穏やかなひととき
「ごめんね、結局すべて可愛さんに任せることになって……」
あれから少し仮眠したおかげで頭は妙にスッキリしていた。間もなくして可愛さんがアパートまで迎えに来てくれた。私が社用車を運転し、その後ろを可愛さんが車でついてくる形で会社の事務所へ向かった。そのまま社用車を返却できるように、途中でガソリンスタンドに寄り満タン給油もした。後腐れなく退職できるよう可愛さんと入念に打ち合わせをして準備万端で向かったが、結局私は社長と顔を合わせることなく、退職手続きを可愛さんに丸投げする形になってしまった。
可愛さんがケアしてくれたおかげで事務所に向かう勇気は補充できていたはずなのに、会社の事務所が視界に入ったとたん胃痛が出て手の震えが止まらず、運転もおぼつかなくなりフラフラ走行してしまう状態になった。事務所の狭い駐車場には、現場で数回顔を合わせたことのある他の配達員が二人いて、私に気付いた。彼らの耳にも私が辞める話は届いていたりするのだろうか。気まずいような逃げ出したいような申し訳ないような、色んな感情が溢れてきた。私の様子に異変を感じたのだろう、後ろを走っていた可愛さんから電話があった。
『事務所には俺が行くので、風岡さんはこっちの車で待ってて下さい』
「でも……」
『大丈夫。もう無理しないで』
可愛さん……。
彼の厚意に甘え、社用車の鍵を託した。事務所前の路肩に可愛さんの車を停車させ、社用車は可愛さんの運転で事務所の駐車場に停めてもらった。社用車は温度調節によって冷凍車にもなるタイプの運送ナンバーで、普段可愛さんが乗っている車とは全然違うタイプなのに、スムーズに車庫入れする可愛さんを見て、こんな時になんだけどとても頼もしいと思ってしまった。
この時一瞬、結婚時代の雄亮を思い出してしまった。私は普段の運動不足解消のためサイクリングに挑戦したことがあった。車も便利だけど、風を感じながら知らない景色を自転車で走るのはまた別の面白さがあっていいなと、調子に乗って遠くまで行ってしまった。気付くとよく知らない山間の住宅街まで来てしまっていて、あまり整備されていないデコボコの道でタイヤがパンクしてしまった。道のせいかと思ったけど、見ると釘が刺さっており、何でこんな時にと、爽快感は一気に焦りへ変わった。まだ昼間の時間帯とはいえ、周囲には誰もおらず頼れそうな店などもない。目印になりそうな小さい神社があったので自転車を手で引いてそこまで移動した。地図アプリで現在地の住所を確認し、家にいる雄亮に車で助けに来てほしいとお願いした。雄亮は運動が嫌いで、その時も一応サイクリングに誘ってはみたけど断られてしまった。家でポテチを食べながらテレビを見て過ごすと言っていたので、ちょうど今日が休日でよかったと安心したのも束の間、車で迎えに来た雄亮は、
「近くに大きめのスーパーあるじゃん。そこの場所教えてよ。ここ分かりにくい」
と、かったるそうに言った。地図アプリで確認すると、たしかに雄亮の言うスーパーが近くにあった。ただ、それはあくまで車の感覚。自転車を引きながら歩いたら二十分以上はかかる距離だった。知らない土地で下手に動くより現在地をピンポイントで伝えた方が確実じゃない? と思ったが、ヘマをして迎えに来てもらった手前、不満を言えなかった。
「そうなんだ。スーパーなんて気付かなかった。ごめん……」
雄亮にとってはよく知る土地らしく、運転しながら「うちからけっこう近いじゃん」とか何とか言っていたけど、私の方は内心モヤモヤして、迎えに来てもらっておいて何だけどこの人と離れて早くも一人になりたい気分だった。困った妻を助けるのは面倒だ。楽したい。勝手にサイクリングに出かけたのは私の都合で、まったりテレビを見ている時間を邪魔された。雄亮としてはそんな気持ちだったのだろう。
そんな雄亮なので、たとえ今この場にいても厳しいことを言ってきそう。「志輝が自分で決めた仕事でしょ。体調悪いとか言ってる場合じゃないよね」とか何とか。容易に想像できてゲンナリし、同時に離婚して本当に良かったと思う。
今そばにいてくれるのが可愛さんで良かった。本当に。
可愛さんに社用車の返却や退職の話を任せ、彼の車でジッと待った。揉めて時間がかかるかもと心配にもなったが、思いのほか話は簡単にまとまったらしく、二十分もしないうちに可愛さんは戻ってきた。
