六話 夜明けは何処だ
U 06
「巡り合わせってやつか。 こんな風にお互いの引退が近づいて、一緒に走れるなんて」
「先輩は近くで見て来た分、なおさらそういう実感があるんでしょうね」
「ああ、ファインがこんなに走れるようになるとは、来た当初は思っていなかったのが本音だよ」
「ラストファインは、良い馬ですよ―――血統とか、そんなの関係なく」
東京競馬場の調整ルームで駿と牧野はブラックコーヒーを飲みながら寛いでいた。
ワイルドケープリに跨る駿は当然、ラストファインのラストランも牧野が引き続き手綱を任されることになったからだ。
このフェブラリーステークス。 牧野はクジェイル陣営からも騎乗依頼を受けていた。
クジェイルは昨年のチャンピオンズカップを制したクロスリカードとライバル関係であり、ラストファインとも2度走った事がある素質馬だ。
回答はギリギリまで引き延ばしたが、牧野が選んだのはラストファインだった。
今からもう一年は前になるマーチステークスでの衝撃を、今でも鮮明に記憶に残っている。
それから平安S、武蔵野Sなどを一緒にラストファインと走ったが、走るたびに牧野の技術を盗んでいくかのように、競馬そのものを理解し吸収していく。
結果が平安Sで出たのは幸運ではあった。
対してクジェイルは確かに素質馬で、実際に乗った感触もGⅠ勝ち負けできる馬だとは分かっている。
牧野がこれまで乗ってきた馬達と比べ、確かな実力があることと、実績を残してきたことは間違いない。
しかし、きっと。 牧野が乗っていても負けて後悔しない方はラストファインの方だと思った。
良い馬、と評したのは掛け値なしの本音だ。 そっと手を伸ばして、自分の掌を丸める。
じんわりと汗が滲んでいるのを自覚した。 GⅠに勝ちたい。
勝てなくても、牧野の競馬をじっくりと教え込んできたラストファインが負けるのならば、納得はいく。
「お、早いねぇ。 駿君にマッキー、もう入ってるの」
「あ、こんにちは。 ナベさん」
「ちわっす」
談笑しているところに顔を出したのはネビュラスターの鞍上、田辺勝治。 彼の乗る馬も、引退が囁かれている。
何せ史上二頭目のダート三冠馬だ。 どこまで走らせるのかは陣営次第なのだろうが、復活を果たしたネビュラスターも何時引退してもおかしくはない。
暮れの東京大賞典を勝ったネビュラスターの状態は、好調を維持するどころか、やる気に漲っているようであった。
その後も昨年チャンピオンズカップを優勝したクロスリカード騎乗の風間早翔、そのライバルと目されているクジェイルに乗る事になった綾乃由香。
ダートGⅠ初勝利を目指してホワイトシロイコに騎乗する五良野騎手などが集まって、他愛のない話の中、相手の腹を探るような会話が行われていく。
林田駿はGⅠ特有の和気あいあいとしながらも、ピリついた雰囲気には随分と慣れたものだと一人苦笑を零した。
「でもやっぱり注目はワイルドケープリでしょう、ダート戦線戻ってきての初戦ですし、自信はあるんじゃないですか」
誰が言ったか、林田駿はその問いに緊張もなく自然体で答えた。
「俺は馬を信じて乗るだけだよ。 自信も何もないさ、作戦だって特に考えてないしな」
「本当ですかぁ?」
「なんか怪しいっすね」
「そう疑われてもな……でも、まぁ、みんなビックリするかもな」
「うわ、やっぱあるんじゃないか!」
「いやぁ、自信たっぷりだねぇ。 みんな、ワイルドケープリをマークして囲んじゃおうぜ」
「ナベさんま~た、そういう事やる。 だめっすよ」
「うははは、それじゃま、明日は宜しく。 俺は部屋に戻るぜ」
自然と調整ルームの自室に解散していく騎手たちを見送って、牧野は最後までテレビを見ながらぼんやりとその場にとどまっていた。
馬主専用の駐車場で江藤オーナーと岸間オーナーは車から降りて歓談していた。
GⅠ競争の行われる東京競馬場に、所有馬が走る日に来るのは当然ながら初めての事だ。
勝つ、勝たないよりもこの舞台に立てた事に緊張していた。
両名ともに仕切に身だしなみを整えて、首や顔を触って緊張を誤魔化しながら馬主席へと向かっていると、何人かを連れて歩く大柄な人物に目を惹かれる。
ネイヨン軍団とも呼ばれて数多の所有馬とGⅠタイトルを保有する、羽畑会長の姿があった。
挨拶を交わし、お互いに名刺を交換する。
柊慎吾オーナーもその輪に加わって、和やかな談笑を続ける事15分あまり。
江藤オーナーと岸間オーナーは、この一事だけでもラストファインを出走させた甲斐があったものだと、満足気に笑いあった。
内枠を引いた羽畑会長も、どこか機嫌が良さそうに、フェブラリーステークスの開始時刻を仕切りに気にしていた。
勝つにしろ、負けるにしろ。
ラストファインの最後の出走を目一杯、応援しようと江藤オーナーは声を掛けて回った。
組合所属のオーナー達が一同に会する。
定例会でも欠席が目立つのに、やはりGⅠともなると違うものだ。
時計を覗く。
時刻は12時を指し示していた。
第六話 夜明けは何処だ
パドック直前、オッズは割れていた。
GⅠ馬だけでも6頭出走。 全ての馬が重賞馬。
面子の豪華さだけで言えば、例年でも稀に見る力の拮抗している顔ぶれが揃っていたからだ。
