儚い永遠
息を切らせて走っていた。腕にはあの人との間に授かった赤ちゃんを抱いて、必死に。武器を手に敵兵が追ってくる。戦場で、女子供は真っ先に敵の手にかかる。
この子だけは守らないと!
敵兵が一人から二人、三人、四人と増えていく。こわい。捕まったらどうなるか分からない。私もこの子もきっと殺されてしまう。最悪、殺されるよりひどい目にあうだろう。
いつか戦が終わったら、平和になった世界であの人とこの子と三人仲良く穏やかに暮らしていく。それが私の夢だった。でもそれは叶わなさそう。生まれた時からすでに戦のある世界だった。それでも戦火が及ばずにいたこの田舎町は、ここ数年で一気に激戦区となった。
三日三晩寝ずに逃げ続けていたので判断力を失っていた。いや、これが正常なのか。敵兵に捕まる直前、私はこの子の胸にナイフを突き刺し、次に自分の首に同じことをした。見知らぬ人間に殺されるくらいなら自害した方がマシ。そう思って。何かあった時のためにと隠し持っていた武器を自死に使う。自分だけならまだしも子供にまで手をかけるなんて、間違いなく地獄に堕ちるだろう。
もしも来世なんてものがあるのなら、願わくば幸せな日常を送りたい。戦争とは縁のない国で、この子とあの人と三人で。天寿をまっとうする時まで、尊く幸せな時間を、どうか、どうか。
ハッとして目が覚めた。もらったおかずを食べながら可愛さんとラインしているうちに寝落ちしていた。なんだかものすごく悲しくてどうしようもない夢を見ていた気がするけど、起きた瞬間忘れてしまった。決して忘れてはいけない内容だった気がする。こういう感覚で目覚めることが、昔からたまにある。物心ついた頃からだったか。夢の中、私は私ではない別の人間なのに、まるでその人に乗り移っているかのように臨場感のあるシチュエーション。感情や体感がまるまるダイレクトに伝わってきて、そのせいか目覚めと共にドッと疲れる。
社長との電話で感じた嫌な気分が、この夢のトリガーになったのだろうか。
可愛さんに送ってもらって帰宅し、しばらくすると彼からラインが飛んできて。なんだか全て夢だったような気がするけど、夢じゃない。ラインを見返すと、たしかにさっきまで可愛さんがくれたメッセージがスマホ画面に表示されていた。
居場所共有アプリを入れようと言われた時は、ビックリしたけど正直嬉しかった。そこまで心配してくれることもそうだし、私に対して隠すものがないからそういうことが言えてしまうのだろうと思うと、本気で大切にしてくれているのかもしれないと感じて。どれだけ好きだと言っていても、普段の行動や行きつけの店を尋ねたりといったプライベートな質問をすると嫌な顔をし、適当な言葉で話を濁す男が多かった。そういう言動をされると、とたんに不信感が膨らんでしまう。やましいことがなければ話せるはず。隠すなんておかしい、と。きっと私は人より独占欲が強いんだと思う。自分だけを大事に愛でて関心を示してくれる存在にずっと飢えていたから。でも、他人にそれを求めても満たされることはないと知り、願望は捨て去った。可愛さんは、私の心のゴミ箱からいとも簡単に本音を拾い上げてくれた。嬉しかった。だからこそ、こわかった。
居場所なんて共有したら、それが当たり前になってしまったら、私は絶対に勘違いしてしまう。この人は永遠の恋人になるかも、と。ずっとそばにいてくれる人なのだと。
「永遠なんて信じない」
だって信じたら、裏切られた時に絶望する。もうあんな地獄は見たくない。
私みたいないい子と付き合えて本当にラッキーだと喜んでいた元彼A。私だけを大切にすると言いながらあっさり浮気していた元彼B。包容力があって人望もあって精神的に大人だったのに突然いなくなった元彼C。私と結婚してとても幸せだと言っていた雄亮。みんな私の元から離れていった。そのたび私は彼らを憎み、嫌い、永遠を信じた自分を悔やんだ。もう何者にもすがらない。離婚した日、そう誓った。恋愛を楽しむくらいは許されたい。でも、結婚なんて私には難易度が高すぎる。そもそもこの世に真の意味で私を求めてくれる人がいるのか? はなはだ疑問だ。
