最終話 その馬の名は
U 07
ラストファインの引退の日にちが、組合馬主の話し合いの結果伸びる事になった。
裂蹄の影響から暫くは林田厩舎で過ごす事になったのである。
と、いうのも、治療に当たって金銭面での問題があったからだ。
厩舎に所属し、競走馬として生活している馬の治療は、構内にある診療所から馬医者が即座に対応する態勢が整っている。
引退馬として競走馬登録が剥がれると、原則として所有者から実費で出すことになるのだ。
蹄に関わらず、怪我や病気となると保険が効くが、その書類の用意も林田厩舎にすべて揃っている。
江藤オーナーは下手に揉めるよりもそれならば、と裂蹄したラストファインの蹄が治るまで、実態は療養中だが、形の上では競走馬として扱うに決めた。
それ自体は容易に受け止められた。
むしろ稲葉としては、まだラストファインの面倒を見ることが出来るし、林田厩舎の終わりが伸びた事に喜びを感じたくらいだ。
調教師である巌も、急いでいないとのことで、江藤オーナーの話を快く受け入れていた。
問題は、ラストファインの身体よりも心の方だ。
稲葉は一日、一日と陽が昇るたびに身体を震わせて、馬体を馬房の端に寄せるラストファインが心配だった。
あまりに食事にも手をつけないから、飼い葉は今までの、競争生活でずっと作ってきた物に戻した。
それからは食べる様にもなったが、飼い食いは悪化する一方だ。
何よりその原因が中々掴めない。
ワイルドケープリが居なくなったからか?
それだけではどうも説明がつかない。 仲の良い馬が居なくなって寂しがる話は聞いた事もあるが、長期に及んでこじらせる何て話は聞かないからだ。
フェブラリーステークスの直後は普段と変わらなかった。
2ヶ月経った今、変わった事はなんだ、
環境の変化を感じ取った? フェブラリーステークスの後に変わった事と言えばなんだ。
人が居なくなったから? しかし、輸送の多い中で寂しさから精神を萎えさせるといった事はラストファインには今まで無かった。
ラストファインが急速に精神に不安を抱えた原因。
絶対になにか要因があるはずだ。
稲葉は思考を巡らして考えた。
陽が落ちた後にラストファインは良く嘶いて、二階に居る稲葉を起こす。
その度に稲葉は馬房にまで降りて行って傍についていたが、何時しか、あまりに頻度が多いからラストファインの馬房の前で、一緒に眠るようになった。
昼間、乗り運動の準備を始めるとラストファインは暴れだすようになった。
暴れて、調教の馬場まで稲葉を振り払って、がむしゃらに走るようになった。
その度に稲葉はラストファインを捕まえて、また暴れだすのを必死に宥めすかした。
だから、治りが遅くなってしまった。
蹄がまた割れて、悪化してしまう。
夜になれば馬体を震わせて。
厩舎に誰も居なくなると、必死に嘶いた。
「稲葉、大丈夫か」
「テキ……」
取り押さえる際に馬の力で引っ張られ、柱に頭をぶつけた稲葉が厩舎の事務所で横になっていると、巌が心配そうな面持ちで声をかけてくれた。
「大丈夫です。 ちょっとふらついただけで。 それより先生、ファインの事が心配です」
「ああ……」
林田巌は身を起こしながら、暗い顔でそう言った稲葉に、なんと声を掛けた物かと逡巡してしまう。
ラストファインの変調には当然ながら、巌も気付いていた。
厩舎を引き払う準備も十全に済ませ終わって、後は書類の提出のみとなっている。
巌が思うに、ラストファインの変調は競馬が出来ないことに対しての反発だ。
だが、こればかりはもう巌の意向で覆しようのないものだった。
ワイルドケープリと共に走る事、それがラストファインの競争生活には必要だったのではないかと思い込んでいたが、不正解だっただろうか。
最後の最後まで、馬の事を分かっているつもりで、馬に無理をさせて来たのだろうか。
もし、そうであるならば、とんだヘボ調教師である。
「稲葉、ラストファインは競馬をしたがってるが……今回ばかりは力になれない。 引退は決められたことだから、馬に納得してもらうしか無いだろう」
巌は時間に頼ることにした。
ラストファインが走れる日がくることは、もう無いのだから。
第七話 その馬の名は
「ファインが、競馬をしたがっている……」
稲葉はやはりそうなのか、と納得しようとした。
組合馬主のオーナーたちが、ラストファインを競馬に出すことがもう無いから、仕方ないんだと。
回復した稲葉は巌と別れ、厩舎の馬房へと足を進める。
この林田厩舎、最後の一頭との別れの時はもう覆らないのだから。
ラストファインは馬房の奥の隅っこに居た。
競馬ができないから、怖いのか。
震えて顔を腫らして、怯えているのか。
なぜ、こんなにも恐れてしまっているんだ。
ファイン、どうしてそんなに泣いてしまっているんだ。
稲葉は馬房の柵に体重をかけて身体を預け、ラストファインをじっと見つめた。
ずっと見て来た。
朝も昼も、夜もプライベートも捧げて、この目の前で小さくなって身体を震わしている馬を。
誰よりも間近で、誰よりも身近に。
負ければ暴れて泣いて。
勝てば雄々しく胸を張って立って。
この園田に在籍する、どんな馬よりも真っ先に馬場に駆け込んで速くなろうと藻搔いてきたじゃないか。
馬がこんなに涙を流すなんて、知らなかった。
先輩の山田や橋本も、こんなに顔を濡らす馬は見たことが無いと言っていた。
どうして泣いてしまうんだい。
なんで、引退する時になってそんな姿を最後に見送らなくてはならないんだ。
この馬は。
この馬は、立派に戦ってきた。
最初に来た時はどの馬よりも遅く小さかったのに。
誰からも勝てないだろうと笑われてきたのに。
戦って、戦って掴んできた勝ち星は、今じゃ園田競馬の中にも納まらないほどの大きな勲章を掴み取ってきたじゃないか。
誰よりも称賛されて然るべきだ。
もろ手を挙げて称えるべきだ。
この小さな、でも力強い馬を、どうして過小評価するんだ。
誰よりも誇り高く立ち向かってきた馬が、なぜ震えて競馬の世界から消え去らなければならないんだ。
稲葉は腹が立った。
悔しくなった。
ラストファインがもう一度競馬に立って、勝つ姿を見たくなった。
懐から取り出したスマホの画面を睨みつけて、稲葉は探した。
馬主たちが納得して送り出しそうな、ラストファインがもう一度競馬に立てる場所を。
見つけたところで、走れるはずが無いと分かっていても。
稲葉は画面を睨みつけるようにして、番組を探していた。
組合馬主の定例会が5月、日本ダービーの行われた日に開催されていた。
久慈オーナーと共に姿を現したのは、つい先日に所属した新人馬主の八木 一彦オーナーである。
配られたばかりのJRA、地方競馬の資料を脇に抱えて、慣れない場で緊張を露わに、末席へと腰を下ろしていた。
江藤オーナーが本日、回復しきったラストファインの引退手続きを行い、書類の提出をするとの話である。
岸間オーナーに声を掛けられて歓談し、馬主についてのあれこれを、経験を交えて話をされた。
久慈オーナーからは場を楽しめるように、組合所属の多くのオーナーを冗談交じりに解説されて、名刺を交換していく。
八木が緊張よりも、人との交流を楽しめるようになった頃、メインレースである日本ダービーのファンファーレに場内が沸いた。
