新たな葛藤
昔から人に嫌われてきた。仕事も恋愛もうまくいかず人生全般に疲れ、ダメな生活に終止符を打てるだろうと思って決めた結婚も失敗し、雄亮や義両親にも敬遠される結末となった。雄亮と別れることで色んな柵から解放され楽になれたのは本当によかった。とはいえダメージも大きかった。離婚が決まったとたん、それまでとは別人のように雄亮は冷たくなった。私が録画保存していたテレビ番組は相談もなくHDDから全て削除されていたし、離婚後に移動させる私の荷物についてラインでやり取りした時もずっと敬語だった。出会って以来ずっとタメ口だった人に敬語を使われるあの違和感は不気味ですらあった。二人で楽しく過ごした時間もたくさんあったのに、別れた瞬間そんな態度を取られるのは悲しかった。妥協の相手でもそんな気持ちになったのに、将来もし可愛さんとそうなってしまったら……。私は今度こそ生きていけないかもしれない。
気が緩んで、つい可愛さんに色々と話してしまった。今の仕事のことや生活の苦しさ。そんなことまで話すつもりはなかったのに。可愛さんはケーキを食べる手を止め、私の顔をずっと見ていた。寄り添うように耳を傾けてくれた。ひとつひとつの返事がとても丁寧だった。それが嬉しくて、つい油断して口を滑らせてしまった。
そして……。まっすぐな告白。何の飾り気もない好きという言葉。あの頃何度も妄想していた場面が現実のものとなった。その衝撃は思っていたより大きく、生まれて以来こんな喜びはなかったと言えるほど嬉しく、舞い上がりそうになるのを必死に我慢した。前から好意は感じていたけど確信を持てないままここまできてしまった。最後に会ってから五年も経っている。そんなに長い月日を経た今、以前と同じ気持ちだとは限らない。倒れた私をここへ連れてきてくれたのも知り合いのよしみで、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。時が流れ別の人と関係を深めているかもしれない、その可能性も考えていたから。はっきり好きだと伝えてくれたのは本当に嬉しく、ありがたいこと。ずっとずっと望んでいた展開。
でも、いざその場面になると、素直に喜ぶだけではいられなかった。ここは見るからに富裕層向けの家だ。以前やっていたマンション清掃では色んなマンションに行った。分譲マンションということでオートロック完備の物件も多かったし、国道沿いで十階建て以上、近隣には生活に必要な全ての施設が揃っている利便性の高い優良物件にばかり行っていた。そういった物件には四六時中自由に過ごしているような裕福な暮らしをしている人、外で労働している人、両方が混在していた。どうやって生計を立てているのか謎なお金持ちの人が住んでいる、それが私にとっては大きな驚きだった。清掃で入っていた分譲マンションでもそんな風だったのに、ここはそういったマンションとは別格だった。意識を失って運ばれて来た手前まだ見れていないけど、ここはきっと広いロビーと充実した宅配ボックスが使える、マンションコンシェルジュとかが常駐するタイプのマンションで、賃貸なら家賃数十万円は軽くいくだろう。パッと見だけでも分かる。別の階に芸能人が住んでると言われても疑わないレベル。家の安アパートには絶対にない用途不明のスイッチやパネルが理路整然とリビングの壁に並んでいるし、内装も広い。大きめの家具を置いているのにまだ余りあるスペース。奥行を感じる広々とした空間。マンションというより高級ホテルの一室といってもいいかもしれない。テーブルもシステムダイニングも光沢があって、私など一生触れられないほど高価な物だということが分かる。可愛さんはなんて事ない顔でケーキやお茶を用意してくれたけど、ティーカップを出すことすら私は緊張した。棚はもちろんティーカップ自体も、コレいくらするのだろう絶対百均などではないなと、そんなことをつい考えてしまうくらいだった。こんなところで暮らせるなんて、可愛さんは今の仕事で相当稼いでいるか実家が太いか、どちらかなのだろう。それが分かってしまうと嫌でも思い出してしまう。雄亮の実家のことを。あの家の人達は元富裕層で現在は金欠まっしぐらだ。それでも意識は富裕層時代のまま変わることがなく、結婚当時義母は私にこう言った。
『財産目当てにここへ嫁いだのなら残念ね。家には嫁に渡せるようなお金はないから、生活費はせいぜい自力で稼いでちょうだいね』