身体でもなく心でもなく、魂で求められたい。
次に恋をするのなら、運良く結婚ができるのなら、そういう相手がいい。もうこれ以上、失う痛みで心を壊したくない。
翌日も可愛さんからラインが来た。おはようの挨拶を返すとまた返ってきて、それに返したらラリーが始まるのだろうけど、あえて返さなかった。ひどく疲れていて、ほとんどの時間眠っていた。たまにトイレに起きたり水を飲んだりする以外、何もしなかった。ラインのプッシュ通知でチラッと文面が見え、可愛さんからご飯を差し入れしたいとメッセージが来ていた気がするけど、未読のままスマホを放置した。
こわい。
過去の恋愛パターンから考えると、こんな高頻度で連絡を取り合っていたら来週くらいには付き合ってしまう、そんな流れだ。すっかり可愛さんのペース。絶対にそれはよくない。私の気持ちがついていかない。
可愛さんのラインは読まず、会社関係の人にだけ簡単に返した。急に休んだので、体調の心配をしてくれている人が何人かいた。中でもよく面倒を見てくれた平川さんにだけは、最後にちゃんとお礼を伝えたかった。この人は見た目遊び人でひょうひょうとしていて要領が良かった。絶対合わないタイプだと思ったのに、同じく離婚歴があるとかで、お互い子供もいない。そのせいか、不思議と警戒心も解け、社内で最も話しやすい人になった。私より二つ歳下だけど全然そう感じないくらいしっかりしていて頼りがいがあり、仕事中も何度か助けてもらった。一度冗談ぽく好きだと言われたけど本気にせず、後々気まずくならないよう愛想良く受け流した。会社の人という遠慮はあるものの、別の知り合い方をしていたら貴重な友達になっていたかもしれない。そのくらい、人として好感があった。
「世の中離婚する夫婦も多いけど、原因の大半は男にあると思う。無神経なヤツばっかり。奥さんファーストにできない男はダメだよ」
平川さんはよくそう言っていた。自分の経験則から来る言葉なのか、男性が言うそのセリフは全女性を味方にすると言っても過言ではない。実際私も、その言葉に少なからず救われた。雄亮が義両親を優先し続けたことで夫婦関係は終わりを迎えた。今冷静になった頭で考えてみても、あの離婚は雄亮と私、二人だけの問題ではなかった。雄亮は最後まで「親は関係ない」と言っていたけど、私は納得していない。夫婦生活はお互いを最優先に考えないと崩壊する、平川さんはそれをわかっている人だった。平川さんは自分のことを臆面もなく話す人だったけど、私はあまり話さなかった。それでも気楽でいられたのは、雰囲気を読んで配慮してくれる人だったから。無理にこっちのことを聞いてこないので警戒せずにすんだ。これまでの職場では、世間話の流れで離婚経験を話すととたんに態度を変える人もまあまあ居た。それまで普通だったのに急にそっけなくなったり。離婚するなんて何か問題のある人だとでも思われたのか、それとも、不幸ウイルスをこっちにうつすなとバリアを張られたのか。そんな言動に傷ついても、これも自業自得だと受け入れるしかなかった。この人はどういう反応をしてくるのだろう? 平川さんにはそうやって身構えずにすんだ。それは仕事をする上で本当にありがたかった。
お礼のラインをすると、平川さんからすぐに返信がきた。
《次の仕事は決まってるの?》
決まってない。でもすぐに見つけるつもりだ。そう返すと、すぐにまたラインがきた。いつもレスポンスが早い人だけど、ここまでやり取りが連続するのは初めてだった。
《じゃあさ、二人で飲みにいこうよ。送別会》
それはさすがに。可愛さんの存在がある今、安易に男性の誘いに乗りたくなかった。もちろん、そうでなくても断っていただろうけど。気持ちだけ受け止っておきます。そう伝えた。
《さっきの子に遠慮してる?》
え? もしかして可愛さんのことを言ってる?
二人は面識がないはず。知ってるわけがない。返事を止めていると、重ねてラインが来た。
《実はさっき風岡さんち行って、可愛くんて子に会ったよ。彼から何も聞いてない?》
聞いてない。どういうこと?
