無二の初恋
それは、春海の結婚式に呼ばれた帰り道のこと。高校時代同じようにバカやって青春を共有した春海が、とうとう結婚することになった。招待状をもらった時に思ったのは、マジか……という大きな驚きと、先を越されたという妙な落ち込み。春海も俺に負けず劣らずの恋愛劣等生だった。彼女ができても長続きした試しがない。そういう意味でも仲間意識があった。
結婚式は素晴らしいほど祝福ムードに満ちていて、春海も新婦さんも幸せそうに笑っていた。素直におめでとうという気持ちが湧いてくると同時に、少しだけ涙が出た。飲みすぎたんだろうか。
二次会が終わって解散し一人になった後も、妙な感覚は消えなかった。あんなに幸せオーラに溢れた場面に居合わせたことがなく、そのすさまじさが羨ましく、突発的に病んでしまったのだろうか。周りからやたら勧められたビールやらワインやら日本酒で悪酔いしたのかもしれない。郷愁に駆られ、昔懐かしい高校の校舎を見たくなった。酔いも醒めてきた頃、電車は母校の最寄駅に到着した。登下校時なら後輩達がゾロゾロ歩いているだろうが、夜も深まりつつある今、こんなところで下車するのは俺くらいだった。夜風がほどよく気持ちいい。昔春海や仲間連れで歩いた歩道を行き、母校への道のりをおぼつかない足取りでたどる。
あの高架線の下に沿った細道は正式な通学路じゃないけど駅までのショートカットになるからって、教師に見つからないようこっそり通ってたっけ。見つかるとものすごく怒られた。ここは乱暴な車やバイクがよく走るから徒歩だと危険なので通ってはいけないという決まりだったらしい。あの頃俺達は大人になった気でいて教師達に注意されると軽く反発していたけど、大人達に手厚く守られていたのだなと今更気付く。
春海とは高校の頃からの付き合いで、当時からいつもくだらない話をして、お互いの恋愛や失恋のたびに祝ったり励ましあったり、楽しく過ごした。でももう、あの頃には戻れないのだと痛感した。俺だけ置いてけぼりをくらったような、寂しくも悔しい、でもおめでたい、複雑な気持ち。結婚しても変わらず飲みに行こうなと春海は言っていたけど、奥さんができたらそんなわけにもいかないだろう。結婚生活ってどんな感じなんだろう。生涯のパートナーがいるってどんな感覚なんだろう。そんなことを思いながら歩いていると、妙な動きの人物が視界に入った。夜闇に目が慣れてきたとはいえ、時折射し込む車のヘッドライトはまばらでハッキリ見えない。だが、近づくにつれ、知っている顔な気がした。ドクンドクンと鼓動が速く変な汗が出て、それまでモタモタ歩いていたのがもどかしいほど早足になり、高架線と大通りが交わる交差点にたどり着いた。初めからそこが目的地だったとでもいうような足取りになる。そこには、まさに走行中の車に突っ込んでいこうとしている女性がいて……。まとわりついていたけだるさはどこかへ。全身の力を振り絞り女性の方へ駆け出した。結婚式中に気力が削られてしまったことも忘れて。
初めて出会った五年前、俺はひと目で山本さんに恋をした。
その頃、とある小さな会社でマンション管理に関わる仕事をしていた。仕事内容は、マンションの管理人に対する連絡や諸々の指示など。俺たち社員は管理会社と管理人をつなぐ役割をしていた。あと、管理人とは別にマンションの清掃作業をするパートさんのシフト管理や、新しく入った清掃パートさんの新人研修も担当していた。教育といってもそこまで難しいことはなく、マンションのあらゆる場所の掃除方法を実践形式で教えて終わり。研修も、ひとつのマンションにつき一時間で終わった。そこで山本さんに出会った。基本的に社員は事務所で事務作業や電話対応をしているが、管理人や清掃パートに欠勤が出ると社員の俺か他の社員二名の誰かが穴埋めをする。新人研修も同じで、手の空いている社員の誰かが新人の都合に合わせて対応するようにしていた。山本さんの教育係をすることになったのは俺だった。面接の時に山本さんの面談を担当した社員は山本さんのことを感じのいい人だと褒めていたので、俺もそこまで緊張はしなかった。とはいえ、やはり初対面なので失礼がないように気をつけなければと気を張っていた。社用車で迎えに行くとあらかじめ連絡がいっているはずなのだが、山本さんとの待ち合わせ場所に着いた時、指定していたスーパーの出入口に彼女はいなかった。電話をかけてみると、