ホースマンであれば何よりも特別な、勝負と誇りと栄冠の。 3歳クラシックの頂点を決めるレースが始まって。
注目が大型のモニターに集まる中、八木は資料を開いた。
最初に開いたページ、一枚目のページを捲ろうとした指が、冊子の中ほどになってしまって、開いたページ。
ただの偶然で、留まった。 最初に読んだ場所。
本年度開催予定の、第××回ジャパンカップ出走条件、そのJRA選定馬としてラストファインの名が小さくそこに書かれていた。
一番最初のページに戻ろうと親指を冊子に手を掛けた八木はおや、思って手が止まる。
ラストファインはこの組合馬主が所有している馬ではなかったか。
そもそも久慈オーナーから協会に所属しないかと声を掛けられた時に、ラストファインの名を聞いていた。
しばし見つめて、八木は首を傾げた。
なんとも勿体ないと思ったからだ。
望外とも呼べる形でフェブラリーステークスを獲ったから、もう十分なのだろうか。
ワイルドケープリを追走してフェブラリーステークスを勝ったラストファインは、世間ではレース展開に恵まれて勝ち取ったという風潮である。
実際に八木が見た映像でも、するするとワイルドケープリの開けた内を通って前粘りで勝てたように見えた。
そんな不思議そうな顔で冊子に目を落としている姿に、久慈オーナーはまだ緊張しているのかと苦笑いしながら声をかける。
八木は苦笑を零しながら言った。
『直線抜け出して、ついにやったぞ! ネイヨン軍団の、羽畑オーナーの悲願が今ゴールイン! ネイヨンフォーリア、ダービー制覇だ!!』
「いえ、ラストファイン、これを見てるとジャパンカップに出走できるのに。 今日で引退なんて、凄い世界だなぁと感心してました」
久慈オーナーは持っている資料をひったくる様にして奪い、八木は目を回すことになった。
江藤オーナーから慌ただしく連絡が入って、電話を切られると巌は愕然とした面持ちになって暫くテーブルにある固定電話を見つめて固まってしまった。
まさか話が覆ることがあるなんて。
一体全体、どのレースに使うのかを聞けばジャパンカップと聞いて目玉が飛び出しそうになった。
夏入りの直前、気温が急激に上がっていく中で舞い込んだ話に巌は困った顔を浮かべていた。
まだ競馬ができる事はラストファインにとって喜ばしい、という気持ちと全てを引き払ってしまった今になって言われても困った、という顔を混ぜ込んだ表情であった。
林田厩舎ではもう、準備が何もできない。
仮に調教に入れたとしても次走がジャパンカップという芝競争なら、園田では難しくなる。
目を瞑って巌は考えた。
ラストファインの事を、まず最初に。
次にそのラストファインを自分がしてきた指導を守り、まっすぐに見続けてきた稲葉の事を。
電話の受話器を持ち上げて、巌は知り合いの調教師の番号を調べながら、入力した。
暴れる事すらしなくなったラストファインは、日に日に身体を細くしていった。
稲葉は戻らないメンタル状態と、その影響が出てき始めたフィジカルの状態に歯止めを掛けようと、足繁く馬医者の下まで駆けこんでは、ラストファインを支えている。
もう、どうにもならないかも知れない。
半ば諦めかけている心を叱咤し、稲葉はラストファインの傍にずっと寄り添っていた。
スマホを開いて、予定表をじっと見つめる。
蹄の状態もようやく完治し、いよいよ引退が近づいてきていた。
集中して画面に視線を落としていた稲葉に、人影が重なった。
「稲葉、話がある。 事務所まで来れるか?」
「……テキ?」
事務所に腰掛けている先生に、お茶を入れてお互いに対面で座り合う。
一息ついて対面に座り込むと、巌は帽子を脱いで脇に置き、稲葉へと向かって居住まいを正した。
「稲葉、ここを引き払った後の当てはあるのか?」
「先生……いえ、ファインに付きっきりだったので、特にはまだ……」
「そうだろうと思ったが……どう考えているんだ?」
「……」
稲葉は首を振ってしまった。
きっとバカなんだろう。 ラストファインの引退も決まって、林田厩舎も閉じて行く。
厩舎の二階を借りて生活していたから、住む場所だって手配しなくてはならないのに。
次の行き先をまったく考えずにずっとラストファインの傍に居るなんて、自分の人生を軽んじてると思われても仕方がないかもしれない。
「お前、中央の厩務員にならないか?」
「え?」
ラストファインの引退が先延ばしになり、ジャパンカップの出走を目指すようになった事。
林田厩舎から、ラストファインは転厩して中央所属になること。
組合馬主の江藤オーナーからは、ラストファインを中央に転厩させるに当たって何処か良い人は居ないかと打診を受けていた。
一年前には満司調教師との話が進んでいたが、引退の話が通ったのか、馬房が埋まってしまったとして断られたのである。
そうした経緯から巌は転厩先に雉子島厩舎を選んだ。
稲葉はそうですか、と顔を伏せた。
「雉子島先生と俺は、昔は同じ師を仰いで調教助手で働いていたことがあったんだ。
期間こそ短かったし、調教師として独立してからは中央と地方で別れて、顔を合わすことも殆どなかったけれどな」
とはいえやはり、突然すぎる話だ。
雉子島は巌との会話もそこそこに、ラストファインの受け入れには難しい声をあげていた。
巌は師との思い出話を一つ語って、雉子島が息を吐いて受け入れると、一つの条件をつけられた。
「条件?」
「ラストファインを担当していた厩務員も来るように、と。 そうでなければ、転厩の話は断られるだろう」
「……まさか」
「俺達の師であった先生は、一度面倒を見る事になった担当馬を、必ず一人の厩務員に最後まで面倒を見させていた。
そのやり方は、俺も、雉子島先生も変えなかったんだろうな。 ははは……稲葉、どうだ。 俺の厩舎はもう終わる。 ラストファインの為にも、この話を受けてくれんか」
稲葉は顔を上げて巌調教師をまっすぐに見つめた。
笑みを浮かべて、最後に出来ることはこれしか無かった、と恥ずかしそうに眼鏡を外して。
「ラストファインの事を、頼んだぞ、稲葉」
「テキ……はい、ありがとう……ありがとうございます」
こぼれそうになる涙を堪えて、稲葉は頭を下げて声を絞り出した。
最後まで、テキには面倒をみて貰ってしまっている。
巌が立ち上がって席を外すまで、じっと頭を下げて稲葉は感謝の言葉を告げていた。
そうして転厩日を迎えてラストファインはやはり、暴れてしまった。
馬運車に乗り込むのを必死に拒んで、やがて暴れる事に疲れて無理やり引きずられて行った。
稲葉はラストファインの横でずっと首や顔を触り、宥めようと一緒にいた。
知らない場所に来た。
ラストファインは暗い世界の中で、稲葉以外の人間が居なくなってしまった事に気付いていた。
居なくなってしまう。
誰も居なくなってしまう。
ずっと一緒に居た人が居なくなって、また新しい人間に変わってしまったんだ。
走る場所も砂ではなく、いつかワイルドケープリと共に練習をしていた芝に変わっていた。
何をされるのだろう。
競馬が出来なくなって、何をしているのだろう。
未知が怖かった。
必死になって藻搔いても届かなかった光は消えて、暗い世界の中で、厩舎で一緒になったばかりの馬と芝の上を走らされた。
知らない馬がラストファインを突き放していく。
走ることさえ上手く出来ない。
ラストファインは己の脚を見ることすら、しなくなっていた。
