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遠い思い出


 偏見も先入観もなく、ただそのままに私の話を聞いてくれた。それがどんなにありがたいことなのか。可愛かわいさんには言葉にできないほど感謝の気持ちが溢れた。生きてて良かったとか、私が自己否定するのを悲しいだとか、そんなことを言ってくれる人は初めてだった。こんな自分は生きていても仕方ない。本気でそう思って車道に飛び出した昨夜、あの場所で死ななくてよかったかもしれないと、いま少しだけ思い始めている。

 多かれ少なかれ、人は自分を基準にして他者を見るクセがあるらしい。

 志輝しきんちも仲良くやってるんでしょ?

 そういう前提で自分達の結婚生活のノロケ話をしてくる友人達。自分がそうだから私もそうに違いないと思うのだろうか。気持ち良く話したいがためにとりあえずそう思いたいだけだろうか。

 私の結婚生活は実におとなしいものだった。土日はどこにも行かず家でネットサーフィンするばかりで、夫婦で出かけると言えば近くのスーパーや薬局に食材や日用品の買い出しに行く程度。それも月に一度あるかないかで、たいていの買い出しは私一人で行っていた。雄亮ゆうすけは半年に一度ほど焼き肉やイタリアンの食べ放題などに連れていってくれ、彼からしたらそれで奮発して夫婦の外出を楽しんでいるつもりなのかもしれないと思うと、それ以上の希望は言えなかった。外食はたしかに美味しかったしお腹は満たされた。お金を出してくれることにももちろん感謝していた。一方で心は全然満たされなかった。店内にいても会話らしい会話も特になく、こちらが話題を投げてもうんとかああで返されて話が広がることもなく、ただひたすら食べる作業に終始した。雄亮はたまに仕事の話を得意げにしはじめたが、そうすると今度は私が退屈になり生返事をしてしまう。家族連れやカップル、学生の集まりで混雑した店内での静かな食事。居心地が悪く、この時間はなんなんだろうと思った。長期休みには少し頑張って遠出して綺麗な景色を見たり日常を離れ目新しい物で視界をいっぱいにしたかったが、ゴールデンウィークやお盆期間中はたいてい義実家に出向くことを強制される。それでも実家での生活よりはだいぶ恵まれている、私は幸せなはずだと自分に言い聞かせていた。平日は連日働きづめで、たまに妻と外食をする。会話に花が咲くわけでもなく自炊よりお金がかかる数時間のために一万円近くのお金を使う、雄亮はどんな気持ちで私と居たのだろう。『願い通り出世できたし、たまには妻の機嫌でも取っとくか』そんなところだろうか?


 可愛さんに抱きしめられて、反射的に祖母のことを思い出した。すっかり忘れていたけど、それは父方のおばあちゃんで、遠い昔まだ物心つくかつかないかという幼い頃に、私のことをとても可愛がってくれた唯一の大人だった。父も母もそれが面白くなかったようで、特に母がそのことに激怒し、それ以来二度とおばあちゃんには会わせてもらえなくなった。思えば、母が私に冷たくなったのはその頃からだったように思う。それから数年後祖母は亡くなった。何年も会ってなかったおばあちゃんなのに、もうこの世にいないのだと知って何日も泣き暮れた。本当につらくて寂しかった。また抱きしめてほしかった。

 可愛さんの体温。優しい温もり。理屈を超えて、私はこの人とこうなる運命だったのだと思い知らされる感じがした。まだ人を信じるのはこわいけど、可愛さんのことは信じてみてもいいかもしれない。そんな気持ちに、一歩だけ近づいた気がした。

 私の子供時代もたいがいだけど、可愛さんの家はそれはそれで壮絶だった。実家が地主で裕福、このマンションも親から引き継ぎ家賃がかからないなんて貧乏育ち貧困生活の私からしたら素直に羨ましい要素ばかりだけど、単純にそうとだけは思えなかった。近しい親戚一家が実は血の繋がった両親と兄姉きょうだいで、長年その人達に疎まれていた。可愛さんは悪くないのに生まれてきた自分を責めてしまう。とても優しい人なのに長年陰でいじめられて、心無い言葉を投げつけられて。可愛さんは平然と他人事ひとごとのように話していたけど、それが逆に傷の深さを象徴しているようで胸が締め付けられ、反射的に守らなければと思い、抱きしめたくなった。放っておいたらそのまま消えてしまいそうな気がして……。男性相手にこんな風に思うのは初めてで、自分で自分の言動に驚いた。

