第四話 疼く傷痕 1
U 11
レースが終わって俺は少しばかり反省をすることになった。
正直に告白してしまうと、久しぶりに気合いを入れて走ろうとしたせいか、何時もよりも興奮してしまいゲートが開く前に走り出そうとして鼻っ面をぶつけてしまった。
俺に跨っているシュンも、驚いたようにタヅナを引っ張って、その反動でもう一発顔をぶつけてしまい、怯んだところでゲートが開いたので相当ビビっただろう。
なんせ俺もビビったからな。
ハッキリ言ってこの失敗はめちゃくちゃ恥ずかしい。 ゲート前ではしゃいでいるウマを馬鹿にしていた時期があるから余計にだ。
下手したらシュンを落としていた。 ニンゲンが載っていないとグルグル回っても走った事にならないのは今までのレースで分かっていたから猶更恥ずかしかった。
だがレースを終えてこうして落ち着いて考えてみると……まぁ大丈夫だろう。
ゲートはレースを開始するための道具であり、開いてウマ達が一斉に駆けだした時にはもうぶつかった後だからシュン以外にはバレていないはずだ。
と思っていたらグルグルから出て何時も通りシュンを下ろすと、普通にイワオや他のニンゲン達は気付いていたようだ。
そうだよ、ニンゲンは遠くを見れる道具があるんだったわ。
シュンが凄く怒鳴られており、俺は顔の辺りをベチベチと叩かれたりして怪我の確認を念入りにされてしまった。
鬱陶しかったが、俺自身もアレは大失敗だったと思っているので大人しく触られておく。 シュンには悪いことをしたという気分にもなっているからだ。
「おい、鼻面から裂傷してるじゃあねぇか、流血しながら走るだなんて、サッカーボーイじゃねぇんだぞ馬鹿野郎!」
イワオが怒鳴る。 シュンが頭を下げる。
ううむ……きまずいし恥ずい。
レース後であることもあって俺は多少の痛みを感じてはいるがそんな大騒ぎするほど痛くはないから少し大げさだ。
応急処置をされキュームインに誘導されてニンゲンが集まる場所に来てもイワオはずっと怒っている。
この場所に来るのも随分と懐かしいものだ、たしかウィナーズサークルと呼ばれている場所である。
グルグルのレースを終えると一着のウマがここに来るのだ。
だいたいの奴は疲れてだるそうにニンゲンに付き合っているが、一部のウマはとても偉そうにする所だ。
俺のウマヌシのヒイラギもいた。
久しぶりに会ったが随分とヒイラギは機嫌が良さそうだ。
ここでシャッシンと言う画を取る儀式を行う事を俺は知っている。
今はあまり撮られたい気分では無いので上を向いて空の光へと意識を向けて、考えないことにした。
「いやいや、むしろ話題として美味しいかも知れませんから、酷い怪我ではないんでしょう?」
「ええ、まぁ走れないような怪我ではないですが……顔に結構目立ってしまう傷跡は残るかも知れませんね……オーナー、申し訳ない」
「いえ、林田調教師、私にとっても初めての重賞制覇……それを傷ついてでもプレゼントしてくれたんです、ワイルドケープリに感謝してますよ!」
「すみません、シュンの奴がしっかりしてれば完璧でした」
「本当に申し訳ございませんでした。 ゲート内で制御できず、大事なワイルドケープリに怪我をさせてしまいました」
「競馬ですから、何より馬ですから、ささ、せっかくの重賞の口取り式なんです。 ワイルドケープリみたいに頭を上げて撮影させてください、いやぁ……俺の馬がついに重賞を……今日のレースは一生忘れないですよ」
「はは、本当、今日はワイルドケープリが頑張ってくれました」
パシャリという独特の音を聴きながら、俺は居心地の悪さを誤魔化す為に空を見上げ続けていた。
相変わらず眩しい奴だ。
その気になって全力で走って、それで何かが変わるだなんて今更期待なんてしていない。
今回は……最後届いてレースに勝てたのは良かったって事くらいだ。
流石に前のウマ達とはちょっと離され過ぎたから、これで負けたらチビに対して格好がつかねぇからな。
暫くして、けっこう長いことバウンシャで揺られ、ハヤシダキューシャに戻ってくるとチビがバボウの奥で拗ねてグチグチ文句を言っていた。
め、めんどくせぇ……どうせチョウキョウババで他のウマやニンゲンにちょっかい掛けられたりして不貞腐れているんだろう。
実際にチビはぐうの音も出ないくらい不格好で、どうしようもなく遅いからな。