嫌なタイプの元金持ちだと思った。たしかに雄亮の稼ぎをアテに結婚を決めたのは大きいが、親の遺産にまでは興味がなかったので心外もいいとこ。大金を持った経験のある人は誰彼構わず疑って貧乏人相手に毒を吐く性質でもあるのだろうか。あの時は妥協婚だったのもあり、義母の言葉に対する傷も浅く一瞬の不快感くらいで済んだけど、もし可愛さんや可愛さんの両親にまでそういうことを言われたら傷つくどころでは済まない。本当に今度こそ死ぬ。絶対に。それくらい、私は可愛さんとの関係を大切で失いたくないものだと思っている。それに、それだけではない。
「風岡さんと仕事してた頃から思ってました。この人はきっとこうやって自分を守って、同時に人の事も大切にしてきたのかもしれないって。なかなかできることじゃないです。でもきっと一人ではつらいから。脆そうで、支えたいし、守ってあげたい。そう思いました」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、そんな風に言われるほど出来た人間じゃないよ、私」
褒めてくれる可愛さんを否定せずにはいられなかった。可愛さんは私の良い部分しかきっと見ていない。本当はもっとドロドロしていて汚い部分がたくさんあるのに、それを知らずに好きとか言ってくる。後で幻滅して離れていかれるくらいなら、今のうちに、始まる前からその好意を潰しておいた方がこっちの傷も浅くすむ。
「でも、たしかに今の俺、判断力が鈍ってたかもしれませんね」
心臓がドクンと嫌な音を立てた。自分から拒絶したのに、可愛さんが告白を取り下げたらどうしようと、不安になる。無意識に彼の好意を試していたのだろうか。可愛さんは両手で大きく前髪をかきあげ、申し訳なさそうにうなだれた。
「風岡さんがこういう状況の時に、まるで弱みにつけこむみたいなタイミングですよね。そんなつもり全くなくて……。話の流れで言ってしまいました。困らせて本当にすみません。今は風岡さんの仕事をどうするかが一番重要なのに、俺自分のことばかりで。再会できたのが嬉しくて、もう離れたくなくて……。正直焦ってました」
可愛さんは変わらない。いい意味で。いつも素直で、すぐに自分の非を認める。気持ちをまっすぐ話してくれる。そんなところが素敵だと思い、そんな彼を仕事で見るたび私は成長させてもらえた。
私は昔から自分の非を認められない人間で、そんな風なので当然謝るのも嫌いだった。関係の浅い人になら会話の流れで空気を読んで表面的に謝ることはできたけど、それは心から出た謝罪ではなく内心〝そっちも悪いクセに〟とよく思ったものだ。彼氏など、関係性が深くなりがちな相手にほどその悪癖は強く出た。自分が悪いのに悪いと認められず、非を責められると謝るより先に言い訳の言葉がまっさきに口をついて出た。自分の短所を指摘されると人格を全否定されたような気持ちになり、悲しくなり怒った。そんな風だからよけい相手の神経を逆撫でしてしまう。疲れていると仕事場でもそうなってしまうことがあり、目上から呆れられることもたびたびあった。今になって分かるのは、過去の私は〝謝ると潰される〟〝指摘は全否定の合図〟なのだと、歪んだ認識を強く刷り込まれていたのだと思う。原因は育った環境にあるのだろう。家の親は、私が何かミスをしたり親の思う通りに動かないとしつこく責めてきたり、瞬間湯沸かし器のようにカーッと怒鳴りつけ、ひどいと手が出るような人達だった。謝ったところで親の怒りは収まらず、
「悪いと思ってるならどうしてやった!?」
と、よけいに責められる。謝ったことを褒めらることは一切ない。物心ついた時からそうだった。その時の無力感や絶望感は無意識にどんどん刻まれ、後々の実生活に大きな悪影響が出ることとなった。それに加え親がそういう人格だったのも影響していると思う。自分の非を棚に上げ周りばかりを悪者にし不満をまき散らす性格の両親を見て育ち、知らず知らずのうちに言動をトレースしていた可能性も大きい。子供は親を真似る。私も例に漏れずそうだったのだろう。親は家の中でいつも誰かしらの悪口を言っていた。
最近はよくSNSなどでも〝謝らない人間とは関わらない方がいい。素直に謝れる人間は信用できる〟とか〝ありがとう、ごめんなさいが言えない人間はダメ〟という意見をよく見る。本当にその通りだと思う。ただ、そうして非難される側の人間にも事情があるので寄り添う目線で見てほしくもあると、当事者の私は思ってしまう。世の中の大半は〝謝らない人イコール人間性に難がある〟判定をする。それはその通りだ。私も自分のそういう性格が嫌でしょうがなかったからよく分かる。雄亮にも何度かそこを指摘されたが素直に受け入れられなかった。そっちだってこうじゃんと相手の欠点を心の中で言い返していたし、常に他責思考。自分が一番可愛い精神。こうなったのは周りのせいで自分は悪くない。そう思わないと自分を守ってこられなかったのだと思う、幼い頃からずっと。
