第六話 昔日の駿影1
U 15
「畜生! 普通あそこで落ちるか? ゴールまであと少しだったのに、おかしいだろう、それは!」
ワイルドケープリの馬主である柊 慎吾は関係者席で傍目構わずそう口から突いて出ていた。
まずは落馬してしまった林田ジョッキーの安否を気遣うべきだ。
頭では理解しているはずなのに、馬主になって20年余、初めてのG1勝利を目前にして突き出る感情は怒りであった。
最後の直線、逃げるディスズザラポーラを追ってワイルドケープリとネビュラスターが競っていた。
残り100を切った頃、最後の追い上げの場面でネビュラスターが内によれて、ワイルドケープリと接触した様に慎吾には見えたのである。
力が足りずとか、一杯になってよれた訳ではない。 恐らくネビュラスターにも何かアクシデントがあって内に凭れた。
そして最後、ワイルドケープリはネビュラスターとディスズザラポーラを抜き去って1着でゴール板を駆け抜けたのである。
落馬してしまった為、当然ながら失格だ。
だが、普通はジョッキーが落ちるとバランスを崩して馬は速度を失う。
だというのに、ワイルドケープリは伸びたのだ。 慎吾は拳を握って奥歯を噛みしめ、大きく息を吐いた。
勝っていただろう。 いや勝てたはずだ。 どんな形であれ、鞍上がゴール板を駆け抜ける迄ワイルドケープリにしがみついていれば、G1を獲れたのだ。
ネビュラスターやディスズザラポーラと言った人気する馬―――重賞を何度も獲得している強い相手に、自分の馬が勝てた。
競馬において落馬事故はそう珍しくない話だ。
馬主ならば誰もが分かっている話で騒ぎ立てるよりも今後を考えた方がはるかに建設的であり、感情を抑えねば悪目立ちもするだろう。
分かっちゃいるが慎吾は今すぐに大声で喚き散らし、大騒ぎしたい気分だった。
ああ、悔しい。
ずっとワイルドケープリを傍で見て来た人たちの方がずっと悔しいのはそうだろう。
しかしそれでも、この自身の感情の奥底からくる悔しさは抑えられない。
鼻息荒く何度も深呼吸を繰り返し、両手で抱えた頭の奥で必死に猛る思いを抑え込む。
「慎吾、行こう。 ワイルドケープリは残念だった」
馬主の柊慎吾にそう声を掛けたのは、ワイルドケープリの生まれた牧場主、篠田徹だった。
「すまん、徹、せっかく忙しいところを呼んで来てもらったのに」
「良いんだよ。 とにかく林田騎手が心配だな。 トップスピードの馬から落ちたんだ」
「ああ、そうだな……くそっ、悔しいな……」
「すまん」
「なんで徹が謝るんだ、悪いのは! ……悪いのは、誰でも無いな……競馬だからな……」
「ははは、慎吾、今日は飲まないか。 久しぶりに若いころのように」
「構わないが、覚悟しろよ。 今日の俺は酒癖が悪いぞ」
「悔しいのは俺もそうなんだから。 ほら見ろ、手に爪の後がくっきりさ」
手のひらを向けてシニカルに笑う徹に、慎吾はようやく肩の力を抜いて苦笑を返した。
お互いに酒を浴び、馬主としての愚痴や牧場の苦労を話し合っている頃。
一人の女性が搬送されベッドで寝かされた駿の元で息を吐いていた。
内ラチの外に投げ出された駿は、意識は戻らない物の幸いな事に命に別状はなかった。
打撲と内出血、脳震盪と決して軽い症状では無かったが、幸いにも脱臼や骨折、出血といった外傷は無かった。
女性はそっと駿の身体に手を添えて、心配そうな眼差しを送っていた。
そんな駿と彼女の下へと深夜になって訪れたのは、林田巌であった。
「ああ、美代子さん……、お久しぶりです」
「お義父さん、ご無沙汰しております」
「すぐにでもこっちへ来れれば良かったんですが、諸々ありまして遅れました」
挨拶もそこそこに、巌は駿の容態を聴いて妻である美代子と同じように肩で大きく息を吐き出した。
「お義父さん、ごめんなさい」
「いえ、美代子さんが謝るようなことでは―――」
「違うんです、私、知っていたんです」
それはワイルドケープリに騎乗する凡そ2週間前に、駿はスクーターで帰宅途中に事故にあっていた。
飛び出してきた子供を避けて電柱に激突し、左半身に酷い痛みを抱えていた事。
