夢のような現実
成り行きとはいえ、風岡さんがうちで入浴している。きっと心身ともに疲れ切っているだろう風岡さんを癒すべく提案したことだったが、今さらドキドキしてしまう。ソワソワする気分を紛らわすべく、使い終えた食器を食洗機に入れたりテーブルを拭いたりして、なんとか心を落ち着けた。好きな人がこのマンションの浴室にいるなんて、考えてみたら初めてのシチュエーションだった。俺にとって風岡さんは言葉通り高嶺の花とも言える存在だ。決して手の届かない相手。だから絶対こんな場面はありえないと思っていたのに、こうして実現してしまった。現実なのにまだ夢を見ているかのように感じる。
そもそもここは自分だけのプライベートスペースとして隠れ家的に使っている部屋だ(親はもちろんここの住所を知っているので忘れた頃にひょっこり様子を見に来ることはあるが)。人を招く用のマンションは別にある。春海をはじめ他の友達を招くのもそこ。このマンションのことは誰にも教えていない。
実の家族とのイザコザも大きいが、経験上、お金が絡むと人は変わってしまうと知った。交友関係にまでこんな思考を持ち込んでしまうのは後ろめたくもあるが、やはり友達相手だとしても裕福であることを悟られるのは良くないと思い、ここよりだいぶ家賃相場が低いマンションで暮らしているフリをしている。そのかいあってか、人付き合いで変に摩擦が起きることはなかった。近所に家のことを知られていた子供時代のように、周りから嫌なことを言われる機会はなくなって平穏。こうして正解だったのかもと思えた。
でも、そうして他者に見せている顔は俺であって俺ではない。騙しているようで後ろめたいし、かといって本当のことを話してトラブルに発展するのは避けたい。だけど偽っている生活が自分としては不自然で、友達の前でも相手に合わせて取り繕うのが疲れてしまって逃げ出したくなることもある。それでもやっぱりプライベート空間は必要で、一人静かに気力を充電する場でもある。そんな風なので、まさか風岡さんをここに招くことになるなんて、昨日までは考えもしなかった。タクシーで行先を告げる時、考えるより先にここの住所を告げていた。本当の自分を風岡さんにだけは知ってほしかったのかもしれない。
ご飯を食べながらあんなに泣いていた風岡さん。打ち明けてくれた話の内容以外にも、きっとたくさん傷ついてきたのだろう。嫌な過去があったのだろう。言葉にならない想いが胸に蓄積しているのだろう。俺などには想像もできないほどに。それをどうにかしてあげたい。それはきっと口で言うほど簡単なことじゃないけれど。ただそばにいることしかできないけど。昨日倒れたばかりなので食事も軽めの物を用意したけど、あれだけおいしそうに食べてくれて安心したし嬉しかった。あんなに食べてくれるならもっとボリュームのある料理を作ってみてもよかったかもしれない。あ! もしかして、風岡さんが昨日倒れたのは、精神的なダメージだけではなく、栄養失調だったのではないだろうか。見せてもらった業務委託の契約書。あの給与形態だと、医療費とともに食費を削ることも視野に入れなければとてもやっていけなさそうだ。改めてゾッとする。
風岡さんがいると、単なる一室だったこの空間は色鮮やかになった。ここへは誰にも入られたくないと感じていたはずなのに、風岡さんは別だと思った。彼女がいてくれると、なんでだろう、深く安心する。そんな気持ちにさせてくれた風岡さんに、何をしてあげられるだろう。策が尽きたとしても考え続けたい。今できることは、湯船を入れて彼女にくつろぎのひとときを過ごしてもらう。そのミッションに尽きる!
そして、風岡さんにとって今いちばん気がかりなことはやはり仕事やお金のことだろう。俺にとってももはや他人事ではない。風岡さんがつらい思いをするのは嫌だ。
一時間ほどすると、風岡さんがお風呂から出てきた。予備に置いておいた新品のティーシャツとハーフパンツを貸したのだが、風岡さんが着ると俺のサイズではブカブカになってしまっていた。
「やっぱり大きかったですね」
「だね。なんか子供に戻った気分」
湯上りの上気した頬で風岡さんは笑った。ブカブカの服も相まって可愛すぎる。こっちまで頬が熱くなった。
「だいぶ顔色良くなって、安心しました」
「ありがとう。すごく気持ちよかった。こんなに幸せなお風呂あがり初めてだよ」
初めて!?