「あっ。思わずくっついちゃったけど、私臭くなかった?」

 昨日の昼間はけっこう暑くて汗をかいた。そのままの服で一夜を過ごしてそんななりで抱きついてしまって、今さらながら恥ずかしさが込み上げてくる。

「いえ、全然! 嬉しかったです」

 慌てたように首を横に振る可愛さんは顔が真っ赤で、こっちまで気恥ずかしくなる。今さらだが、なんてことをしてしまったんだろう。

「でも、昨日もちょっと暑かったし、お風呂まだで気になりますよね? よかったらシャワーどうぞ。着替えも新しいのありますから」

「いやいや、それはおかしいからっ」

「そ、そっか、そうですよね」

 なんだかドキマギしてしまう。本当はシャワーを浴びてさっぱりしたいけど、そこまで世話になっていいのだろうか。付き合っていないのに好き、そういう曖昧な関係性。とりあえず友達ってことになったけど、ものすごく気を遣ってくれての発言だと分かる。どこまで普通にしていいのだろう。完全に手探り状態だけど、可愛さんと会ってからの私は穏やかな気持ちを感じはじめている。どれもこれも最近忘れていた感情、というより知らない自分だった。守りたいとか支えたいとか、他人に対してこんなに慈しむ心が芽生えるなんて、昨日の時点ではありえなかった。

「可愛さんは他の人とは違うかもって感じてたけどさ」

「ホントですか? 嬉しいです! 俺も同じこと思ってました」

 満面の笑みで心底嬉しそうな可愛さん。その笑顔に、不覚にも癒されてしまう。

「よかったらご飯も食べて下さい。ケーキ先でって、順番逆になっちゃいましたけど」

「何から何までありがとう。そういえばお腹空いてるかも」

「そうですよね。簡単な物ですけど作りますから」

 雑炊をあたためたり、新たなおかずを作り始める可愛さん。本当に料理が好きみたいだ。食材もけっこうそろっている。

「すごい。手際いいね」

 感心しながら料理の手元をのぞく。そのとき視界の端で大量のチョコレートが見えた。いろんな種類が棚に置いてある。

「可愛さんチョコ好きなの?」

「あっ、それは風岡さんのです」

「私のなの?」

「前に、好きだって言ってたから」

 そういえば、そんな話、仕事中にしたことあったような。ずいぶん前のことだ。マンション清掃を始めて間もない頃のことで、あれはもう十年近くも前になる。可愛さんは月に一、二度、ロールケーキやたいやきなど小さめのおやつを差し入れしてくれたことがあった。女性といえば甘い物好きとは世間一般に知れ渡った定番のイメージで、そこから外れた私はこのイメージによく苦笑いさせられた。雄亮にも甘い物は苦手だと何度も伝えたのに、聞いた瞬間それを忘れてしまうのか、彼はすぐまた甘い物を買ってくる。嫌いなら捨ててしまえばいいのだろうけど、食べ物だけはどうしても粗末にしたくないので無理にでも食べると「やっぱり好きなんじゃん!」と勘違いされる。その延々ループが地味にストレスだった。可愛さんに対しても、ああやっぱりあなたもそういうイメージを持ってるんですね今までの彼女がそういうタイプだったんですかと内心思ったりした。今となってはいい思い出だけど。

「そんなことよく覚えてたね。ずいぶん前のことなのに」

「もちろんですよ! 風岡さんの好みが知りたくてアンテナ張り巡らせてたので!」

「またもう、そういうことを」

 恥ずかしくてついそっけなくなってしまうけど、正直嬉しかった。そんなにストレートに気持ちを伝えてもらうのが。私はそこまで素直にはなれないけど、可愛さんと関わっていたらいつかそうなれるのだろうか。生い立ちに同情してしまったのもたしかだけど、きっと可愛さんの育ての親はとても良い人達なのだろう。可愛さんを見ているとそう思う。ねじ曲がったところがなくて素直で優しくて、明るくて前向きで。どうしたらそんな風に育つのだろう。私とは真逆の環境で大切にされてきた人なのだろうなと思うと羨ましくなると同時に、育ての親が優しい人そうでよかったと安心もする。もし可愛さんが今の親の養子にならず実の親の元にいたら、どんな人になっていたのだろう。きっとこういう可愛さんではなかったかもしれない。