昨年宝塚記念を勝って芝競争でもまだまだ一流、本来向いていると言われているダートに戻って本領の発揮が期待されるワイルドケープリ。
近走は掲示板にこそ乗れていないものの、何せBCクラシックを含むGⅠ6勝馬である。 大本命の一角として前日予想から変わらず一番人気を維持していた。
いよいよパドックに姿を現すと、気合乗りも良く、かといって入れ込んでいる訳でも無く。 集中力を増していてかなり良く見える。 そもそも傍から見てもやる気と集中力は傑出して見える馬だ。
それでもオッズは3.3倍。 全盛期を過ぎたという認識は世間でも競馬関係者でも一致するところである。
僅差の二番人気に押されたのはクロスリカード。 3.9倍。 暮れの東京大賞典こそネビュラスターに出遅れが響いて負けたものの、原因は明白な分まともに走れれば一番強いのではないかと言われている。
出遅れたうえでの僅差の敗北は、力負けをしていない証明であり、いよいよその潜在能力が開花したという陣営の自信も人気に一役買っていた。
その前のチャンピオンズカップを快勝していることもあって、クロスリカードには多くの人の期待が寄せられている証左だった。
殆どクロスリカードとのオッズに開きが無く三番人気。 オッズは5.7倍。 三冠馬ネビュラスターだ。
劇的な復活劇で年末の話題を掻っ攫った二代目ダート三冠馬。
怪我の影響から往年の迫力は薄れたものの、三冠馬としてその実力は疑問を挟む余地はなかった。
6.8倍となった4番人気はホワイトシロイコ。 五良野騎手を迎えてから根岸ステークス、マリーンカップ、JBCレディスクラシックと重賞戦線で負け知らず。
連勝記録も5勝と伸ばして絶頂期を迎えている。
4歳の頃が全盛期と思われたが、血統的には晩成傾向だったことも手伝って、本当の全盛期は今では無いかとも噂され、この中でも一番勢いがある馬といっても過言では無かった。
その後はクジェイル、内枠を引いたネイヨングッドと一桁代のオッズが続き、8番人気となったラストファインは30倍台となっている。
オッズがばらけているのは、主役が不在の証拠である。
装鞍所から次々と出走馬がパドックに向けて出て行く。
隣で装具を終えたワイルドケープリは山田厩務員に連れられて、馬蹄の音を一際大きく響かせてラストファインの目の前を通っていった。
首を叩かれる。
稲葉厩務員が普段とは違う、正装に身を包んで厳めしい顔で口取りを揺るがした。
促されて一歩踏み出す。
良く晴れた東京競馬場のパドックへと続く道は、光が差し込んでいた。
ワイルドケープリはその光の中をゆっくりと上がっていく。
長い鬣と尻尾を揺らし、大柄な鹿毛の背中が光の先に立って現れると、一際多くの人の声がパドックで上がった。
感嘆、喝采。
横断幕のようなものをぶら下げて手を挙げる人々。
ワイルドケープリの名を声高に呼んで、歓呼に迎えられている。
稲葉に引かれて同じようにゆっくりと光の先に立つ。 少し先を歩くワイルドケープリが人々の視線を集めていた。
どの馬よりも一際輝く太陽だった。
その影に隠れるようにして、ラストファインは歩く。
首は下げない。
胸を張って歩く。
この場に居るのが証明だ。 ワイルドケープリと同じ場所に立てた今がスタートラインだ。
逃げず、折れず、まっすぐに目指してきたからこの場に居る。
それは己の誇りを懸けてきたもので、誰よりも自分が認めている事だ。
だからラストファインは自信をもって歩く。
目の前の大きな、眩しくて立ち眩みそうなほどの大きな背中を追い越す為に。
このパドックで自らの証明を主張するように。
合図によって騎手達がバラバラと集まって整列する。
「さぁて行くかい」
首を一つ回し、肩を抑えながら田辺ジョッキ―が 栗毛の馬体で堂々とふんぞり返って立つネビュラスターの下に歩み寄る。
クロスリカードの馬体に2,3度触れて、風間騎手がその背に跨った。
五良野騎手がホワイトシロイコの前で深呼吸を一つ。
そして林田駿と牧野晴春が並んでワイルドケープリとラストファインの前まで歩いてくる。
ゴーグルを下げて駿がふっと息を吐き出した。
牧野が握り込んだ拳をゆっくりと開いて。
「行こう、ワイルドケープリ」
会話なく牧野騎手と林田騎手は別れて、山田厩務員と言葉少なに交わし、駿はワイルドケープリの背中に乗り込んだ。
「牧野騎手、お願いしますね」
「ああ、任せてくれ―――勝って来るぜ」
支えられてラストファインに乗り込んだ牧野が、ゴーグルの位置を調整しながら息を吐いて稲葉にそう言った。
促して本馬場へと入ると、ゆっくりと駆け足し、ラストファインの勢いに乗る様に気合をつける。
雨の振らなかった東京競馬場の砂は乾ききっており、深かった。
2月中頃の冷え切った空気と砂の混じった風が身体と馬体を打ち付ける。
落ち着いている。
牧野は自身の緊張も適度であり、ラストファインの状態も最高潮であることを返し馬の最中に確信した。
精神も体調も、人馬共に問題なし。
後はどれだけ、競馬に集中できるかだ。
GⅠが欲しいか。
ああ、欲しい。
15年もお預けを食らっているのだから、そろそろ良いだろう?