「風岡さん、それは反則ですっ」
完全に心を撃ち抜かれた! テンションが馬鹿みたいに爆上がりしてしまう。
「えっ、なんで? 単に感想言っただけなんだけど」
風岡さんは俺の反応に困惑していたけど、そういうところもたまらない。
あの時もそうだった。風岡さんを決定的に好きになってしまったあの日一一。
まだあの会社にいた時のこと。いま思えば、あの時点でだいぶ風岡さんのことを好きになっていたのだと思うが、まだ自覚がなく、頑張ればそのうち諦めがつくだろうと簡単に考えていた。
風岡さんは既婚者だ。早く諦めよう。そのうちきっとまた別の出会いがあるさ。
でも、顔を見ると、声を聞くと、目を合わせると、やっぱりどうしても惹きつけられてしまう。だったら会いに行かなければいい。わざわざ俺がそうしなくても、風岡さんは遠方パートさんだから自分で道具を調達する許可も受けている。なのに、仕事にかこつけて風岡さんの勤務先マンションに行ってしまう。どうしたものか。不倫なんて自分とは縁のない世界の話だと思っていたのに、この時ばかりは選択肢のひとつかもしれないと思ってしまった。風岡さんにとって二番目の男でもいいから、旦那さんの次に愛してほしい。お願いしたらどうなるんだろう。そんなことは可能なのだろうか。いやいや無理だ。風岡さんが良くても俺が嫉妬する自信ある。いや、風岡さんがそういう人だと思ってるわけじゃなくて。あーでも!
なんで人の気持ちって自分でコントロールできないんだろう。不都合な感情ならポチッとスイッチを押すみたいに消してしまえたら楽なのに。
そんなモンモンとした気持ちで仕事していたせいか、ある時とんでもないミスをしてしまったのである。風岡さんから報告を受けていたマンション居住者様からのクレームを管理会社に伝えるのを忘れた。そこまで難しい仕事でもなく、対応してもらうための時間は充分にあった。気をつけていれば防げるミスだったのに、俺がうっかりしていたせいで結果風岡さんが居住者様から叱られてしまうことになり、申し訳なさで禿げるかと思った。俺がするべき仕事を忘れたせいで風岡さんがそのあおりを受けてしまい、かなり焦った。あの時はさすがに社長からも注意を受けた。
「大丈夫? 最近ぼんやりしてること多いけど何かあった?」
「いえ、完全に僕のミスです。他の仕事をしているうちに忘れてしまいました。申し訳ございません」
「こういう小さなことでも取引先の信用を欠くことになるから、今後は本当に注意してね」
「はい。二度と同じことをしないよう、細心の注意を払います」
深々と頭を下げた。社長はしばらく気遣わしげな視線をこちらに向けていて胸が痛かった。入社時に優しく丁寧に研修をしてもらったのに、こんな初歩的なミスをしてしまうなんて。会社にも風岡さんにも迷惑をかけてしまった。ものすごく落ち込み、風岡さんにも会わす顔がないと思った。でも、こわいからといって放置しておくわけにもいかない。謝らないと。なんとなくさっきからお腹が痛い。でもそんな弱音を吐いたらいけない。嫌な感じで心臓がドキドキする。嫌われたらどうしよう。使えない奴だと思われたらどうしよう。不安な気持ちで風岡さんのいるマンションへ向かった。風岡さんはちょうど駐車場の掃き掃除をしているところだった。
「お疲れ様です!」
「可愛さん、お疲れ様です」
「先日の件、本当に申し訳ありませんでした。僕が管理会社に伝え忘れていたせいで、風岡さんが怒られてしまうことになってしまって……」
「大丈夫ですよ」
そう言って笑った風岡さんが天使に見えた。
「そういう時もありますよね。気にしないでください」
「僕のせいで風岡さんが怒られてしまったのに……。そんな風に言って下さってありがとうございます」
「それはこちらのセリフですよ。可愛さんにはいつも良くしてもらってて、おかげで毎日とても働きやすいです。こちらこそいつもありがとうございます」
そう言って優しい笑顔を向けてくれた。普段の俺を褒めてくれた。すごく嬉しく、さっきまで感じていた胃の不快感が和らぎ、とても癒された。好きな気持ちをなくすのは無理だと強く思った。
その後、問題の居住者様にも謝りに行かなければならず、それはそれで緊張したが、風岡さんが前向きにさせてくれたから、その後の対応でも上手に立ち回ることができた。この件でもし風岡さんに嫌われていたら、もっとグダグダになってまずいことになっていたと思う。
単純かもしれないと自分でも思うけど、この人のために何でもしたい。風岡さんはそう思わせてくれた。恋愛成就を諦めるべく一度は離れてしまったけど、あの頃とはもう状況が違う。
風岡さんの憂いを、ひとつでも多く晴らしてあげたい。そのために今なにが出来るだろう。
「可愛さん?」
「あっ、すいません。ボーッとしちゃってましたね」
「寝不足って言ってたもんね。私はそろそろ帰るよ」
しまった! そんなはずではっ。もう少し一緒にいたい! 帰らないで!