私の疑問を読んだみたいに、平川さんは説明してくれた。私が寝ている間に、二人は車の外で少し話をしたらしい。どうして可愛さんはそのことを話してくれなかったんだろう。ドキドキしてくる。これは何の動悸なんだろう。
《あの子、見た目によらず嫉妬深そうだね。まだ付き合ってないのにその調子って大丈夫?》
それからうまく返事できなかった。可愛さんのことで頭がいっぱいになり、平川さんのことなどどうでも良くなってしまった。嫉妬深い、それだけ私のことで想いを募らせている証拠。本人からの言葉より、時にこうして人から聞く状況の方が信ぴょう性があったりする。まだ人の好意を、可愛さんの想いを信じきれていない今、平川さんからの情報は思わぬ形で胸を震わせた。
《こんな形で辞めてしまうことになり、申し訳ないです。本当にお世話になりました。》
それだけ返して、可愛さんの件には触れなかった。平川さんとしては、私と一緒に可愛さんの悪口で盛り上がりたかったのだろうけど、私は言いたくなかった。命なんてたいして惜しくもなかった私に、可愛さんは幸せを感じさせてくれた。ずっと返信せずに放置していたけど、ようやく私は可愛さんのラインに返事をする心持ちになった。可愛さんからのラインを開くと、差し入れを持っていくから都合のいい時間を教えてほしいという内容だった。
《ありがとう。でも今日は大丈夫だよ。昨日たくさんごちそうになったおかげで、あまりお腹すいてないから》
送った瞬間既読がついて、思わず笑ってしまう。
「早っ」
ビックリし過ぎても人は笑ってしまうものらしい。ずっと画面を開いて私の返事を待っていたのだろうか。
《よかったー!なかなか返事ないから、何かあったのかと心配してました》
《ごめんねー!実はちょいちょい寝てました》
《少しでも休めたならよかったです!》
《可愛さんは?今なにしてるの?》
《実は、近くに来てます》
えっ!?
思わず窓を開けて周辺を見渡した。さすがに可愛さんの車はなかった。
《ごめんなさい。これじゃストーカーみたいですよね》
《そんなことないよ》
《連絡ないのが心配で》
《どこにいるの?》
可愛さんは今ここの最寄りスーパーで食材の買い出しをしているらしい。私からいつ連絡があってもいいように近場でスタンバイしていたようだ。まだ付き合っていないのにそこまで尽くしてもらえるなんて、いいのだろうか。付き合う前から優しくしてくる人は昔もいたけど、ここまでではなかった。あの頃は若かったからそういう現実を当然のように受け入れていたけど、離婚して何年か経ち、今はそれなりに年齢を重ねている。四十代目前になって、こんなに甘い気持ちになれるとは思わなかった。それが嬉しいのに、やっぱりこわいとも感じてしまう。失う瞬間が頭をよぎる。
《約束もしてないのに、もし私が連絡しなかったらどうするつもりだったの?》
《それは……寂しいけど、帰ってひとりご飯でしたね》
誘ってほしい。そんな気持ちが文面からひしひしと伝わってくる。
《うちくる?》
《いいんですか!?》
《可愛さんちよりだいぶ狭いけど》
《喜んでお邪魔します!》
目に見えてテンションが上がっている。可愛さんのラインに、また頬が緩んだ。
《風岡さん、食べたいものや必要な物はありますか?》
何となく海鮮系が食べたい。最近食べれてなかったから。そうリクエストすると、可愛さんは張り切って買い出しをしてくれた。買い出しのため一時ラインが途切れたけど、その後すぐに電話がかかってきて、可愛さんはハンズフリーモードで電話しつつ運転していたようだった。
「運転中くらい電話切ってもいいよ」
『少しでも長く繋がっていたいんです』
可愛さんは真摯に、穏やかにそう告げた。少し遠いけどうちから歩いて行ける距離にコインパーキングが見つかったと、可愛さんははしゃいでいた。そんなことで喜ぶ? この辺は料金も高めだよ。と、半分疑問な私に、これで会いに行きやすくなったから嬉しいのは当たり前だと、可愛さんは言った。ちょっとの移動でもガソリン代がもったいないと運転を渋っていた雄亮とは大違いだと思った。幸せで平穏な結婚生活だと当時は思っていたけど、こうして比較してしまうと、私は雄亮に全然手間をかけてもらっていなかったのだと気付く。