牧野は待避場で他の馬の様子を見ながらそう心中で呟く。
ラストファインは落ち着いたまま、しっかりと発走に向けてテンションが高まっている。
そうだ、まだだ。
誰だってこの瞬間は勝利の栄光を欲す。 例外なく誰もが同じ条件で立つ場所だ。
競り合って最初にゴールをしなければ、勝つことは出来ない。
当たり前の話だ。
漫然と待ち望むだけでは届かない事を、もう知っている。
GⅠのファンファーレが鳴り響く。
ラストファインの鼓動が速くなった。
いよいよ、もうすぐ。
鼻から漏れる息を整え、踏み出す。
砂の入りも抜きも、ゲート前に来る迄に完全に把握した。
後はこの場所で、培ってきた 『競馬』 をするだけ。
そして追ってきた背中を追い越して、勝利を得ることだけだ。
パドックの最中でワイルドケープリだけを見ていたわけではない。
ラストファインの目にはネビュラスターも、クロスリカードも、ホワイトシロイコも、クジェイルも。
競馬をするからには全てが敵だということを知っている。
落ち着け、大丈夫だ。 全部出すだけだ。
負けない。
絶対に逃げない。
ラストファインの目の前で、ワイルドケープリがゲートの中にすんなりと入っていく。
ネビュラスターが入り、ネイヨングッドが収まって、ラストファインは地をしっかり踏みしめるようにしてゲート前へと立つ。
目を瞑る。
牧野がそっとラストファインの首を撫でた。
勝つぞ。
そう互いに意思を込めて。
ラストファインはゲートの中に向かって脚を踏み出した。
「さぁ、ダートの主役が今年の戦線を占うように勢ぞろい致しました。 第××回フェブラリーステークス。
最後に大外12番ゲートにエンビディオンが入りまして―――スタートしました!
好スタートを決めたのは、おお、絶好のスタートを決めたのはワイルドケープリだ! 場内からどよめきに似た歓声。
ワイルドケープリがスタートをバッチリと決めて、一気に前に飛び出した! ミリオンジョークが僅かに出負けしたか!」
ゲートが開いた瞬間から、時が止まった様だった。
ラストファインが脚を踏み出した瞬間には、もう大きな鹿毛の馬体が一完歩分、前に飛び出していた。
足元の芝が爆発するように、力強い踏み足に煙を巻き上げて。
スタートしてゲート開いたと思った時にはもう、11頭全ての馬を引き離して1馬身前を走っている。
ワイルドケープリの隣にいたミリオンジョークが出足の迫力に押されて僅かに怯むのが見える。
ラストファインはその背中を追いかけた。
前脚を掻き出し、後ろ脚を抜いて。
ワイルドケープリは速い。 分かっているからこそ、競馬に勝つために追いかけねばならない。
そうしてギアを一つ上げた瞬間、ワイルドケープリとの馬身差がまた開く。
ただ一頭、凄まじい速度で駆け抜けて行った。
圧倒的な出足だった。 テンを競うなどという次元ではなく、全力疾走だ。
なぜ?
ラストファインは動揺した。
確かにラストファインは速度を一つ上げたはずなのに、ワイルドケープリとの差は一気に開いていく。
まるで最後の直線に入ったかのように、他の馬が止まって見えるほどの勢い。 こんな所で脚を使い過ぎたら持つはずが無いのに。
林田駿が追っている。
目一杯、走れるようにとスタートから追いっ放しだ。
真っ先に芝から砂へ入っていき、それでも加速は続く。
口の中で転がるハミが、困惑を伝達する。 牧野は迷っている。
ラストファインは周囲を慌てて見回した。 ワイルドケープリのダッシュにクロスリカードとネイヨングッドが困惑の中で追いかけ始める。
ホワイトシロイコとクジェイルが行きたがっているのを五良野騎手と綾乃騎手が手綱を抑え込んで、宥め始めていた。
一番内枠で田辺騎手の口元が面白そうに歪み、右手で持っている鞭を挙げてネビュラスターが脚を掻き込んでいる。
「まじかよ」
ラストファインの上で牧野の言葉が耳朶に響く。
ワイルドケープリの背中はもう5馬身はついている。 まだ10秒にも満たない僅かな時間。 ラストファインを含めてようやく砂のコースに入る。
ラストファインは震えた。
展開のコントロール。 競馬が始まって10秒も経たない時間で全ての馬がワイルドケープリの手中の中にいた。
11頭の競馬を壊し、そこに居る馬は選択しなければならない。
どうする、などというラストファインの逡巡は秒にすら至らなかった。
後ろ脚に力を溜めて、一気にトップギアへと加速する。
このままワイルドケープリが脚を使い果たして垂れるなどとは欠片も思わなかった。
「飛ばす飛ばす、一番人気のワイルドケープリ。 これは逃げか! 大逃げか!
