第七話 昔日の駿影2
U 18
帝王賞。 ダート戦線では上半期の最強決定戦とも揶揄される、夏の大一番である。
かつてはjpn1であった格付けも、今やGⅠと認められ、中央・地方問わずダート界隈を賑わしてきた一流馬が集う大レース。
暮れの東京大賞典と対を為すように帝王賞は大井競馬でも最も力が入っているレースでもある。
駿は前日の朝から柊オーナーと父の巌に直前まで見送られてから調整ルームへと入った。
あまり馴染みのない大井の調整ルームについてから、駿はじっと椅子に座り込んで手元に視線を落として目を瞑る。
ワイルドケープリに調教をつける以外の時間は、この帝王賞に向けて予習をしてきた。
それこそ、人生に覚えがないくらいに騎手も馬も、そしてこの大井競馬場の事も頭に詰め込んでいる。
膝の上で丸めていた拳を開き、目を開けてじっと見つめる。
もう一度握り込むと、じんわりと手汗を掻いているのが指先を通じて感じた。
今回もダークネスブライト、ネビュラスターは出走表に名を連ねている。
かしわ記念の勝ち馬であるディスズザラポーラを始めとして、中央からの参戦も多く近年でもレベルが高いレースになりそうであった。
ワイルドケープリは勝てるだろうか?
その疑問には確信を持って、駿は応えられる。
それは実際にかしわ記念を走って実感してことでもあった。
勝てる。
ダート戦線でも一際輝かしい実績を持ち、実際に見た上で、ネビュラスターは間違いなくトップクラスだ。
あれだけ外に振られて、スパートのタイミングで壁を作られたにも関わらず、結果こそ降着になったとはハナ差でディスズザラポーラを差し切っているのだから折り紙付きだ。
そのネビュラスターと互角、あるいは自分が落ちなければ出し抜いていたかもしれない事を考えると、ワイルドケープリもまたトップクラスだ。
ダークネスブライトは言わずもがな、牧野が騎乗しているディスズザラポーラも侮れない。
馬の力は互角。
結果が変わるとすれば、どれだけ騎手が馬の力を引き出してあげられるか。
また、引き出せる状況にしてやれるかが境目だろう。
駿はそっと左肘に手を添えた。
まだ多少の違和感が残るが、殆ど完調に近い。
自分次第で結果は変わる。
人の気配を感じて左肘を抑えながら顔を上げると、後輩である牧野晴春が何時の間にか隣に立っていた。
「牧野……」
「ども、早いですね、先輩」
「ああ……」
「集中したいかも知れないって思ってましたけど、かしわ記念の時はそれで後悔したんで。 邪魔かもしれませんけど、少し話しませんか?」
地方に戦場を移してからは牧野との交流も殆どなかった。
かしわ記念で久しぶりに再会したが、その時は駿に周囲を気にする余裕は無かったので、結局話すこともなくレースを迎えていた。
牧野にとって林田駿というジョッキーは実績はともかくとして、自身の騎乗スタイルの理念の礎になった人であった。
恩人の一人であり、今でも中央で乗鞍に恵まれているのは彼のおかげでもあると本気で信じている。
多少疎遠になってしまっていても、機会が訪れればこうして他愛のない話をしたかったのだ。
久しぶりの再会は駿が病院に居た頃にもあったが、落ち着いて話をする時間はここに来てようやくと言った物だった。
「……先輩、怪我明けなんで無茶しないでくださいよ。 どっちかっていうと、俺は先輩の身体の方が心配ですから」
「なんだ、余裕じゃないか。 ネビュラスターにもダークネスブライトにも勝てる自信があるのか?」
「ええ、まぁ。 一応考えてはきてますよ」
「……そうか」
「ワイルドケープリのことも、ちゃんと考えてますしね」
何気なく、本当に何でもない事の様に受け応えた牧野に、駿は一人喉を鳴らした。
先輩後輩、一人の個人としての交友。 だが、それはそれとしてジョッキーとは基本的に他人は商売敵である。
まして厳しい所で鎬を削り合っているならば、当然のことだ。
「ただ、そうっすね。 ネビュラスターには勝たせたくないかな」
「そりゃどういう」
「事故とは言え先輩落としてますからね。 個人的にも田辺さんの乗り方はあんま好きじゃないんで」
