Villain
【注意】
この作品には暴力的あるいはグロテスクな表現が含まれています。
閲覧の際はご自身の心理面に配慮していただきますよう、お願い致します。
斜陽の射す茜色の空に、幾筋も立ち昇るぎとぎとした黒煙。戦闘機の編隊が飛び去り、爆音を残していく。街で燃え盛る炎は凡百な有象無象を黒い炭と白い灰に変え、畢生を曇らせていく。
廃墟と化した街で、1人の男が佇む。複数の兵士を従え、かつての平穏を失ったこの国の情景を感慨深く見つめながら。
「ある思想家は、貨幣の持つ性質は価値尺度と価値蓄蔵にあると説いた。しかし悲しいかな、多くの人間は未だにこの紙きれ如きに価値そのものが宿っていると思い込んでいる。その為に一体どれほどの血が流れたのかと思えば……、実に浅ましく、実におぞましい」
彼はゆっくりと、亀裂の走った地面に立つ自らの足元を見遣る。埃1つ無く、光を反射しててかてかと輝く革靴の下で、ぼろぼろになって煤けた紙幣が風に翻る。
ずり、と靴底で擦るとそれはたちまち小さな欠片になり、塵芥となって遙か彼方へ飛んでいく。
追う視線の先、そこには植民地時代の建築様式を踏襲した国立中央銀行の優雅な威容が聳え立っている。しかし、それはもう過去の話。そこには半壊した古代神殿のような廃墟が寂しげに、天上へ立ち昇る黒煙を噴き出して炎を燻ぶらせ、鎮座しているのみだった。
耳を澄ませば、誰かの悲鳴が聞こえる。銃声が聞こえる。怒鳴り声が聞こえる。
戦車の履帯がアスファルトを踏み締め、不可逆の軌跡を残しながら前進する。平穏だった日々はもう戻らないと、今更のことであるかの如く人々に啓発するように。
息を吸い込んで、肺いっぱいに空気を満たす。鼻腔を衝くのは灰と血の混じり合った、生温かい空気。これは憤怒の空気、悲しみの空気。あらゆる負の感情が混ざり合い、この街に満ちている。
ここはまるで地獄、否、まさに地獄なのだ。皮肉にも、それは人間が自ら創り上げたのだが。
モスグリーンのスーツを身に纏い、国営放送に映る時のように自信たっぷりの表情を浮かべる彼。赤いネクタイを緩め、口の端を吊り上げた。
「人間とは、自分や身内が死ぬのは怖いというのに、他人の死は平気な顔をして望む。全く、愚かなものだ」
ふと横に視線を向けると、道路の脇にある商店の壁に凭れかかる女性の姿が目に入った。学校の運動着を着て赤いハチマキを巻いた彼女は、腹部に広がる赤い滲みを押さえて彼をじっと見つめている。その双眸の奥に微かな炎を揺らめかせながら。
興味本位につかつかと歩み寄ると、彼女はたちまち顔を青ざめてきょろきょろと周囲を見回す。そして近くに落ちていたリボルバー拳銃を掴み、震える手で構えて照準を彼に向ける。
パーン。
乾いた発砲音が響く。しかし放たれた弾丸は虚空を貫き、足を止めた彼はやれやれと両手を広げてみせる。
「どうした? 確かに赤は緑に対して映える色だ。だが、このスーツはクリーニングから返ってきたばかりでね。汚したくはない」
「……この、悪魔め」
歯軋りして、彼女は言葉を紡ぎ出す。憎悪に顔を歪ませ、苦痛と憤怒に身を震わせながら。
「悪魔? ……ほう、面白い」
彼は鼻で笑った。
「確かに君達にとって、私は悪の象徴かもしれない。だが、それは私から見た君達も同様だ」
彼は血に塗れた相手を指差す。白い柔肌に浮かぶ仲間の血で施した三本線のフェイスペイントは、奇しくもカルト的な団結と連帯の表象となっていた。彼はしゃがみ込み、下ろされた拳銃の銃身を掴んで発射口を自身の額にぴったりと合わせる。
すると彼女は顔を横に振ってできるはずもない後ずさりをしようと藻掻く。先刻とはまた異なった、悲痛に満ちた声がその小さな唇から零れ落ちる。
「嫌……、私は、……」
「私が憎いのだろう? 恐いのだろう? ……一体何を躊躇う必要がある?」
拳銃を持つ彼女の手を上から浅黒い手が押さえ、引き金に掛けた指がゆっくりと動き出す。
既に枯れたはずの涙で瞳は潤み、双眸をぎゅっと閉じたその表情には強い拒絶が浮かぶ。が、
――カチッ。
弾倉が回転し、撃鉄が作動して軽い金属音が鳴る。一方で銃口の向けられた彼には、傷1つ付けられていない。
彼は両手を離し、きょとんとした声で言い放つ。
「どうした? 弾切れじゃないか」
彼は立ち上がり、茫然自失の彼女を見下ろす。
「じゃあ、これはどうだろう?」
そう言ってスーツの内側から取り出したのは、植物の彫刻が入った銀色の自動拳銃。
彼はそれを構え、照準を彼女の額に向けた。
絶望に打ちひしがれ、口唇はぴくぴくと震える。焦点の定まらない視線は自身に向けられた真っ黒な銃口を見据えようと動き、その瞳の中では微かな流動体が混ざり合って淀んでいる。
「……あっ」
薄い声帯がようやく発した声も、1発の発砲音によって掻き消される。
額に空いた大きな穴、深紅や白色の混じり合ったタンパク質やカルシウム、灰白質の混合物が瞬時に弾け、力を失った頭部はそのまま背後の壁に寄りかかる。
壁のポスターを彩る、真っ赤な極彩色のドリッピング。浅黒い肌の、スーツを着た男性の勇ましいイラストを覆い、派手に飛び散った深紅の液体は霧雨となって再び彼女の顔に降り注いでフェイスペイントのフェティッシュに彼女の魂も加わる。
「おや、これは弾が入っていたようだ。申し訳ない」
銃身に付いた血液を白いハンカチで拭き取り、スーツの中へしまう。そして向きを変え、数歩踏み出したその刹那。
「おっと、いけないいけない」
彼は道端に生えていたタンポポの花を千切って彼女の腹部に添え、冷たくなりつつあった手でその茎をぎゅっと握らせる。
そして血塗られた顔に手を翳し、恐怖で開いたままの瞼をそっと下ろした。
これでよし。そうして彼は踵を返し、黒塗りの高級車の周囲に立つ兵士達に視線を向けた。
未だ戦闘の音は鳴り止まない。だが、彼らの表情はいつになく凛々しい。
彼は口角を上げ、そっと呟いた。
「……楽園への道は、未だ険しいようだ」