ワイルドケープリまさかまさかの大逃げ、鞍上林田、奇策をうった! 波乱の開幕フェブラリーステークス。
先頭はもう、もう7馬身、8馬身と一気に他馬を置き去りにして走るワイルドケープリです!
ようやくワイルドケープリ以外の馬が砂コースに入っていく。
二番手追走はクロスリカードか、いやネイヨングッドが抜かした。 三番手にラストファイン、おっとネビュラスターも今日は前だ。
凄まじいテンの速さで逃げているワイルドケープリを見てクロスリカード鞍上風間、控えたでしょうか。 追ってきたラストファイン、ネビュラスターにも抜かれて4番手。
その後ろ5番手にアウターオブタウン、ホワイトシロイコ、クジェイル、エンビディオンと馬群固まって、その一馬身後ろにイエスオブワールドとイングランスルー、最後尾に出遅れたミリオンジョークだ。
先頭ワイルドケープリ、まだ加速している。 これは、これは持たない。 こんな異常なペースでは絶対に持たないが、大丈夫なのかワイルドケープリ!」
暴走に等しい。
スタンドに居る観客席も、調教師や関係者、馬主を含め、フェブラリーステークスというGⅠレースを見守っている誰もが―――いや一緒に走っている騎手の全員がそう思っていた。
1600mという高速決着するレースですでに10馬身以上のリード。
残り10fを示すハロン棒をただ一頭、ワイルドケープリは通過して、鞍上の林田駿が僅かに首を傾けて後続との差を確認している。
その顔は涼しい物であった。
最内の経済コースを陣取り、豪快なフォームで走るワイルドケープリの背中が揺れる。
追いかけるべきなのか、控えるべきなのか。
一瞬の判断が勝敗に直結する勝負の世界、そこで常に襲い掛かる選択肢をただ一頭の馬が突きつける。
ラストファインはまたも迷いなく選んだ。 脚を前に掻きだす。 牧野は腹を括って力んだ手から小指一本離して手綱を緩める。
ネビュラスターと田辺も見せ鞭を使ってまた一つギアを挙げて追いかける。
引いたのはネイヨングッドとアウターオブタウン。 逆に最初のコーナーでこの差は詰めないと厳しいと見たか、クジェイルとホワイトシロイコを始めとした後方集団が追い出した。
背中を追いかけている。
背中を追いかけていた。
今でも、この瞬間でも。
競馬を支配して進む馬の背中を。
そうだ、足踏みをしている時間なんてないのを教えてくれたのは、ワイルドケープリだ。
だから追いかけなくちゃいけない。
辛くても苦しくても、あの太陽のような馬を追いかけなくちゃ、ラストファインは勝てない。
ワイルドケープリのペースが落ちている。
いち早く気付いたのは二番手、三番手で追走しているネビュラスター田辺騎手とラストファイン牧野騎手だった。
一番近くでワイルドケープリの背中を追ったから分かった事だ。
後続は間違いなく、まだワイルドケープリが暴走している最中だと勘違いしているだろう。
信じられなかった。
走り方も、そのフォームも、鞍上の林田駿でさえ全力で追っていて、間違いなく最高速度を出しているかのように本気で走っている―――そう錯覚してしまっている。
遠目からでは絶対に分からなかった。
だが時計―――騎手として当然のごとく備わっている体内時計が教えてくれる。
異常なほどにペースが落ちている。 ワイルドケープリは息を入れている。
追って追って、やっと追いついてみればこの様か!
最終直線で脚が残っている馬がどれだけ居る? ワイルドケープリの驚異の末脚が最終直線で二度も吹いて、捉えられる馬が一体どこに居るのだ?
日本はおろか世界でも通用した世界最高峰の追い脚を持つ馬の二度目の爆発があるなんて、誰が想像できるんだ。
暴走とも思えるほどの大逃げをしているのに、ワイルドケープリの脚には余裕がある。
競馬を長年、トップステージで走ってきた騎手としての観察眼があるからこそ、目の前を走る馬に余裕と余力がある事が分かってしまう。
牧野も田辺も、氷柱を背中に突っ込まれたような感覚に襲われていた。
逃げて差すなんて、ワイルドケープリの差し脚でやられたらどうにもならない。
競馬をもっとも理解して最も器用にこなしている。 それも騎手すら欺く完璧なやり方で。
田辺は自覚できるほど冷や汗を流し、牧野は歯噛みした。
衰えがなんだ。 全盛期が過ぎたからどうだっていうんだ。
こんな無茶苦茶な戦法を単独で成立させるバケモノが、10歳になる競走馬だなんて誰が思う。
田辺も牧野も互いに背筋を凍らせながら、後続と互いの様子を一瞬だけ視線で追った。
―――ネビュラスターも、かつてない速さで脚を使わされてもう余裕はない。
―――外のラストファインの頭が上がっている、余力はないだろう。
だが、それでもだ。
それでも、後続はワイルドケープリの挑戦権を失った。
ラストファインとネビュラスターだけだ。
この場所に立っていなければ勝負すら許されない。
恐ろしい―――いや、いっそ悍ましいとさえ言える馬だ。
こんな馬と競馬をしなくてはならないなんて!