「落ちたのは俺の責任だ。 ナベさんは関係ないぜ」
「そうかもですけど、直近でも最近ラフな乗り方されて不利受けてますんで。 やっぱちょっと思うところはありますよ」
「……」
愚痴のような話を聞きつつ、駿は立ち上がった。
ディスズザラポーラの状況、対抗馬の作戦もそれなりに薄らと見えてきた、これ以上は雑念を呼び込みかねないだろうと判断したのである。
一言、二言交わして部屋へと向かう途中、ふと駿は気付いた。
偶然かも知れないが、牧野は駿に遠回しに情報を共有してくれたのではないか。
穿ちすぎかもしれないが、自分にとって利の有る話だったのは間違いなかった。
「……牧野、俺は―――いや」
「? どうしたんです?」
「ワイルドケープリが勝つぜ、この帝王賞は」
それだけ言って、駿は自身の調整ルームへと入っていく。
牧野は苦笑し、頭を掻いて見送った。
「先輩、気合入ってんなぁ……俺だって負けるつもりで乗りはしませんよ」
GⅠ / 帝王賞
大井競馬場 ダ2000m 曇/重 全13頭 19:50 発走
1枠1番 ワイルドケープリ 7歳 牡 4人気
1枠2番 カウントフリック 4歳 牡 7人気
2枠3番 フェイスボス 6歳 牡 6人気
2枠4番 ウェディングコール 4歳 牝 11人気
3枠5番 ダークネスブライト 5歳 牡 1人気
4枠6番 ネビュラスター 4歳 牡 2人気
5枠7番 ホワイトシロイコ 8歳 牝 13人気
5枠8番 キラースティー 6歳 牡 9人気
7枠9番 シンディナイス 4歳 牡 8人気
7枠10番 ディスズザラポーラ 4歳 牡 3人気
8枠11番 アイルハインド 8歳 牡 5人気
8枠12番 クラシックラブ 5歳 牡 10人気
8枠13番 ネイヨンキングス 6歳 牡 12人気
出走取消 パラソルサン
夜の帳が落ちて、ぐるぐるを回り終える。
俺は一歩ずつゆっくりと馬道を歩き、周囲の喧噪を耳朶から弾き出した。
輸送される直前まで出来ることはやってきたが、少しばかり時間が足りなかった。
シュンと合流するのが少しばかり遅かったせいだ。 ただまぁ、現状ではベストに近い状態まで持ってこれただろう。
カツリ、と音を立てた蹄を止めて、俺は少しだけ立ち止まった。
この前、一緒に走った6番と10番はともかくとして。
首をぐるりと傾けると、漆黒の馬体を揺らして一頭の馬が顔を出す。
馬装具を揺らして悠然と歩き、立ち止まった俺を一瞥すらせず通り過ぎていく。
―――こいつ、やべぇな
前の出走はニンゲン達に取り消しされた、俺と殆ど体格が変わらないデカくて黒いアイツだ。
あの時も身体が震えるような見の覚えのない危機感を覚えたものだが、こうして走る段になってみると実感として感情に迸る。
ニンゲン達もコイツの異質さには気付いているのだろう。
一番人気はこの黒い奴だった。
上に乗っているシュンが首筋に手を触れ、すれ違った黒いウマを追って俺は再び歩き出す。
背後から6番の蹄の音が聞こえてくる。
コイツも前の黒い奴を随分と気にしているが、俺にも視線を飛ばしてきている。
誰が相手なのか、しっかり分かっているようで前ほど周囲に威嚇も飛ばしていなかった。
まぁそうだろう。 間違いなくあの黒いウマの動向が今回のぐるぐるでは注目されるはずだ。
カエシウマという、観客のニンゲン達が喧しくなる物が始まる。
レース出走前に状態を見るのか、それともレースそのものにニンゲン達も命を揺らす準備をしているのか。
俺達ウマに取っては一緒にぐるぐるを走る連中の事、そしてケイバをするに当たっての最終的な確認を行う場所とも言える。
実際、俺以外のウマが何を考えているかなんて分かっちゃいないが―――
白い誘導馬が脇をゆったりと歩き、俺は星が瞬き始めた夜空へと視線を向けた。
次々と走り出すウマとジョッキー達を見送って、俺は星空を眺めながら周囲を観察し、最後の一頭が走り出してから地面を見つめた。
この大地を揺らして、また命を揺らす世界へと行く。
あの景色を見るだけじゃない。 理解する為に、俺は走る。
結果を出せば理解ができるのか? それとも違うのか?