「申し訳ありません、スーパーが開店前で開いていなかったので近くのコインランドリーの駐車場で待たせて頂いています」
綺麗ながらも幼さの残る声。山本さんの声はとても耳に心地よく、思わず反応が遅れてしまった。
「そっか、そうですよね、開店時間までしばらくありますもんね。そこを待ち合わせ場所にするのは間違いでした、こちらこそ申し訳ございません。承知致しました。そちらに向かわせて頂きます」
「よろしくお願い致します」
切ってしまうのが名残惜しかった。女の人との電話でこんな風に思うのは初めてだった。いざ対面して、俺は固まってしまった。全身を揺さぶるような、視界が急に開けたような、目の前がチカチカするような、なんとも言えない衝撃が走った。
「山本さんですか?」
しどろもどろに声をかける。
「はい。本日は宜しくお願い致します」
そこからなぜかしばらく山本さんは俺の目をジッと見つめて固まった。頭の中でしゃべったことを無意識のうちに声に出していたとかいう漫画的なミスをしてしまっただろうか。平静を保ちつつ内心焦っていると、山本さんは何かをごまかすように微笑して軽く頭を下げた。対面してものの数分の間に心を奪われた。
はじめは独身の人かと思った。七つも年上とは思えないほど見た目が若く、可愛い。なのに中身は大人というか、話し方も落ち着いているし雰囲気にも品がある。胸がドキドキしすぎてしまい、ちゃんと仕事の話をできるのか心配になった。手筈通り山本さんを社用車の助手席に乗せ、今後彼女に清掃を担当してもらうマンションに向け車を走らせる。車内に乗り込んできた山本さんからとても良い匂いがして、ハンドルを持つ手に変な力が入ってしまう。どうしよう。気まずい思いをさせないよう話題をいろいろ考えたが、そこから五分もかからないマンションなのではじめましての挨拶や仕事の概要を話しているうちに到着してしまった。本音では個人的なことをあれこれ質問したりしたかったけど、理性で抑えた。嫌われたくない。
あれ、女の人と関わるのってこんな感じだったっけ?
これまでの恋愛経験を振り返った。
昔からいつも心の底から飢えていた。俺の育った実家は裕福な方で、曽祖父の代から地主をしていた家というのもあり衣食住には困ったことがない。世の中には貧困な家庭も多く存在する中、とても恵まれた家柄なのだと子供の頃には理解していた。両親も両親なりに俺を大切に育ててくれたと思う。それでも、物心ついた時には実感していた大きな心の穴。なにか大切な物をえぐり取られた後のような喪失感。平穏で平凡に生きてきたというのに。世の中にはもっと苦しく悲しい思いをして生きている人がたくさんいるのに。こんなことを思うことすら贅沢なのかもしれない。けど、この感覚は自分のモノとして存在しているのだから目を背けることもできなくて。
渇望感というには足りない、だけどその言葉がピッタリ合うような気もする。俺の中には動かしようのないソレがあって、恋愛することでソレをどうにか無いものにしようとしてきた。
気になる子ができると頑張ってアプローチして、相手にされないこともあったけど大抵は運良く振り向いてもらえた。それと同時にわかってしまう、交際期間が長くなるほどふつふつ湧き立つ"この人じゃない"感覚。自分から告白して付き合っておいてそれはないだろうと毎回滅入る。俺が女子だったらこんな最低な男とは絶対関わりたくないと強く思う。
あんたは誰と付き合っても幸せにはなれない!