「痺れるねぇ、まずいぜこりゃ」
田辺はぼやいた。
「ファイン、気張れ! 最後は辛いぞ!」
牧野は活を入れた。 それしか出来なかった。
ワイルドケープリは思惑通りに事が進んでいる事を確信していた。
消耗戦にもつれ込ませるのが最初から狙いだ。
全盛期を過ぎている事を、レースで全力を出せる時間が短くなったこと、何より自らの脚が生物学的に見て衰えている事を誰よりも理解しているのがワイルドケープリ自身だった。
競馬を耐えれる身体はまだあるのか? 後どれくらいの期間持つ?
光の先に到達する為に、一つでも多くのレースを走るためには、向き合わなければ行けないことが多すぎた。
ワイルドケープリは競馬をする、命を揺らす為の場所で光の先へと到達する方法を、その英知を持って考え抜いた。
最初と最後に全力を出せば良い。
それ以外はいらない。 むしろ、やり方を変えて改善を目指せばもっと光の先の領域へと近づけるのではないか。
簡単に言えば途中で休むということだけ。
言葉にすれば、なんとも単純な話である。
スタート時にはその回転だけを上げてテンの滑り出しで最も効率的な手法で、他の馬ではまず不可能な差をつける。
走法そのものを改善し、全力で走っている時に脚を回すピッチだけを落として最後に全力を出せる余力を残す。
そうすれば誰もが錯覚を起こす。
調教していた時、園田の馬場でぐるぐるを回っていた追切の時に、林田巌も、山田も、橋本もワイルドケープリが道中ペースを落とした事に全く気付かなかったほどの完成度だ。
気付けたのは、ワイルドケープリの上に跨っている林田駿だけだった。
ニンゲンもウマも気付けない。 誰も追いつけないスタート直後から広がる圧倒的なリードが、ぐるぐるの展開そのものを支配する。
習得には時間をかけたが、これでクリムゾンカラーズがやっていた様に、最後の直線で二の脚を爆発させる準備が出来た。
やり様によっては三の矢まで繰り出せるだろう可能性がある。
クリムゾンカラーズという怪物馬は天然でこれをやっていた節がある。
あれほどのフィジカルモンスターと全く同じとは行かないが、その真似事くらいはワイルドケープリはようやく出来るようになった。
それに、仮にワイルドケープリがクリムゾンカラーズと同じ事をやっている所に気付いたところで、ぐるぐるで勝つというだけならば、対処法など無いに等しい。
競馬を勝つための一つの到達点が、クリムゾンカラーズの走法であり、やり方だ。
勝つのになりふり構ってられないのは、ワイルドケープリがその身で経験したこと。
何のために走法そのものまで手を加えて、駿とのバランスの調整に日数をかけ、最初に全力の脚を使う消耗戦を想定してきたのか。
突き放したリードが猶予。
8Fのハロン棒を抜けて、必死になって追い上げて来ているだろう後方へと視線を一つ向ければ、3馬身から4馬身後ろにちびとスターのガキがいた。
やっぱりお前らか。
ワイルドケープリは口を曲げて鼻息を漏らした。
芝の競争では間に合わなかった、完成には至らなかった、クリムゾンカラーズを模したやり方。
一年以上の歳月を費やして完成した今だからこそ、ワイルドケープリには自信があった。
―――さぁ、命を揺らそう。 その世界を越えたその先に
ラスト3ハロン。
越えられるものなら越えて見ろ。
俺に勝つのは、ちょっと大変だぜ。
ぐるぐるの光の先の領域へと、最初に駆け抜けるのは――――
突き込んだワイルドケープリの脚が、砂に捕られた。
なんだ? とワイルドケープリが思ったのもつかの間、息が乱れて胸の奥にある肺が収縮する。
人で言えば嗚咽に似た何かが口から吐き出された。
目の前が霞んで見えなくなり、息を吸おうと鼻孔を広げても、呼吸ができない。
なんだ、何が起きたんだ。
ワイルドケープリは初めて身に降りかかった心房細動の症状に、自身に何が起きたのかを理解しようと思考を巡らした。
だが今は競馬をしている最中だ。
脚を。
とにかく、脚を。
脚を出さねば。
踏み込んだ脚が砂に沈んで蹈鞴を踏む。
ワイルドケープリは真っすぐ走っているつもりだったが、外にヨれて逸走していた。
一体、何が―――
突然だ。
目の前で競馬を支配していたワイルドケープリが残り3ハロンの標識を通過した途端に外にヨレた。
先頭を大逃げという派手な作戦。 それも一番人気で引っ張ったのだから、視線を集めて当然だろう。
背中を必死に追いかけていたネビュラスターは、一気に開けて行く内側のコースと、外に逸走していくワイルドケープリに気付いて首を左右に巡らす。