「できました」

「すごい! ドラマとかで見るような朝ご飯だ!」

「ドラマですか! それは光栄です。冷めないうちにどうぞ」

 アホみたいな私の反応に、可愛さんは笑ってくれる。ご飯代わりの雑炊と味噌汁。おかずには焼き魚とほうれん草のおひたし。卵焼き。ポテトサラダや煮物まである。ものすごく健康によさそうだ。ここのところ、節約も兼ねて朝食は飲むヨーグルトだけですませていた私からすれば贅沢すぎた。昼間も配達で走り回ることも多いから満腹までは食べられず、ここのところ粗食だった。さっきは見栄を張って揚げ物系は外食ですますと言ってしまったけど、最近はそんな金銭的余裕もなかった。家賃、社用車と自分の車で二台分の駐車場代、水光熱費、各種税金と、今の会社に勤めてから出ていくお金がこわいほど増えて、バナナすら買うのがもったいないと感じた。我慢し続けた副作用なのか、可愛さんが用意してくれた料理を見ているだけで満腹になれそうな気分だ。

「もし足りなかったらおかわりあるので、好きなだけ食べて下さいね」

「ありがとう、なんか至れり尽くせりだね。いただきます」

 なんだかまだ夢の中にいるみたいだった。高級マンションの室内にはじめこそ緊張したものの、いつの間にか居心地が良くなっている。可愛さんがそこにいるからだろうか。味噌汁を一口飲んで、フリーズしてしまった。

「なにこれおいしい!」

 汁物といえばとりあえずインスタント味噌汁をたまに飲む程度だった舌が、ビックリしている。

「最近ちょっと無添加にこだわってて、出汁だしも素材から取るようにしてるんですよ。といっても手軽に出汁パック使ってるだけなんですけど」

「無添加? 出汁パック?」

「あっ、ごめんなさい。こんな話、かえってご飯がおいしくなくなりますよね」

「ううん。こっちこそ何も知らなくて申し訳ないくらい」

「いろいろ作り方はあるんですけど、これが一番かもって最近思ってて」

「そうなんだ。すごくおいしいよ。本当に好きなんだね、料理」

 出してもらったおかずに次々箸を伸ばす。口にするたび空腹になるような感覚。作り方のことはサッパリ分からないけど、これまでの人生で出されたどの手料理よりおいしいと思った。

「食べた物で体は作られる。きっと心も。風岡さんが少しでも回復できたらって、いろいろ考えながら作るの楽しかったです。たしかに料理は趣味ですけど、やっぱり食べてほしい人がいるから上手になりたいって改めて思うのかもしれません」

「そんなこと考えて作ってたんだ」

 これまでも何度か人の手料理を食べた。美凪みなぎの家で泊まった時、美凪の両親が出してくれた。昔付き合った男にも作ってもらったことがあるし、雄亮の実家でも何度か出してもらった。どれもおいしくはあったけど、なんていうのか、私のためだけに作った料理ではなかった。当然なのだけど、美凪の親は美凪に食べさせるついでに私のを用意したのだと知っていたし、義実家もそうだ。私はあくまでついでで、メインは雄亮や義弟を喜ばせること。男の手料理はすごく苦手だった。私のためというより「こんな手の込んだ料理できる俺スゲェ」感たっぷりで、自己顕示欲増し増しな皿を見ると食べる前から胃もたれしプレッシャーだった。うちの親に至ってはもう手料理以前の話。時間も手間もかけたくないといい基本的に自炊はしない人達で、学校から帰っても夜に食べる物が何もないなんて日がよくあった。父が気まぐれで買ってきたカップラーメンが大量にあると、ついていると思ったものだ。バイトをするようになってからは自分で適当にハンバーガーやコンビニ弁当を買うようにしていた。一人暮らしをキッカケに自炊に挑戦しようと調理器具をいろいろ買い込んではみたものの、基礎の基礎すら分からないし、日々の労働疲労でそんな意欲は消え失せた。

「風岡さん……!?」

「あ、ごめん」

 なんでだろう。可愛さんの料理を口にしたら涙が出てきた。不思議だ。料理だってそれそのものはただの物質に過ぎないのに、そこに込められた想いというのは確実にあるなと思う。純粋に私のために作ってくれた、それが料理からも伝わってきてなんとも言えない感情が込み上げてきた。