左腕は大きく腫れて、鋤骨の辺りは青く染まり内出血を起こしていた。
もちろん、病院には向かったしそこで治療も行ったが2週間の期間があっても復調することは出来なかったのだ。
強めの痛み止めを処方してもらい、ワイルドケープリには騎乗すると駿は言っていた。
美代子は止めた。
夫がジョッキーであることから少なからず競馬と関わっている彼女にも、身体の調子を崩したまま馬に乗ることの危険が分かっていた。
時速60kmを超える世界で勝ち負けを競う、競馬を少なからず知っていたから。
「……申し訳ない。 集中したいのだと思って最低限の連絡しかしなかった私の落ち度だった」
「いえ、夫に言われて黙っている事にしてしまったのは、私なので、こちらこそ申し訳ありません」
「やめましょう……まったく、無茶ばかりする……困った奴だ、ばかもの……」
しみじみと呟いた巌に美代子は顔を伏せて、そっと駿の手を握った。
駿が目を覚まして痛みに顔を引きつらせるのは、その3時間後だった。
U 16
輸送を終えて何時ものハヤシダキューシャへと戻ってきた俺は、バボウの中でカイバを食いながら思考を止めた。
レースが終わってから数回は陽が昇っており、ようやく走ったぐるぐるの事について整理が終わったからだ。
色々と考えることが多くて随分と日数を要したが、初めて気が付くことも多くて実りのあったレースだと言えるだろう。
食事を終えた俺は、少しだけ顔を外に出して隣のバボウへと視線を向けた。
ちびの奴は今日の調教を終えて身体を休めている。
普段はレースから戻ってくると随分と話しかけてくるが、今日は俺の方から声を掛けてもやたらと大人しい。
シュンが落ちて負けたというのは言ってあるから、結果を知っている分静かになっているのだろう。
まぁ、このちびが言ってた事のせいで余計に考える時間が増えてしまったんだが。
ちびは俺がレースに負けた事を伝えると、レースで何があったのかを熱心に聴いてきていた。
やっぱりちびの関心はレースそのものに向いている。
だから主観が入らないように淡々と、どういうレースをしたのかを伝えたのだが、シュンが落馬したことを告げてからはスッと押し黙って、ややあってからこう言ったのだ。
―――相手が強かったら、相手を超えようとするなら、命を燃やすしかない
命を云々という言葉をレースを走った事のない馬鹿ちびに言われて、俺は思わず唸って考え込んでしまった。
だがまぁ、結論から言うと、ちびはやっぱり馬鹿だ。
なんでぐるぐるを走るのに命を懸ける必要があるんだ。
結果的に怪我をするウマ達は居るしそれが原因で命を失う事もあるだろう。 なんならニンゲンだって、それこそシュンのように俺達から落ちてしまう事もある。
それで命を失うことがままあるのは、まぁ分かる。
命が助かってもぐるぐるを走れなくなる事だってそりゃあ在るだろうさ。
ぐるぐるは結構危険が潜んでいるからな。
だがそれだけなのだ。
一番にゴールをするのが誰なのか、それを競うのがぐるぐるだ。
ウマ自身の為に、或いはニンゲン達の為に、速く、速くと限界を超えて無茶をしようとする奴は居る。
だが、それは結果的に怪我をするだけで、命を投げ出そうとしている奴はそもそも居ない。
いや訂正する。
ちびしかいない。
ちびは前提を間違えているのだ。
ちびの様な考えをしていれば遠からず、ちびは怪我をしてぐるぐるから消えて行くことになるだろう。
ほんの少しだけ思考のリソースをそちらへ割いてみる。
ちびがレースに勝とうとして、それでも届かない相手。
客観的事実として現時点では殆どのウマがその想定に当てはまるわけだ。
ちびは無理して命を懸けて肢を振り上げる事だろう。 お、おいおい、なんて容易に場面が想像できるんだ、馬鹿かよ。
ゲートで入れ込んで出遅れや落馬……鞍の上に居るニンゲンの事を忘れて転んだり逸走したり内ラチに激突したり、仮に勝ててもシャコウして降着したり……負ける要素が無限にあるな。
レースが始まる前にその辺の事はしっかりちびに教え込んでおかんとならん。
しかし…いや待てよ、と俺は頭を振った。