その後ろを追走していたクロスリカードも、ホワイトシロイコも、クジェイルもワイルドケープリの突然の異変にすぐに気付いて隊列を乱した。
騎手の牧野や田辺は勿論、五良野や綾乃、ジョッキーの誰もがその挙動に気を取られて意識が逸らされた。
スタンドの大観衆の声が歓声から悲鳴に代わり。
中継を見ていた全ての人がワイルドケープリの異変に視線が集まる。
その瞬間。
アクシデントが起きた、という事実。
全ての人間と、走っている馬はワイルドケープリという太陽に目を奪われた。
それは時間の空白に等しい。
刹那の逡巡さえ置き去りにする、コンマ1秒を争う競馬の世界で。
ただ一頭。
誰もが真っ白に思考を染めた時間すらもひたすらに前へ。
ただ一頭。
思いの丈をまっすぐにぶつけて、前へ前へとゴールだけを目指して突き進む。
競馬を止めない馬が居た。
ラストファインの視界から他の馬達も騎手たちもすべて消えて行く。
コーナーに差し掛かって遠くに薄っすらと見え始めたゴールだけが、世界に取り残されたように残る。
ワイルドケープリの背中がずっと近くなる。
その脚が砂を掻きだし、乾いた空気に砂が混じって煌めくように空に溶けて行く。
舞い上がる砂煙の中にワイルドケープリの背中がまたぐんっと近くなった。
内側が空いた。
ゴールへの最短距離。
勝つんだ。
競馬に勝つんだ。
競馬を勝つんだ。
競馬で勝つんだ!!!
小さな流星が、大きな鹿毛の馬の背を追い抜いた。
「なんということだ! ワイルドケープリにアクシデントです! 外に外に向かっていく!
空いた内のコースを先頭で駆け抜けるのはラストファインか? ラストファインです。 波乱のフェブラリーステークス!
最後のコーナーを抜けて先頭はラストファイン! そのすぐ後ろをネビュラスターが追う展開!
さぁどうなる。 ハイペースの中で余力がある馬は居るのか!? 後続が一気に上がってきた!」
ラストファインは息を入れた。
やっと、やっと息を入れることが出来る。
ワイルドケープリが支配した世界は、掌握した展開は水の中で走っているかのように苦しかった。
脚が震えている。
身体そのものが言う事を聞いてくれない。
ハイペースに引っ張られただけじゃない。 それだけだったら息を入れる余裕なんてある。
音が、景色が変わっている。 競馬場が揺れている。
歓声と、怒号で満たされて。
世界そのものが渦を巻いている様に。
肺を満たす空気を吐き出して、ラストファインはこの場所が命を揺らす場所だという事を理解したのだ。
背中を追い越したワイルドケープリを他の馬達が次々と抜き去って、直線を向いたラストファインの背中に襲い掛かってくる。
だが、まだだ。
最後に踏ん張らなきゃいけない、残しておかなければならない脚が、まだ―――
音が鳴った。
大地を揺らす、砂を蹄が踏みしめる音。
ネビュラスターがラストファインの横に並んでいた。
内を掬ってラストファインが進路を塞ぎ、外に膨らんだワイルドケープリに邪魔されて来れないハズの馬が横に居る。
一杯いっぱいの脚を踏みしめて、闘争心に命を揺らして。
ハミを限界まで噛みしめ、顔を歪ませ勝利を掻っ攫おうと必死なネビュラスターが真横に居た。
ギラギラとした視線をラストファインに向けて、栗色の馬体を一際、この世界で主張するように身体を弾ませて。
前脚を叩きつけて、噴煙を巻き上げていく。
ネビュラスターがラストファインを睨みつけた。
だめだ。
行かせてはならない。
このままネビュラスターに追い越されては勝てない!
負けない!
脚が一歩。
砂を噛む。
絶対に逃げない!
光は何処だ!
弾いた砂を巻き上げて。
光は何処だ!
ラストファインの夜明けは何処だ!
「先頭ラストファイン、一馬身つけて前を行く。 ネビュラスターがラストファインに迫る。 追って追って前のラストファインを捉えるか!
ラストファイン一杯か!? 行き脚鈍った! 後続からはクジェイル、ホワイトシロイコ、クロスリカードが迫って来ているが!
まだラストファイン粘る! ラストファインとネビュラスターの馬体が合わさって、競った競った! 内のラストファインを外のネビュラスターが交わしたか!
ホワイトシロイコ伸びが苦しい! クジェイルと共にやや遅れている! クロスリカードも懸命に追っているが二馬身先が遠いぞ!
突き抜けたのは二頭だ! ネビュラスターがアタマ一つ抜けたか! ネビュラスターやはり三冠馬、地力が違うか! 残り100! クロスリカードは一杯だ!