一つ疑問を抱いて、俺は全身が泡立つような感覚に襲われた。
―――凄く良いぜ、解らないってのは
鼻から一つ息を吐き出して、シュンの送り出しと共に後肢に力を入れた。
その力強い踏み足に、カエシウマを見守ってるニンゲン達から感嘆にも似たどよめきが走る。
ニンゲンが多ければ多いほど、命が多ければ多いほど、揺らし甲斐があるってもんだ。
柄に無く、掛かりそうだぜ。
既に前にはカエシウマを行っているウマ達がおり、粉塵と共にゲートの近くへと向かって行く。
走りにくそうにしているのは2番と11番だ。 かなりパワーが必要なババだからな、巻き込まれない様に注意が必要だろう。
視線を向こう正面に向けて、心を落ち着けるように走る。
顔の傷が疼いて、口元を忙しなく動かした。
ぐるぐるを走るのに高揚するのは何時ぶりだろうか。
気付けば視界に前のウマの影が走る。
さっきまで居なかった筈の、黒いウマが俺の少し先を走っていた。
鞍も載せていないし、騎手も居ない。
こいつは? と思った時には黒い馬はどこにも居なかった。
待避所について探してみたが、やはりさっきのウマは何処にも居なかった。
強いて似ている奴をあげるとすれば、真っ黒な5番のアイツだが……
チリチリと傷痕が示す違和感に、俺は待避所の端によって脚を掻き上げ、不快感を示した。
不可思議な幻覚に俺はイラついていて、少しばかり気付くのが遅かった。
「さぁ、枠入りですが、順調に入っていっているようです。
さて、今回の帝王賞はなんといっても⑤ダークネスブライトと……ゼッケン⑥ネビュラスターの初対決に注目が集まっています。
前回のかしわ記念では残念ながらダークネスブライトにトラブルがあり、直接対決は叶いませんでしたね」
「ええ、しかも結果はネビュラスターが直線躓いて、ワイルドケープリ号に接触してしまい、降着という形になりました。
ワイルドケープリにとってもネビュラスターの陣営としても、あんな形でかしわ記念を終えてしまったことは納得がいかなかったと思いますね」
「とはいえ、ディスズザラポーラも力を証明しました。 前走のかしわ記念で落馬失格となったものの、好走をしたワイルドケープリも今日は人気になっています。
そのワイルドケープリが今、ゲートに入っていきました。
⑤ダークネスブライトも問題なく、少し落ち着かない様子だった⑥ネビュラスターもしっかりとゲートに収まりました。
馬場コンディションはあいにくの重馬場です。 今日は曇りがちながら晴れ間も見えていたのですが、砂は乾ききらなかったようです。
最後にホワイトシロイコが入りまして……態勢整いました。
第××回、帝王賞 GⅠ。 枠入り完了しまして――――……スタートしました! あっと、出遅れ! ワイルドケープリ出遅れました!」
ゲートが開いて走りだそうとした瞬間、手綱を引かれて俺は首を引っ張られて出足を邪魔された。
なんだ!? と思った瞬間には理解する。
落ち着いた様子だったシュンだったが、どうやら緊張で大人しかっただけらしい。
あぁ、と小さく声を出したと思ったら、慌てて前目につけるよう指示が飛んでくる。
しかし2番が内に刺さっておりこのまま前に行こうとするならゲートの最内枠を引いた俺は外を回らざるを得なくなる。
走る分には問題ないが、5番も6番も10番も前目に行っている。
アイツらを相手に悠長に外を回ってもたつけば勝負にならねぇ予感しかしない。
アンジョウを無視してウマのケツを眺める場所へとポジションを移す。
2番の後ろは嫌だが、仕方ない。
シュンの奴もいい加減に暴れんな。
やる気がねぇ訳じゃないから少しは落ち着きやがれ。
「遅れたのはワイルドケープリですが、前に行ったのはやはり⑩ディスズザラポーラか。
今日も快調に逃げの姿勢。 二番手位置につけているのは④ウェディングコール、⑬のネイヨンキングスが収まりそうか。
その後ろに⑤ダークネスブライト、一番人気の黒い馬体が此処に居ます。 ピタッとダークネスブライト、を見るように⑥ネビュラスターが此処です。
さぁ、最初のコーナーまで態勢これで決まるでしょうか。
⑨シンディナイス⑪アイルハインド③フェイスボス、この辺り固まっています。
1馬身後ろに⑧キラースティーがいまして⑫クラシックラブがその後ろ追走。 さらに1馬身離れて⑦ホワイトシロイコ、②カウントフリック。
出遅れてしまった①ワイルドケープリが最後方です。
各馬、ぞくぞくと第二コーナーに差し掛かります。
さぁ先頭に振り返って、おっと、これはなんと⑤ダークネスブライト。 この位置から一気に上がっていく。 作戦通りなのか、一気に前目に詰め寄って、その後ろをネビュラスターが追っているぞ。
ネビュラスターは完全にダークネスブライトをマークか。 ディスズザラポーラを追うように、いや、もう抜かした。
突っかけられた⑩ディスズザラポーラ、掛かったか、手綱を絞っているぞ鞍上の牧野、大丈夫でしょうか。
⑤ダークネスブライト、今日は前だ。 かなり早いペースになりそうだ。 展開は縦長になっている!
