答え合わせ
「黙っててすみませんでした」
可愛さんはシュンとなる。
「辞める前に少し話したかったと言ってましたけど、会社の人だから風岡さんはあまり良い気がしないかもと思って。隠さず話すべきでしたね」
「そっか。責めたいわけじゃないよ。可愛さんが悪意で隠してるとは思えないし。二人の間で何があったのかなーって思ってさ」
可愛さんが嫉妬深い。平川さんはそう言っていた。二人が何を話したのか、やっぱり気になる。可愛さんの顔がこわばった。
「伝えづらいんですけど。風岡さんに会社へ戻ってきてほしいみたいなことを言ってました。社長からの伝言だって」
「そうなの?」
意外だ。そこまであの会社から必要とされているなんて、働いている時は微塵も感じなかった。
「社長に言われて風岡さんを説得にきたって言ってました。でも多分それは半分口実な気がするんです。単にあの人は風岡さんと話したかったんじゃないかって」
だからモヤモヤしました。と、最後の方ボソッと言う可愛さん。
「逆に訊きたいんですが、平川さんに告白とかされましたか?」
真面目な顔で訊いてくるので、いけないと思いつつ笑いそうになる。
「されてないよ。冗談めかして一度それっぽい感じのことは言われたけど本気にしてなかった。平川さんはきっと誰にでもあんな感じなんだと思うよ。ナンパが礼儀みたいな」
「そうでしょうか……」
むくれる可愛さん。なんだか嬉しくて、からかいたくなる。
「嫉妬してくれてる?」
「そりゃしますよっ」
「なんで?」
「なんでって……。あれこれ理由つけて風岡さんに近づこうとしてますよ、あの人。この際白状しますが、だから黙ってたんですっ」
「そうだったんだ」
「風岡さんとあの人に仲良くなってほしくなくて」
こんなことで気持ちを確かめようとしてしまう私はひどいだろうか。本気で嫉妬している可愛さんがおかしくて、嬉しくて、どうしても笑ってしまう。
「笑い事じゃないですからね!?」
「ごめんごめん。久しぶりに笑いたい気分になって」
眉をつりあげる可愛さんを見てしばらく笑いが止まらなかったけど、そのままにしているのも何なので、私なりの考えを話すことにした。
「平川さんがバツイチなの、聞いた?」
「はい。なんかそれを特別な事のように話してましたね」
「特別か。平川さんにとってはそうかもね」
「どういうことですか?」
「多分だけど、平川さんは元奥さんに未練があるんだと思うよ。想っててもヨリなんて戻せないから諦めてる。そんな時にたまたま似たような境遇の私が視野に入ったから、ちょっと寄りかかりたくなっただけじゃないかなー」
離婚するのは男に原因があると言っていた平川さん。自分の離婚に罪悪感が無ければあんなことはきっと言えない。結婚生活の中で奥さんファーストに振る舞えなかったであろう自分を、平川さんはきっと今も責めている。これまでの会話でなんとなくそう感じた。私を含め自分のことは棚に上げて相手を悪く言う人は多いけど、平川さんはそういうのとは違った気がする。その点では平川さんは人としてすごいと思うけど、可愛さんのことを悪く言ったからそれだけは嫌だ。
「すごく理解してるんですね、平川さんのこと。仲良かったんですね」
「スネてる?」
「はい」
可愛さんはむくれた顔のままだ。
「かわいい」
男性にその言葉は禁句とよく聞くけど、これは言わずにいられない。さっきからニヤニヤしてしまう。
「風岡さん、その笑顔はズルいです」
スネているのが馬鹿らしくなったのか恥ずかしくなったのか、可愛さんの表情はじょじょに大人しくなった。一呼吸すると、
「風岡さんは……」
可愛さんは何かを言いかけ、やめた。
「何?」
「いえ、何でもないです」
「えー」
いや、何かあるでしょ。と言いたくなったが突っ込まないでおいた。きっと可愛さんなりに気を遣ってそうしてくれている、そんな気がする。ズルいけど、その優しさに今は甘えさせてもらおう。
「辞めに行く時、もし会社で平川さんと顔合わせた場合に備えて、一応聞いておきたかったってだけだから。教えてくれて良かった」
「それで言うと、俺が親戚ってこと、平川さんにウソってバレちゃいました。本当にすみません!」
「そっか。それは大丈夫と思いたい。平川さんは社長に何も言わないと思う。多分」
分からないけど。
「だといいんですけど……。もし会社側にバレたとしても、今度は婚約者のフリして乗り込めばいい話です」
「婚約者って!」
この子は何を言ってるんだ!
「〝親戚〟と同じくらい、効力あるかなーと思いますよ」
「身内って意味では、まあそうか」
「もしもの話なんですけど……」
改まったように、可愛さんは話を切り出した。
「ホント想像の話って思って聞いて下さい。明日までに結婚しないと国の決まりで処刑される! ってなったら、風岡さんはどうしますか?」
「とんでもない独裁国家だな!」
そうなったら一気に人口減りそうだが。
「仮にです、仮に」
「んー。そうなったらしょうがないし、黙って処刑されとくかなー」
「えー」
ダウナーな声で非難じみた反応をする可愛さん。
「だって結婚する自分なんて想像つかないし無理だし。可愛さんはどうするの? そんなとんでもない理由で処刑される世界になったら」
「迷わず風岡さんにプロポーズしますね」
即答!