調教の場で見ていた人たちは、適応ができていないと口を揃えている。
こんなものか、仕方ない、馬主の都合だ。
ヘロド系を、芝のGⅠに。 記念に、回らせるだけ。
その様子は、初めて林田厩舎で調教を受けた時に似ていた。
周りからは誰からも期待されず。 誰もがラストファインの走りを見て呆れていた。
稲葉は歯噛みをしながら、黙ってラストファインの面倒を朝も夕も、時間を問わずにみていた。
雉子島先生に許可を取って、ラストファインの馬房の前にも稲葉が居られるように計らってもらった。
「ラストファイン、ジャパンカップ前に叩かないんですかねー?」
誰かが雉子島厩舎の事務所で、そんな声を雑談といった形の中であげていた。
たまたま、事務所の外にいた稲葉に聞こえてしまった。
答えていたのは部屋の奥から出てきたのだろう。 雉子島先生の声だった。
「馬が走る気になってねぇんだから、叩くも何もねぇだろ。 なんだテメェは、馬鹿野郎か?」
「やっべ、すいません」
「あー? 加藤てめぇ、今の話、周りに吹聴すんじゃねぇぞ。 よっぽど真面目だ、稲葉の方が」
雉子島は当然、多くの管理馬を抱えてる中でもラストファインの様子をしっかりと見ていてくれている。
しかし、と稲葉は思った。
ラストファインが、競馬を走る為の調教が再開されても復調しない。
その兆しすら見えない。
馬鹿にされっぱなしで良いのかよ。
笑われっぱなしで良いのかよ、ファイン。
お前はいつも、その脚で馬鹿にしてきた奴等を自分の力で見返してきたじゃないか。
負けても、めげても、顔を上げて立って走って。
最後には胸を張って、園田じゃそれで認められていたじゃないか。
悔しい。
頑張ってくれなきゃ、自分は何も出来ないから、余計に悔しい。
林田厩舎で、ワイルドケープリの真似をして首を上げていた馬と同じ馬だと、思えない。
ファイン、お願いだ。 目を覚まして立ってくれないか。
泣き顔を腫らす前に、怯える前に、立って、走ってくれないか。
悔しいんだ。
覗き込んだ馬房の奥で、ラストファインは隅っこで震えていた。
稲葉は知らず拳を握って歯を噛みしめていた。
10月に入る前だ。
スプリンターズステークスが行われた1週間後だった。
雉子島厩舎のクラッシュランドが優勝し、大騒ぎをして、厩舎全体で祝いあっていた。
そんな中、アメリカからの短期留学を終えて戻ってきた林田駿が、雉子島厩舎に顔を出していた。
稲葉が林田厩舎最後の一頭。 ラストファインの転厩と共に、雉子島厩舎へと所属を変えた事を知って、尋ねにきたのである。
久しぶりにあった林田駿は、肌がこんがりと焼けていた。
「久しぶりだな、稲葉、元気だったか?」
「お久しぶりです、駿さん。 連絡受けてましたけど、ちょっと遅かったですね」
「わるい、牧野とそこで丁度合って、少し話をしてて遅れた」
「それにしても凄い焼けましたね、最初、駿さんだって気付きませんでした」
「ああ。 ウェスタンウッドホースで、牧夫の真似事をしてたら、こんなに焼けちまったよ」
騎手として渡米したはずでは?
疑問を飲み込んで、稲葉は笑いながら話す駿に、アメリカでの土産話を聞きながらラストファインの下へと案内をしていた。
後ろを向いて、身体を倒しているラストファインが居た。
その後姿が―――記憶と違って随分と小さく見える。
駿は稲葉の顔色が会った時から優れない理由を察した。 声をかけても立ち上がりもせず、結局ラストファインは顔を見せてもくれなかった。
「……ああ、そうだ、稲葉。 現地で動画を撮ってきたのが幾つかあるんだ。 ワイルドケープリの」
「いくつかって、ファイル名が234ってあるんですけど」
「ああ、もっと撮りたかったな」
「……ワイルドケープリ、元気でしたか?」
「そりゃあそう。 元気いっぱいだった。 牧場でもボスになったみたいでな。 もし、もっと馬が大勢いる時だったら、うちの厩舎でもボス馬になったのかもな」
「はは、なんか想像が出来ますね。 ワイルドケープリは迫力ありましたし」
少し大きめのスマートフォンで、稲葉に見える様に掲げた映像から、今はもう随分と懐かしい。 傷痕の残った顔をカメラ目線で向けている馬が姿を現した。
奥で倒れている馬が居る。 馬体の特徴に見覚えがあって、奥に居る馬はクリムゾンカラーズだと分かってしまった。
なんて豪華な画なんだろうか。
稲葉は思わず笑ってしまいそうになって動画に集中してしまい、映像の中のワイルドケープリがクリムゾンカラーズに振り向いて、同調するように嘶いていた。
『―――いつまで倒れてんだ、阿呆』
ラストファインの耳が動いた。
背中を向けていた林田駿と、稲葉は再生された動画に集中していて、その様子に全く気付かなかった。
『―――たいして痛くもねぇだろ。 とっとと立てよ。 せっかく良い天気だってのに、日が暮れちまうぜ』
顔が上がる。
暗い世界の中で声が降りかかった。
何かどこか遠くから、籠ったような声が。
知っている声だ。 ずっと追ってきた声だ。
今みたいに暗くて冷たい夜の中、何度も何度も聞いてきた声だった。
映像を繰り返していた駿のスマートフォンから、ラストファインの耳に、今度はハッキリとワイルドケープリの声が聞こえた。
旅立つ前に貰った言葉が蘇って。
『―――いつまで倒れてんだ、阿呆』
0か1しかねぇのか。 馬鹿が神妙な顔をしてるんじゃない。 判っちゃいねぇな。 産まれも育ちも関係あるかよ。
しょうがねぇな、しっかりついてこいよ。 競馬をしなくちゃ、競馬は勝てない。 ああ、楽しみだな。
―――ぐるぐるを頑張れよ
俺は光には届かなかった
おい、足踏みしている暇なんかないぜ
言葉が、ひとつに繋がっていく。
また泣いてるのか、ちび
喉の奥から絞り出した嘶きに驚いて、駿と稲葉はラストファインの馬房を振り返った。
ラストファインが、また暴れだしたのか。
稲葉が馬房の中に潜り込もうとした時、二本の脚で立ち上がっていたラストファインが、蹄を大地に着けると、荒い呼吸を繰り返して前脚を掻いていた。
濡らした顔を上げて。
精一杯、その身体を大きく見せて。
ラストファインは暗い暗い世界を睨みつけた。
知っていたはずなのに、見ようとしていなかった。
山間に沈んで暗くなれば、長い夜を抜けて、また陽が昇る事を知っていたのに。
泣いてなんか、いない。
泣いてなんか、いないんだ。
ラストファインの瞳に闘志が宿る。
暗闇の中で聞いていた。
次が最後の競馬であることを知っている。
競馬の中でも大きなレースで、格式の高い芝のGⅠ競争。
全ての人が勝利を讃える競馬を。
成し遂げてみせれば、きっとラストファインは光の中でいられるから。
ワイルドケープリでさえ届かなかった、光を掴まなくちゃ。
掴まなくちゃいけない!
まだ、競馬が出来るのだから!
自身の夜を切り払う為に。
光に満ちた世界に、踏み入れる為に。
長い長い夜を越えて、ラストファインはやっと前を見据えることができた。
「ファイン……」
稲葉が様相の変わったラストファインに驚きながら手を伸ばす。
そっとその頭を、稲葉の掌に擦り付けた。
目を閉じて。
ただ一人が齎す光は小さかった。
稲葉の手の暖かさを感じながらラストファインはゆっくりと目を開けた。
視界の先に闇はもう、広がっていなかった。
脚を回せ!