そんな私が素直に自分の非を認めて謝れるようになったのは、仕事で可愛さんの素直さに触れたのがキッカケだった。掃除しているとたまに、住民からマンションの照明が切れていることや水道の水漏れがあるなど、私が直接手を出せない領域の指摘を受けることがあった。そういったトラブルは必ず可愛さんに伝え、そこから管理会社に伝わり問題に対応してもらう流れなのだが、ある時その連絡が管理会社に伝わっておらず、住民から「前からずっと言ってるのに、ちゃんと伝えたのか!?」と私が怒られた日があった。その時可愛さんは、自分の確認および連絡ミスだと認めて住民と私に対して真摯に謝ってくれた。そして、私の言い分、マンション住民の言い分、管理会社の言い分を全て聞いて、最終的にはトラブルを丸く収めた。そんな姿に胸を打たれた。これまで派遣で色んな所へ働きに行ったけど、私のミスだけ徹底的に指摘して言い分など一切聞いてくれない職場や、自分のミスは棚上げで私のことだけ責める社員ばかりだった。でも可愛さんは違った。会社の性質が優しいというのも作用したのかもしれないが、可愛さんの仕事や人への向き合い方、その姿勢をもって、私はそれまでの自分の生き方を心から恥じて反省し、本気で変わりたいと思った。それからは可愛さんを見習って、自分のミスをまず認めてみるところから始めた。口先だけの謝罪と心からの謝罪はやはり違うのだと分かる人には分かってしまうようで、それ以来私はだいぶ生きやすくなった気がする。雄亮からもいい感じだと褒められた。同時になぜ自分が謝れない人間になったのかを冷静に自己分析することができた。可愛さんがいなかったらそんな自分には絶対なれなかったと思う。自分の非を認めるのは怖いことではない、そう教えてくれた人。
回想に思いを馳せていると、可愛さんが言った。
「何を言われてもきっと風岡さんを忘れることはできそうにないです」
「それは嬉しいけど、でも……」
「そうですよね、困らせてごめんなさい。俺も諦めるつもりでした。諦めるつもりで、ずっと努力してたんですけど……」
「もしかして、あの時会社を辞めたのもそれで?」
「はい。風岡さんは結婚してたから。風岡さんが辞めるって言った時、離れたくなくてとっさに引き止めたけど、やっぱり一方的に想ってるだけなのがつらくて。風岡さんのこと諦めるために退職したんです」
そういうことだったんだ。
なんで辞めてしまったのか分からず長い間モヤモヤしていたけど、ようやく知れた。私のせい。そうだったんだ。
「風岡さんは特別な人なんです。あの頃からずっと」
私だってそうだ。私にとって可愛さんは特別で、きっと死ぬまで忘れることはない。離婚してから派遣で行く職場の先々で何度かアプローチされることはあったけど、もう昔のように誰彼構わず交際しようとは思わなかった。誰のことも職場の人以上には思えなかったし、もう自分を雑に扱いたくないと思った。気がつけばフリー歴五年が過ぎている。途切れず彼氏がいた結婚前の自分には考えられなかった変化だ。常に心の中に可愛さんがいる、それも大きかった。カップルだらけの連休の街を歩くと孤独が身に染みてつらく、家に帰ると涙が出た。時に寂しくても、男の人でその穴を埋めようとは思わなくなった。でも、可愛さんは違うだろう。今どうやって生計を立てているのか知らないが、こんないい所に住めるほどのお金を持っているのに、そう思えないほど言動に嫌味がなく爽やかで、見た目も清潔感があって話していても感じが良い。これからいくらでもいい相手が現れるはずだ。かたや私は彼より七つも年上で、貯金もゼロに等しい給与マイナスの業務委託ワーカー。
「どうしてそこまで……。可愛さんなら他に選択肢があるでしょ? 何もこんな人間を選ばなくても……」
「好きなだけじゃダメですか?」
「若さってこわいね」
嫌味な言い方をしてしまったが嫌味ではない。本気でこわかった。その純粋さや向こう見ずな感じが。五年前はこういう展開を何回妄想したか分からないのに、いざ実現してしまうと恐怖が先にきてしまう。それが悲しかった。もし私がもっと若ければ、もっとお金があれば、まっとうな会社勤めができていたら、そんなifを並べたところで歳の差が縮まるわけでもないし、私が一般的な社会人になれるわけでもない。可愛さんは私の言葉に一瞬悲しげな顔をしたものの、すぐに持ち直した。
