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大切な人


 なぜだろう。可愛かわいさんに触れられると深い安心感を覚えてしまう。異性との触れ合いがこんなに心地の良いものだなんて、全然知らなかった。過去にも何人か付き合った人はいるのに、そういう場面で得た経験は全てまやかしだったような気がしてくる。こんなに優しく抱きしめてくれるのは……。やっぱり可愛さんが初めてだ。まるで産まれたての赤ちゃんを抱きしめるみたいな柔らかい抱擁。それに安心し、同時に古傷がうずくのか、涙が止まらない。

「大丈夫、もう大丈夫」

 そう何度も声をかけてくれる。

「可愛さんに会ってから私泣いてばっかだ、ごめん」

「ふふっ。泣きたい時は泣いていいんです」

 愛おしさを込めて笑い、言葉で安心させてくれる。それはもちろん嬉しいけど、それ以上に伝わるあたたかさ。服越しの体温。可愛さんの心遣い。こうして触れられていると、難しく考えて自分に制限をかけていたもの全て、かき消えていくよう。

 恋愛離れして長いせいか、可愛さんと再会するまで、友達と恋人の違いが分からなくなっていた。どちらも人としての好意があるのは大前提の関係性。なのに何がどう違うのか。幼さゆえに性差を理解していない頃の感性に戻っているような感じ。人生の折り返し地点がうっすら見えてきそうな年齢になり、人間関係でも仕事でもそれなりの経験を積んだはず。それなのに、いや、だからこそ、精神が幼い頃に回帰しているのか。もしそれが人生経験によって培われたものなら変えようがない。そう思っていたのに。……今、そんな曖昧な意識から一気に引き離されるような、強烈な熱を覚える。

 可愛さんは友達なんかじゃない。

 特別な異性で誰よりもかっこいい、唯一無二の大切な人だと痛感した。安心感に満たされつつ、もっとこの温もりに浸っていたい。その先を見てみたい。そんな風に思った。抱きしめ返したい。私ばかりもらっているので、その分何か返せたら。そう思っても、可愛さんの体は私の背中側。きっと今の私は変な顔をしているのでそれを見られなくてすむのは助かるけど、距離を感じて少し切ない。

 何時間のような、数秒のような、時間感覚が狂う体感。あっという間に可愛さんの手は離れ、肌を包んでいた温もりもじょじょに消えていく。実際の時間にしたらほんの数分のこと。名残惜しい。

「すみません。ルール、つい破ってしまって。こういうのダメですよね、ホントに」

 困ったように可愛さんが笑う。

「ううん。大丈夫。励ましてくれてありがとう。おかげで回復してきた」

 取り乱した私を、可愛さんはなだめてくれた。

 可愛さんの指摘通り、私はずっと理解ある大人ってやつになろうとしてきたのかもしれない。親との不仲を理解してもらえる機会はほとんどなかった。親が正しく、悪いのは私? いつまでも過去を根に持つ嫌な子供なのか? 周囲の親擁護に傾いた発言は、自然と私に出口のない罪悪感を抱かせた。一方でこうも思った。傷ついた自分は置き去りにしていいのか? たしかに受けたあの痛みは幻などではなかったのに。色んな思いが込み上げてきて、それら全て抱えて生きるのもしんどく、〝親にも事情があった〟そう思うことであらゆる苦悩から解放されようとしていたのかもしれない。ひとたび蓋をしてしまえば気持ちは平穏で、そのぶん心の奥底に膿が溜まっていくような、何色にもならない感情のヘドロが蓄積していくような。無視すればするほど膨らんで無視できない物になっていくような。

