経営が続くようになっていた。いくつか持っていたビルも、自宅以外の物件は全て手放し車も売っていた。それで当面の資金はまかなえたものの料亭の経営状況は思うように改善せず生活は苦しくなっていった。義両親はもともとお金をたくさん使う暮らしをしていたので、そこから急に収入が減ってもどう節約していいのか分からないようだった。お金がない現実を前にしても生活レベルを下げられない。安いスーパーの生鮮食品はまずいと言い、これまで通り百貨店の高級食材を買い続ける始末。それではお金がいくらあっても足りないのは当たり前だが、義両親にはそれがどんなに見当違いな行為か理解できなかったらしい。ついには、子供のいない私達夫婦のお金をアテにしはじめた。

「あなた山本家の嫁でしょ? 私達のために他所よそで稼いできてお金をこちらに渡すのが筋でしょ」

 自分達は暇な料亭の経営に何か策を練るでもなく副業を探すなどもしていないのに、他人の私にそんなことを普通に言い放つ人達だった。さすがに雄亮もそれには反発してみせたが、彼は困っている親を完全に見放すことができず、私に相談なく自分の収入から毎月十万円近くのお金を義両親に渡していた。義両親の家に行った帰り、忘れ物をして居間に戻ったら、雄亮が義母にこっそり何枚かの万札を渡しているところをたまたま目にして私は初めて義両親への金銭援助のことを知った。雄亮は私にそのことを絶対知られたくなかったようだ。モヤモヤしつつそれだけならまだ流せたかもしれないが、そのうち雄亮は私の金遣いが荒いと妙な言いがかりをつけてくるようになった。食費については、結婚当初から雑費も含めて毎月四万円を雄亮の給与から出すと言ってくれずっとそれを維持してくれていたのだけど、義両親への援助が一年以上続いたある日、雄亮は烈火のごとくキレた。

「いったい四万円も何に使ってるんだよ!」

「雑費とか生活にかかる物と食費を合わせたらそのくらいいくよ、今までもそうだったでしょ」

「いや、おかしい!! 二人分でそんなにいくわけない! 俺にはどうせ分からないだろうって思ってコソコソ他のことに使い込んでるんじゃないのか!?」

 おかしいのはあなたの両親でしょうと言いたくなった。収入が下がったのだからその分生活レベルを下げるべきなのに、富裕層時代と同じ食生活、同じ買い物の仕方をして、足りない分は息子夫婦にたかる。控えめに言ってやばい思考だ。

 結婚当初は、私のやりくりが上手くて本当に助かるだとか、結婚してからむしろ浮いたお金が増えたよとか、二人分にしては食費少ないと思うから足りなかったらいつでも言ってねなどと優しい言葉をくれていた雄亮も、両親に金銭的援助をしているうちに疲れてしまったのだろう。どんなに苦しくても四万円で収まるようやりくりしてきた私の努力を見ようともせず、責め立ててきた。結婚当時は毎日のようにたい焼きやシュークリームなど、労うお土産を買って帰ってきてくれたのに今は何もなし。義両親の存在が私達夫婦の仲をおかしくしていると感じた。

 雄亮の財布が盾になったことで私の収入が脅かされることはなかったものの、気持ちの面では完全にすれ違っていた。妻の私ではなく離れて暮らす両親に援助を続ける雄亮にだんだん嫌気がさした。食費が足りなくても、それを訴えてまた怒られるのが嫌だったので自分の稼ぎから出すようになった。その方がはるかに気が楽で、はじめからそうすればよかったと軽く後悔したけど、どうしようもなく虚しい気持ちになる。その金額が積み重なるほど、雄亮との間に引かれる他人という線が濃くなっていく気がした。

 実家に心の拠り所などなかった私は、結婚した時ようやく揺るぎない自分の居場所ができたと思え安堵あんどした。それがたった数年でひっくり返ってしまった。義両親は何かと私達夫婦を家に招きたがる。正月、母の日、父の日、お盆の墓参り、雄亮の弟の誕生日祝い、義両親の誕生日祝い、年末の年越し……。そのたび気を遣いプレゼントや手土産を購入したり、会話を合わせたり愛想笑いをして場をもたせた。そのわりに報われた感覚はなく、あげた物にケチをつけられることも普通でそのたび気持ちが下がった。そんな風なので義実家への訪問は毎回苦痛だったが、平和な結婚生活のためと思い我慢して付き合った。お酒が入れば鬱屈うっくつした気分もごませた。しかし、雄亮との仲がおかしくなりはじめる少し前から、義両親の顔を見ると吐き気がするほど心身に異常が出るようになっていた。

「ごめん、今日体調悪いから実家の方には雄亮だけで行ってきてくれる?」

「えー、それはちょっと……。俺だけだと何言われるか分からないし、志輝しきが来ないと絶対何か言われる。あっち着いたら寝てていいからさ」

「それはさすがに無理だって」

「なら、酒は飲まなきゃいいから。どうしてもしんどいなら明日病院行けば大丈夫でしょ。俺お金出すし」

 宇宙人と会話しているような気分だった。青い顔で訴えても、雄亮は私の体調不良を気遣ったり心配することは一切なかった。私の気持ちより義両親の思いをむことの方が大事なのだろう。お金を出すという言葉も、食費の件で揉めた後では素直にありがたいとは思えなかった。

