夜明け前
自分ちなのに、自分ちではないみたいに心地いい。それは可愛さんのおかげだと思う。おいしいご飯を作ってくれたり、入浴中も部屋にいてくれたり。
一人暮らし歴もそこそこ長いし、一人の時間にも慣れきっていた。とはいえ、女一人で住むことの警戒心はやっぱりある。このアパートは私以外に女の人は住んでいなさそうで、たまに見かけるだけでも近隣は男の往来が多い。今はあまりないが、入居してすぐの頃は不自然に何度も部屋の前を通りかかる人影があったり、夜中にドアポストへチラシを投函されて音が煩わしかったり、通報するほどのことではないにしてもヒヤッとする出来事がたびたびあった。なので、周囲に生活パターンを読まれないよう、あえて車で遠めの銭湯に行ったり、不定期に家を留守にしてカプセルホテルに泊まることもあった。いまいちお金が貯まらなかったのはそういうことも要因かもしれない。無駄な出費だと思う。そんなことをするくらいならもっと安心できる優良物件を借りればいいのだが、自由費が減ったり敷金礼金、家賃が高くつくのも嫌と思ってしまうのだからどうしようもない。仮に良さげなアパートを見つけたとしても、それはそれで引越しをするお金が必要だ。お金を使うくらいなら多少の不便は我慢してやりすごす、貧乏性からくる忍耐癖が板についてしまっている。そんな風なので結局考えるだけで実行に移せないまま、ダラダラここに住み続けている。雨風しのげる場所で暮らせるだけで恵まれている。悪いことばかりではないはず。そう思いやってきた。
やっぱりどこか無理してきたのだろう。可愛さんが部屋にいてくれるというだけで、防犯面での安心感はすごかった。浴室にこもっているうちに泥棒に入られたらどうしよう、と、入浴のたびにいちいち考えなくてすむ。可愛さん本人に覗かれたら最後だけどそんな人ではないと分かっている。私がやるからいいと言ったのに、食器も洗ってくれているみたいだ。それらしい音がする。何より、こんなに安心できる人だったなんて。抱きしめあうことであんなにホッとしたのは人生初だった。
ツインレイ。
前に凜音が教えてくれた言葉を思い出す。今はもう全然連絡を取っていないけど、凜音は元気だろうか。今もまだ離婚はせず旦那と彼氏で二重生活を続けているのだろうか。私に変化があったように、凜音の方にも何かあったりしただろうか。いや、それはないか。凜音は私以上に現実主義だ。旦那に愛はなくとも経済的に安定した結婚生活を手放しはしないだろう。
結婚生活といえば、美凪はどうしているだろう。子供中心の生活で兼業主婦をしている。今もあわただしい日常だろうか。昔毎日のように会っては何時間もしゃべっていたのがウソのようだ。一時期ものすごく私のことを気にかけ電話してきてくれた。離婚。私にとっては再スタートの意味しかなく前向きだった別れも、家庭を持つ美凪からしたら重たいものに感じたのかもしれない。
結婚生活が終わる気配が濃厚になった頃、美凪にも気になる人がいることを話した。それまでは凜音にしか話していなかった可愛さんの存在を。いつだったか美凪は、不倫で自分の家庭を崩壊させたママ友のことを非難していた。なので私の話にも絶対良い顔をしないだろうと思った。否定され距離を置かれる覚悟で打ち明けたのに、どういうわけか美凪はあっけらかんと私の想いを肯定してくれた。
『心の中で想うくらいいいんじゃない? 逃げ場がないと志輝がつぶれる』
妙に嬉しかったのを今でもよく覚えている。絶対否定されると思っていただけに。
今二人に可愛さんのことを話したら何と言われるだろう。疎遠になっているのに、ううん、なっているからか、今夜は凜音と美凪のことをよく思い出してしまう。これまでずっと仕事仕事の毎日で、家に帰っても疲れて眠ってしまい、またあわただしい朝が来る。その繰り返しだった。こんなに自由な時間は本当に久しぶりで、悪く言えばヒマをもてあましている。そのせいだろうか。これまで考えないようにしていたことが深く沈んだ意識の底からどんどん浮き上がってくる。
お風呂から出ると、可愛さんは短足テーブルに突っ伏して寝息を立てていた。疲れたのだろう。あまり寝ていないと言ってたし、今日は昼間ずっと外に出てたみたいだから。明日のこともあるし早めに起こして可愛さんを帰さないといけないんだろうけど、なんだか離れがたい。本当ならずっとそばにいてほしい。防犯的にも、そうでなくても。でも、交際を断っておいて用心棒のために泊まってほしいなんてムシがよすぎるか、やっぱり。
「可愛さん。起きて」
数回肩をつついたが、起きそうにない。