思わずくだらん思考に時間を割いてしまったとも思うが、俺が思っている以上に大事な事なのかもしれない。
忘れがちだが、ぐるぐるを勝つ、というのはウマの間では割と重要な要素だ。
ジューショーを勝つとニンゲン達は俺達ウマを讃える。
はっきり言って俺は今までその様子を遠巻きに見て理解し、くだらないと腐していた。
だけど今は一方的な視点だけでは分からない事も分かってしまった。
ニンゲンは俺達ウマに命を揺らしていた。
そりゃあカネや立場、見栄や意地、面子もあっただろうが、それでもウマに関わるニンゲンは多かれ少なかれ俺達ウマに情熱を注ぎ命を懸けている。
懸け方はそれぞれ、大小から浅さ深さまで万別なんだろうが……分かっちまったからな。
怪我に繋がる事は、俺達ウマも気を付けなくちゃならねぇな……
視線を外して俺はうろうろとバボウの中をしばし、うろついた。
そして雲に隠れていた陽が差し込んで、あの眩しい奴が顔を出すのに釣られるようにして俺も顔を上げる。
まぁちびの事、ニンゲンの事は横に置いといて。
冷静に。
回顧して分かる事は俺は特別に速いという訳ではない。
ウマの中じゃもしかしたら速い方かもしれないが、4番や2番のウマ達と走る速さは拮抗しているだろう。
前目、後ろという違いはあったが俺を含めてレースをすれば展開次第で順位は前後すると思う。
例えばそのままシュンが落馬せずに居たからと言って、この前走ったジューショーの結果は俺が勝てたかどうかなんて確かな答えはない。
それこそ受け入れがたい結果や思いがけない敗北なんて何時降りかかってもおかしくないだろう。
実際に一緒に走った俺が言うのだから、そう的外れな考えではないと思う。
俺の隣にいた出走を取り消した黒い奴の事は結局一緒に走っていないから何とも言えんが、アイツも相当だろうな。
ぐるぐるで勝利を求めるのなら今のままではダメだろう。
少なくとも、ジューショーのレベルに出てくるウマたちに勝とうと思ったら運が絡む。
そしてその運を引き寄せて掴むために必要なのは、命を燃やすことじゃない。
必要なのは知識と運を手繰り寄せる工夫、そして識ること。
つまるところ、頭を使ってソイツを引き寄せてこないといけない。
「―――駿さん、大事ない見たいですよ。 テキから連絡ありました」
「そうかぁ、いや良かった。 いやいや、良くないけどな。 それでどうだって?」
「痛みが激しいみたいで立ち歩くのに2週間ほど安静が必要だって。 向こうで入院するみたいです」
「じゃあ暫くワイルドケープリの調教は俺がつけるようか。 にしても、無茶したなぁ」
「ですねぇ。 ああ、それとワイルドケープリ、乗り代わりになるかもって」
「テキが?」
「ええ、柊オーナーから言われたみたいですね」
「そりゃしょうがねぇかもなぁ。 馬主さんも俺達も悔しさはあるしな……林田厩舎に錦を飾りたかったぜ」
バボウの外からチョーキョージョシュとキュームインの話が聞こえてくる。
昔に比べハヤシダキューシャのニンゲンとウマの数も随分と減ったものだ。
話題に出ていたシュンの事もちょいと心配だ。
アイツは俺から落ちた後に動かなくなったからな。
もしシュンの命が無かったら次にぐるぐるを走る時は面倒だ。 一番俺の背に乗った回数が多いシュンが一番バランスの取り方に慣れている。
それに駿の目線は俺が勝つためにも必要なことだ。 シュンの意思を汲むべき時は必ず来る。
文字通り視界が違うから。 俺よりも高い所で見ている視界をシュンを通じてレース中に俺は知る必要がある。
落としちまった時にちゃんと確認できれば良かったんだが、クルマとニンゲンが居て近づけなかったので遠目からだと良く分からなかった。
無事だと良いんだが。
俺は眩しい奴を見上げた。
ここ最近はしばらくアメが降っていたから、光を浴びるのは久しぶりだ。
こうしていると落ち着くし、思考が回る。
俺は今まで気付かなかった。
ブッチャーが言っていた命を揺らす場所は最初からぐるぐるの中にあった事を。
何年もかかってようやく気付いた今は、悔しさよりも呆れの方が勝っていた。