俺もイラつく位だから相当だ。 周囲を不快にさせる走りの才能に突出してるんじゃねぇか?と疑いたいくらいだ。
言葉にしなくても雰囲気だけでそういう感情や思いは伝わるし、意外と分かってしまうものである。
ニンゲンもウマも嫌いなコイツは露骨に相手を威嚇して態度に出るから、余計に他の奴らを刺激してるのもあるんだろう。
まったくもって、生きるのが不器用なチビだ。
俺を含めて周囲は結構、お前みたいなチビでも大事にしてるみたいなんだぜ。
どうやら俺が次走るグルグルも、この前走った所と同じらしいんだがイワオがチビと一緒の方が良いとか言ってたからな。
明らかにちびに気を使ってるのが分かる。
その為に俺がバウンシャであっちこっちに連れまわされるのは如何なんだと思わないでもないが。
なんにしろ結構疲れるからな、レースそのものはともかくとして、バウンシャで移動するのは疲れて好きじゃないのだ。
他のウマも一緒に乗り込む事が多いが、落ち着きのない奴が同乗すると怠い事この上ないのである。
ウザ絡みするような奴も居るし、物理的に暴れるような奴も居る。
その度にバウンシャが止まったりするからストレスがとにかく溜まるのである。 滅茶苦茶狭いしな。
俺はレースに勝ってやった事だけをチビに告げ、とっととバボウの奥で静かな時間を楽しもうと首を巡らした所でチビから質問される。
チビは自分がいつレースで走れるのかが気になっているようだ。
そんなことがウマの俺に分かる訳が無いが、少なくとも他のウマとレースして勝負になるくらいまではハヤシダキューシャのニンゲンも走らせないだろう。
キューシャやチョーキョーシってのはウマがレースできるように教え込むところだしな。
しかし、そうか。
少しわかった気がする。
チビの奴はニンゲンが言うケイバだけが心の拠り所なのかもしれない。
コイツはニンゲンもウマも嫌いになった。 そして俺のようにニンゲンやウマに程よく上手く付き合う器用さと言う物を、持ち合わせていない。
声を掛けても突っぱねるし、事あるごとに不機嫌になる。
下手なプライドばっかり高くて、結果として孤独になった。
しかし、ウマだからレースに出ることになるし、レースに出るにはニンゲンとの関わり合いは不可避だ。
だからレースの事を知った時に勝利に拘る事で、孤独を誤魔化そうとしている可能性がある。
例えばそうだ、ニンゲン達はグルグルで一番早い奴を決めたがるだろう。
一番速ければそれだけニンゲンにとって価値があるということだ。 もしも、俺達ウマにとって走る事に意味があるというのなら、ニンゲンにとって価値のあるウマになること。
そうなれば認められる。 同じウマやニンゲンにとって無視できない存在になって構われる。
好きも嫌いもなく、そうなるのが確定するからだ。
それは孤独からの解放とも言えるかもしれない。
しかし―――もしもこの例えが事実で、目指している到達点がチビにとってはそれだけしか無いとしたら、チビはなんとも寂しいやつだ。
いや、寂しいから強くなろうとしてるのか。
―――……まぁ、チビの事は笑えない。
俺だって寂しさに似た感情はずっと心の中に燻っていたんだろう。
ブッチャーの標榜した物に答えを求めていたのに、早々に見切りをつけて変わる事の無い日々にチビと逢う迄スカして過ごしていたのだ。
グルグルに行ってレースを走ることだけしか出来ないのは変わらないのに、周りの空気に合わせて―――チビに言わせれば格好悪い事をしていたんだろう。
まぁ、確かに愚かなウマだな、俺は。
何年も走ってチビに馬鹿にされて、それでようやく、その気になるなんて。
俺達ウマにとっちゃグルグルで走ることやその順位を競う事に意味はないのは変わらない。
ニンゲンが作った法則に従って際限なく続いていく無意味な旅だ。 それは間違いないのだ。 意味があるのならば、俺達は、多くのウマは必ず必死になるからだ。
……なんて考えはもうしなくていい。 理由はこの際もう何でも良い。
俺はまだグルグルを走るのだ。 そう、ただ走る。 やる事がシンプルなのは分かり易い。
少なくとも、そこの阿呆の権化みたいなチビに情けねぇと笑われねぇくらいには成らねぇとな。
ゲートでぶつけた頬面が僅かに疼く。
チリついた感情を誤魔化すように俺はカイバオケに顔を突っ込んだ。
久しぶりのチョウキョウババで会ったチビはほんのちょびっと、ごく僅か~~~~に速くなっていた。