先頭は⑤ダークネスブライト、後ろにぴったり追走しているのが⑥ネビュラスターと⑩ディスズザラポーラ。 有力馬と目されて人気している馬が全部前に行きました。
かなり激しく争っています。 4番手以降ダークネスブライトやネビュラスターの動きにつられたか、⑨シンディナイスがここまで上がってきている。
③フェイスボスがその後ろ。 ウェディングコールは展開の速さに反応が遅れたかやや後退、ネイヨンキングスが③フェイスボスの前につけようと追っつけている。
⑫クラシックラブが1馬身遅れて、⑪アイルハインド。 その後ろ、いや、前が、先頭がまた動く。 激しく先頭が入れ替わっています、⑩ディスズザラポーラがまた先頭に立った。
向こう正面半分を過ぎてディスズザラポーラ、前は絶対に譲らない姿勢か! これはかなりペースが早い。
二番手はここで仕掛けたのか、それともダークネスブライトが下がったのか。 ネビュラスターが二番手です。 ⑨シンディナイスが前目の争いに加わる様にダークネスブライトの真後ろまで来た!
三角入って先頭はディスズザラポーラですが、殆ど差がありません! ネビュラスターはどうする、ダークネスブライトはどうするんだ!」
――――林田駿はゲートが開いた瞬間からこの向こう正面半分に来るまでに、何が起きていたのか全く事態を把握できていなかった。
事前に考えていた作戦は消し飛び、やるべきことが何かすら考えられず、ただただ前へ飛び出していく有力馬の姿に思考が白く染まった。
気付いた時には中盤に差し掛かっており、終盤に向けて前の馬達は激しく仕掛けている。
その時になってようやく、駿は自分の馬がどうなっているのか気にすることができた。
一完歩ごとに揺れる長い鬣、その背には触れている太腿を通して震えており、指先で感じる手綱からはハミを噛む意思が都度跳ね返ってきている。
咄嗟に駿は第3コーナーを回り始めた有力馬たちに視線を飛ばした。
縦長の展開、距離おおよそ15馬身。 ワイルドケープリは最内を走って膨れ始めた他馬に邪魔されないポジション。
思考は飛んでも見ていたから知っている、前目との距離を離され過ぎないよう、狭い内ラチ沿いで馬群を捌いて此処まで辿り着いた事。
くそがっ!! 何て馬鹿野郎だ!!
作戦がなんだ、事前に予習してきたから何だ、乗っている馬は何だ。
レースが始まってゲートが開いてからわずか1分。
しかし馬にとっては乗り役の騎手が意味不明な事をし続ける1分間はどれほどの事か。
この林田駿にとっては生涯唯一ともいえるほど強く賢い馬が、辛抱強く待ってくれて居る。
そうだ、ワイルドケープリだ!
ワイルドケープリがここまで何も出来ない自分を連れてきてくれていた!
勝手に自爆しているのに、勝ち負けができる場所にまだ居させてくれているなんて―――
「くそぉぉぉおおお!!!!!」
駿は吠えた。
騎乗している最中、GⅠに挑んでいる最中、そんなことで時間を浪費している暇があるなら一刻も早くゴールに向かって勝つ道筋を立てなければならないのに。
人生を賭けた感情を全て吐き出すように、駿は半ばヤケッパチで肺からすべての空気を破裂させ、音を響かせた。
不明な指示を寄越さなくなって、叫びだしたヤネに、ワイルドケープリは一つグッと身を沈みこませて応えた。
―――馬鹿がよ、おい。 奴らのケツも見飽きたぜ。 分かってるんだろうな
声なくとも受け取ったと感じる。
駿は両手に掴んでる手綱から一瞬だけ開いて、握り直した。
自身のチンケな考えや、小賢しい物なんて最早必要なんてない。
重賞の格付け?