こうして考えていると俺は随分と日々を台無しにしてきたようだと自覚してしまう。
今はごくごく普通にある景色が、色づいている様にさえ思えるのにな。
時間は掛かったが、気付けて良かったのだろう。
だからちびには感謝している。
この景色が当たり前の日々の中に最初から潜んでいることに、アイツが気付かせてくれたからだ。
むかつくちびだが、本当だぜ。
目を細めて空を見る。
鼻面がまた疼く。
太陽の光を浴びながらワイルドケープリは思考の渦に浸る。
レースに勝つために命を燃やすと応えたちびを馬鹿にして、しかし無茶を通さねばならない時がある事は予感した。
当たり前だ。 ぐるぐるを走るのは同じウマだ。 同じくらいの速さで走る奴らと競うんだから、勝とうと思ったら力がいる。
だから、工夫が必要だ。
頭を働かせていかなければ勝てない。
故に、ワイルドケープリは空を見上げて過去を思い出していたのだ。
今まで自分の走ったレース。 その全てを。
身体からは察するべきも無い。
どこにでも見るような鹿毛の馬体、鬣に隠れた主張の無い流星。
特筆すべきことのない身体的素養。
だからワイルドケープリの異常を人は知ることができない。
ワイルドケープリの特異性はどんな最先端科学でも解き明かせないからだ。
何故なら、この一頭の牡馬に与えられた天からの祝福は、その脳漿にこそ刻み込まれているからだ。
ワイルドケープリは展開・天候・ジョッキー達が採用した戦法や思惑、同じレースで走ったウマたちの状態、少しだけ違うそれぞれのぐるぐるの場所、コースレイアウトや施設。
乗っていた騎手やレース全体で掛かった時計。 刻まれたラップ、勝負服や矯正馬具などを装着しているウマとそうでないウマ。 風の強さに砂の色。 勝ったウマ、負けたウマの状態や様子。
競馬にて使われている全ての道具やその施設の意味と役割。
そして通常ならば理解することない、人間の扱う言葉と文字。
人と馬が携わって形成されているこの世界。
この、競馬の世界。
知りたくない事も。
聴きたくない音も。
全てを覚えている。
全てを知って理解している。
正確にはデビュー頃はレースそのものを走るのに夢中になりすぎて記憶にないが、それ以降、ぐるぐるを回るレースを60回目。
もしワイルドケープリが人の言葉を話せるなら、その60回全てを思い出し、事細かく詳細を説明しながら
1レース1レース、走った全てのコース、競馬場で開かれたイベント、乗っていた騎手の顔と名前、その他細部に至るまで 『全て』 解説する事が可能だ。
一から十まで脳裏に刻まれており思い出すことが出来た。
一から十まで知ってきた事を判ることが出来た。
最初からワイルドケープリはブッチャーの言葉をずっとずっとずっと、諦念に心を塞いでからも、見苦しく顔を背けながらずっと追いかけていたのだ。
とっ散らかっていた情報と記憶を整理することが、かしわ記念を終えて林田厩舎に戻ってきてから今までの時間でようやく終わった。
後は実践で擦り合わせればいい。
ブッチャーの言葉に気付くのが遅すぎるだなんて言わない、まだこれからもレースは続くはずだ。
ワイルドケープリは考える。
ブッチャーを追いかけるなら、またぐるぐるで勝つ為に走らなければ見えてこない。
ぐるぐるに勝つためには、学ばねばならない―――いや、学び直さないといけないのだ。
チョウキョウも今までよりちゃんと走らないとダメだ。
一緒に走る機会の多いちびは滅茶苦茶遅いが、チョウキョウで試したい事は協力を求めなければ難しい物もある。
ついでにちびも鍛えてやればいい。 アイツだって負けたくはないだろうからな。
いや、レースに負けたくないのはニンゲンも一緒か。
だが、次のレースは負けてしまっても足りないピースや情報を埋める事が出来れば良しだ。
もちろん、出来れば勝つに越したことはねぇが―――
――――おい、シュン、早く戻って来いよ
俺はバボウの中で思わず前脚を掻いた。
U 17
朝早く、忘れると妻がうるさい為、日課のゴミ出しをしている時に家の前にぼうっと突っ立つ不審な男。