でも、ここで引き止めるのも変だよな。自分で友達宣言したばかりなのに。
「この服、洗って次会った時に返すね。あ!」
風岡さんは、さっきまで着ていた自分の服をあわてて浴室に取りに戻った。洗濯なら喜んでやるから置いていってくれても全然いいのに。なんて言ったらドン引きされるかな。
「危ない危ない。これは持って帰るやつ。あとスマホ」
そう言い、風岡さんは寝室に置きっぱなしになっていたスマホを取りに行った。スマホ片手に戻ってくると、あからさまに暗い顔になっていた。
「もしかして、また会社から着信が?」
「それより嫌かも。社長から直にメールがきてた」
「何と?」
「これ以上休まれると給与出せなくなるよ、だって」
どんだけ圧かけるつもりだ。
「働きに行ってもマイナスになる仕事ばっか振ってくるくせに何言ってんだって感じですね」
ついツッコミを入れてしまう。風岡さんは吹き出した。
「ホントだよ!」
よかった。笑ってくれた。
「風岡さんはもう、会社に未練はないんですよね?」
「うん。一日も早く辞めたい。ずっとそう思いつつ実行できずにいたけど、違約金払わないでいいならすぐにでも社用車を返して終わりにしたい」
「でしたら、その時ついていきます」
「でも、可愛さんは部外者なのに」
「あんな契約書見てしまったら一人では行かせられません。風岡さんがひどい目にあわないか心配です。早めに決着つけましょう」
「揉めるかな、やっぱり」
風岡さんは憂鬱そうに息をつく。
「あちらの性格次第ですが、お互いの間に認識の違いが生まれているので摩擦は避けられないと思います。でも、極力穏便に話が進むように持っていきます」
「ありがとう。一人で何とかしなきゃって考えてた時よりだいぶ心強いよ」
今一番の不安はやっぱり仕事のこと。風岡さんの憂いを、まずはひとつ消してみせる。
風岡さんは申し訳なさそうに肩を落とした。
「ありがたいけど、巻き込む感じになって本当にごめんね。自分で選んで入った会社。退職も、本当なら自分で片付けるべきことなのに。いい大人なのに情けないよ……」
「こういう問題に年齢は関係ないです。タチの悪い人間にはそれ相応の武器を持って立ち向かわなければいけません」
風岡さんの職場は男性社会というのもあり、女性を下に見る人間もいるのだろう。電話をしてきた人もモラハラ臭全開だった。そんな空気を容認している会社へ風岡さんを行かせようものなら、それこそ相手の思うツボ。強い言葉で丸め込み、契約期間の三ヶ月みっちり働かせる方向に持っていくに違いない。労働力と生命力を奪うだけ奪ってあとは知らん顔。ほくそ笑む社長の姿が目に浮かぶようだ。風岡さんはそんな目にあっていい人ではない。絶対に幸せになってほしい。
「風岡さんの気持ちが一日でも早く楽になれるよう、力を尽くします」
願わくば、一緒に幸せになりたい。
「ありがとう。こわいけど、社長に連絡してみるよ」
深呼吸し、風岡さんは会社の社長に電話をした。相手が出るまでの間がとてつもなく長く感じる。俺達はどちらかともなく目を合わせ、緊迫を分けるようにうなずきあった。