U 12
「次走はかしわ記念を? うーん、そうか、かしわ記念ですか」
ワイルドケープリの馬主、柊 慎吾は自身の会社の応接室で調教師の巌を迎えていた。
スケジュールに余裕が無く、やむを得ず会社に招いたのだが電話だけで済まさず、予め逢っておいて良かったと、話を聞きながら思っていた。
かしわ記念はダイオライト記念と同じく船橋競馬場で行われるマイルダート重賞であり、その歴史も長く格付けもjpn1と最高峰のダート重賞レースである。
馬主となってから15年、ワイルドケープリ以外ではG1競争を走れる馬を所有したことが無い柊にとっては夢のある話である。
そもそもワイルドケープリを購入した時点ではこの馬に期待はさほどしていなかった。
どちらかと言えば縁故の友人の為であり、期待に胸を膨らませたのは中央で走らせた良血馬の方である。
その中央で大レースに出走できることを期待して送り込んだ馬たちも、いずれも条件馬までが精一杯で現在、慎吾の持ち馬は地方でしか走らせていない。
その地方競馬の最高峰、jpn1競争に挑める。
馬主として10年以上経った柊慎吾にとって、何度その時を迎えようが心躍るものであった。
ワイルドケープリという自身の馬主生活の中でも最もと言っていい、馬主孝行な馬に相当入れ込んでいる自覚はあるが、それ以上に調教師の林田さんの方が熱が入っているように思える。
まだワイルドケープリが3歳だった頃、ダートのクラシックを走る時にも興奮したものだが、その時だって馬主の自分よりも林田の方がよっぽど熱が入っていた。
勝利こそできなかったが、結果はダート3冠クラシックレース全て掲示板を確保し、入着という素晴らしい結果に柊慎吾は喜んだ。
勝つ自信が垣間見えた林田調教師が酷くがっかりしていた事が記憶に残っている。
その後は合間に賞金を加えて持ってきてくれるワイルドケープリには、地方競馬ならではで出せそうなレースには出して適度に懐を潤してくれればそれでヨシとしていた。
怪我無く走ってくれて飼い葉代を―――どころか夜に呑み遊んでも余るくらいには稼いでくれていた。
ところが先ごろ、急にローテーションの相談を林田調教師から受けてダイオライト記念に出してみたところ結果は見ての通りだ。
その感動は今でも忘れられない。
賞金などオマケのようなものだ。 重賞を獲るという栄誉とはこういう事なのかと柊は感銘を受けた。
きっと他の誰でもない、馬主でなければ分からない喜びだ。
家に帰ってはダイオライト記念の記録映像を見返して晩酌するのが、近頃の常である。
そうなれば今回も、すぐに『かしわ記念』への出走をしようと同意して決めるところではあったが、出走が予定されているとある二頭の存在が柊を躊躇させていた。
二頭ともJRA所属馬であり、最盛期を迎える5歳馬で前年に帝王賞・南部杯・フェブラリーステークス制覇を成し遂げ、ドバイワールドカップ2着と凄まじい成績を誇っている『ダークネスブライト』は日本を代表するダート馬だ。
そして、かつてワイルドケープリも出走したダート三冠クラシック競争。
その3冠全てを制覇し、4歳となって本格化を迎えた中央馬『ネビュラスター』は芝からダートへ転向した後は無敗のまま重賞をもぎ取ってきた怪物だ。
現状、ダート競争はこの2頭が最大の注目を浴びており、たびたびメディアでも顔を出しているスターホース。
特にダークネスブライトとネビュラスターの初対戦になりそうだ、ということで競馬チャンネルではメディア・SNSなどで盛り上がっている事を柊は知っていた。
いずれも出走表明している次回のかしわ記念を走るとなるとワイルドケープリはこの2頭とぶつかる事になる。
実績を見てもとても勝てる相手とは思えないが、林田調教師は自信がありそうだった。 しばし腕を組んで黙考し、一つ息を吐き出すと、腹が決まる。
「いやぁ……まぁ、仰る通りこんな機会は無いですし、胸を借りて挑戦しましょうか……ダークネスブライトやネビュラスターと一緒に走れる馬を持っているってだけでも、贅沢なもんですしね、ええ」
「ありがとうございます。 それで、今後の事についても相談したいのですが―――」
「―――はぁ!? 芝に挑戦!? マジかよ!」
林田駿はワイルドケープリの調教を終えると、柊氏との相談を終えて決まった内容を話されて驚愕していた。