ダークネスブライト。
ネビュラスター。
ディスズザラポーラ?
上に乗っかってる騎手も含めて。
そいつらがなんだ、どうだなんて些末な事だった。
ワイルドケープリの事を考えなくてどうして競馬が出来ると思っていたのか、清々しいほどに愚かな自分に腹が立つよりも最早笑えてくる。
だが、気付けた。
この土壇場で駿がすべきことを。
ワイルドケープリに切っ掛けを与えるだけでいい。
駿が跨るこの馬は、誰よりもレースそのものから興味を失って、誰よりも爆発的な才能に恵まれていた。
メイクデビューから乗ってきた駿が誰よりもそれを知っていたハズだった。
その馬がレースに向けて本気になってくれている。
そしてその脚でここまで来てるなら、もう自分は居ても居なくても変わらない。
僅かな時間、目を瞑り、ワイルドケープリの走りに併せる。
一歩、二歩。
身体の揺らぎを繋ぎ止め、上下左右に揺れる重心を一つに重ねて。
左手で鞭を取る。
目を開く。
「許してくれなんて言わねぇ! ぶち抜いてくれぇぇっ!」
――――最後方の馬群の中で燻っていた火種が爆発した。
「4コーナー回っていく! 上がってきた④シンディナイスが僅かに先頭だがここまでだ! 激しい先頭争いから脱落しそうだ!
⑩ディスズザラポーラ、ダークネスブライト、⑥ネビュラスター三頭が固まって大井2000最終コーナー!
ブライトが出たか! ブライト出たぞ! やはりダークネスブライトがグングン前に出て差を広げていく! ネビュラスターその背を必死に追って二番手だ!
ディスズザラポーラは一杯か、シンディナイスと共に後退!
直線入った帝王賞! 夏の大一番を制すのは⑤ダークネスブライト、⑥ネビュラスター! 更に後方、最内の最後方から①ワイルドケープリがすごい脚でぐんぐん前に来ている、凄まじい末脚だ!
栄光を掴むのはこの三頭に絞られたか!
ダークネスブライト先頭! 1馬身空けてネビュラスター必死に追う! その後ろ必死に追い上げるワイルドケープリ4馬身差、残りは200、ここから届くか!」
感覚が引き延ばされる。 何処までも流れてゆく景色が流れる線となって平行を描いていく。
視界に映る全ての色が混ざって、感情すらも揺れる大地に渦巻かれ溶けて消えていく。
このぐるぐる全てを巻き込んで揺れる。
それは表現のしようのない世界を構築していて、理解することを全て拒んでいるかのようであった。
ここは混ざり合った場所だ。
ブッチャーがぐるぐるで見つけた世界であり、俺を導いてきたこの場所が、俺達ウマの到達する所なのは最早疑いようがない。
6番が歯を食いしばって栗色の馬体を揺らして外を走っている。
目標は俺と同じ、この色の混ざった世界で黒を支配している5番だ。
命を揺らす場所で何処までも力強く意思を主張している、アイツだ。
ここまで来るのに偉く苦労したがよ、捉えたぜ。
命を揺らすのは5番でも6番でもねぇ。
この光景の先を見て理解するのは、俺だ。
自らの鼓動だけが音と鳴って身体を震わせる世界で、トップギアに入れる。
前のぐるぐるでは足らなかった速度を、走法そのものを変化させることによって上乗せしてきた。
新開発した走法だけで足りないのは6番のおかげで分かっている。
この先は正真正銘、俺にとっての全力だ。
新走法のストライドに加え、ピッチだけを加速させる。
ゴール板が視界に入り。
誰がどう見ても間違いなく、俺は一段階先の速度へと突入した。
―――! なんっで!
