向き合いたい
夫婦解消の捉え方は本当に人それぞれ。うちの管理物件にも離婚を経験している人は何人かいて、立場上その人達の事情を深く知ってしまうことがある。過去と割り切って今を楽しそうに生きる人がいる一方、風岡さんみたいに大ダメージを受け痛みを引きずる人もいる。
……そうだよな。風岡さんは離婚でかなり傷ついた。一生一緒に暮らしていくと決めた旦那さんと別れたなんて、つらいに決まってる。両親とも良い関係ではなかったことから察しても、甘えられる相手は旦那さんだけだったのかもしれない。そのうえ、仲の良かった友達からも離れて独りでずっとやってきた。
それなのに俺は……。風岡さんが今誰とも付き合っていないことを嬉しく思ってしまったり、再会後の生活を楽しんでしまったり、薄っぺらいヤツだ。自己嫌悪の極み。
風岡さんは俺の話に親身に耳を傾け、芯のある言葉をくれた。長年引きずった島君とのことで気持ちが楽になったのは風岡さんのおかげだ。忌憚なき意見をくれたから一歩前に進めた。諦めではなく、島君の心情を改めて考えることが出来た。
最低な人間呼ばわりされるべきは風岡さんじゃなく俺だ。こんな小さい男が、どうしたら風岡さんの痛みに寄り添えるのだろう。支えてあげられるのだろう。お金や時間では絶対に補えない。それだけは分かる。目には見えない深い何かが必要だ。
「そのつらさ、代わってあげられるのなら代わってあげたいです。そうできないのが、すごくもどかしい」
それしか言える言葉がなかった。わかったように励ましたり、むやみに前向きな言葉を伝えたりするのは、なんか違う気がする。
風岡さんはクスッと笑った。
「その言葉だけで充分だよ。ありがとう」
風岡さんは優しい。そして、何より強い。俺が風岡さんの立場だったら、きっとそんな風にいられない。
「ごめんね。なんかまたネガティブになった。油断するとすぐコレだよ」
「無理もないですよ。こんなことがあったら……。吐き出してください、何でも」
「可愛さんはずっと私を受け止めてくれるね。すっごく安心する」
「それは、風岡さんが優しいから」
「そんな自覚全くないけど、もしそれが本当なら、こういう自分になれたのは可愛さんのおかげなんだよ」
「えっ?」
俺?
「今はそうでもないけど、可愛さんに出会ったばかりの頃は今より尖ってて、謝るのとかものすごく苦手だった。非を認めたら負けだーって勢いで」
「そうなんですか? 今の風岡さんからは想像つきません!」
「そういうところ。自分が人に影響与えてる自覚ないでしょ?」
「全くなかったですね……」
悪影響を及ぼすことならたくさんあったけど。
「でも、風岡さんがそう言ってくれるなら、そうなんですよね」
俺は風岡さんのことを信じてる。
「ホント、可愛さんはブレないね。昔からずっと」
さっきまで絶望感でいっぱいだった風岡さんの顔に笑顔が戻って、単純な俺は気持ちが舞い上がる。
「風岡さんの笑顔、最高です」
「まーたそういうことを」
照れているのか、笑顔を消して怒ったような口調になる風岡さん。だんだん分かってきた。気持ちを素直に出せないところが、風岡さんらしさなのだと。
「仕事の時は見られなかった表情をたくさん見られて、嬉しいです」
「そりゃ愛想良くしなきゃだしね、仕事中は」
「すごいことですよ、それも」
「ありがとう。可愛さんには、肝心なところでいつも救われてる気がする。昔からずっと。働くの嫌な日も、可愛さんに会うと頑張ろうって思えた」
同じ職場だった時、風岡さんは無理して仕事に来ている感のする日がたまにあった。明らかに顔色が悪いのに何を言っても大丈夫と言い張って、社長の許可は出ているから帰ってもいいと言っても頑なに帰らず、最後まで仕事をしていた時もあった。
「心配で心配で、たまらない時ありました! 風岡さんに言わないままで申し訳ないと思いつつ、そのことは事務所で相談してしまったくらいです」
「そうだったの!? 言わなくていいのに。だからか、たまに事務員さんとかが異様に気遣ってくれてたのは」
「体調第一ですし。無理させるくらいなら俺たち社員が代わりに掃除するので、全然甘えてくれてよかったんですよ」
あの時は、どうしたら風岡さんが正直に体調不良を伝えてくれるのだろうかと気が気じゃなかった。社長も、頑張ってくれるのはありがたいけど倒れられたら心配だと言い、風岡さんを気にかけていた。
「可愛さん世代からは考えられないかもしれないけど、私が働き出した年齢の頃は、〝周りに迷惑だから無理してでも出社しろ。簡単に休むな〟が常識だったんだよね」
「そうだったんですね……」
風岡さんと俺の年齢差。七年という歳月は、十年にも満たない月日なのに十年以上に思えるほど大きく世の中を変え、俺が就職した頃は思ったほど社会人はつらくないと感じた。運が良く、入った会社がたまたま良い所過ぎただけなのかもしれないが。風岡さんが辞めた運送会社みたいなところもある。
「若い人達も、それはそれできついことはきっとあるよね。私の世代だけがつらかったなんて一概には言えないかもしれないけど。でも、あの会社には本当に良くしてもらったし、事務所の人達も優しかったし、もう少し甘えてもよかったのかもしれないね」
風岡さんは大きく息をついた。