調教を受けているラストファインの馬体が弾んで、力強い踏み足に芝が捲れ上がる。
ずっと併せていて、置いてかれていたオープン馬との併走。 それまでの走りが何だったのか、と思うくらいにラストファインの踏み足は力強かった。
周回半ばから一気に千切り、風を切って置き去りにする。
周囲からの視線ががらりと変わる。
なんだいきなり。 どうした、急に。
変化に戸惑ったのは、稲葉以外の厩舎のスタッフ全員であった。
雉子島調教師だけは少しだけ笑みを浮かべて、厳めしい顔を歪ませた。
併走する馬が変わっても、調教時の動きは激変し、どんな馬を当てても、決して前を譲らなかった。
競馬をしなくちゃ競馬に勝てない。
競馬をしていた時の感覚を、一刻も早く取り戻さなくちゃいけない。
脚を回せ!
衰えた筋肉を回復させるように、稲葉に食事を催促する。
質の高い飼い葉から、多くの栄養素を吸収するように、とにかくラストファインは目一杯に食べた。
あれほど悪かった食い気が何だったのか。
桶に勢いよく顔を突っ込んで、腹に栄養を詰め込んでいく。
食べて食べて、そしてまた走って飯をたらふく掻き込んだ。
みるみる内に、と言って良いほど窶れていた馬体が良質の筋肉へと変換されていった。
引き運動でも、乗り運動でも、教えられてきた事を総動員し、ラストファインは身体と体幹を鍛え直して行く。
時間がないことを理解していた。
次が最後の競馬であることを分かっていた。
ラストファインは一日が、たったの一日が必死であった。
光を掴むために。 この脚が届くように。
足掻いて、藻搔いて勝ち取る為に、一日を必死に過ごしていく。
脚を回せ! 脚を回せ!
ラストファインはとにかく脚を回した。
様子を見守ってきた雉子島調教師が満を持してメニューを増やした。
坂路にプール、なんでもやらせてくる。 異常なほどの密度で構成された調教メニュー。
通常では在り得ないほどの量を叩きつけて、ラストファインはそれを順調に消化していく。
ラストファインは泳ぐのが下手だった。
溺れながら懸命に足を掻きまわして、プールが終わると咽てクシャミのような声をあげていた。
やりすぎだ、とスタッフが止める中、雉子島調教師は恫喝するように叫びながら強行し、それでもラストファインは足らぬとばかりに調教が終わろうとしても暴れまわった。
ネビュラスターの引退を控えたレース前に顔を出した、田辺騎手がその様子に苦笑をこぼす。
雉子島は愉快そうに笑って稲葉の肩を叩いた。 芝でも走れると言った巌の見る目は正しいな、良い馬じゃねぇかと声をかけて。
主戦の牧野晴春が、調教から乗りつけるようになって、レースが間近に迫った事を敏感に感じ取った。
脚を回して。 脚を回して。
ラストファインはがむしゃらに身体を作り上げた。
ジャパンカップの話が世間では話題になり始めていた。
記者や報道陣が増えて行く中でラストファインは大雨の中で追切を走った。 苛めぬいた身体は、いっそ芸術的であった。
ネビュラスターと併せてラストファインは走る。
どこまでも前へ。 どこまでも先へと、脚を踏み出す。
休養すら許されずに絞った身体は、平凡なタイムを叩き出して、芝のネビュラスターに後塵を帰した。
その日は追切の為の一本だけの併走だけで、調教は終わりを告げ僅かな時間の休養に入る。
「かなり平凡なタイムの追切でしたが、手応えはあるでしょうか」
「今週末にはもうジャパンカップですが、ラストファインは芝に適応できてないのでは」
「ラストファインは勝負できるでしょうか?」
そう質問が飛んで来た雉子島は、記者達を睨んだ。
「おい、たわけた事を言ってるんじゃねぇよ。 勝負になるに決まってるだろ、出走するんだから」
「勝ち目はあると、思っているんでしょうか?」
「あるに決まってんだろ。 なきゃ出さねぇよ。 ヤラズでも疑ってんのか?」
初めからたいして期待もしていない声に、終始不快そうな顔を崩さず。
「前走がフェブラリーステークス以来となります、勝算はありますか?」
「何度同じこと言わせるんだ。 そうでなきゃ、調教師なんか最初から競馬にいらねぇし、レースだって出ねぇんだよ。 もういいか?」
雉子島は立ち上がってつまらなそうにそう答えて、記者たちへの対応を終えた。
煽り文句を盛大に付け足され、ジャパンカップへ出走する馬たちの紹介が始まった。
次々に追切の様子が映されて、近走や近況を時間を割いて紹介されていく。
稲永竜平は今週末のジャパンカップに向けて、競馬番組をかじりつくように見ていた。
クアザールを破った前年チャンピオン・デュードランプリンス(愛)、同じくアイルランドから帯同馬としてゾーンファニーが二連覇を目指してやってきた。
昨年度、クアザールに凱旋門賞を取られた仏からコロネーションS・ジャックルマロワ賞を制した8戦無敗の3歳馬 ブロスペラボヤージュが日本の国際競争タイトルを奪いに来日。
アメリカ芝競争で圧倒的な戦績を引っ提げて日本に乗り込んできたメダルオブスカーが、突然と言って良いほど前触れもなくジャパンカップに参戦。
イギリスダービー馬、ヒルデザードシーズンが。
香港から不気味な存在、騙馬ヒューマンアナライズドが。
対する日本馬からは天皇賞秋を勝ったステイブルダイス・宝塚記念を制したビレッジバロン・今年の日本ダービー馬に輝いたネイヨンフォーリアが。
そして、転厩し1枠1番という最内枠を引いたラストファインが映像に映されて現れる。
それまでの馬は大きく尺を取って詳しく説明されていたのに、僅か20秒弱。
殆ど期待されるようなコメンテーターの言葉もなく、それまでの派手な紹介が嘘のように、ヘロド系という血統要素のみが注目されラストファインの追切映像が終わっていった。
海外馬の参戦は2030年以降から日本馬の海外挑戦に合わせるように、また多くなってきたが、今年のジャパンカップでは全16頭中海外馬が6頭と大盛況であった。
因縁もあるだろう。 結果を出したから来たのだろう。 勝算があると踏んだのだろう。
それでも日本馬ばかりであった頃と比べれば、今年もまたお祭り感のある顔ぶれとなった。
特に注目が集まったのはクアザールを破った前年覇者 デュードランプリンス。
そしてフランスから日本のタイトルを取りに来たと豪語するプロスペラボヤージュは、凱旋門賞でクアザールと叩き合いを演じたフラットクライオンの全弟。
強気な発言を繰り返しメディアに再三取り上げられているアメリカ芝競争の王者メダルオブスカー。
それらの存在が手伝ってか、SNSや掲示板では活発に議論や煽り合いが乱れ飛んでいた。
日本馬では主役足る者が居ない。
海外馬優勢の雰囲気が風靡しており、今年のジャパンカップのタイトルは昨年に続いて海外馬が攫って行くのではと予想されていく。
パソコンに向かってラストファインの事に触れている場所へと、稲永は記事や掲示板を覗いていった。
殆どが勝つとは思っていないだろう、上っ面だけの気の無いエールを送るコメントばかり終始していた。
怪我をしないように回ってくれ、だの、入着目指して頑張ろう、だの、勝利を望む声は皆無だったと言っても良い。
もしもラストファインの事をまったく関わりなく過ごしていれば、稲永も彼らと同じように考えていただろう。
そして心無いコメントを残していたはずだ。 勝てるわけがないだろう、ダート馬が出るのは組合馬主の宣伝にすぎない、と。
最後に出走表を開いて、それを一度見てから稲永は席を立って窓辺による。
この時期では珍しく、今週はずっと大雨の予報で、外は豪雨に見舞われていた。
GⅠ / ジャパンカップ