「お邪魔します」
買い物袋を片手に、可愛さんはうちへ来た。やっぱり不思議。この古いアパートに可愛さんがいる。ミスマッチ過ぎて、でも、可愛さんの方は全くそんなこと気にしていないように部屋に上がった。
「キッチンも狭いしコンロ一つしかないし、可愛さんちに比べたら使いにくいかもしれないけど」
「充分ですよ」
着ていた薄手のジャケットを脱ぎ、シャツをまくってさっそく料理に取りかかる可愛さん。その背中を見て、嬉しくも切ない気持ちに押しつぶされそうになる。
この感覚を、私は前にもどこかで味わったことがある一一。
可愛さんをうちに招くのは初めてのはずなのに。どうして既視感がするのだろう。ふと、今朝見た夢のことを思い出した。起きた瞬間に内容を忘れてしまっていたけど、今になってなぜか鮮明によみがえる。私は、自分以外の人間として生き、自分の子供と自分を傷つけた。
「風岡さん、大丈夫ですか? 顔色悪いです。やっぱりまだ体調が……」
料理の手を止め、可愛さんは私の前に立った。深刻そうな顔をして。
「ううん、違うの。何ともない。今朝見た変な夢のことを思い出して」
「どんな夢ですか?」
「こことは違う世界で、違う人生を生きてた。そこは戦時中で、私は敵兵に追われてて。追いつめられて、結局、一緒に逃げていた自分の子供を……」
そこから先は口にするのが怖くて黙ってしまう。可愛さんは察したように私を抱きしめてくれた。昨日までだったら抵抗していただろうし、今もそうするべきかもと思ったけど、そのぬくもりにすがりたい気持ちが勝ってしまった。
「こわかったですよね。実は俺も今日、同じような夢を見たんです」
「可愛さんも?」
「はい。それで、いてもたってもいられなくて。気持ちを落ち着けたくて外に出ました。もちろん、風岡さんの顔が見たいのは大前提でしたけど」
「可愛さんはどんな夢を?」
「同じく、戦時中のこことは違う世界で、大切な人が子供と共に死んでしまう夢です」
「それって……」
可愛さんの夢と私の夢はリンクしている。そんな偶然があるのだろうか。
「昔からずっと、繰り返し何度も同じ夢を見るんです。でも、最近は頻度も減ってた。今朝のは本当に久しぶりだったんです」
「私のと負けず劣らず不穏な夢だね」
可愛さんの話がこわいのに、抱きしめられているおかげで何とか冷静さを保てる。可愛さんも同じ感覚なのだろうか。私を抱きしめることで自分を落ち着かせている感じがする。
「風岡さんはずっと他人ではないような感覚がしてたんですが、夢までつながってるって、不思議を超えた不思議で鳥肌立ちますね」
「うん。立ってきた」
「やっぱり何かの意味があるんでしょうか?」
「あるのかも」
それが何なのか。こういう体験は誰もがするものなのだろうか。それとも私達だけ?
とたんに、誰かに聞いてもらいたくなった。美凪? 凜音? いや、それは無理か。こっちの都合で距離を置いたのに今さら相談なんて虫が良すぎる。それに内容が内容だ。話したところで変な顔をされるかも。疎遠にしていたクセにと、連絡すら不審がられるかもしれない。
「あっ」
スピリチュアルカウンセラー。長年心の支えにしていたブログのことを思い出した。何をしている人なのか、長らく知らなかったけど最近になってその人のプロフィールを見た。名前の通りスピリチュアル関連のカウンセリングをしている人で、日本各地にお客さんがいるといつかのブログに書いていた。自分の今後について相談したいと思ったが、カウンセリング料金が心療内科の数倍し、断念した。そもそもスピリチュアルなんて怪しいと頭から決めつけていた。普通のカウンセリングも効かなかったのにスピリチュアルカウンセラーのカウンセリングなんてまやかしでしかないと思えて。お金だけ取られて終わるのが嫌だった。でも、その人のブログには説得力があった。癒されていた。それを信じるのなら。
「私達の夢のこと、相談できるかもしれない人、いるかも」