そういえば、可愛さんにもいるのだろうか。私にとっての凜音や美凪のような存在が。私と再会した日は友達の結婚式に参加したと言っていたけど、そこまで親しい関係なら私の話もしていたりするのだろうか。可愛さんの友達は、もし私の存在を知ったらどう反応するのだろう。バツイチの無職女なんて、それだけで猛反対されそうな気がしてならない。可愛さんは私を気遣って優しいことを言ってくれるけど、周りがもし私との関係を良く思わなかったら可愛さんはどうするのだろう。
可愛さんがこうしてうちに居ることがとても不思議で、まだ夢を見ているような心地がする。それと同時に、リアルなことが頭をもたげてくる。もし本当に可愛さんとの関係が安定して付き合う流れになって、運良く結婚を考える間柄になったら。お互いの親の存在。それは絶対避けて通れない関門だ。
私より先に結婚した凜音から、こんな相談をされたことがある。凜音の旦那さんは両親と長年険悪な関係で、結婚後もそれは続いていた。凜音はそれを良く思わなかった。嫁として旦那の親とまともに交流を持ちたかったらしい。でも、旦那がそれを許さなかった。旦那が言うには、幼少の頃からずっと育児放棄のような状態で両親への不信感が消えないので、大学を出てすぐ親元を離れ、そこからずっと実家とは音信不通にしていた。そんな旦那の親子関係をどうにか改善して普通に暮らしたい。凜音はそう思ったが、旦那にその意見は通らず「仲良くしたいなら凜音だけ親と付き合えば? 俺はあの人達と二度と関わりたくない」と頑なだった。凜音はそれでとても悩んでいた。その頃私は結婚生活を体験していなかったし、自分もどちらかといえば旦那さんの立場に共感したのもあり、
「結婚して最後まで一緒にいるのは旦那さんだよね。親は先にいなくなる。そこまで言われてしまうなら無理に旦那側の親と付き合うことないんじゃない?」
と言った。旦那さんの気持ちも無視してはいけない気がして。でも、凜音は最後まで旦那の立場や気持ちを理解することはできなかったそうだ。私の言葉にも困った顔をしていた。それも仕方ないかもしれない。凜音の実家は愛情深い家庭だ。父親も母親も子供を労り心配するのが当たり前で、子供の話をよく聞き、時には家族会議をしてみんなで話し合い問題を解決する、そんな在り方だった。私からしたらまさに理想的。そんな家、ドラマや漫画の中でしか見た事がない。実際に身近にあるのだと知って驚いたし、知ってもなお信じられない気分だった。そんな家で生きてきたら、そりゃ育児放棄や子供時代のトラウマを持つ人の心情など理解できるわけがない。生きる世界が、見てきたものが、全然違うのだから。
「親には感謝しなきゃいけないよ」
それが凜音の信念で、旦那さんへもしょっちゅうそんことを言っていたようだ。だから私は凜音には、自分の親のことはなるべく話さないようにしていた。お互い嫌な気持ちになるのが目に見えている。親への感謝、それはひと昔前まで当たり前にまかり通る常識だったが、私は反吐が出るほど嫌いな価値観だった。健全な家庭で育った人特有の無理解な押し付けだと思ってしまう。きっと旦那さんもそうだったのだろう。次第に凜音の言動全てを恩着せがましい、考えの押し付けがひどい、と否定するようになっていった。凜音からすればモラハラ旦那の完成で、それは旦那さん視点からしても同様だったのかもしれない。
そんな風に、結婚したって旦那優先、親は二の次という思考だった私も、雄亮と結婚して初めて、当時の凜音の立場を理解できるようになった。結婚は常にお互いの親ともつながりがあり、それは消すことはできないのだと。そして、それは同時に私を窮屈な思いへ押しやるものとなった。
『親もきっと志輝のことを大事に思ってるよ。俺達も立派に結婚したんだしさ、もうさ、親と普通に仲良くしたら?』
雄亮のその言葉に悪気は一切なかったのだろう。それは分かる。でも、私はあの親と和解などする気はないし、今さら仲良くしたいとも思えない。そもそも関心が持てない。極端なことを言えば、生きていようが死んでいようがどっちでもいいと感じる。そんな相手とどう仲良くしろと言うのか。かつて凜音が旦那さんに言っていたことを、私は雄亮から言われることになった。聞き流すことに徹したが、あまりに言われすぎてうんざりした。
〝無神経で理解のない他人に、分かったようなことを言われたくない〟
そんな言葉を何度も飲みこんだ。傷ついたことのない人間は時に無神経だ。特に、自分の知らない痛みに。そういう意味では私もそうだったのだろう。雄亮や凜音に対して。心穏やかに暮らせた子供時代を持つ人は、別の部分で私達の言動に傷ついているのかもしれない。でも、そんなことすら考えるのも癪だった。
もし将来、可愛さんに同じようなことを言われたら……?