「年下で頼りないかもしれないけど、風岡さんを支えられる人間になりたいんです」
「気持ちは嬉しいけど、でも……」
「ずっと後悔してました。何も言わずにあの会社を辞めてしまったこと。風岡さんのそばにいたくてあんなに引き留めたのに……」
馬鹿な私は、結婚と離婚をしなければ理解できなかった。人生はお金が全てではないということを。
〝お金がないと不幸になる〟
生い立ちにより形成された固定観念を壊すにはそれ相応の年月と経験が必要だった。
初めからストレートに正しい道を選んで生きていければいいのに、私の人生はそう都合良くはいかなかった。寂しさを埋めるためにおかしな異性関係ばかり持ち、我欲で結婚し、離婚することになった。妥協妥協と言ったけど、そんな雄亮と離婚するのにも大きな精神的苦痛がともなった。人間って生き物は五年も一緒に暮らせば情が湧いてしまうのだと思い知った。子供の頃、不仲なのに離婚しない父と母を見て「それなら早く別れてしまえばいいのに」とよく思ったけど、今ならそれも理解できる。たかが紙切れ、されど紙切れ。人間同士が交わす契りは見た目以上に深く重たいものだ。
可愛さんと雄亮、ほぼ同時期に二人との関係を失った頃、実家に戻った私はしばらく地獄のような生活を送った。あの親に優しい対応などはなから期待していなかったが、それならせめて放っておいてほしかったのにそうはいかなかった。私の結婚が上手くいかなかったのは私に非があると偉そうに言う父。顔だけは良く産んであげたのになぜうまくいかないんだろうねと芸能ゴシップを見ている時と同じ顔で笑う母。弱っていたのもあるのだろうが、大事な存在を失ったばかりの心にトドメを刺すには充分すぎる言葉ばかり降ってきて気が狂いそうだった。そのうち心身にダメージがきて終日働くのが困難になり、バイトやパートなど短時間の勤務すら難しくなり、すがるように心療内科に通った。投薬と併せてカウンセリングも受けた。早く回復してフルタイム勤務がしたかったのにそれらに即効性はなく、毎週通っていても効果があるのかどうかよく分からなかった。心療内科の人達は一部の医師を除いてカウンセラーの人、受付の人ですら皆話し方が柔らかくとても親切だった。それに安心し嬉しくなる一方、自分はそんな扱いを受けねば壊れてしまうほど追い込まれているのだと自覚してしまう場面でもあった。カウンセリングや薬で一瞬はスッキリした気がするものの、家に帰ればあの親がいる。やはり現実は現実。薬やカウンセリングがどれだけ完璧なものだとしてもこれは環境を変えるまで治るものではないと思い、途中で通院をやめた。カウンセリング料金が高く保険適応外で、支払うのがきつくなってきたというのもある。一度嫁に出した娘は出戻ろうがもう他人だと言い、両親は月に三万円の生活費を要求してきた。無職の状態で月三万円の出費は厳しいが、それで文句を言われずにすむならと貯金から払うことにした。実家を出てから私の部屋だった場所は長年物置にされていたので、そこに置いてあった古本やらよく分からない置物などを無理やりどけてスペースを作り、一畳ほどのスペースにかび臭い布団を敷いて縮こまって眠った。父も母もズボラで家の掃除は年に数回しかしないような人達だった。長年手入れされていない部屋や布団はダニもいて全身が痒くなった。ダニ駆除用の薬剤を薬局で買い、汚れた布製品全部を洗濯し、家中に掃除機をかけ、食材や調味料、洗剤なども親のは使わず自分の物は自分で買ってきてそれを使うようにしていた。風呂や台所を使うとお金がかかると文句を言われ、掃除機をかけると音がうるさいだとかホコリが舞うからやめろと言われた。昔だったらただ耐えるしかない場面だったが、今はお金を払っているのに文句を言われる。汚い家で暮らすイライラも重なって、
「うるさい! 黙れ! そんなに私が邪魔か!」
ストレスが爆発し、気づけば大声を出していた。昔だったらそこで容赦なく殴ってきただろうが、親は二人とも高齢でそんな体力はなくなったのか、ボソボソ何かを言い返してくるだけですんだが、その後も小言はやまず反抗の意味はなかった。結婚してから減りつつあった白髪がその頃一気に増え、肌も荒れ、心底老け込んだような気分になった。結婚している時に貯めたお金はこの時期に一気に減っていって恐ろしかった。水光熱費といって渡した三万円が父親の道楽や母親の個人的な買い物に消えていると知った時は冗談抜きに禿げるかと思った。怒りと虚しさ、やるせない気持ちが混ざり合い頭皮がヒリヒリした。