東京競馬場 芝2400m 曇り/不良 全16頭 15:40 発走
1枠1番 ラストファイン 牧野 晴春 (厩舎・雉子島 健)
1枠2番 ビレッジバロン 清倉 賢吾 (厩舎・満司 史朗)
2枠3番 ネイヨンフォーリア 竹岡 遼 (厩舎・大迫 久司)
2枠4番 プロスペラボヤージュ ミレク (仏・アモン)
3枠5番 ゾーンファニー キーアン (愛・トーマス)
3枠6番 ハシルヒオウジャ 田辺 勝治 (厩舎・富士野 遥)
4枠7番 ヒルデザードシーズン デザイー (豪・スミス)
4枠8番 ステイブルダイス 広山 應治 (厩舎・北川 元)
5枠9番 デイスピードエース 岸本 祐 (厩舎・片山 康夫)
5枠10番 ウィスパレード 平野 有吉 (厩舎・内田 渉)
6枠11番 デュードランプリンス マルセル (愛・トーマス)
6枠12番 フィンクス 久瀬 佳樹 (厩舎・猪俣 幸三)
7枠13番 ヒューマンアナライズド ローマン (香・ノング)
7枠14番 メダルオブスカー ジョンソン (米・アーサー)
8枠15番 オルゾォーク 飯山 広 (厩舎・榊 五郎)
8枠16番 グラスクォーツ 新野 幹 (厩舎・間戸 一成)
―――……
雨が止まなかった。
ジャパンカップ当日、馬房の中で打ち付ける雨音を聴きながらラストファインは静かに立っていた。
僅かな時間ではあったが、身体の休息は完全で、今すぐ競馬が行われても問題は何もない。
陽が昇る時間になっても分厚い雲は空を覆っていて、ようやく雨脚が弱まったのは昼を過ぎてからだった。
強いという程ではない風が吹き、東京競馬場のターフを濡らしていた。
耳がぴくりと動いて、ラストファインは分かった。
稲葉の足音が聞こえる。
閉じていた瞼を開いて、ゆっくりと目を開ければ視野の中に映る景色が、仔細に把握することができた。
飼い葉を食べた時にはもう、今日がレース。
最後の競馬をする日だということがラストファインには分かっていた。 味が違うからだ。
心構えは出来ている。
これが最後だ。
足音が近づいて、ようやく稲葉が顔を出す。
ラストファインの耳は遠くから歩いてくる稲葉の足音が、ハッキリと聞こえていた。
この雨の中、GⅠ競争で慌ただしい厩舎の中、しっかりと捉え切っていた。
不思議な感覚だった。
今までに経験したことの無いほど、ラストファインは自分が最後の競馬に臨んで、己の態勢が整っている事を自覚できた。
準備を進める稲葉の指示に従って馬体を綺麗にされる。
鬣を結えられ、尻尾を梳かされて、ラストファインは稲葉に手入れをされている間、自らの脚をじっと見つめていた。
時間が来たのだろう。
正装に身を包んだ稲葉がラストファインの口を引いて歩く。
装鞍場までの道すがら、すれ違う馬達と人の一挙手一投足が全て把握できるようだった。
パドックに出れば人々の目が一つ一つ、どこに視線が向かっているのかさえ判るようだった。
ラストファインは顔を上げた。
堂々と歩く。
誰が見て居なくても、誰も見て居なくても。
今この場に自分が立って歩いている事を、誇示するように。
この場所にラストファインは立って歩いている。
稲葉が立ち止まって、牧野が顔を見せた。 雉子島が首を叩いてかまして来い、と意気をつける。
江藤オーナーを始めとした馬主たちが、ラストファインに頑張れ、と声を挙げていた。
小さな光の兆しが、近くで輝いていた。
「牧野騎手、ファインをよろしくお願いいたします」
「ああ、行ってくる」
「第××回ジャパンカップ。 1981年に創設された国際招待競走が今年もやって参りました。
海外からは6頭参戦しております。
出走の回避やトラブルなどもなく、全頭が完全なコンディションで迎えております。
昼頃には威勢の弱まった雨の中、馬場状態は不良ではありますが、晴れ間がぽつぽつ垣間見えました。
東京競馬場には既に8万人を越える大観衆が詰めかけて、今か今かと発走を待っている状況です。
やはり注目は前年、あのクアザールを見事に破って優勝したデュードランプリンスでしょう。
人気もこのジャパンカップで実績があることから、一番人気となっております。 今年は人気している馬が海外馬に集中していますね、小関さん」
「はい、日本馬では宝塚記念を制したビレッジバロンや、直近の天皇賞(秋)を見事に差し切ったステイブルダイスが居ます。
当然、力負けはしていないと思いますが、それでもやはり今年のジャパンカップに集った海外馬は実績と力がありますからね。
特にプロスペラボヤージュはまだ無敗であり、海外でもレーティングが130と高い評価を得ている馬です。
追切でも日本の高速馬場に対応しているようにも見えましたし、アメリカから来たメダルオブスカーはとにかく陣営の自信が漲っていますから。
実際にパドックで見た所感も、どこもしっかり仕上げてきているな、と思える馬体でしたし、世間の風潮は正しいのかもしれませんね」
「確かにそうですね。 昨年はあのクアザールが、デュードランプリンスに破れてしまいました。
しかし、今年こそ、日本馬にも意地を是非とも見せて欲しいところです。
ステイブルダイス、ビレッジバロン、そして3歳馬ながら菊花賞を回避してまで挑戦してきたネイヨンフォーリアが居ます。
どこも仕上げには自信がありそうですし、期待が持てるのではないでしょうか」
「不良馬場ですからね、ウィスパレードやハシルヒオウジャは重馬場は得意でして、この東京競馬場でも勝ち鞍があります。
当然、宝塚記念を制したビレッジバロンはタフなレースもこなせますし、ダービーを3馬身差つけて世代ではトップを証明したネイヨンフォーリアも個人的には期待したいです。
今はもう雨は止みましたが、馬場状態を味方につけることが出来れば、わかりませんよ」
「なるほど、是非とも好走を期待したいところですね。
さぁ、ゲート前に各馬が集まりました。 いよいよ今年のジャパンカップが始まろうとしています!」
風を切って返し馬を行う最中には、自分が捲り上げた芝の一本まで把握できた。
歓声が上がる。
大きな、大きな歓声が。
数えきれないほどの人がスタンドから、光の兆しを送っていた。
暗い夜の雨を抜けて、光を掴み取るまで。
2400m先に夜明けがある。
ラチ沿いをゆっくりと歩いて、メインレースまでに荒れ切った馬場の状態を眺める。
ラストファインは返し馬の最中、傷んでない芝の上だけ、脚を踏み入れてみた。
簡単だった。 とても簡単で走り易かった。
ラストファインは雨が完全に止み切った空を見上げて、ゲートの前に立った。
目を閉じて。
重馬場に付き合う必要のない事に確信を深めて、息を大きく吸って吐き出した。
零れた空気が喉を鳴らして小さく嘶く。
闇に取り残されるくらいなら、命を失っても構わない。
己の存在が消え去らなければいけないなら、生きている意味なんて何処にもない。
ラストファインという存在を懸けて、ここに立っている。
瞼を開く。
さぁ、競馬をしよう。
「ファンファーレをお聞きいただきました、東京競馬場。
長い雨が続いていましたが、曇り空から太陽が顔を出そうかという中。 ジャパンカップの発走時刻になりました。
前年覇者のデュードランプリンスが入っていきます。 宝塚記念を制したビレッジバロンが、今年のダービー馬、ネイヨンフォーリアが入りました。
アメリカからの刺客、メダルオブスカー……英ダービー馬のヒルデザードシーズン、少しゲートを嫌がっているでしょうか。
係員に引っ張られて、今はゆっくりと入っていきます。 最後に、大外枠。 グラスクォーツが入りまして態勢完了です。
―――スタートしました!