 元から低かった自己肯定感はますます下がっていき、義両親以外の人とも関わるのがしんどいと思うようになった。もともとあまり人間関係が得意な方ではなかったので、なるべくトラブルが少なそうな一人でできる仕事がしたいと思って清掃パートを選んだ。面倒な人間関係に巻き込まれず自分のペースでできる仕事がしたかった。そんな動機で始めたのもあり、はじめは可愛さんが頻繁に訪問してくるのが億劫で仕方なかった。また来たのか、社員なのにそんな時間の余裕あるの?と心の中で悪態をついた事も数知れず。仕事中に顔を合わせるのはマンションの住民や宅配便の配達員くらいで、サボろうと思えばどれだけでもサボれてしまう仕事。過去にそういう人もいたと面接で話があった。私はサボらずちゃんとやっているけど、新人だから信用されていないのかも。それで監視に来ているのかも。と考え憂鬱になった。

 ネガティブなことを考えてしまう理由はもう一つある。可愛さんは昔の同級生によく似ていた。なので、研修で初めて顔を合わせた時、思わず本人かと思いジッと見てしまった。小学生の時同じクラスだった男子で、事あるごとに目の前で私の悪口を言ってくる嫌な人だった。うちは貧しい家庭で服もそんなにたくさん持っていなかったし、給食をごちそうだと感じるほど家でご飯を満足に食べられなかった。子供の頃はそれが普通だと思っていたけど、成長するにつれそれは極端な家庭環境なのだと知った。同級生達の家は当たり前にご飯をおかわりできるし、外食もするし、休日でもお風呂に入れるし、服も一週間違うコーディネートができる程度に買ってもらえる。うちは違った。学年が上がるにつれ貧しいことがじょじょに周りにバレ始め、高学年にもなると一部の男子からからかわれるようになった。

「女子なのに毎日同じ服なの? ありえなくなーい?」

「お前女のくせによく食べるよなぁ。給食なんてマズイのに」

乞食こじきだ、乞食!」

 名前の志輝と掛けて、そのうちからかってくる男子達からコジキと呼ばれるようになった。そんなあだ名を付けたのがアイツ。アイツも取り巻きも、そんなこととっくに忘れているだろうけど、私は今でも全員の顔を忘れられないでいる。過去も何もかも、覚えていて不快なことは記憶から消せたら楽なのになぜかできない。嫌なことを忘れられないのは人の防衛本能なのだとどこかで読んだけど、防衛どころかこれで生きづらくなっている面もあるから一長一短だ。

 結婚しても、ふと昔の苦い記憶を思い出してしまうことがあり、雄亮に少しこぼしてみたことがある。よく乗り越えたねとか、つらかったねとか、前向きに慰めてほしかったのかもしれない。そうすれば多少は癒される。でも、雄亮はそういう心の機微が分かる人ではなく、

「俺も昔からかわれたことあるけど、からかってきたヤツ全員殴り返して解決したよ。親は学校から呼び出しくらってたけど。なんだかんだ今はそいつらと仲良くしてる。いつまでも根に持っててもしょうがないよ」

 と言われてしまった。話すんじゃなかったと後悔した。

 そんなことがあり、可愛さんのことを必要以上に警戒していたのは否めない。可愛さんは過去と無関係なのだと分かっていても、顔を見るだけで無意識に構えてしまうのは仕方なかった。

 それから時間が経ち、可愛さんと接するうちに、彼は過去のアイツらとは違うのだと心身で理解しはじめた。むしろ、どうして外見が似ているのにこんなにも中身が違うのだろう、人間って不思議な生き物だなと思えた。もしかして従兄弟とか血縁関係なのかもしれないと思い、出身地や子供の頃の趣味など遠回しにいろいろ質問してみたりもしたけど、アイツと可愛さんは何の関係もなさそうで心底安心した。

 可愛さんは本当によく労ってくれた。はじめは手探りだったのが、そのうちピンポイントで私の好みを当ててくるようになったし、言って欲しい言葉、欲しい行動を、口にしなくてもスムーズにしてくれた。そんなにしっくりくる感覚は親友の美凪みなぎ相手にすらなかった。本当に心地がよくて、可愛さんの訪問を心待ちにする日が増えていった。

 たとえ仕事でも、褒められたり気持ちを尊重してもらえたり差し入れをしてもらうと人として大切にされているような気がして、ひどく感動してしまった。さらに頑張りたいと気合いが入った。そんな自分が好きだとも思った。

 可愛さんは七つも年下だから下心があるとは考えづらい。時に大変でも、風通しのいい社風。私は普段他のパートさん達と全然関わりがないけれど、業務開始時と終了時に使う会社専用のチャットルームで、業務連絡への返信は皆さん優しい。そんな職場なので、可愛さんも自然とこういう風になるのかもしれない。彼の言動に嬉しくなってしまってもそれは仕事だから。深く関心を持たないようにしよう。

 いったん結婚してしまった身。たとえ誰かに惹かれたとしたって離婚なんて簡単にできるわけがないけど、心の中で勝手に癒されるくらいならいいだろうか。

 可愛さんの厚意に感謝し、そこで留めておこうと自粛する。その実、ほのかな恋心が芽生えているのも本当だった。

 もし結婚相手が雄亮じゃなくて、可愛さんだったら。もし義両親が無茶ぶりをしても私ファーストにしてくれたかな。もし雄亮と出会う前に可愛さんと出会えていたら、結婚相手になっていたのは可愛さんだったかな。

 仕事の合間、そんなことをふと考えてしまうのがクセになっていた。











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