「大丈夫だった?」
「はい。あっちも悪いことしてる自覚あったんでしょうね。もし違約金うんぬんを貫く気ならこちらも訴えるつもりだと言ったら、あっさり風岡さんの退職を了承しましたよ。もちろん違約金の支払いはなしで」
「ごめんね、結局すべて可愛さんに任せることになって……」
「全然いいんですよ。そのためについてきたんです」
「ありがとう。本当に迷惑かけて……。私の事なのに一人で行かせてごめんね。ありがとう」
ホッとしたら泣けてきた。さっき雄亮との嫌な思い出を振り返ってしまったせいもあるかもしれない。こんなに甘えさせてくれる人がそばにいる、その有難みを噛みしめた。
「お役に立てて嬉しいです」
そう言い、可愛さんは車内にしまってあった小さいタオルで涙を拭いてくれた。
「体調の方はどうですか?」
「ちょっとまだ、お腹がモヤつくかも」
「何か食べられそうですか?」
「今はちょっと微妙。ありがとう。気遣ってくれて」
「いえいえ。それならすぐ家に戻りましょうか。早く横になった方がいいですもんね」
可愛さんは言い、私のアパートに向けて運転した。社長とどんな話をしたのか詳しく聞いた方がいいのだろうけど、今は聞く気持ちになれず、すぐに休みたかった。可愛さんもそれを察しているのかいないのか、静かに音楽を流しながらしゃべらずにいてくれた。アパートに着く少し前、私に謝って可愛さんは大型ショッピングモールに入っていった。駐車場の車内に私を待たせ、すぐに戻ってきた。
「もし飲めそうなら。多少スッキリするかもしれないので」
そう言って、小さめの紙袋をくれた。中には、フルーツ生搾りジュースの店の商品が三種類も入っていた。
「こんなにいいの? 可愛さんのは?」
「全部風岡さんのです。栄養補給しつつ、お大事にして下さい」
「ホントなら私がお礼しないとなのに、何から何までごめんね」
「気にしないで下さい。風岡さん、今まで本当にお疲れ様でした。もう安心していていいですからね」
「うん……。ありがとう。可愛さんにお願いして本当によかった」
「そう言ってもらえると、生きる活力になります!」
「そんなおおげさな」
自然と顔が笑ってしまう。優しい人だ。可愛さんと話していると、自分まで性格が柔らかくなっていくような気がする。こんな自分がいるなんて少し前には考えられなかった。幸せそうな人を羨み、楽しそうな人を内心罵ったことも数知れない。なんで私だけ? と、手当り次第に幸せそうな人の幸せを壊してやりたい衝動に駆られた日もある。自分で自分が怖くなるほどに。でも今はそんなトゲトゲしい感情は一切湧いてこない。大切にしてくれる人がいる。それはこんなにも心地が良いものなんだ。
もっとこの人のそばにいたい。そう思っているうちにアパートに着いた。もらったジュースを手に、私は可愛さんの車を降りた。いいと言ったのに、可愛さんは部屋の前まで送ってくれた。本当に想ってくれているのが分かる。今まで付き合った人に、ここまで時間と労力を割いてくれる人がいただろうか。真摯に気持ちを伝えてくれる人がいただろうか。今日もきっと、社長と話をするためだけに高そうなスーツを着て、髪も大人っぽくセットしている。年下なのにそうとは思えない身なりだった。同じ会社にいた時もスーツ姿は何度も見たけど、あの頃は普通のサラリーマンぽい平均的なスーツだった。今の格好は、私のために戦ってくれようとしていた何よりの証拠なんだと思えてひどく感動した。商談の時など、相手にメリットを感じてもらえるように、思いのまま話が進むように、スーツの質が重要視されると聞いたことがある。それと似たような感じなんだろうか。こんな時に何だけど、カッコイイなと素直に思った。いつだったか凜音がスーツ姿の男を見ると無条件でカッコイイと思ってしまうとはしゃいでいたけど、今になってその気持ちが少し分かる気がした。
二人並んでアパートの階段をのぼり、二階の部屋に着いて絶句した。
「何これ……」
玄関ドアにベッタリと、噛んだ後のガムがひとつ付けられていた。
「ひどいイタズラですね……。もしかして、これまでにもこういうことありました?」
「ううん。なかった。初めて」
誰? まだまだ明るいこの時間帯、周囲の人に見られるリスクもあるのにわざわざこんな事をするなんて、私への直接的な恨みだろうか。誰でもいい的な無差別な嫌がらせ?