美凪が言った。
「早めに次の恋した方がいいよ。男って何だかんだ支えになるから!」
凜音が言った。
「志輝は独りでは生きていけないと思う! 私もそうだから分かる。言ったら悪いけど志輝の親ひどいよ。そんな家は早く出た方がいい」
離婚後は二人からの連絡になかなか返事を返せず、久しぶりに出た電話で軽く現状を話したらそれぞれ意見をくれ、ものすごく心配された。ありがたいことのはずなのに、それをありがとうとか嬉しいと思えるほど私にも余裕がなく素直にもなれなかった。早く次の恋を見つけた方がいいだとか独りでは生きていけないだとか、すでに決まった相手が居る人に言われても……。と、やさぐれた気持ちになった。あんた達に私の気持ちなんて少しも分からないでしょ!? アドバイスとかマジでウザイ! 幸せな人って他人の痛みに鈍感でホント無神経だよね! そう言いそうになって何度も飲み込んだ。それだけは言ってはいけない。日々ラインの通知や電話が鳴った。憂さ晴らしに遊ぼうとかそういう誘いなのだろうなと想像できたけど、今は誰とも話したくない。美凪とも凜音ともそこそこ長い付き合いだ。会話になれば何を言われるかだいたい読めるし、それに苛立ってしまう自分を想像できたから。時間はあったし折り返しの連絡をしようと思えばできたかもしれないが、あえてしなかった。友達の存在そのものがストレスに感じ、徹底的に避けた。美凪は結婚後も実家の近くに住んでいたので車で帰省し私の実家に訪ねてくることもあったが、そんな時は仮病を使って早々に帰らせた。凜音も毎週のように電話をしてきたが着信に気付いても出ないようにした。そのうち誰からも声がかからなくなった。自分より幸せそうで恵まれた友達らの存在より、スピリチュアルカウンセラーのブログに癒された。唯一の心の拠り所だった。まさに欲しかった寄り添いの言葉がたくさん書いてあり、読むだけで心が落ち着いた。目に見えない世界の話も興味深かった。自分はあえてこの人生を設定して生まれてきているのだということ。それを知ると何だかすごく楽になって、可愛さんと会えない寂しさも、この感情を味わうために生きているのだと思えた。そのブログのおかげでなんとかフルタイムで派遣社員をやれるくらいまで回復できた。離婚から一年が経つ頃ようやく実家を出れた。貯金も底をつきそうな状態で安アパートでの一人暮らしを始めた。壁も極薄で近隣の騒がしさがひどく環境は良いと言えなかったが、実家よりだいぶ気が楽で天国にさえ思えた。誰の顔色も伺わず水光熱を使え、好きな物を好きなだけ食べられるのがとても幸せだと感じた。正規雇用ではないとしても、生活していけるだけの収入が得られるのが心底ありがたいと思った。以前ならあって当然で何の気にも止めなかったことに対しても、その頃からありがとうという気持ちが湧くようになった。派遣で雇ってもらえることも、住まいを借りられることも。家、環境、収入、車、衣服、健康、食事。今与えられている全てのものに尊さを覚えた。
心穏やかに暮らしつつも、そのうち、派遣社員を一生やるのはどうなのかと考えるようになった。やはり貯金できる金額は限られてくるし、時給はいいが残業や休日出勤も多い。休みらしい休みもなく、労働だけで日々が消費されていく。いつまでも根無し草ではいられないだろう。派遣社員を数年続けて社員登用されるパターンもあるが、そこまでしてこの仕事を続ける覚悟はなかった。年齢を重ねることへの不安もあるし年々人間嫌いになっている。どこにでも嫌な人はいる。そんな暮らしにこの先も耐えていけるのか。精神力、体力、共にそこまで自信がない。その時ネットでいろいろ調べて出てきたのが不労所得という言葉だった。調べれば調べるほど私に合っていると思えた。不労所得で悠々自適に暮らしていく、それが人生の目標になった。どうしたら叶えられるのか必死に考えた。今の収入を考えると賃貸経営は現実的ではない。もっと初期投資が少なめで済むものはないか。調べてみると、立地に左右されるがコインランドリーや駐車場経営なんかは賃貸経営よりはリスクが低そうだと思った。そのための資金を稼ぐには派遣社員の収入ではとても追いつかない。もっと多く稼げる仕事でないと……。そこで今の会社の求人を見つけた。人間嫌いでもできそうな上に月収五十から六十万円。渡りに船とはこのことか。これなら業務委託に関わる諸費用を払ったとしても毎月かなりの貯金ができる。将来不労所得で生きることも夢ではない。
仕事行かないと。