 たった一人、可愛さんだけがそれに気付いてくれた。寄り添ってくれた。否定せずに受け止めてくれた。そのことが、私の精神を唯一浄化していく。

「よかった。風岡さんが明るい顔になって、俺もすごく嬉しいです」

 照れ笑いする可愛さんが愛くるしい、なんて思ってしまった。自分がこっ恥ずかしくなる。それをごまかすべく雰囲気を切った。

「すでに甘えすぎで申し訳ないんだけど……。お言葉に甘えて、次の住まいが決まるまで可愛さんちでお世話になってもいい?」

「もちろんです!」

 可愛さんはぽんと軽く手のひらを合わせた。

「さ、そうと決まれば、最低限の荷物を持ってうちに向かいましょう。手伝います」

 可愛さん、切り替えはやっ。

 それまでしっとりした雰囲気だったのに。ううん、あえてそう振る舞ってくれているのか? まだ抱きしめてもらった余韻が抜けきらない私はひとり拍子抜けする。


 あまり物を持たないようにしていたので、荷造りといってもそんなに時間はかからなかった。とりあえず一週間持ちそうなほどの着替えと化粧用品もろもろ、充電ケーブル、タオルや下着、それくらいか。あと現金と通帳、クレジットカード。それら全てをボストンバッグに詰めるとそれなりの重みがあった。可愛さんがそれを軽々と持ってくれる。私はさっきもらった生搾りジュースの紙袋とキーケースを手に玄関を後にした。すでに日が暮れていた。会社を辞めに行ったり、イタズラの通報をしてもらったり。あっという間の長い一日だった。まだ少し腹部に違和感があるものの、今朝あった胃痛はいつの間にか忘れてしまえるほどに治まっていた。私の車はそのまま契約中の駐車場に置いておき、ひとまず可愛さんの車で彼のマンションに向かうことになった。

「出発しまーす! 準備はいいですか?」

 心なしか可愛さんの声は弾んでいて、何だか私までそれにつられて調子のいい返事をしてしまう。

「シートベルト、オッケーでーす」

「よっし! では行きまーす」

 コインパーキングを出て、可愛さんのマンションへ向かう途中、知っている道もあったけどあまり知らない道もあった。

「うちからそんなに離れてなかったんだね」

「はい。この時間なら道も空いてるし、一時間もかからないと思います」

 話しつつ、さっきもらったジュースを車内で飲んだ。甘すぎないキウイフルーツの酸味でスッキリする。

「にしても、さっきの可愛さんの対応、テキパキしてて驚いた。私一人だったら多分なかったことにしてやり過ごしてた」

 ドアへのあのイタズラを見て思わず感情が決壊してしまったけど、冷静な第三者から見たら「うわっ、最悪」程度の軽いもの。警察や管理会社に連絡するほどのことではないなと、今さらながら落ち着いた気分で思ってみたりする。特に揉め事が苦手な私なんかは、もし可愛さんがいなかったら一人モヤモヤしつつ無かったことにしていただろう。

風岡かざおかさんの気持ちも分かります。俺も昔はそうだったから」

 例のイトコとの不仲問題。可愛さんはしま君に相談するまで、その件を一人で我慢していた。

「でも、それって実はあまり良くないみたいなんですよ。これは親から物件引き継いだ時に不動産屋の人からも言われたんですけど、問題をなあなあにすると後でより厄介になって返ってくるって。小さいうちに大事にして犯人を見ていると主張した方がいいって。もちろん時と場合により、ひっそり騒ぐ方がいいこともありますが」

「ひっそり騒ぐ、か……」

 今の可愛さんの行動や判断力は、島君との関係や地主やってることと深く関係しているようだ。

「たしかに。警察の人も来たし、あれだけ大きく動けば犯人もしばらくは大人しくしとこ。ってなるかもしれないね」

「はい。牽制も大事です。刺激しすぎると逆効果の場合もありますが……」

「とっさの判断力というか、あちこちへの連絡とか対応、助かった。そういうの、一人だったら多分やろうとも思わなかった。ありがとね」

「お役に立てて嬉しいです」

「普段からそういうことしてるの? なんか手慣れてるというか、連絡後の対応とかスムーズだったよね」

「はい。うちの管理物件でもごくたまにトラブルがあるので、そういう時は早急に動くようにしてます」

「地主ってそこまでするの? 土地や物件貸し出してあとは放置なのかと思ってた」

「もちろんそういうタイプの地主も多いですが、俺の場合は問題が起きた時こそ大家が積極的に関わった方がいいと思ってるので、父の代からそのようにしていたのもあって、そういうやり方で一応やってますね」