ワイルドケープリのオーナーである柊慎吾は、そんな彼に気付いて眉根を顰めた。
ゴミを出し終えて自宅に戻ろうとするところで、大きなため息と共に声を掛ける。
何時から居たのかは知らないが、このまま居座られても面倒だし、万が一近所さんに迷惑をかけられても困るからだ。
「林田君、入りなさいな。 私と話をしに来たんだろう」
「柊オーナー……」
彼は申し訳なさそうに頭を下げた。
まったくもって困ったものである。 今時このような経験をすることになるとは思わなかったと苦笑もする。
応接室へと案内し、寝起きだった為身なりを整える時間を貰い、ようやくゆっくりと対面した。
「察しはつくが、用件を聞こうか」
「はい、まずは謝罪を。 かしわ記念では落馬をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「……身体は大丈夫だったのかい」
「おかげさまで、脳震盪と打撲、打ち身に内出血だけですみました。 脳震盪も軽微で済みまして……幸運だったと思います」
「それは良かったが……無理はしないでくれ。 何事も身体が大事なんだから」
「はい、有難うございます」
「それで……まぁ乗り代わりの件だろう? 帝王賞の」
駿は退院する直前、後輩の騎手である牧野 晴春が訪れていた。
中央所属時代、厩舎の所属騎手として林田は牧野と面識があり、先輩ジョッキーということで牧野の面倒を見ていた事があった。
その時に牧野から、柊オーナーからワイルドケープリの騎乗依頼が来ていた事を明かしていた。
駿が慌てて是非を問えば、まだ牧野は柊オーナーへ返事は保留しているとのことだ。
乗り代わりは騎手にとって良くあることだ。
調教師から言われることもあるし、今回みたいに馬主の意向で決まってしまうこともある。
直前のレースで落馬してしまった事も大きな要因だろうが、基本的にはワイルドケープリのように実力を示した馬には良い騎手を乗せてあげたいというのが常だからだろう。
後輩とはいえ、中央で多くの乗鞍がある牧野の方が殆ど騎乗依頼の無い駿よりも騎手として格上であることは間違いなかった。
今回、わざわざ駿に騎乗依頼が来たことを教えてくれたのは、後輩の好意だろう。
しばし出された茶の湯飲みを見つめていた駿だったが、意を決して顔を上げると慎吾の前に跪いた。
いきなり大の大人に土下座され、心の中でうおおっっと驚きながら、駿が頭を下げる様子にこんなことが現実で起こるかと慎吾は顔を歪めた。
そりゃかしわ記念当日は憤慨もしたし、普段では押し隠している文句もバンバン口から飛び出した。
ついでに競馬に関係ない仕事の愚痴もしこたま吐き出してもいる。
付き合わせた友人には悪いことをしたが、その御蔭で現実を受け止め、心の整理が素早く終えられたのは間違いなかった。
「お願いします柊オーナー。 俺をワイルドケープリに乗せてください」
「い、いやねぇ君。 もう帝王賞まで時間がないだろう」
駿は歯を噛みしめ表情をゆがめた。
そうだ。 慎吾の言う通り、退院したとはいえ駿の体調は万全とは言えないだろう。
特に左肘の違和感はまだ残っており、医者の話では週に1度は通院を行うように固く言いつけられている。
実際、軽度とはいえ交通事故のダメージを引きずったまま、申告しないで騎乗して落馬してしまったのだ。
怪我が重く無かったのはただただ幸運に恵まれているだけであり、治療はしっかりとした方が良いのは間違いない。
そもそも怪我をしたまま馬に乗るなど、競馬に携わる者としては即座に資格をはく奪されてもおかしくない行動である。
自覚があるだけ余計に性質が悪いといえよう。
だが、そうだとしても、三流以下のクズだったとしても、ワイルドケープリを手放したくなかった。
ただヤネとして乗っていただけかもしれないが、それでもワイルドケープリがデビューを迎えた2歳の頃から数えて5年。
50走以上の数ワイルドケープリに乗ってきた。
勝手な思い込みかもしれないが、ワイルドケープリも駿を乗せることに慣れていると思う。
だから―――俺を乗せてくれ。