ラストファイン好スタート! ぽんっと飛び出した! デイスピードエースも良い出足だ!
後ろからの競馬を選んだか、デュードランプリンス。 ステイブルダイス天皇賞馬、ヒルデザードシーズンやや出遅れて後ろに控えた。
前を行くのは②のビレッジバロン、あとはウィスパレードも前目勝負か。 さぁ、先頭から見て行きましょう。
先頭、ハナを主張したのは1枠1番ラストファイン。 枠番の有利を活かすように、このまま前で逃げる作戦を選んだか鞍上の牧野晴春。
最初のコーナー入口を駆け抜けて、ラストファインが逃げました。 もうすでにリードは3馬身。 これは作戦でしょうか。
二番手にはデイスピードエース。 おっと中団から上がっていきますアメリカの⑭番メダルオブスカー、楽には逃げさせないと一気に上がっていく。
②ビレッジバロン、そのすぐ後ろに⑥ピンクの帽子ハシルヒオウジャ、香港騙馬のヒューマンアナライズドがこの位置。
追走してネイヨンフォーリア、今年のダービー馬です。 アイルランドのゾーンファニー、その後ろ追走しているのが此処にいた、フランスの無敗馬プロスペラボヤージュ。
どこから仕掛けてくる、プロスペラボヤージュ。 欧州の無敗馬が、ジャパンカップの栄冠を手に入れようと、力強くターフを駆けています。
その後ろグラスクォーツ、フィンクスと続いていますが―――しかしラストファイン、思い切った逃げを打っています。
二番手からはもう6馬身以上は開いている。 レースを引っ張る形になりました。
中団後ろからはステイブルダイス、そして前年王者、クアザールを破ったデュードランプリンスが後方から睨みを効かせている。
その1馬身後ろにオルゾォーク、最後方からペースを上げてヒルデザードシーズンが横に並びかけて行く。
二番手入れ替わってメダルオブスカーが一気に上がっていきます。 ラストファインに鈴をつけに行く勢い。 掛かっているようには見えませんが、この判断はどうか」
最初のコーナーを回る時にはもう、牧野はラストファインの上で判断を迫られていた。
先行位置から進めようと思っていた作戦は、余りに完璧なスタートをしたことによってご破算だ。
このまま進めるか、下げるべきか。
こんな時になって林田駿との会話が脳裏をよぎる。
牧野はしばし逡巡をしたが、ターフを集中して走っているラストファインの意気に力を抜く。
完全に手綱を緩ませて、牧野は笑みを浮かべて自身の構想を放棄した。
人気が無かった。
芝の適性があるとはいえ、ダートばかり走ってきた馬が勝つなんて余程の事が無い限りはありえない。
少しでも上の順位を目指す走りをと思っていたが―――馬が勝つ気でいるのに、そんな弱気な事を騎手がして良い物でも無いだろう。
どうせ誰もが負ける前提で見ている競馬だ。
ラストファインのやる気が手綱を通して伝わってくる。
このまま馬の行くままに任せようじゃないか。
牧野は視線を後方に送った。
ビックマウスばかり報道されてきたアメリカのメダルオブスカーが近づいてくる。
動きがあったのはそれだけだ。
ラストファインがペースメーカーとして逃げてくれてむしろ、好都合だと誰もが思っているようだった。
牧野は鞭を取って、一つ。 手を掲げた。
なぁ、おい。
舐められてるぜ、ファイン。
ぶちかましてやるか。
度肝を、抜いていこうぜ。
牧野の意思を汲むように、ラストファインのペースが一つ上がった。
重くたっぷりと水分を含んだ芝が捲れ上がる。
次の瞬間には加速する。 踏み足はまったく荒れていない芝をしっかりと噛みしめる。
その次の瞬間にはまた加速する。
メインレースまでに荒れ切った最内の経済コース。 芝模様が悪すぎるはずのその場所で、ラストファインの脚は軽く弾んでいた。
馬体をぐっと沈み込ませて、顔をガッチリと下げて前だけを見据える。
何も追ってこない不良馬場の中を泳ぐように。
「先頭はラストファインだ。 一頭だけの一人旅。 10馬身は離して大ケヤキの向こうに入っていく。
追っているのはメダルオブスカー。 重馬場に苦しんでいるか、デイスピードエース、少し遅れています。
各馬ぞくぞくと欅の向こうへ。 さぁ、差が縮まって来たか。 ラストファイン、それとも息を入れたのか!」
誰もが口を揃え、無理だと言う言葉だけが、周囲に溢れていた。
生まれた時からそうだった。
誰も彼も、ニンゲンでもウマでも、この身に降りかかったのは期待とは無縁の無遠慮な視線と声だけ。
己の身体に流れゆく"別の何か"
存在も知らない幻を見て、それを追いかけて、ほそぼそと繋いでいく見えない何かが求められ、ラストファインには価値が無かった。
誰も見ない。
誰も見てくれない。
なにかが何なのか、そのものを理解しているわけではない。
しかし判る。 この身に期待を抱くニンゲンは、自身の意思や感情ではなく、それ以外の物でラストファインというウマを測っていた。
足並みを揃えて同じように、誰も彼もが。
生まれてきてから今まで、これまでも、そしてきっとこの先も俺を通して『何か』に夢を語る者は居るのだろう。
それは暗い闇だと知っている。
『今』だってきっと、それは同じで。
林田厩舎ではラストファインの周りは少しだけ明るかった。
ワイルドケープリという太陽が居たから。
巌が、駿が、橋本が、山田が、そして稲葉が居たから。
でも、それも居なくなって、また暗くなってしまった。
ラストファインを見てくれる者はもう、稲葉だけしか居なくなってしまった。
"何か"を見ていて、ラストファインは忘れられて見られなかった。
何処まで行ってもそれはラストファインに付随してくる、価値の在り方だった。
いつまでも晴れない雨の正体―――それこそが暗い夜の本性。
嵐の中で弱さを知った。
あの幼き日にこの身を襲った、許されない存在そのものには、絶対に負けない。
そんなものは蹴散らしてやるんだ。
俺は『俺』であることを証明する為にこの場所に居るんだ。
「ラストファイン、15頭の馬群を従えて先頭のまま―――」
見えているか。
"俺"の価値を勘違いしているニンゲンよ。
見えているか。
己を知らぬ全てのウマを従えて、この競馬で先頭を走る"俺"を。
「さぁ! さぁ! 東京競馬場・525.9mの長い最終直線が待っている!」
見ろ。
見ろ。
俺を見ろ。
「海外の、そして日本の強豪馬が一気に襲い掛かってくるぞー!」
馬鹿にするな、決めつけるな、知らぬ尺度で測ろうとするな。
見てくれだなんて、もう言わない。
俺を見ろ。
俺は負けない。
絶対に逃げない。
もう二度と俺以外の何かを見る暇なんて与えない。
もう一度、馬鹿げた夢だと嗤われても、俺はこの脚で掴み取って見せる。
闇の中に取り残されるくらいなら、そのまま命を失っても構うものか。
「ラストファイン、後続とのリードが縮まってきた!」
さぁ―――勝負だ!