内からラストファインが差し返す! ラストファインが差し返した! まだ脚があるのかラストファイン! ラストファイン並んだ! 並んだ! 馬体をびっしり併せて!
ラストファイン! ネビュラスター! ラストファインかネビュラスターか譲らない譲らない! どちらも譲らないぞ―――」
もうだめだ。
もう限界だ。
心臓の鼓動が跳ねて息ができない。
ラストファインは声にならない嘶きをあげて光を探していた。
何処にあるんだ、夜を照らしてくれる光はどこにあるんだ。
ゴールが近づいてくる。
ネビュラスターの脚が上がって蹈鞴を踏んで鞍上田辺の活が飛ぶ。
勝たなければ、照らされないのか。
なら勝たないと。
この競馬で絶対勝たないと。
ああ、でも。
もう脚が上がらない。
身体が揺れてしまうんだ。 苦しいんだ。
頭があがってしまう。 脚が止まってしまう。
首が押された。
馬体が沈み込む。
そうだ、人間が乗っている。
ラストファインは首を下げた。
押された手で、執念を込めて必死に追う牧野の手に縋った。
人の手に押されて身体が、沈み込んでいく。
ほんの少しでも前に。 前にと。 勝利へと。
「ラストファインとネビュラスター! ラストファインを必死に追う牧野! ネビュラスターも辛そうだ! どっちだ!? 今ゴール板を駆け抜けた!
どっちが勝ったのでしょうか! ラストファインが最後に突き出たように!?
ああっ、危ない! あっと、大丈夫でしょうか! ラストファイン鞍上牧野、ゴールと同時に態勢を崩していますが、何とかしがみついている。
牧野のGⅠを獲るという執念か! ラストファインがバランスを崩して躓いたようにも見えました、大丈夫でしょうか!?
とんでもない、凄まじくタフなレースになりました、第××回フェブラリーステークス! ワイルドケープリは無事でしょうか。
ゆっくりと歩くように、いや歩いて今ゴールを通過しました。 鞍上林田、すぐに下馬しています! ああ、ワイルドケープリが止まってふらついている、大変な事になりました」
鐙が外れて落ちかけていた牧野がやっとの思いで下馬し、何時の間にか観客席の目の前まで来ていた外ラチ沿いでようやく息が整った。
ラストファインは顔を起こして、巡らして、期待を弾ませて光を探した。
「結果が出ました! 1着はラストファインだ! 2着はネビュラスターです!
まさに負けられない、意地と魂の籠った叩き合いを制したのはラストファイン! 牧野晴春やりました!
15年ぶり、二度目のGⅠ制覇! 長く苦しかったでしょう! しかしようやく手に届いた二度目の栄冠です! 牧野、笑顔で手を振って観衆に応えています」
牧野に賞賛が、馬運車が到着し、ワイルドケープリに心配と悲鳴と怒号が。
勝ったラストファインよりも、衝撃的な結末を迎えたワイルドケープリの方に注目が集まっていた。
ラストファインには光が見つからなかった。
夜明けになるような太陽が、命を揺らす場所に来たのに見つけられなかった。
あんなに苦しかったのに。
あんなに辛かったのに。
ようやく、ワイルドケープリの背中を追い越せたのに。
ウィナーズサークルへと牧野が下馬し、顔をくしゃくしゃにして稲葉と共に歩いて向かう中、ラストファインは必死に顔を巡らした。
何かを探すように。
何かを求める様に。
ただ必死に。
ラストファインの夜明けの光を探し続けて頭を振っていた。
今までに無いほどの喝采と称賛を浴びながら。
それは何時もよりも確かに眩しかった。 世界が少しだけ明るくなったような気がした。
でも、光は満ちていなかった。
兆しに過ぎなかった。
江藤オーナーが、テイオーと呼ぶ。
久慈オーナーが、ルドルフと声をあげる。
血統が。 ヘロドの。 後継に。
素晴らしい、おめでとう、と。
喝采を浴びて、人々が祝福を贈ってくれた。
ラストファインの夜明けには足りなかった。
夜明けの兆しだけにしか、ラストファインの脚は届いていなかったのである。
GⅠ / フェブラリーステークス
東京競馬場 ダ1600m 晴れ/良 全12頭 16:00発走勝ちタイム 1.33.0
1着 6枠8番 ラストファイン 牡5 牧野 晴春 人気9 厩舎(園田・林田巌)
2着 1枠1番 ネビュラスター 牡7 田辺 勝治 人気3 厩舎(東京・雉子島 健)
3着 2枠2番 クロスリカード 牡5 風間 早翔 人気2 厩舎(栗東・羽柴 有信)
4着 8枠11番 ホワイトシロイコ 牝7 五良野 芳樹 人気4 厩舎(東京・吉岡 真治)
5着 5枠5番 クジェイル 牡5 綾乃 由香 人気5 厩舎(栗東・鯨井 恭二)
―――……
林田厩舎に戻ってきて、激闘のフェブラリーステークスから2週間が経とうとしていた。
ラストファインは初めて、競馬から厩舎の馬房に戻ってきてから、競馬以外の事を考えていた。
レース後だから、引き運動と乗り運動しかしない、ゆったりとした調教を受けながら。
どうして光が見つからなかったのだろう、と。