この仕事、狙い通り運転中は一人で気楽だけど、収入が事前情報よりかなり少なく精神的にもきつい。
『歳ばっか食って何の役にも立たないんだから、荷物くらいちゃんと運んで』
ある日、配車係の強面男性社員にそう言われた。他者の事故による渋滞に巻き込まれ、依頼先への配達時間が一時間ほど遅れてしまった。ええ、たしかに歳食ってるけどさ。言い訳も一切せずちゃんと謝ったのに一方的にそう言われ、とても不快だった。会社側も事情は分かっているはずなのに。長年務めてきた派遣会社でも何年か前からコンプライアンスを徹底し始めたため、社内でのパワハラやモラハラ、セクハラには目を光らせていた。複雑な作業を伴う労働や人間同士の駆け引きが面倒ではあるものの、そういう規約に守られて年々働きやすくはなっていた。でも、運送業にはコンプライアンスも何もなく、強い者が言いたい放題やり放題の実態。働くまで知らなかったが、世間には運送会社の人間を下に見ている者が多い。こちらの作業工程があちらの理想と違うとかで腹を立て、気が狂ったように怒鳴りつけてくる取引先の男もいた。それは全国的に有名な家電量販店での納品時の出来事で、一気にその会社のイメージがダウンした。今後絶対にそこでは家電を買わないと決めた。葬儀場に電報の配達に行った時もひどかった。こちらの配達に非はなかったが向こうの都合でお客様への受け渡しが遅れたとかで怒り狂っていた。見ていてこちらが恥ずかしくなるほどバカみたいに感情むき出しで受領サインを殴り書きした、髪型だけオシャレな感じの悪い男性社員。もし身近に葬儀をあげる人がいたらあの葬儀場だけは辞めた方がいいよと言ってやろうかと思った。弁当屋の代配をする時も、数量の確認の仕方があちらの理想と少し違っただけでこれでもかというほど罵詈雑言を浴びせてくる爺さん社員もいた。老害ってこういう奴のことかと思ったし、その弁当屋に高級なこと以外これといったイメージもなかったのに一気に印象が悪くなった。そんな人間が関わっている店の弁当なんてたとえ高級でおいしくても絶対食べたくないと思った。
「あそこ、若い社員さんはいいんだけど年寄りほど俺達への扱いひどいんだよ。配達員なんて社会の底辺って思ってるんだろうな、何言っても許されるって勘違いしてる」
同じ会社には理解者もいる。
「理不尽だよなぁ。風岡さん、よく持ってる方だよ。俺もさーあそこだけは行きたくないもん。もっと給与が高ければ我慢料って割り切れるけど、ここは中抜きエグいからなー」
仕事のつらさを共有できる人もいる。給与体系への不満も手に取るように理解してもらえる。つらいのは自分だけではない。うわべだけだとしても全然いい、励まし合える人がいるのは心強い。こんなの親に支配されていた子供時代に比べたら全然マシだ。苦しくない。雄亮との結婚生活に比べたら自由でとても恵まれているはずだ。そう思い、会社のロゴが入ったポロシャツと適当なスキニーパンツを履いて家を出た。社用車に乗った瞬間、胃液が込み上げてきて動けなくなった。運転などしたら間違いなく事故を起こすと思いその日は致し方なく欠席の連絡をしたが、電話を受けた社員の男にあからさまなため息をつかれ気まずかった。
「仕事を選んでばかりいると仕事割り振ってもらえなくなるよ」
入ってすぐの頃、配達員に仕事を割り振る係の社員に言われた穏やか口調の脅し文句が頭をよぎった。
人生を良くするための転職がまさかの理不尽続きで、これは天罰が当たったのかと思った。妥協の結婚をして雄亮を振り回し、人一人の人生に影響を与えてしてしまったことの。そんな身勝手なことをしておきながら可愛さんに惹かれてしまったことの。
結婚生活については甘んじて罰を受けようなどという気持ちには到底なれなかった。雄亮も自分のステータス上げのために私を利用したのだ。今はお互い様だと思う。でも、可愛さんのことは……。立場をわきまえて会話を楽しむのがギリギリだった。凜音のような道を、選ぼうと思えばできたかもしれない。あの頃、婚外恋愛を打ち明けてくれた凜音にだけは可愛さんのことを話した。そしたらとても応援してくれた。
「でもさ、聞いてるとじれったいなー。もうちょっと強引に来てくれたらいいのにね、可愛さんもさ」
凜音はそう言っていたけど、その言葉に私は内心モヤモヤした。凜音の不倫を否定はしないが、自分はしたくない選択だとハッキリ思った。