「私たち友達じゃなかったっけ?」
「そうですけど、それでもですよ。死ぬんですよ? 処刑されるくらいなら、結婚して夫婦の形で友達続けるっていうのもアリですし」
「なるほど。それは思いつかなかった」
「でも風岡さんは処刑を選ぶんですよね。目の前に俺いるのにそんな事言うなんて、ショックだなぁ」
「結婚ってワードが重すぎるんだよっ。でも、友達夫婦ならアリかもしれないね」
つい熱が入ってしまったけど、そもそも空想の話だ。具体的に考えることではないか。
「そんなに重いですか? 結婚って」
「一回失敗してるしね、嫌でも慎重になるよ」
私の場合は、だけど。世の中には離婚経験なんてないかのように次の人に進んでパッと再婚する人もいる。そういえば凜音のパート先にもそんな人がいたと聞いたことがある。すごいバイタリティだ。
「バツ2なんてごめんだよ」
あんな大ダメージを次に受けたら、私はもうどうなるのか分からない。
「なりませんよ、風岡さんは」
「言い切るね」
「言葉には力があるんです。絶対無理って思うことでも、前向きに叶うと口に出していれば叶うらしいですよ」
「ホントかなー」
「それで深刻な病気が治ったって話もあるんですよ。すごくないですか?」
「深刻な病気っていうと、ガンとかそういう?」
「はい。これはスピリチュアルでも何でもなく、量子力学で証明されてるはずです。感情の伴った強い願いは実現するって」
「だったら、ネガティブなことよりポジティブなこと言ってた方が良さそうだね」
「そうなんですよ」
言葉で重い病気が治ってしまうなんて。本当だとしたらすごすぎる。
「有名な水の実験があるんです。コップの水を二つ用意して、片方の水にはありがとうと声をかけ続け、もう片方にはバカヤロウと声をかけ続ける。すると、ありがとうと言われた水には綺麗な結晶ができて、バカヤロウの方には澱みが出たっていう」
「それはすごいね! ……なるほど。人の体も大半が水分で出来てるから、その実験みたいに心身がモロに言葉の影響を受けるってわけか」
「はい。だから大切です。言葉」
「簡単に処刑されるとか言っちゃダメってことか」
「そういうことです」
たしかに。ネガティブなことを思ったり言ったりしている時より、楽しい想像をしたり前向きな未来を考えている時の方が体が楽になる。一瞬だとしても心が軽くなる。苦い経験に引っ張られてついマイナスなことを言ったり思ったりしてしまうけど。
「過去を変えることはできないし、なかったことにもならないけど。言葉を変えていけば、自然と未来は良くなったりするのかもしれないね」
「はい。そう信じてます」
「羨ましいな。可愛さんのそういう前向きなところ」
量子力学とか難しそうなことはよく分からないけど、そういう話を心の底から信じてるんだろうなと伝わってくる。可愛さんではなく他の人だったら、その手の話は小馬鹿にするか、「あーおまじない的な話?」で、まともに受け止めず終わりだろう。私も以前ならそういう反応をしていたかもしれない。
「可愛さんはすごいね。今までつらいこともあったはずなのに、そういうのを振り切ってまっすぐいいことだけを信じていられるなんて。……私はこわいよ。期待して傷ついたら、そう思うと、ネガティブなこと想像して心構えしとこ。ってなる」
「そうですよね、たしかに、期待してそうならなかったら。そういうこと、俺も思う時あります。風岡さんから離れたあの時もそうでした」
私が離婚する直前、あの会社を去ってしまった可愛さん。あの時の痛みは遠い日のことなのに、昨日のことのようにも感じる。それくらい私にはつらかった。
「正直、どうして? って思ったよ。引き継ぎの手続きとか熱心にしてくれてたのに、その可愛さんが先にやめるなんて」
「苦しかったんです。想いが報われないことも、風岡さんを独り占めできない現実も」
そこまで可愛さんは……。
「でもすぐ、後悔しました。何度も会いたくなって会社に連絡しそうになったり、風岡さんにメールしてみようかと迷ったり。それからすぐ風岡さんも辞めたって社長から電話で聞いて、本当にもう縁が切れたんだって呆然として」
私達は、あの時同じような気持ちだったんだ。
「でも、あの時会社を辞めてよかったとも思うんです。あのまま続けていたら、俺は自分で自分を制御できなくなって、ひどい人間になって、風岡さんと今こんな風に話せていなかったと思うから。つらいことすらもきっと良い未来へ繋がってる。そう思えたんです。今だから言えることなんですけどね」
「遠回りに思えることも、未来から見たら近道なのかもしれないってことか」
「はい。だから、希望通りいかない時は、まだその良い経験を受け取る時期じゃなかったんだ、そう思い直すようにしてるんです」