が。
目の前に迫った漆黒の馬体が伸びた。
錯覚ではなく純然たる事実として、踏み込んで加速した瞬間に開いた馬身。
どれだけ脚を振り上げようと一向に変わらない。
まるで時間が止まっているかのようで、何一つ景色が動かない―――というよりも変わらないまま前方の景色だけが流れた。
目の前の黒から見えない何かに押し出されるかのように身体が弾き飛ばされる。
届かない―――と直感的に後方へと押し流されて、思わず俺は脚を地に着けるのを躊躇ったが、瞬間首筋をぐうっと押されて頭が前を向く。
―――何を考えていた!?
シュンに押し出されて沈んだ頭を真っすぐに向けて、俺は黒を見た。
見据えた先に粉塵の陰から黒い流線が砂塵に混じる。
俺は目を逸らさぬ様に睨みつける。
漆黒の中からにじみ出る追憶の馬体の影にウマがいた。
何時から居たんだ。
何で居るんだ。
走っているのは。
俺の前を走っているのは。
あのカエシウマの時に過った。
在りし日に焼き付いた―――憧憬の影。
―――なんだテメェ……
掻きだす前脚、蹴り上げる後脚。
俺が前進した分だけ影は伸びた。
どこまでも、いつまでも、俺では。
ワイルドケープリでは追い越せないとでも示すかのように。
―――なんでテメェがブッチャーの影を背負ってんだ!
理性の奥底に埋まっていた本能に火が点いた。
「ネビュラスター食い下がる! ワイルドケープリも凄まじい末脚で追ってきたが!
ここに来て更にブライトが加速! 王者として負けられないか! 二の足で突き出た突き出た!
ネビュラスター、三冠馬の意地でじりじり迫る! ワイルドケープリも最後に一伸び襲い掛かってくるがここまでだ!
ダークネスブライト、今その実力を示し、悠々とゴールイン!
帝王賞を勝ったのはダークネスブライト! 半馬身か1馬身差か、最後に詰め寄ったネビュラスターとワイルドケープリはどちらが2着か際どい勝負でした!
ダート最強馬の称号に偽りなし! 第××回帝王賞を制したのはダークネスブライトです!」
「いけいけ!」
「差せぇ!」
「ああああぁぁぁっ」
篠田牧場のとある一室で大勢の悲鳴にも似た大声が響き渡った。
集まっているのは篠田牧場に務めている者、その家族、そして関係の深い者たちでおおよそ15~16人の嘆息であった。
映像に映っているのはダークネスブライトが先頭を駆け抜けてゴールを果たした帝王賞。
牧場長である篠田徹も、声こそ漏らさなかったが大きな溜息を吐き出してしまった。
かしわ記念でワイルドケープリがあわや一着か、という時は友人でありオーナーでもある慎吾に呼び出されて現地に居た。
今回も同様に声を掛けられていたのだが、種付けのシーズンも佳境を迎えており、施設の補修の立ち合いも重なってどうしても行けなかったが、帝王賞の結果に様々な感情が吐き出された。
「ワイルドケープリ惜しかったぁ!」
「ダークネスブライトが勝ったかぁ!」
「くぅぅぅワイルドケープリ負けたぁああ!」
「サイモン頑張った!」
「ブライト強いよなぁ! ネビュラスターにも勝ったよ」
「見てるか! ブッチャーぁ!」
「ちっくしょー、ワイルドケープリせめて連に入っていてくれー!」
「馬鹿野郎、なんて不純な動機で応援してやがる!」
「あ、私は複勝で取ってるんで」
「ママ賢いじゃんー!」
「トミオさんは男の単勝一点勝負だぞ、みんな見習え」
「ははは、ワイルドケープリ惜しかったなぁ」
篠田牧場へと勤め、未来の競走馬たちを育成している皆が皆、思い思いにレースの感想や買った馬券の話をし始めて、持ち寄った食事に箸をつける。
或いはスマホを取り出して各々結果やSNSなどを通じて呟いたりなど、自由に振る舞い始めて盛り上がっていた。
ぼんやりとその様子を見守ってしばらく、徹はゆっくりと立ち上がった。
残念だが、仕方がない。
生産者としてワイルドケープリに勝って欲しい思いは勿論あるが、普段頑張って牧場の運営を支えている従業員がこうして一堂に集まって盛り上がれたことの方が価値があるだろう。
祝勝会となるのが最も良かったが、勝った馬が強かったのだ。
それに―――ダークネスブライトの勝利は本来もっと喜ばしいことのはずである。