ダークネスブライトとネビュラスターの一騎討ちになりそうな、かしわ記念に挑むということも相当に衝撃だったが、砂しか走っていないワイルドケープリの中央挑戦の話は青天の霹靂だった。
最初、馬主の柊さんの意向かと思ったが―――巌が言い出したことであった事を知ると、見たことのない積極的な父の姿勢に駿は感心してしまった。
具体的に何処を走る、もしくは走ろうとするのかはまだ白紙のままである。
本当に芝レースに出るのかどうか、それはワイルドケープリの今後次第だ。
駿の記憶にある限り自分からローテーションに強く要望を馬主に突きつけたことは無かった。
だから、最後まで柊さんの意向に従ってレースを選んでいくのだと漫然と思っていたのだ。
駿の心の奥底で不安と焦燥に火種が燻る。
情けないことに、かしわ記念・中央挑戦の話を聞いて芽生えた感情は乗り代わりとプレッシャーの後ろ向きな物であった。
誤魔化すように馬房から首を出しているワイルドケープリに手を当てて、駿は笑った。
「ははは、お前、大変だぞ。 もう後、2週間だ……」
「ぶふん」
「駿」
「あ、ああ、なんだ?」
「俺はもう終わる調教師で華々しい記録なんざ持っちゃいないけどな、それでも最後に悔いを残したくないんだ」
「……」
「ワイルドケープリは今まで見てきた馬では一等だ。 俺はコイツと挑戦したい」
「親父……」
まだ駿が生まれる前のことだ。
巌は38年前に園田で厩舎を開いて、調教師として働き始めてから2年目。
馬主の意向に逆らい、素晴らしい素質を持っていた馬を壊してしまったことがある。
地方重賞も間違いなく制す事が期待できた子だった。
自身がローテーションに割り込んで、駒を進めた兵庫ジュニアグランプリで骨折。 そのまま予後不良となり当然馬主は激怒し、それ以降小林厩舎との縁は無くなった。
若き巌にとっては後悔とトラウマだけが残った、苦い苦い思い出である。
それからはどれだけ自身の相馬眼が働いても、決して馬主の意向に口を挟むことはしなくなった。
「柊さんには頭が上がらない。 俺の我が儘だからな……ワイルドケープリと挑戦したいってのは」
「挑戦……」
「ああ、お前も今はそんな乗鞍ねぇんだろう? 後悔しないように挑戦しようじゃないか―――ワイルドケープリが付き合ってくれてる間くらいはよ」
ワイルドケープリが芝に挑戦するということは、つまりそう言う事なのだろう。
踵を返した父の背中を見送って、駿は奥に引っ込んで窓から空を見上げているワイルドケープリ号と、馬房でグルグル回っているラストファイン号を一瞥し、頭を掻いた。
厩舎内の掃除を済ませると目元を擦って、コーヒーを喉の奥に流し込む。
今回のかしわ記念では正式に騎乗依頼をされたが、駿は落ち着かない夜を過ごして、ほとんど眠ることが出来なかったのに、やたらと頭が冴えているのは勘違いではないだろう。
2週間後には、ワイルドケープリは船橋競馬場で1600mを駆け抜ける事になる。
ダイオライト記念で蘇ったあの脚は本物だ。
世間の評判が3流以下であったとしても駿は間違いなく、腐ってもジョッキーである。
ワイルドケープリの背中の上で、林田駿は人知れず身体を震わせていたのだ。
ダークネスブライトやネビュラスターに実績はともかく、能力面で劣っているとは思えなかった。
いや、少なくとも実際に走ってみる迄は能力の差など分からないハズだ。
技術は無くても、乗って走らせることができる。
この5年間、付き合ってきたワイルドケープリに合わせてやる事ができる。
それは少なくとも、今は林田 駿騎手にしかできないことだ。 いや、違う。
しがみついてでも、ワイルドケープリのヤネは自分じゃなくちゃいけない。
「挑戦か……ああ、そうだな。 上等だ」
ちりついた火種が大きくなっていく。
親父も俺も、たぶんワイルドケープリも、我慢していた。
駿もまた、最後の挑戦みたいなものだ。
ワイルドケープリ以上の馬に乗れることなんて、もう生涯を通してないだろう。
ダート競争の主役は世間を騒がれてる二頭だけじゃないことを教えてやろうじゃないか。
スクーターに乗り込んでキーを回す。
火を入れてエンジンの音を響かせて、駿は林田厩舎を後にした。
その翌日から体調を崩した林田駿は、かしわ記念当日までワイルドケープリの前に顔を出すことが無かった。