「その視点はなかったよ」
私もいつか、そんな風に考えられる人間になりたい。なれるなら。
あの頃の答え合わせがしたい。可愛さんと離れてからずっとそう思っていて、それが今夜やっと叶った気がする。離れた時の気持ちも、今の気持ちもしっかり話してくれる可愛さんに、安心して少しウトウトしてきた。いろいろ話しているうちに夜明けの気配が漂いはじめた。
「もうすぐ朝だけど、いったん帰らなくていい? お風呂とかいろいろ準備もあるだろうし」
本当なら夕飯のお礼も兼ねてここでシャワーでも浴びていってもらえばいいのだろうけど、この関係性で浴室に招くのが恥ずかしい。可愛さんちのオシャレシャンプーと違い、私のは頭皮の臭い防止に特化した実用的すぎるやつだからだ。三十五歳を過ぎた頃からなんとなく頭皮の臭いが気になりだし、シャンプーやボディソープを買い直した。自分で気が付かないうちに体臭とかで周りに迷惑をかけているかもとこわくなり、それまで香り重視で選んでいたボディソープも体臭予防に優れたものを選ぶようになった。可愛さんはまだそういうことが気にならない年齢だろうし、やっぱり浴室を勧めるのはハードルが高い。そういえば、植物油脂が体臭の原因になっているとさっき可愛さんが言っていたけど、もしかして私のコンプレックスは偏食まっしぐらな食生活のせいだったりするのだろうか。
「そうですね。身支度もしたいし、日が昇ったらいったん帰ります」
可愛さんも何かを察したのか、意外にも居座ろうとはしなかった。それからすぐに朝日が射して、可愛さんは帰ることになった。自分で言っておいて、やっぱりもう少しだけ、と、引き止めたくなった。
「じゃあ、用意できたら連絡してこちらに迎えにきます」
なんだかずっと一緒にいたから、離れがたかった。
「そんな寂しそうな顔したら、帰りづらいですよ」
可愛さんは私の頭をわしゃわしゃ撫でて、玄関先で一度外の様子をぐるりと確かめていた。
「何かあった?」
「いえ、大丈夫です。ではまた」
「ありがとうね」
「こちらこそ。お邪魔しました」
可愛さんのいなくなった空間は、それまでの一人暮らしの部屋以上に空虚に感じた。これが幸せということなのか。さっきまでこの室内は知らなかった色で満たされていたような気がした。可愛さんが出ていった直後、玄関先に朝の新鮮な空気の匂いが漂って、泣きたいような嬉しいような、安堵感でいっぱいになった。
社長のところに向かうまで五時間ほどある。少し仮眠しよう。ベッドに腰かけた時、テーブルの足元にハンカチが落ちているのに気付いた。私の物ではない。さっき可愛さんが座っていた場所だ。忘れ物だろうか。拾い上げるとカサッと音がした。ハンカチの中に紙のような質感がしたので広げて見てみると、五千円札が半分に折って包まれていた。
《可愛さん、忘れ物してる!お金とハンカチ!》
今頃運転中のはずなのに、返事はすぐにきた。
《光熱費に充ててください。押しかけてキッチン使わせてもらったので、お礼も兼ねて》
《ありがたいけど、こんなにもらえないよ》
そこで返事は途切れた。あっちは運転中だしな、と思い直すも、手元のお金に焦った。一日分の光熱費にしては多すぎる。多分料理でガスや水道を使ったことを気にしてくれているのだろうけど、一時間も使っていなかったはずだ。そもそもこっちも料理を作ってもらったのだし、気にしていなかった。すんなり受け取っていいものか分からないが、助からないといえばウソになる。最近光熱費がジワジワ高騰している。それも悩みの種だった。これから私の元にくるお金は得の報酬だと可愛さんは言っていたけど、これもそう受け取るべきなんだろうか。
しばらくすると、可愛さんから返事がきた。家に着いたらしい。
《水光熱以外にも、コンロや洗剤代など、管理費もかかるかと思って。なので受け取ってもらえたらと》
《そこまで意識してなかった!》
《すみません、今から支度するので、また後ほど!》
本当にバタバタしているのか、あえてのはぐらかしなのか。お金のことには触れないまま、ラインのやり取りは終わった。
お金のことも気になるけど、私も今は少し休もう。あの社長と対面しなければならない。可愛さんといてだいぶ癒されたけど、まだ退職できていない。気合いを入れなければ。考えていると、胃がキューっと痛む感じがした。可愛さんにもう少しそばにいてもらえばよかった。いやいや、甘えるな。今だけは自分で何とかしないと。常備薬から胃薬を取り出し、水で飲み下した。効いているのかいないのか、痛みは続いたもののしばらくすると眠気がして少しだけ眠った。
薬の成分のせいか、思ったより深く眠ってしまい、全く気が付かなかった。この時、外に見知らぬ足音がしていたことに。