結婚している立場で他の人とは関係を結べない。過去に罪悪感なく浮気を繰り返してきたとは思えないほど私の意識は変わった。それは、不倫は悪だからとか、世間一般でよく言われる善悪の話ではない。どうしてもあの時は可愛さんの気持ちに応えられなかった。凜音には決して言えないことだけど……。誰かを裏切って始めた関係はお互いに不信感を刻み込むからだ。それは確実。恋愛初期特有のナチュラルハイに流されて初めはうまくいったとしても、無意識下で絶対に思う。
〝この人はパートナーを裏切れる人。いつか自分もこの人に裏切られるんじゃないか〟
可愛さんにそんな風に思われたくなかった。
それと、もうひとつ。きっとまだ一度も結婚したことのない真っ白な可愛さんを、そんな汚い沼に引きずり込むようなことはしたくなかった。痛みを伴うとしても、自分の身を綺麗にしてから付き合うのが筋だと思った。
この結婚は学びだった。お金が最も大事だと思っていた私が本当に大切なものを理解するための。痛みがなければ、ここまでしなければ、理解できなかった。バツがつかないと成長できないどうしようもない人間だった。
「付き合えなくても、今の状態でも、すごく幸せだよ」
私は凜音にそれだけ言った。凜音の方は決定的な行動を起こさない可愛さんに不信感があるみたいだったけど、私はそれこそ可愛さんの優しさだと感じた。これで強引に関係を持とうとしてきたら逆に幻滅していたかもしれない。
「なんか志輝変わったね」
凜音は困ったように笑った。きっといい意味でそう言ってくれたのだろうと思うことにした。
変わったのだと思う。昔の私だったら、結婚生活を維持したままのうのうと可愛さんとも関係を持ったかもしれない。でも、今は違う。それは絶対にダメだと思った。そんな風に大切な可愛さんを扱いたくなかった。これまで関わった人達と可愛さんは全然違うのが分かったから。
「凜音が言ってたこと、わかるかも。今やっと、ちゃんと純粋な恋愛をしてる感じ」
可愛さんを好きだと思った。三十代になって初めて恋を知ったような気持ちだった。昔の男女交際は恋愛の予行演習にすらなっていない、親との関係で満たされなかった心の穴をただ埋めようとしていただけのものだったと気付く。
付き合っていても、そうでなくても、可愛さんが大切だ。そう思える相手に出会えた。こんな風に人を好きになれる日が来るなんて、それまでの私は想像すらしなかった。
「雄亮とは別れる」
「本気!?」
凜音は驚いていた。
「でも、生活とかお金のこと考えると厳しくない? 実家にも頼れないんだよね?」
「うん。いろいろ不安は尽きないよ。でももう、雄亮と一緒にいるのが苦しいし失礼だと思う。今はもう結婚した頃の私じゃないから」
雄亮にはきっと別に合う人がいる。あっちもあっちで妥協で私を選んだのだろう。だとしたら本気で好きになれる相手に出会えた時のために離婚しておいた方がいい。それまでは男にすがらないとやっていけないと弱腰だったのに、可愛さんに想われて初めて自立する心構えが整った。そんなに好かれたのはきっと初めてで、こんなに想ってくれる人は後にも先にも二度と現れないと思えた。それだけで心強かった。
「それに、こっそりピル飲み続けるのも疲れたしね。そろそろやめたい」
取ってつけたように、私は凜音にそう言った。
「えっ!? 志輝も飲んでたの!? 実は私もずっと飲んでて……」
「そうだったんだ。でも、凜音は子供ほしいって言ってなかった?」
「結婚したばかりの頃はね。ああいう人って分かってから、そんな人との間に子供産むのは不安だなって思って、それからこっそり。副作用も怖いけど、子供できるよりはいいかなって」
「そっか、そうだったんだね……」
そんなところまで同じだなんて、凜音とはやはり不思議なつながりを感じてしまう。
雄亮は結婚前から子供を望んでいたが私は望まなかった。親から必要とされず邪険にされてきた子供時代を思うとどうしても産む決断はできず、自分は絶対に子供は産まないと昔から決めていた。でも、子供を望むフリをしないと雄亮は私から離れていきそうな気がしたので望んでいるフリをした。義実家関連の人達に見つからないよう、わざわざ遠方の産婦人科に通った。そんな風だったのでよけい義実家での私の立場は悪くなっていった。そのうち義弟が結婚して子供が産まれたのでさらに窮屈な気持ちになった。なぜ私達夫婦には子供ができないのかと義両親は怪訝な顔をする。自分にも子供がいればそんな場面も堂々と乗り切れたのだろうか。いざ産んでみたら可愛いのだろうか。産めば何とかなるもんなんだろうか。一瞬弱気な気持ちになるもすぐに取り消す。自分の気持ちを楽にするために子供を産むなど、絶対あってはならない!