己の存在価値を、大死一番にて誇示する最後の競馬。
真っ暗な夜を切り拓く光になって。
さぁ―――勝負だ!
俺と競馬をするウマ達よ。
必死に足掻け、足踏みしている暇なんかないぜ。
超えられる物なら越えて見ろ!
俺の背中は―――
―――ちび、俺の背中は―――
俺の背中は―――容易くはないんだ!
風を切る。 一完歩。 脚が大地を踏みしめて。 捻じ込み、響く。 芝を抉って跳ねあげ。
瞼をとじて。
そして眼を開く。
緑の大地に闇を切り裂く光星が走った。
ラストファインの夜明けは何処だ。
「逃げるラストファイン! 後続との差は3馬身、2馬身と縮まってきたぞ! ラストファインが懸命に逃げる。
縮まって―――ち、縮まらない! むしろ突き放した! ラストファインただ一頭、400標識を通過する!
二番手メダルオブスカー、鞍上ジョンソン追っているが伸びが苦しい! その後ろからステイブルダイス、、ビレッジバロンと天皇賞馬と宝塚記念を制した二頭追い込んでくる!
プロスペラボヤージュもゴーサインか欧州無敗の最強馬! 横広がって各馬スパート! ラストファイン逃げる! ラストファインまだ逃げる!
大外から、大外から昨年ジャパンカップ覇者のデュードランプリンス、一気に中団差し切って前に出た! 凄まじい切れ味!
残り300! ラストファイン、リードは一馬身! 余裕が無くなってきた! メダルオブスカーは一杯だ!」
「いけっ、牧野ぉっ!!!」
トラックの端でレースを追っている林田駿がラチ沿いにまで身体を出して叫ぶ。
「ファイン! 頑張れぇ! 粘れぇ!」
稲永が街中で中継を見ながら、わき目も振らずに大声でエールを送る。
「ファイン、いけえええええええええ!」
稲葉が厩務員の集まる場所で、誰よりも大きな声を張り上げて。
ラストファインの背中を押した。
「追いすがるステイブルダイス、! ビレッジバロン伸びないか! ラストファインまだ逃げている!
プロペラスボヤージュ二番手に上がってきた! デュードランプリンスが大外で一気に加速! 残り200標識を通過した!
ステイブルダイスは伸びない! ステイブルダイス脚が止まった! 海外馬に屈するのか日本の意地! プロペラスボヤージュとデュードランプリンス馬体を併せてラストファインに一気に襲い掛かってきた!
ラストファインまだ先頭! 2400東京競馬場の重馬場で逃げ切るのか!? 追い比べ! 追い比べだ!」
競馬に勝つんだ!
競馬で勝つんだ!
『ラストファイン』を見てもらうために。
光を掴むために!
俺が、勝つんだぁぁあぁああああああ!
「ラストファインだ! ラストファインどこにそんな力があったんだ! 伸びて行く! 逃げる逃げる! 逃げ切るぞ! 背中を追いすがるデュードランプリンスもプロペラスボヤージュも必死だが!
一馬身、後ろに置いたまま、ラストファイン後続を振り切った! 信じられない! この東京競馬場の長い直線を今!
今一着で、ラストファインが逃げ切って優勝だああああ!
やってやった! ラストファインが並みいる強豪馬を従えて2400mを完全に逃げ切った! 完全に逃げ切りました、牧野晴春とラストファイン!!!!」
静寂が包んだ。
命を揺らした馬達がゴール板を駆け抜けて。
先頭で走っていたラストファインの行き脚が速度を緩める迄。
ひらりひらりと馬券が飛んでいく中。
いっそ不気味とさえ言えるほどの静寂が、東京競馬場を包んでいた。
牧野晴春が、帽子を上げて顰めた顔を潤ませていた。
雲に隠れた太陽が、顔出して。
光がラストファインの馬体を照らした。
何処だ、何処だ、と叫ぶ。
俺は俺の居場所を探していた。
俺を見てくれる、陽の当たる場所を探していた。
悔しさと悲しみを目一杯噛みしめて。
寂しさに俺は涙を流していた。
泣いてなどいないと、本気思い込んでいたのは
真っ暗な夜の雨の中を俺はずっと歩いて気付けなかったからだ。
脚を踏み出して、一つ。
誰かが手を叩く。
俺はこの脚で暗い世界を拓いてきただろう?
どんな時でも、誰であろうと。
いつか浴びた、光が雲から顔を出して。
脚を踏み出して、一つ。
誰かが声を大きくあげた。
そしてほら。
俺の脚が切り拓いた後には光が差す。
あれだけ暗かった世界が、飲みこまれていくように輝いて。
沈み込んだ芝を蹴り上げて、影が消え去って光輝に呑まれて消えていく。
脚を踏み出して、また脚を、そして、またひとつ踏み出し。
大きな音が波となって、称賛と歓声がぐるぐるを包み込んで盛大に盛り上がっていく。
スタンドの観客たちから、光が昇っていく。
夜が明けて闇を切り裂くように。
暗雲を切り開いて朝日が昇っていくように。
大きな空の上で目が眩みそうなほど輝く。
光を追い続けたあの、太陽の馬の様に、ラストファインは胸を張った。
祝福を告げる手を叩く音が、人々の突いて出る口から歓呼の声が、ラストファインの耳朶に称賛となって一歩。
緑のターフを一歩と踏みしめるたびにだ。
一歩・一歩、そして一歩と大きく大きく響かせはじめて。
顔を上げる。
見えているか。
濡れている顔をラストファインは上げて。
数えきれないニンゲンと、俺と共に走った馬を視界におさめて。
見えているか、俺の姿が。
あの太陽にだって負けないくらい、俺は輝いているか!
目を開けてられないほどの光が、眩しい光がラストファインの世界に満ちていた。
祝福に満ちた光いっぱいの称賛が雨の様に降り注ぐ。
この日、初めて、ラストファインは自分が泣いている事を自覚したのだ。
そうだ―――そうだ。
さぁ、俺を見ろ。
ルドルフじゃない。
テイオーなんて知らない。
俺はラストファインだ。
さぁ!
俺を見ろ!
格好悪いだろう、情けないだろう。
いつも俺は泣いていたんだ!
泣きながら俺は競馬に勝ったんだ!
でもこれが俺なんだ。
見えているか!
見えているだろう!
俺が―――俺がラストファインなんだ!
ラストファインの夜明けは 『此処』 だ。
東京競馬場を包む万雷の拍手と歓呼が包む。
ゆっくりとゆっくりと走るラストファインのウィニングランを称えに讃え、牧野が手を挙げる。
凡そ8万8千人の大観衆が折り成す祝福は、3分間に渡って鳴りやまずに響かせた。
そして引きゆく歓声に黙っていたアナウンサーの声が響く。
「このジャパンカップの前、ほとんど誰からも注目されていませんでした。
誰もが無理だと口を揃えました。
誰もが無謀だと決めつけていました。
しかし、やり遂げて見せました! 2400を見事に逃げ切ったラストファインと牧野晴春。
晴れ切った東京競馬場を今ゆっくりと、堂々の凱旋! ウィニングラン!