 不動産による不労所得を目指していた以前の私、やっぱり考え方が甘かっただろうか。

「立派だけどそれってとても大変そう。失礼だけど、大家業ってもっと楽なものかと思ってたよ」

「うちでもほとんどノータッチな物件ありますよ。遠方の方などはなかなかマメに対応できないので。自分で行ける範囲の物件には、住人さんに困り事が起きたら話を聞きに行くようにしてるというだけで」

「そうなんだ。同じ人が管理してても場所により対応変えてるってことか」

「はい。顔出すのを嫌がるタイプの住人さんにはあえて距離置いて不動産屋の人の裁量に任せたり、逆に大家との関係重視する住人さんにはこちらが対応するようにしたり、微調整していたりもします。住人さんによっては思いのほか喜んでもらえたりして、大変な時もたまにあるけど、そういうのが嬉しいって思っちゃうんですよね」

「そっか。可愛さんらしいね」

 会社に居た頃もそうだけど、可愛さんはやっぱりすごい。人と人の繋がりを大切にしている。

「私にオーナー業みたいなのやらないかって言ってくれたけど、なんか自信なくなってきた。人の困り事対応とか、そんなスキル私にはないよ」

「そんな、風岡さんはとても感じ良いので適正あるとは思いますけど、嫌でしたら無理して関与せずノータッチでも全然大丈夫ですよ。なんならトラブル対応はこちらに全部振ってもらえたらやりますので。偉そうなこと言っちゃいましたけど、今はホント気持ちに余裕のある時にだけやってる感じですし。父から譲り受けた物件を空き家にするわけにいかないっていうプレッシャーもありましたから、資産受け継いだばかりの頃は必死でした。その延長で今もそうしてるってだけなので」

 可愛さんも、いろいろあっての今なんだな。

「不動産屋に任せるだけじゃなくて、誠心誠意住まいの問題に対応してくれる大家さんがいるなら、部屋借りる人も安心だよね。可愛さんのお父さんはそういうのに目配りができる人だったんだね」

 私はずっと部屋を借りる側だったけど、大家さんと会ったことはなかった。可愛さんもそうだけど、その前にまず可愛さんのお父さんがすごい人なのかもしれない。

「父が聞いたら浮かれて喜びそうです」

 可愛さんは困ったように笑った。

「あの人、なぜか人と関わるの大好きでしたから」

 うちの親とは大違いだ。なんて言ったら空気壊れるかな。可愛さんのように、お父さんもいい人なんだろうなと想像できる。

 などと思っていたら、私のスマホが鳴った。一瞬クセで会社からかと警戒してしまったけど、さすがにそれはなかった。にしても、それはそれで意外な人物からの着信だった。スマホ画面を見たまま固まってしまう。

「電話、出てもいいですよ」

「いや、いま可愛さんといるし」

「はっ。もしかして男の人ですか!? それはビミョーですけど!」

「違う違う! 女だよっ」

 美凪みなぎ……。もう数年しゃべっていない。疎遠になってどれだけ経ったのか。昔から大好きな幼なじみだった。最後に話した時、たしか美凪は三人目の子を産んだばかりだと言っていたような。今はもう一番上の長男君が中学か高校生くらいだったか。

 可愛さんと和やかに会話していた気持ちは一変、現実に引き戻される感じがした。

 昔は何の気も回さず気楽に通話ボタンを押せたのに、今はためらってしまう。疎遠が解消されたらいいと思ってはいたけど、こんな急に連絡が来るなんて。昔と違って、今の私の生活と美凪の暮らしは大きく違うはずだ。しかも一方的に距離を置いてしまった私に、今頃何の用事だろう。責められたり、良くない知らせだったり、するのだろうか。

 かつて私は美凪とどうやってしゃべっていたっけ?

 可愛さんは私が電話に出ると思ったのか、気遣ってオーディオの音量を下げてくれた。心の準備ができないままスマホを見つめているうちに、長めの着信音は切れた。


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