大部屋から外に出て懐から煙草を取り出す。
心臓麻痺で早くに亡くなってしまった、篠田牧場の看板種牡馬になってくれただろう アイブッチャーマン
その代表産駒、それがダークネスブライトだ。
今のところ、アイブッチャーマンの種で重賞馬となったのはダークネスブライトだけではあるが……だからこそ応援もしてしまう。
ワイルドケープリのかしわ記念を観戦後、牧場に戻ってきたらアイブッチャーマンは種付けが終わった後、様子がおかしくなってそのまま逝ってしまった。
篠田牧場の唯一の重賞馬だったアイブッチャーマンは、決して順風ではない篠田牧場の厳しい経営を支えてくれていた。
セリでは売れず、主取りになって、篠田自身が思い切って競走馬に登録した経緯があるから、余計に感慨深い馬だった。
慎吾がアイブッチャーマンを売ってくれればと愚痴っていたのが今でも鮮明に思い出せる。
最初にいらないって言ったのは慎吾の方だったのだが。
苦笑を一つ。 篠田は首を振った。
だからこそ、ダークネスブライトに破れたワイルドケープリであっても讃える声の方が大きく、非難の声は篠田牧場では上がらない。
ああ、しかし。
稼ぎ頭のアイブッチャーマンがこんなにも早く逝ってしまうなんて。
ダークネスブライトの台頭で、特にダート方面での種牡馬価値が上がってきた所だったのに。
我慢しようと思っていたが、心が落ち着かなくなって火を点けたところに胸元に居れていた携帯電話が震えた。
相手は先ほどまで帝王賞を走っていたワイルドケープリのオーナーであり、古くからの友人で会った慎吾だった。
ワイルドケープリはゴール板を駆け抜けて、ネビュラスターとダークネスブライトの二頭を抜かして馬群の先頭に立った。
しばらく脚を止めずに向こう正面に入ろうかと言うところで、ようやく速度を落としていく。
それでも立ち止まる事をせず、ゆっくりとした足取りでぐるりと態勢を変えようとしていた。
調教師である巌は、目深にかぶった帽子の鍔を手で支え、双眼鏡からワイルドケープリがゴール板を駆け抜けてから目を離さずにずっと追っていた。
普段から自分の管理馬のことは勿論、注視して見ている巌であったが、普段とは違うところに目が届いたのは偶然ではなかったのだろう。
本来、最初に見ることは無事に完走した自分の管理馬に異常が無いかどうかだ。
例えば脚を庇うような歩き方や歩様はとにかくつぶさに見ているし、回ってきた後は発汗の具合や呼吸の変化を必ず近くで観察する。
馬具にまつわる異常を含め、問題が何も無いかを必要以上に確認を行うのが40年間続けてきた調教師としての普段のルーチンだった。
しかし、今、晴れ舞台の帝王賞を走り切ってくれた馬が戻ってこようと、身体の向きを変えた時に巌の視界を埋めたのはワイルドケープリの震える顔であった。
脚が無事か、歩様はどうだ、何か馬体に不審なところは? 激しいレースを終えて心身と、レースに使用する馬具に何か異常はないか?
そんな普段からやらねばならない事よりも、真っ先にワイルドケープリの顔に興奮を覚え年甲斐もなく叫びだしたくなるくらいに全身に力がみなぎったのである。
ワイルドケープリはどんな時でも涼しい顔をして戻ってくるのだ。
それは重賞を勝利し顔に傷を負ったダイオライト記念の時であっても、先ごろのGⅠ、かしわ記念であっても……それ以前のどの様なレースでもだ。
ラストファインが入厩してからしばらく、走ることに前向きになっているのは巌だけではなく、ワイルドケープリの関係者である全員がそのことを感じ取っていた。
普通ならばやる気にさえ、走る気になってさえくれればワイルドケープリは何処でも勝てるほどの力を持っている。
しかしだ、そんな才能に恵まれた馬であっても、重賞となると勝ち切るのに必要な物があともう一つ、必要になってくる。
だが。
巌は身体を震わせた。
管理馬が戻ってくる。
掲示板に結果が表示され、僅かにネビュラスターにも届かずに3着という結果に終わった。
直線200を過ぎ、これからと言う時にダークネスブライトに一瞬突き放された。
レースの結果だけ見れば惜しかった、と言える。
だが、遂に手に入れることが出来た。 と林田巌は無意識に拳を握り込んでいた。