こうして思いの丈を吐き出すように、馬主の元まで出向いているのも随分と醜い行動である。
自嘲すると同時に開き直っている事も自覚していた。
鏡を見なくても分かる。 今の自分の顔はとても人様に見せられるものでは無いだろう。
頼み込む体だから、顔を上げなくてすんでいる事に感謝したいくらいであった。
情けなさ、悔しさ、投げ出したくなるくらいに心は折れて、何度も何度も逃げ出した。
栄光など夢のまた夢、何時も何処かで煮え滾る感情を見ないふりして蓋をして、自分に適当な理由を宛がって視界をふさいでいた。
虚勢を張ってもう一度と思っても、二度、三度と失敗を重ねるたびに許容のハードルは下がっていき、また諦める。
今は恥も外聞も投げ捨てて額に地をつけて這いつくばる。
でもいい、それでいい。
ここで逃げてしまえば今度こそ林田 駿という男は終わる。
ワイルドケープリに、強い馬に、もう一度、乗せてくれるなら安いものだ。
誇りなんて、意地なんて、如何ほどの価値があるというのか。
子供の頃から父親の背を見て、騎手になって、馬と関わって40近く。
ワイルドケープリ以上の馬に出会えるなんてもう二度とない事くらい分かっている。
だから―――
じっと頭を下げて身体を震わせている駿に、困ったのは慎吾だ。
人との関係において言葉にせずとも伝わる事は多くある。
それが真剣さ、誠実さが伴うとなれば猶更だ。
「もう一度だけ……チャンスをください」
絞りだすように震えた声を出す駿に、慎吾はゆっくりと息を吐き出して、窓の外を見やった。
自室の応接室から中庭が見えるが、心を落ち着かせる為にと妻の反対を押し切って鹿威しと池を設置した過去の自分を褒めてやりたかった。
池の中に鯉でも居れば、もう少し格好もつくだろうか。
場違いな事を考えながら、慎吾は頭を上げる様子を見せない駿へ口を開いた。
「林田さん、いや、駿ジョッキー。 私はね」
慎吾はそこで一つ、咳払いして考えを纏めてからややあって再び口を開いた。
「私は故郷の北海道に居た学生の頃、友人の牧場によく遊びにいっていた。 そこで初めて馬という生き物と関わり合いをもち、好きになって、競馬に興味が湧いたんだ。
幸運にも恵まれて、会社が順調に成長し、そして念願の馬主となった時は友人の牧場の馬で日本ダービーを、なんて夢物語も語り合ったものだよ」
「……」
「ところが、現実は甘く無い。 人に拠っちゃあ5頭、10頭と重賞馬を手に入れているのに、俺はよっぽど相馬眼が働かないのか、何頭買ってもまったくダメだった」
遠い昔に約束した友人とのダービー馬を諦めているわけではない。
現実的に難しいだけで、まだまだ漫然とした夢は持っている。
もしかしたら、とんでもない名馬に会えるかもしれないと未だに毎年欠かさずに篠田牧場に足を運んでいるのも、約束を守っているからだ。
まぁ、もしかしたら古い友人の篠田 徹は、そんな約束も忘れてしまっているかもしれないが。
それとは別に、当然ながら重賞馬、できればGⅠ馬のオーナーになりたいという欲望はずっとずっと心の奥底に眠っていた。
「だから、ダイオライト記念を勝ってくれたワイルドケープリ。 そのワイルドケープリに関わってくれた全ての関係者に私は感謝している」
「……」
「はぁ……一度、調べたんだ。 ワイルドケープリがレースで勝った時の騎手を。
偶然だと思うが、ワイルドケープリが勝った競馬の鞍上は、駿ジョッキーが乗った時だけだ。
だから、かしわ記念で落馬した直後は興奮もあったけど、ともかく、乗り代わりをするかどうかはじっくり検討したつもりなんだよ」
慎吾は決して激情に任せて、駿を降ろして別の騎手に依頼を出したわけではない。
どちらかと言えば、今回乗り代わりをお願いしたのは、林田駿の体調を気遣っての事であるのも本当だ。
帝王賞までは残り3週間弱。
退院できたとはいえ帝王賞当日までに完調できるかどうかは微妙と言える。
まして落馬時には頭を打ってるというのだから、問題ないと医者からお墨付きを貰える迄は騎乗は難しいだろう。
当日になって慌ててワイルドケープリを知らない騎手にテン乗りを頼むリスクは避けたい。