「自分が悪かったのは大前提だけど。家でも外でも甘えてはいけない。って考えが染みついてて、考えが凝り固まってた。特にあの頃は……」
「それはしんどかったんじゃないですか? せめて家でだけは気を抜きたいはずなのに」
「うーん。外も家も、しんどさ加減には大差なかったよ。それでもまあなんとなく周りに合わせるくらいはできたけど、根が暗いから無理があったし、大人になればなるほど一人の時間が一番楽と気付いたくらい」
「基本的に一人でいる時間が多い仕事を選んだのもそれでですか?」
「そう。他人とちゃんと向き合う覚悟が持てなかったんだろうね。こっちの言動で嫌われたり、相手の期待に添えず怒られたり、自分の内からこぼれ落ちそうなドロドロしたものを知られたり、そういうのが恐くて。なるべく楽に生きたくて、対人関係で起こるかもしれない問題を極力減らしたかった」
想像するだけで、それってとてもしんどい生き方だ。俺の人生で最もつらかったのは風岡さんから離れた後の日々だったのだけど、つらい悲しいと嘆いていたあの頃の痛みも、風岡さんの生き方に比べたらずいぶん小さなものに感じる。人生の試練度が、立たされている基礎ステージがまるで違うように感じた。風岡さんはこんなにいい人なのに、そんな息苦しい思いをしてきたなんて、どうしてもやるせない。
「風岡さんの両親や旦那さんは、風岡さんがそういう気持ちでいるのを知っていたんでしょうか?」
そう尋ねる言葉の裏に苛立ちが混ざった。できるだけ冷静に訊こうと努めたけど隠しきれなかったかもしれない。風岡さんだけがなぜそんなに苦しい思いをしなければならなかったのだろう。怒りが湧いてしまう。俺の語気からそれまでと違う空気を察したのか、風岡さんは一瞬目を見開いて、それから伏し目になった。
「どうなんだろう。親も旦那も、私がこんな生き方してるとは微塵も思ってなかったんじゃないかなぁ。旦那は共感力低い人だったし、親は私の存在が常に不満そうで、お金がない理由にもしてた。だから結婚したとたんに重荷が減ったーって安心してるっぽかった感じ。まあ、あの人達も自分のことで精一杯だったんだろうね。子供の頃はそんな風に親の視点に立つことできなかったけど、当時の親の年齢に近づいたからか、今なら少し分かる気がする。特にお金の苦労とかはね。一万円稼ぐのがこんなに大変だなんて高校でバイトするまで知らなかったし。高校卒業まで家に住まわせてもらっただけまだ良かったかも」
違う。風岡さんはそう思うことで自分を守るしかなかったんだ。誰も守ってくれないから、自分で自分を納得させるためにそれらしい理由を引っ張り出してきて。本来それは風岡さんのすることではないのに。旦那さんも、結婚までしておいてどうして風岡さんの親問題ごと引き受けなかったんだ? 途中で放り出すようなことをしたんだ? 結果、風岡さんは自殺未遂するまでに追いつめられた。離婚していようが離れて住んでいようが、旦那さんなり両親なり、誰かが手を差し伸べていたらそうはならなかったんじゃないか?
風岡さんが話す一言一言から、口にしない痛みまでもが直に伝わってくるようでつらい。泣きそうになるのを必死に抑えた。
「ごめんね、色々べらべらとしゃべりすぎた。可愛さんにはうっかり甘え過ぎる。気分悪くさせた?」
「いえ、違うんです。逆に気を遣わせてしまって、こちらこそごめんなさい」
これまでの風岡さんの話から、情の薄い親なのかもしれないとは思っていたけど、ここまでだなんて。
「風岡さんは健気に頑張っているのに、身近な人であるはずの親や旦那さんが何も手助けしていないことに腹が立ってしまって……。俺が口出していいことなのか分からないんですけど。風岡さんの親や旦那さんを悪く言ってごめんなさい」
「そういう怒りか。重荷になってるとかじゃなくて良かった……。こんなに話聞いてもらうの、実は初めてかもしれなくて、なんかごめんね」
「いえ。話してもらえて嬉しいです」
風岡さんは甘えるのが苦手な人なんだなと分かってきたけど、それはそうもなる。
「頼っても突き放されたり、自分で何とかしてねって感じの人達だったから……。親も、旦那も。って言うと相手のせいみたいになるけど、私も良くなかったところあるから。離婚に関しては特に」
そう言える風岡さんは強くて素晴らしいのかもしれない。だけど。
「無理して理解ある人になろうとしなくていいですよ」
「……」
「風岡さんは甘えたかった。頼りたかった。そういう気持ち、子供として、妻として、当たり前のことだし、受け止めてもらえなかったのを悲しむの、全然おかしくないです」
友達でいるためのルールを、今は破らせてもらってもいい?
風岡さんを背後から抱きしめた。
「風岡さんは、俺には到底想像できないほど、今まで本当によく頑張ってきました。でももう無理に頑張ろうとしなくていいんです。弱いところも、甘えたい気持ちも、どんどん晒してください」
「うん……」
風岡さんが小さく泣いている。それを気付かれたくないのか、必死に平静を装っているのが分かる。
「頼るのも甘えるのも苦手だけど、ちょっとずつやれるように頑張る」
「力まずに、ゆっくりでいいですから」
風岡さんを手放した旦那さんは見る目がないと心底思った。そして同時に、別れてくれてありがとうと本気で言いたい。こんな最低な発言、人格疑われそうなので風岡さんの前では絶対できないけど。