直近の彼女に言われた別れのセリフ。本当にそうだ。好きだと勘違いして口説いたのにアッサリ冷めてしまう。この性格のせいで何度女の人を傷つけたのか分からない。恋愛で幸せになるなんて夢のまた夢。俺は幸せな恋などできはしないんだ。だったらもう恋愛市場からは離れよう。飢えている自覚があるわりになぜか結婚願望がないし、下手に動いて女性を敵に回すのはもう疲れた。罵られる俺に原因があるのは分かっていても人に嫌われるのはやっぱりきつい。回数が重なればなおさらだ。
そうだ。もう時代は変わった。絶対結婚しなければいけないってわけではない。いろんな生き方があっていい。とりあえず人に迷惑かけないよう地味にひっそり生きていこう。たまに友達と酒でも飲んでバカ騒ぎできれば充分じゃないか。仕事して誰かの役に立って、そうやって一生を終えるのも悪くない。幸い、今の職場はいいところだ。俺とそう歳の変わらない若手社長は気さくでいい人だし、内外問わずパワハラなどの問題が起こらないよう配慮してくれている。無理な仕事は頼まないし、社員達の意見を積極的に聞き入れてくれる。陰湿な陰口などもない。皆仲が良い。それだけで幸せなはずだ。飢えているだなんて贅沢はもう言わない。
そんな心持ちでやってきたはずなのに、山本さんに出会ってそれまでの価値観が崩れていくのを感じた。
この人に出会うために俺は今まで生きてきたんだ!
山本さんがそこにいるだけで飢えと同居していた底のない寂しさも、不思議と癒されていく。どうしよう。恋愛断ちすると決めたばかりなのに、その決意をすでに破りたくなってしまっている。この人のことをもっと知りたい。
山本さんの新人研修を終えて事務所に戻ると、女性事務員さんに出迎えられる。
「お疲れ様です。山本さん、大丈夫そうですか?」
毎回、新人研修の後はこう訊かれる。というのも、清掃業務にも向き不向きがあり、研修中にやっぱり辞めたいと言い出す人も珍しくない。入って一週間足らずで辞めてしまう人もいる。もし山本さんが辞めると言えば次の人を雇えるまで社員がその仕事を引き受けることになる。その確認だ。
「はい、前向きにやって下さる感じでした。もし何かあったら僕も全力でサポートしていきます」
「お願いします。あのマンション、管理会社がちょっと厳しいので、何かあったら報告するようお伝え下さい。こちらもサポートしますから」
「ありがとうございます」
今日新人研修をしたということで、社長のデスクの上には履歴書のファイルが置かれていた。俺はどうしても山本さんのことを知りたくて、
「すみません、ちょっと確認させてもらいます」
と事務員さんに声をかけ、山本さんの履歴書を確認した。
ゆるい社風か、研修中の自己紹介といっても上の名前しか教えてもらえなかった。こちらは名刺を渡したものの、山本さんにそれを求めるのもあれだし、でもせめて下の名前だけは知りたい。
「えっ……」
見るともなしに見てしまった履歴書の右下の欄に、思わず声が漏れてしまう。それに事務員さんは反応した。
「どうかされました?」
「あっ、いえ。なんでもないです」
「山本さん、可愛い上に感じもいいって、いいですよね〜。ああいう風になりたいなぁ」
「あはは……」
山本さんと同い年だと言っていた既婚の事務員さんは山本さんへの憧れを口にする。俺はその言葉にうまく答えられず、愛想笑いをするのが精一杯だった。
山本さんは結婚していた。配偶者の欄、有に丸がしてある。
そんな……。結婚してたのか……。
絶望的な気持ちになった。やっと初めてまともに好きになれた相手には生涯のパートナーがいた。好きになったその日に失恋だなんて、下手な笑い話より笑えない。
「可愛さん? 顔真っ青ですよ、大丈夫ですか?」
「昼間に飲んだエナジードリンクが腐ってたかもです。すみませんが、ちょっと休憩させてください」
「それはいいですけど、エナジードリンクが腐るなんて初耳ですよ!」
「下手すりゃ心まで腐りますよ」
「ちょ、いつもの可愛さんじゃない!?」
おかしなことを口走りながら休憩スペースの長椅子に横になった。このダメージは寝転んだくらいでどうにかなるものではなさそうだった。真面目にエナジードリンクが腐ってたのかも。
その日はずっとそんな調子で、優しい社風の社内でも露骨に変人扱いされたのだった。
こちらの章も、ほとんどの部分で名前の入力を間違えていたので全て修正しました。読んで下さっていた方、申し訳ありません。
2025.2.20(木)17:45