「いやさ、私のためにって、そんな風に料理作ってもらったの初めてで」

 結婚生活で気が緩んだ私は、実家にいた時とは比べ物にならないほど体調を崩しやすくなった。一人暮らしではないという安心感もあったのかもしれない。雄亮も自炊をする人ではなかったので、私が倒れると出前を取ったりインスタントのおかゆなどを買って対応してくれていた。それでも充分ありがたいこと。そう思おうとして、本音は違ったのだと今知った。

「こういうのずっと求めてたのかも」

 食べながら泣く。可愛さんは自分の席から離れて私の隣に座ると、そっと背中をなでてくれた。

「泣くほど感激してくれるなんて、作ったかいありますね」

 背中があたたかくて、涙が止まらなかった。そういえば、昔から泣くことを我慢してきた。泣くと親が怒るし、嫌そうにする。すがろうとしても私の手を振り払う。嫌われるのがこわかった。泣きやめば怒られなくなる。笑っていれば嫌われない。泣く代わりに笑うくせがついた。

『お前の笑った顔、気持ち悪い』

 昔、可愛さん似のあの同級生に言われた。その時からしばらく表情迷子になった。笑っていいのか真顔にしていたらいいのか、分からなくなって。相手の顔色を読み、反応を変えることで対応していった。自分の本当の気持ちはどこかへいってしまった。

「私の笑った顔、気持ち悪い?」

「絶対それはないです! かわいいですよ」

「本当に? 気遣ってない?」

「それ言ったの誰ですか? 見る目ないんじゃないですか? ちょっと今からぶん殴ってきます」

「ふふっ。もうどこにいるか分からないよ」

「そんなぁ。気が晴れないですね」

 本気で殴りに行ってくれそう。つい笑ってしまった。

「こんなにたくさん作ってくれてありがとう。材料費あとで払うね」

「いらないです」

 可愛さんは私の肩を両手でつかんで自分の方に向かせた。

「お金はいらないから、嬉しい時は笑ってください」

「でも……」

「お金に困ってるって、つらいって言ってましたよね? そんな人から受け取りたくありません。地獄に落ちそう」

「地獄って」

 思わず笑ってしまう。

「そう、その顔。風岡さんが心から笑っててくれたら、それでお返しは充分です」

「でも」

「それにね、この関係がもう、お金以上に価値があることじゃないですか?」

「そうかな?」

「そうですよ。だからもう、お金払うとか言うの禁句ですよ」

「つい言っちゃうかも」

「言っちゃうかー、そっか。言わなくなるまで待ちますよ」

 可愛さんはまるで小さい子をなだめるように私の頭をなで続けた。片方で私の頭をなで、もう一方の空いた手で私の涙を拭ってくれる。どっちが歳下なのか分からなくなる。この手に甘えてもいいのだろうか。手料理に、可愛さんの対応に、心が癒されていくような気がした。本当はずっとこうして泣きたかった。気持ちを話したかった。聞いてくれる人がほしかった。

 私に必要なのは心療内科の薬でもカウンセリングでもなく、こういう時間だったのかもしれない。ありのままに自分を出せる環境。甘えられる相手。昔からずっと誰にも頼らないよう、気を張って生きてきた。それももう終わりにしていいのだろうか。

 なかなか泣きやまない私のために、可愛さんはタオルを持ってきて顔を拭いてくれた。タオルはふわふわでいい匂いがした。

「やっぱりお風呂、入ってってください。お湯に入れば気持ちも多少ほぐれると思うから」

「でも……。付き合ってないのにそこまではなんか」

「絶対のぞきません! 変なこともしないって約束します」

「そう言われるとかえって怪しい」

「そんなっ!」

「ウソ。言ってみただけ。そうしようかな」

「はい!」

 泣きながらゆっくり食事を終え、お風呂に入らせてもらうことにした。今のアパートがユニットバスというのもあるが、節約ばかり意識してなかなか湯船を入れられないでいた。たまに入るけど、本当に限界まで疲れた時に半身浴をする程度で。今日だけとはいえこんな贅沢できるなんて、数年分の運を使い果たしたような気がしてしまう。地主ってすごいんだな。と、改めて思った。ご飯も、思ったよりたくさん食べてしまって恥ずかしくなったけど、可愛さんはバカにすることなく嬉しそうに対応してくれてすごく居心地がよかった。