その時は、傷が深くなる前に離れよう。そうするしかない。愛に育まれた正義感を崩すのは難しい。私はそれをよく知っている。理解できなくても、否定せずに寄り添ってほしい。それが一番の願いだ。凜音の旦那さんもきっとそうだった。年齢など関係ない。不健全な家庭で育つしかなかった人はみんな心の中に子供の自分がずっといる。愛されたくて、認められたくて、抱きしめられたくて泣いている。駄々をこねる。甘えたがる。幼少時に認められなかったものを満たしたくてもがいている。それだけでも苦しいのに、パートナーから否定されたら絶望する。いじけて暴走し手がつけられなくなる。ただ、受け止めてほしい。それだけのことがとても難しい。
可愛さんは一応私の話を聞いてくれたけど、どこまで正確に理解しているだろう。雄亮のように性善説を信じるタイプだったらどうしよう。可愛さんとは絶対離れたくないのに。
あーダメだ。放っておくと思考がネガティブになる。可愛さんがそばにいて嬉しいのに、喜ぶのを辞めろと言わんばかりに過去が押し寄せてくる。絶縁状態な親のことまで頭に浮かぶなんて。
「早いとこ次の仕事探さないと……」
忙しくしないとダメだ。寝ている可愛さんの気配を横目にスマホを手にした。求人情報を検索し一番上にきた求人をタップしたところで、ため息が出た。
いつまでこんな日が続くんだろう。もう嫌だ。仕事してもしても未来なんて明るくなりゃしないのに、生きるためにお金が必要で働かなきゃいけない。そういうのに疲れたから死のうとしていたんだった。
「ストップ!」
「っ……!」
画面を隠すようにスマホを持っていかれた。可愛さんの手がそうしたと、数秒後に気付いた。
「起きてたの?」
「一瞬ウトウトしてたんですけどね。仕事探さなきゃとか聞こえたから」
「明日会社辞められるのはいいけど、今後の生活もあるしね」
「顔死んでますよ」
「そりゃあね」
「働くの嫌いなんですよね?」
「好きな人なんているの?」
話したことを覚えてくれている。嬉しくて涙が出そうになるけど、グッとこらえた。
「働くのなんて大嫌い。でも路頭に迷うのだけはごめんだよ。危険な目にはあいたくない。スマホ返してくれる?」
「ダメです。風岡さん死のうとしてたんですよ? そんな状態でまた頑張る気ですか?」
「貧民はそうしなきゃならない運命なんだよ」
「だったら領主がそれを阻止します」
可愛さんは私のスマホを隠すように背後に置いた。
「ホントは温泉の帰りとかに話そうと思ってたんですけど、今伝えさせて下さい」
私が退職したら行こうと約束していた日帰り温泉。そういえばそんな楽しそうなイベントがあったんだった。すっかり意識の外だった。
「この部屋を引き払って別のマンションに引越しませんか? 仕事も保証します。うちで管理する物件のオーナーをお願いしたいと思ってます」
「オーナー業務? それってつまり、直接の労働ってよりは管理人みたいな?」
「はい。今管理している物件のうち一部を風岡さんにお願いしたいと思ってます。不労所得で生計を立てるために今の会社に入ったって聞いて、これだ! って思って」
「いやいや無理でしょ! ありがたい話だけど、可愛さんの親が黙ってないでしょ!? 自分の息子がやるならまだしも、よく知らない人間が手をつけるなんて」
「親はもう地主のあれこれから完全に手を引きました。全物件好きなようにしていいと言われて受け継ぎましたし、これまで業者の力添えもあって何とかやってきました。低リスクの物件ばかりなので損はさせません。実際入居率も高めで何年も維持しています」
可愛さんは意気揚々とプレゼンを始める。
「それって収入どのくらい? 一人暮らしはできる?」
「はい。安心して暮らせる額は絶対入ってきます。あと、引越し先の物件は風岡さんの負担なしで無料で住めるようにします」
「そんなことできるの?」
「全てうちが管理している物件なのでいろいろ融通きくんです」
「ありがたい話だけど、今引越しなんてするお金ないよ……」
「こちらが無理言って誘ってるんですから、当然引越しにかかる費用やもろもろは出させて下さい。風岡さんがここを離れたくないというのなら、無理は言えませんけど」