昔海外で行われた有名な実験がある。生後間もない赤ちゃんと一切スキンシップを取らず食事や排泄の世話だけをするというもので、そうすると赤ちゃんは全員すぐに死んでしまったらしい。人は、世話をする者に笑いかけられたり抱きしめられて初めて命を育めるのだと証明された実験だ。ということは、私も赤ちゃんの頃は親から大切に育てられていたということになる。だったらなぜ私の記憶には親との優しい思い出がないのだろう。本当に可愛がられていたのは生後数年だけで、物心ついた頃から嫌われたのだとしか思えない。親はどのタイミングで私を産んだことを後悔したのだろう。親の気持ちなど全く分からないが、分からないからこそ子供を産むなどとリスキーな選択は絶対できなかった。時々ふんわり思うことはある。もし産んだらそれはそれで可愛がれるのだろうかと。でも、その先が想像できず、むしろ自分が虐待親になる姿ばかり浮かんだ。自分のように苦しむ子を増やしてはいけない。そんな気持ちを正直に話したところで、雄亮にはきっと理解できないだろう。義両親は顔を合わせる度に「孫はまだか」と言ってきた。「なんでだろ、なかなかできないね」と、新婚の頃は雄亮もずっと首を傾げていた。私から見たら非常識で強欲な義実家だったけど、うちよりは間違いなく親子間に愛情のある家庭だった。結婚後も雄亮の誕生日にはこれでもかというほど料理を作ったり買ったりしていたし、そのうえプレゼントまで用意していた。成人して何年も経った息子にそれはマザコンなのかと本気で思ったのも確かだけど、雄亮もそれが当たり前のように過ごしていた。きっとあの人達にとってはそれが当然で、雄亮もそういう家庭を夢見ていたのだろう。昔付き合っていた男達のうち何人かはすでに妻子持ちだ。こっちは興味などなく彼らの現在など知りたくもないが、たまに美凪がインスタなどで情報を仕入れて報告してくる。
「コイツ、志輝のこと都合良く扱って捨てたクセに今は結婚して女の子二人も育ててるんだよ! ありえないよね、クソ過ぎる!! 嫁も美人! とはいえ志輝の方が勝ってるけどさ!」
私の空虚な恋愛遍歴は、美凪の目には私を弄んだ男達の悪事として残っているらしい。過去の私を思って悪口を言ってくれるのは嬉しくもあり、半分ありがた迷惑でもある。一度そういう事実を知ってしまうと、美凪ほど感情はこもらないものの面白くないのはたしかだった。何で私は満たされない毎日なのに彼らは幸せそうなんだろう。悔しい。
そんな過去を抱えて、汚い感情も友情もないまぜにして、それらを自分の内部に取り込み生きている。そんな私は、可愛さんの隣に立つにふさわしいのだろうか。両想いが確定して初めて、それまでにはなかった葛藤が生まれた。
「そんな風に言ってくれてありがとう。可愛さんの言葉も想いも、嘘はないんだと思う。嬉しいよ。でも……。そんな褒められるような、好かれていいような人間じゃないんだよ。嬉しかったことや楽しい思い出もたくさんある友達なのに、私より恵まれて幸せそうってだけで関わるのが嫌になって一方的に距離を置いた。仕事で関わった嫌な人達にも毎日心の中で毒吐きまくってる。恋愛に憧れはあるけど、この先運良く結婚できたとしても、毒親育ちだから子供は絶対産みたくないし」
きっと幻滅するだろう。前途ある若い可愛さんが恋愛をするには荷が重すぎる。
今ならまだ嫌われても大丈夫。少し昔を知っている程度の知人に戻れる。だから。
とはいえ幸せになりたい気持ちも本当。だからこそ初めに全て話しておくべきだと思った。自分のことも、今の想いも人生への理想も全て。雄亮との結婚みたいに周りを騙して形だけ取り繕っても結果は同じだと分かったから。
「運送会社で働くことにしたのも荒稼ぎしていずれ不労所得で生計を立てるためのお金を貯めたかったから。可愛さんは前からよく私の働きぶりを褒めてくれてたけど、本当は働くのが嫌いなの。仕事自体は好きだしやってて楽しいと思うこともあるけど、それに付随する人間関係が苦手なの。根本的に人が嫌いなんだと思う。それを顔に出してもいいことないから愛想良くしてるだけ。全部自分のため。周りのためにやってきたこと、今まで全然ない。優しいなんて分不相応な評価だよ」
もう吐き出すものがないくらい、一気に言った。体がとても軽くなった気がする。言ったはいいものの、やっぱり可愛さんの反応がこわくて彼の顔を直視できなかった。視界の端で可愛さんがうつむくのが分かった。