まして帝王賞は先のかしわ記念の好走を見てしまうと、もしかしたらと期待できてしまうから余計にだ。
一つ一つ、丁寧に乗り代わりに至る経緯を聞いて、駿はようやく顔を上げた。
慎吾はそんな駿の顔を見て、配慮する様に苦笑いする。
「今回だけだ……次は君を乗せるさ。 ちゃんと約束する」
駿は瞼を腫らし、鼻を啜って俯いた。
たっぷりと時間をかけて、そしてようやく震えた唇を開き、声を出した。
「………はい、ありがとうございます……っ!」
「次は失敗しないでくれよ? 俺だってワイルドケープリに期待しているんだ」
そう言って応接室を出る。
庭をしばらく眺めて、やっぱり鯉を何匹か買ってこようか、などと考えてから、慎吾はこれまた大きな息を吐いて
「レースに勝ちたいなら、非情になるべきなのか? だとしたら、俺ぁ馬主として大成できねぇんだろうなぁ……」
自嘲に近い言葉を吐き出して、中庭に向かおうとすると一本の電話が掛かってきた。
相手は、林田巌―――調教師だった。
「どうどうどうどう、ほらほら、落ち着けって!」
「ったく、なんで何時もは大人しいのに、最近こんなに機嫌が悪いんだ!」
ニンゲン達が俺を落ち着かせようと必死に宥めている。
チョーキョージョシュとキュームインには悪いとは思うが、これには理由があるのだ。
次のレースに向けて調教が再会されて、俺とちびはレースに向けて身体を作っていた。
まぁどちらかというと身体を作っているのはちびだけなんだが、俺も実際に馬場に出た時にしか出来ない事が今は山ほどある。
ついでにちびにも色々教えながら、復習も兼ねていた。
時間は有限だ。
少なくとも次のレースまで、どの位の間隔で望むかはニンゲンの意思によって決定されてウマに決定権はない。
万全な体調を整えなければ4番や14番に勝つことは難しいだろう。
仮病を使えば時間を稼ぐことが出来るのは実証済みだが、よほど調子が良くない限りはレースを叩き台にした方が俺には合っている。
記憶に刻み込んで次に活用できるから。
というわけで、俺はシュンが生きている事をニンゲン達の会話から知っていたので、待っていたのだが一向にシュンは現れない。
シュンを乗せて調教で試したい項目もすでに177種、細かい所まで含めると216種に及んでいるし、日々この工数は増えてくのでとっとと来て消化して欲しいのだが、アイツは肝心な時に全く来ない。
いや、違う。
それでイラついてキュームイン達を困らせている訳ではない。
ある程度愚痴っていて原因を知っているちびが白けた目を向けてくるが、誤解である。
いや、それも違うか、シュンが来ないのも苛立たしい原因の一部であるのは変わりないからな。
それよりも、俺が悪いと思いながら暴れているのは俺の上に乗る奴が変わった事だ。
このニンゲンはこの前、2番に乗ってぐるぐるを走っていたマキノとか言う奴だ。
少し前なら誰が乗ろうが構わなかったが、俺はブッチャーの言っていた答えを見つけた。
かなり歳月が掛かったが俺はようやく、ぐるぐるを走る意味を知ろうとしている。
命を揺らし、ぐるぐるを走る。
まだ一度しか体感していないから、それがどういう意味を持つのか理解が及ばない。
だから、俺はもう一度あの感覚に身を沈めて、ぐるぐるを走る意味を知りたいのだ。
その為、不慣れなアンジョウに走る邪魔をされるのは時間の無駄だ。
さっきも言ったが、時間は有限だからな、効率を落としたくはない。
俺の上に乗るのは何も考えなくても俺の走りを邪魔しない、シュンが一番効率が良い。
だから
「ブヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒューーーーー」
「うわあ!」
マキノを身体全体で拒否する。
絶対お前は乗せねぇぞ、他のキシュの感覚でシュンにアジャストしてる今の走りを邪魔されるのは御免だぜ。
ジョッキーによって体重バランスの違いやら仕掛ける場所やら走法やら何やら、色々調整する方の身になってみろ、めんどくせぇんだよ。
おらおらおら、落ちろオラ! クソがしがみついてんじゃねぇ!