「この場所にそこまで執着はないけど」
「じゃあ、決まりですね!」
「いやいや、ちょっと待って、よく考えて?」
「すごく考えました」
「嬉しい話だけど、そんな話に乗ったら、私ほんとに働かなくなるよ。堕落してダメダメ人間になる」
「そうでしょうか?」
可愛さんは爽やかすぎるほど清涼感のある笑顔。
「目標持って活力でる人と、つぶれてしまう人がいます。風岡さんはきっと後者だと思うんですよね」
「えらいサラッとディスってくるね」
「とんでもない! これまで風岡さんを見てきて俺なりの分析です」
「嫌なほど当たってるけどさ」
正直もう働きたくない。先の見えない人生に、労働だけで消えていく毎日に辟易していた。楽しそうに旅行の計画を立てている人達が羨ましかった。こんなに頑張っても私だけ報われない、どうして? と。
「風岡さんは真面目だから、きっと不労所得というものに対して、楽して稼ぐみたいに思うかもしれないんですが」
「そうでしょ? 世の中には汗して働く人がたくさんいる。私もそうだった。怒られて理不尽なことに耐えて不快な思いして、そうしてようやくお金をもらってもいいんだって思う」
「たしかに、それが世間の常識であり大多数の意見ですよね。そこでなんですが、考え方を変えてみませんか?」
「どうやって?」
「キッカケは俺と関わりがあったこと。でも、これから得られる報酬は俺が払うんじゃない。本来風岡さんが受け取るはずだったお金を天が用意してくれたんです」
「天って、空とか神様とかそっち系の話?」
「そうです。風岡さんにだから話すんですけど、そういうのって本当にあると思うんですよ。風岡さんが気付かないうちに、無意識のうちに、風岡さんは自分の言動で得を貯めていたんです。それが今こうしてこのタイミングで返ってきた」
突拍子もないことを。でも、不思議とそんな気がしなくもない。
「風岡さんは今までたくさん理不尽な出来事にあい、それを乗り越えてきました」
親との関係。友達と通じ合えないもどかしさ。結婚生活での体調不良。職場でのパワハラ。嫌な噂話。
「嫌な出来事は、それを発した人間の元に返っていきます。それを受け流してきた、やり返さなかった風岡さんを、神様が助けてくれたんです。今までよく頑張ってきたねって」
もしかしたら、可愛さんと再会できたことも良い事の跳ね返り?
「今だから言えますけど、あの時結婚式の三次会に気付かなくて本当によかったと思うんです。友達には申し訳ないけど」
「……! そっか。もし三次会に行ってたら、私達は再会できなかった」
「そうなんですよ! 風岡さんの得が、巡り巡って俺にもやってきた。そう思えてならないんです」
「知らないうちに積んでいた得、か」
「はい。そういうの、信じるタチなんです」
「神様とか絶対いない。うさんくさい。そう思ってたけど。こうして可愛さんと話してるのを思うと、それも信じられるね」
「よかった。やっと笑ってくれた」
さっきまでどんより暗い気持ちだったのに、晴れ間が射したように自然と心が明るくなっていた。望み通り働かなくてよくなる。それもあるが、可愛さんが私を理解しようと寄り添ってくれるのが大きい。
気付くと夜も深い。可愛さんといる時間はあっという間にすぎてしまう。
「そういえば、可愛さんはそろそろ帰らなくていいの?」
「風岡さんが眠るまで、そばにいます」
「それじゃずっと帰れないよ。全然眠くないから」
今日はずっと寝ていた。寝ようと布団に入っても眠れそうにない。さっき、食後にいったん眠くなったはずなのに、今はもう意識が冴えている。
「だったら話してましょうよ。風岡さんが眠くなるまで」
「私はいいけど、可愛さん眠そうだったじゃん。大丈夫?」
「あー……。あれは寝たフリですね」
「なんで!? 起こしたのに起きなかったのもわざと?」
「すみません、そうなんです。はい」
「なんでそんな、寝たフリなんて……」
「風岡さんと、もっと一緒にいたいから」
まっすぐに私の目を見る可愛さん。フリーズしてしまう。