「うわぁ、別世界」

 浴室に案内され、可愛さんの気配が遠くなると同時に思わずつぶやいてしまった。全面ガラスで仕切られた脱衣場と浴室。浴室はうちの数倍の広さ。それだけでも充分なのに、外側が全面窓になった浴室からは街の景色が一望できる。これが俗に言うビューバスというやつか。たしかに脱衣場に入ってこられたら入浴姿まで丸見えでとんでもないことになる。落ち着かない気持ちで髪を洗い、改めて窓の外を見た。遠くの空と地平線まで見える。見下ろした景色の中で今日もたくさんの人が行き交っている。私も昨日まではあの中の一人として動いていた。可愛さんにとっては日常なのであろうこの景色も、私にとっては非日常だった。こんなに広い浴室を使ったのも初めてだし、とことん住む世界が違うと思った。

「いい匂い」

 湯船は乳白色でいい香りがしていた。さっき可愛さんが何か入れてくれたみたいだ。お湯もあたたかくて、疲れた体に染み入るようだった。シャンプーとコンディショナーも見たことないメーカーの物で、丁寧に洗う気力がなかったから雑に洗ってしまったのにツルツルな仕上がり。きっと高価な物なのだろう。上品な香りがする。そういえばさっき可愛さんからも同じ匂いがした。私からしたらこのマンションは異次元空間で旅行に来ている気分にすらなるのに、これが可愛さんの日常だなんて、何と言ったらいいのか。昔からひしひしと感じてきたことだけど、日本国内の貧富の差はえげつない。

「友達、かー……」

 可愛さんはああ言っていたけど、友達ってなんなんだろう。まあ、強引に恋愛関係にならないための言い訳なのかもしれないけど。気持ちに応える自信がないのにズルズル友達を名乗って甘えて、その関係に頼り続けていいのだろうか。歳上なのにこんなありさまで情けなくなる。でも、可愛さんはそういうのを気にしていなさそう。頼りになれる人間になりたいとまで言っていた。今でもじゅうぶん頼もしいのに。

「いいのか、な」

 体がほぐれて、だんだんリラックスモードに入ってくる。半身浴もいいけど、全身湯に浸かるのは本当に気持ちがいい。初めは落ち着かなかった高級そのものの浴室も、次第にゆったりできる空間になった。脳波が切り替わったのか、さっきまでは何かとガチガチだった思考がやんわり揺らぎはじめた。絶対無理だと決めつけていたけど、もし本当に可愛さんと付き合ったらどうなるんだろう。ここにしょっちゅう泊まったりすることになるんだろうか。逆に可愛さんがうちのアパートに来る展開もあるのだろうか。似合わなさすぎて、想像すると笑ってしまう。さっきのハグ以来、可愛さんはなるべく私に触らないようにしているみたいだったけど、付き合ったら一線を越えることになるのだろうか。想像しただけでのぼせそうになる。

 離婚して早五年。その間誰とも付き合わず独りを貫いてきた。男女交際から離れてもう何年経つのか。距離感を縮めていく過程や雰囲気、その辺の感覚が鈍ってしまっている。可愛さんは人としての優しさもあってああしてくれたのだろうけど、頭をなでられるのも久しぶりで、優しくしてもらって嬉しくて安心すると同時に少しドキドキもした。男の人の大きい手。

 手を繋いだり抱きしめあったり。そういう普通のカップルみたいなことを、付き合ったら当然することになるのか。初めてなわけじゃないのに、可愛さんがその相手になるのかもと考えるだけで頭が真っ白になる。想像できそうで全くできない。未知の領域だった。妥協でいい加減に付き合ってきた過去の人達とは違う。

「どうしよう。おばあちゃん」

 ずっと忘れていたおばあちゃんのこと。私はずっと、おばあちゃんを心の支えにして生きていたのかもしれない。ついさっきまでそれすら忘れてしまっていたけど。遠い記憶すぎておばあちゃんの顔もはっきり思い出せないけど、優しかった手。ただそこにいるだけでいいと言ってなでてくれた。そんな大人が近くに一人でもいたことに、ひどく救われたような気持ちになる。可愛さんがいなければ絶対思い出せなかった。可愛さんはやっぱり特別な人なのかもしれない。そう思ってしまってもいいだろうか。











ところどころ不足があったので、加筆や修正をしました。(2025.6.2、8:50頃)

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