「あああああああああああああああああ」
ふん、落ちたな。
怪我しねぇように振り落とすのも慣れてきたぜ、コラ、キュームイン邪魔すんな!
「ブヒョヒョヒョヒョヒヒヒヒーーーーー」
「こ、こら、ワイルドケープリ! 落ち着け! りんごあるぞ!」
お?
……ふん、タコが、りんご……りんごなんて効かねぇんだよ、後だ後。
おら、おいちび、お前もやるんだよ、コイツは2番に乗ってたから、まぁある意味でぐるぐるに置いては敵だからな。
ハヤシダキューシャの敵だ。 つまりお前の敵だ。 ほらいけオラオラ。
マキノに向かって俺は顔を向けて全力で肺から声を吐き出した。
ちびも『敵』という言葉を理解したのか、遂に俺の真似をしてマキノへ向かって威嚇する。
いいぞ、もっとやれ!
「ブヒュンブヒャンブヒュヒュン!!!!」
「ブヒャヒャヒャッヒヒヒヒヒーーーー!!!」
俺が吠え、ちびが嘶く
「ああっ、ラストファインまで興奮しちまった!」
「頼むから、俺らがテキに怒られるから勘弁してくれぇ」
ちびが威嚇し、俺が脅す。
「ブヒョヒョヒョヒョヒヒヒヒーーーーー!!!!」
「ブヒャヒャヒャッヒヒヒヒヒーーーー!!!!」
「こりゃあ、ダメだ、お手上げだ……」
「今日も調教まともにつけられないですよ、どうするんですか」
「どうするってお前、人を乗せてくれないんだから出来ねぇよ」
「牧野騎手、申し訳ない。 今日も無駄足をさせてしまって……」
「いや、アハハ……嫌われちゃったなぁ、これは」
「しょうがねぇ、テキに泣きつくしかねぇな……」
よし、適度にニンゲンが離れて行った。 ちび行くぞ。
なに? どうするんだって、お前ニンゲンを乗せないで出来る練習するに決まってんだろ。
お前にはまだ無限に教えることがあるんだよ。 ほら行くぞ、こっち来い。
まず俺の真似から始めるんだよ、嫌だじゃねぇ、レースに勝つんだろ? お前絶望的に遅いんだから、四の五の言わないでついて来いや。
「あっ!」
「うわ、放馬ーーーー! 放馬ーーーーーーーー!」
「ああぁぁーーーもおおぉぉぉーーー!」
いやほんと、悪いとは思ってるんだ。
でも、シュンが早く戻ってこないのが一番悪いんだぞ、早く帰っていや。 ったく。
俺とちびは思う存分、チョウキョウババで自由に走り回って、色々と試した後にニンゲン達に捕まった。
ニンゲン達にはただの暴走に見えただろうが、中々実のある時間だったのは確かだ。
ちび、意地張って俺の教えを無駄にすんじゃねぇぞ。 ちゃんと真似てりゃ少しは速くなれるから。
ああ、勿論自分でも考えろよ、ニンゲン乗せた時の感覚は自分で調整しねぇとならねぇからな。
俺は白けてきた空を見上げタイヨウへと首を伸ばす。
その横でちびが同じように空を見上げる。
―――別に、タイヨウ見上げるのは真似しなくていいんだぜ
なんかちびが怒った。 なんだこいつ……
お前な、そうやってすぐ怒るのって良くねぇぞ
キショーナンって奴だ、ぐるぐるで人気になれねぇぞ
せっかく優しく諭してやったのに、ますます怒ったちびに突っかけられ、俺もイラついたので喧嘩になった。
結果ちびが泣いて、ニンゲンが怒った。
ったく、リンゴが貰えなくなったじゃねぇか……俺のリンゴ……
馬房に戻された途端、ワイルドケープリとラストファインは揃って急に元気がなくなった。
これに困惑したのは林田厩舎の面々だった。
「馬って、良く分かんないですね」
「……そうだな」
その後、柊オーナーと巌調教師の話し合いによって、ワイルドケープリの様子から乗り代わりの話は立ち消えた。
帝王賞まで2週間に迫った時に駿に騎乗許可が降りて、ようやく人を乗せての調教が再開されたのである。