砂の王者が、芝の王座に、腰を下ろして!
新帝の誕生です! 第××回ジャパンカップ、 優勝馬は新帝・ラストファインです!」
そうだ、俺を見るんだ!
俺の名を、呼んでくれ!
俺が 『ラストファイン』 だ!
ラストファインはその脚で、ついに目が眩みそうなほど輝かしく光る、お天道様の下に躍り出たのである。
GⅠ / ジャパンカップ
東京競馬場 芝2400m 晴れ/重 全16頭 16:00発走 タイム 2:23:9
1着 1枠1番 ラストファイン 牡5 牧野 晴春 人気11
2着 2枠4番 プロスペラボヤージュ 牡3 ミレク 人気2 1馬身
3着 6枠11番 デュードランプリンス 牝5 マルセル 人気1 アタマ
4着 4枠8番 ステイブルダイス 牡4 広山 應治 人気6 1馬身
5着 1枠2番 ビレッジバロン 牡5 清倉 賢吾 人気3 ハナ
「口取り式の前、馬場から引き上げる時に、ラストファインが地下馬道の壁に身体を預けて倒れ込んでしまったんです。
観衆の前ではあんなに威風堂々と歩いていたのに。 いきなり予兆もなく、誰からも見えなくなった瞬間に。
驚いて、そのまま亡くなってしまうんじゃないかと、衝撃を受けました。 もう感動と恐怖でぐちゃぐちゃになってしまいました。
牧野騎手もすぐに降りて、馬運車を呼んだ方が良いんじゃないかって心配をしてくれたのを覚えてます。
ラストファインは本当に力を―――全ての力を尽くしてきたんだと、その時に分かりました。
大事になる前にラストファインは自分で立ち上がって、何事も無かったかのように歩いてくれて……
その後の検査が終わっても、馬房に戻っても、一夜を過ごすまでまったく安心できなくて……先生、迷惑をかけてスミマセンでした。
でも怖かった、無理をもうしないでくれと頼みたかった。
号泣していたのは、ジャパンカップを勝ってくれたラストファインに感動したのもそうでしたが……
必死に……本当に、競馬に必死になって頑張ってくれたラストファインを想って、それであんなに泣いてしまったんです」
稲葉厩務員はそう雉子島調教師へとジャパンカップを終えた後に胸の内を明かしていた。
「良い馬に出会えたな」
「この馬に―――ラストファインに出会えたことは、一生の宝物であり、私の誇りになると思います」
「男だな、稲葉。 立派なホースマンの顔をしてるじゃねぇか」
雉子島は稲葉の肩を強くたたいて、笑い声をあげた。
勝利インタビューで牧野は答えていた。
「ラストファインが逃げ切れた勝因ですか? この滅茶苦茶に重い馬場の中、内々で良い芝の上を走れたからだと思います。
信じられないかもしれませんが、メインレースで荒れている内側のコースの中で、一番良い所を馬が選んで走っていました。
馬がですよ? 騎手がどうこうできる物じゃないでしょ、そこは。
正直、今でもまだ若干、ラストファインに乗った手が震えてますよ。
ラストファインは今までに出会ったどんな馬より、競馬が上手くて賢くて……とても強い馬だと心底から思います。
だから、きっとこの勝利は必然です。 誰よりも強い競馬をしたのだから、勝ってくれたのだと思います。
きっと、誰も信じてはくれないでしょうけど」
この牧野騎手の言葉は数か月後に映像を解析した一人の競馬ファンが、動画をアップロードするまで嘘だと思われていた。
不良馬場が上手くハマって、適応の差で勝てたという意見が大勢であった。
しかし実際にラストファインが走った場所は、解析の結果、芝の荒れていない所だけだったと判明すると、大きな騒ぎになって話題となった。
ラストファインがとんでもなく利発な馬で、とても強い馬であったことを、世間がようやく認知したのである。
そして時は。
流れて。
種牡馬としての生活に慣れ始めた頃であった。
ラストファインが繋養されている牧場で、一つのイベントが行われようとしていた。
それは、馬に触れ合う事の少ない子供たちが一同に集まって、牧場の種牡馬たちと触れ合ってもらおうという物だった。
地元と地域に馬との繋がりと触れ合いを、というテーマで行われ、牧場全体で取り組もうとしている大きなイベントだ。
ラストファインは芝とダートの両方の中央GⅠを制した馬として、最初に呼ばれる手はずになっていた。
この牧場でも最も人気があって、最も有名な馬だからだ。
ところが、リハーサルの最中にラストファインはどうしても暴れだしてしまった。
原因がハッキリしているだけに、余計に困った問題だ。
子供たちに紹介を促す、司会のような役目を請け負った若い牧夫は、どうすればいいのか頭を抱えてしまった。
暴走されては子供たちの安全面で問題が出てきてしまう。
かといって、この牧場ではラストファインは目玉と言っても良い一頭。
なんせ観光客の殆どが引退後のラストファインを見に来ていると言っても良いほどだ。
しかし、彼の紹介にはどうしても、ヘロド系の血統というものと、ルドルフとテイオーの名前が入ってしまう。
ルドルフ・テイオー・ヘロド。
これらの名前を聞くと、ラストファインは怒って暴走してしまうのだ。
見学者の前でも、名前が出た途端に拗ねて、放牧地の奥に引きこもる様に逃げて行ってしまう。
最近では見学希望者に必ず、ラストファインの前で禁句を言ってはいけないと注意を促す羽目になってしまった。
「なんとかなりませんかね」
「何とかって言ってもな……とりあえずスタッフ全員に相談でもしてみるか、何かいい手があるかも」
そうして相談を繰り返した結果、苦肉の策に打って出ることになった。
ラストファインを連れてくる前に先に紹介を済ませてしまい、最後に呼ぶ方法を取ったのである。
馬を見せながら紹介するのを諦めることになったが、これしか無かったのであった。
そうして迎えた本番。
どこまでも青い空が広がって、良く晴れていた。
用意された席がすべて埋まって、イベントは大いに盛り上がっている。
最前列に子供たちに交じって稲永が、江藤が、久慈が、ハシルヒメモリの写真をかかげてイベントに参加していた。
牧夫が声を挙げる。
「そうです! 皆も、もしかしたら、その馬の名前を知っているかもしれませんね~~~~!
もし分からなかったら、私の合図と一緒に、この看板に書いてある名前を、読み上げて、盛大に迎えてください!
それでは、登場してもらいましょう!
ジャパンカップ・フェブラリーステークス。 芝と砂を制覇した新帝。 誰もが諸手を上げて称賛する名馬の登場です!」
牧夫は大袈裟に手を開いて、奥から姿を現そうとしている馬に身体を向けた。
子供たちに分かる様に、大袈裟な態度で大きな声を。
「さぁ、みんな! 精一杯、元気よく声を出して呼んであげてくださいね!」
スタッフに引かれながら、ゆっくりと建物の奥から姿を現す。
小さな馬体を揺らし、大きく胸を張って。
長く長く、愛されて呼ばれる事になった、その名を。
眩く空に浮かび上がる太陽の輝きを一身に浴びて。
「せぇーーーーっの! その馬の名はぁぁーーー!」
光に満たされた世界で、子供たちの大声に呼応する様に、盛大に嘶いた。
『 ラ ス ト フ ァ イ ン !!! 』
外伝 その馬の名は ~ラストファイン~
終
読了ありがとうございました。
これにて外伝を完結とします。
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