今までどれほど渇望しても、どれだけ願っていても手に入らなかった最後の材料がワイルドケープリに揃ったのだから。
3着? ああ、3着だ。
なんという恵まれた3着なのだろう。
ここまで3着であって歓喜の感情しか湧かないのは記憶にない。
むしろダークネスブライトとネビュラスターには怪物と確信しているワイルドケープリを上回ってくれて感謝したいくらいである。
巌調教師の隣で立ち上がっていた柊慎吾オーナーは、今日は馬主席ではなく巌の隣で帝王賞を観戦していた。
椅子に腰を落としたかと思うと、そのまま張りつめていた気を吐き出しながら、ずるずると腰を滑らせた。
「先生、分かっているつもりだったんです。 でも、勝てるかもしれないって思ってもいたんです。
あの一瞬、あの一瞬で格が違うということを分からされました。 ダークネスブライトって馬はなんて強い馬なんだ……」
観念したかのように嘆息し、巌にとって余りに見当違いの事を話し出すオーナーに、思わず笑ってしまう。
自分の馬が負けたというのに笑い飛ばされて、慎吾は頬を膨らませて巌調教師を睨んだ。
「先生、笑うことはないでしょう」
「ははは、いや、失礼しました。 オーナー、確かにダークネスブライトは素晴らしい馬です」
「本当に……ネビュラスターやワイルドケープリが追いついたと思ったら、そこからビュンっと伸びるなんて」
「誤解してはいけませんよ、柊オーナー。 確かにワイルドケープリは今回は届きませんでした。 力の差と言ってしまえばそれまでかも知れません」
「やはり、先生もそう思いますか」
帽子を改めて深くかぶり直し、双眼鏡でもう一度ワイルドケープリの顔を見ると、機嫌よく林田巌は言い切った。
「いえ、まったく。 しかし謝らなければなりませんね。 長らくお待たせして申し訳ございませんでした」
「? いや、スミマセン先生。 言っていることが良く分からないです」
「ワイルドケープリは今、完成したんです。 オーナー、今ここで聞かせて貰って宜しいでしょうか?」
「……はい? えーっと……?」
「何のタイトルが欲しいか、教えて頂きたい」
なんだそれは。
呆気に取られ、言葉を失う柊オーナーを尻目に、巌はただただ和らいだ顔で笑みを浮かべていた。
ワイルドケープリはレースを走る気力が戻った。
しかしレースそのものを走る事に前を向いただけで、巌から言わせて貰えば 勝利への執念 これがまったく不足していた。
だが―――だが今。
その目に宿る鬼気と怒りに。
ゆっくりと歩いて戻ってくるワイルドケープリの馬体から立ち上った煙は、もはや勝気の渇望の塊となって。
暫し逡巡したが、ワイルドケープリのその白熱した意思を削がぬまま、次に繋げる為の手を今すぐに打つべきだろう。
巌は最後に勝ち馬であり、ウィナーズサークルへと向かうダークネスブライトに目を向ける。
勝者として口取りを行っているその姿は、堂々としている。
真っ黒な馬体が白の光に照らされて、ワイルドケープリと変わらないくらい雄大な体を一際大きく見せていた。
そんな中、巌が見たのは息の入りだ。
そう、激しいレースだった。
ダークネスブライトの顔と呼吸を双眼鏡を片手に満足するまで見てから、ようやく双眼鏡を離して柊オーナーへと顔を向けた。
「オーナー、篠田さんに連絡は取れますか?」
「え、徹にですか? それはもちろん、取れますが」
「ワイルドケープリを一度、放牧に出そうと思います」
人生、馬を見る事だけに捧げた男の、最後の大博打の時が来た。
GⅠ / 帝王賞
大井競馬場 ダ2000m 曇/重 全13頭 19:50
1着 4枠5番 ダークネスブライト 牡5 川島 修二 人気1 厩舎(栗東・羽柴 有信)
2着 5枠6番 ネビュラスター 牡4 田辺 勝治 人気2 厩舎(東京・雉子島健) 2/1馬身
3着 1枠1番 ワイルドケープリ 牡7 林田 駿 人気4 厩舎(園田・林田巌) クビ
4着 7枠10番 ディスズザラポーラ 牡4 牧野 晴春 人気3 厩舎(栗東・鯨井恭二) 6馬身
5着 7枠11番 ホワイトシロイコ 牝4 町田 尚哉 人気13 厩舎(東京・吉岡真治) 1馬身