そもそも、ラストファインの夜明けとは一体なんなのだろうか。
本当に競馬をしていて見つかるのだろうか。
ラストファインが求めている『光』とはいったい何なんだろうか。
見つからなかった光の正体が何なのかを、ラストファインはずっとずっと考えていた。
談笑が多くなった林田厩舎では、橋本が最初に居なくなった。
ラストファインからすれば、急にだ。
何故か周囲からは影も形もなくなってしまった。
橋本が居なくなったことに気付いたラストファインは、どうして居なくなったのか判らずに、橋本の人影を探す日がしばらく続いた。
「ワイルドケープリの、引退手続きを済ませてきました。 経過が順調で良かったです……ああ、もう涙が。 すみません」
「いえ、柊オーナー……私も感無量ですよ。 ええ、ワイルドケープリは本当に頑張ってくれました」
「ありがとう、ワイルドケープリ……俺は、お前のおかげで救われた」
厩舎の中から顔だけ出して覗き見る。
ワイルドケープリが林田厩舎のスタッフと、柊オーナーに囲まれて太陽を見上げていた。
その夜中にワイルドケープリに声を掛けられる。
―――ちび、俺は光には届かなかったみたいだ
最初は何を言っているのか分からなかったが、ラストファインはワイルドケープリが競馬をしなくなるという事を理解すると、慌てた。
まだ、その背中をハッキリと追い抜いていなかった。
フェブラリーステークスではアクシデントで、光の場所を知っているワイルドケープリをラストファインの力で追い越せなかった。
だから、求めていた光が見つからなかったんだ、と思っていたから。
何でこれで終わりなんだ。 どうして終わりなんだ。
競馬を止めてしまうんだ。
―――引退ってやつだ。 ウマとしての競争が終わったのさ。
引退は人間が決める事だから、どうしようもないんだと判ると、ラストファインはいよいよ切羽詰まってしまった。
なんで、どうして、その背中をまだ、完全には追い越していないのに、と。
―――ぐるぐるを頑張れよ、ちび
それから少しして、ワイルドケープリが隣の馬房から消えてしまった。
目が眩むほど、周囲を照らし続けていた太陽の馬が、居なくなってしまった。
馬運車で、林田厩舎の人間全員と、園田競馬の運営団体、大勢の記者と報道陣―――そして沢山の人間に見送られて。
拍手と大声で惜しまれて。
同じように、厩務員の山田が居なくなってしまった橋本と同じように、何時の間にかラストファインの前から姿を消してしまった。
そのすぐ後だった。
何か、言いようの知れない恐怖がラストファインの背中を這っていた。
江藤オーナーを始めとした組合馬主の人間達が全員集まって、林田厩舎の事務所の前で話していた。
ラストファインの引退を―――種牡馬に転用―――
引退。
まだ何も手に入れていないのに、ラストファインは引退する。
ワイルドケープリが居なくなってしまった言葉、引退という言葉をラストファインは覚えていた。
ワイルドケープリとのちゃんとした再戦も叶わず、光も見えなかったのに、競馬を止めることになる。
なんで、嫌だ。
まだ何も手に入れていない。 まだ誰も見てくれていない。 まだ背中を追い越していない。
ラストファインは暴れて、騒ぐ人間達を突き放して、園田の馬場へと向かった。
見せないと、ちゃんと見せないと。
まだ走れる。 まだ競馬を出来るって。 まだ。 まだ。
まだなんだ。
まだ、まだ俺は俺じゃないんだ!
顔が熱くなって、馬体が震えた。
こぼれるほど多くの まだ がラストファインを包み込んでいた。
競馬ができるんだ。 見てくれ! 競馬ができるだろう!
ほら、大丈夫だ! 怪我なんてしていないし、光の兆しだってあったんだ!
俺が探していた光は―――
―――そうだ、自分だけを見てくれる誰かが 『光』 なんだ。
やっと気付いた。
産まれた時に、最初から在ったはずの、自分を見てくれる、見守って優しく包んでくれる存在そのものが暖かな光だった。
それがずっとずっと追いかけて求めていた『光』だという事がやっと分かった。
橋本が居なくなって、山田が居なくなって。
ワイルドケープリが居なくなってやっと気付けた。
この暗くて冷たい闇の正体にやっと気付いた。
昇っていた陽が沈んだら、暗くなってしまう。
やっと求めていた光が何なのか、わかったのに。
ワイルドケープリが居なくなって、照らされていた場所が闇に飲まれてしまう。
ラストファインの切実な想いは、当然の様に無視されてしまった。
和やかな表情を浮かべて馬主たちは馬場を走り回るラストファインに、あれなら元気よく過ごせて良い種牡馬になるだろうと満足げに頷いて。
林田調教師に、よろしくお願いします、と頭を下げて。
ラストファインは馬場を、本気で目一杯で駆けながら、その様子を見守っていた人間達の背に、悲痛な気持ちで視線を這わせ嘶いた。
車で遠ざかっていってしまう、馬主たちへ。
届くはずの無い声を、必死に、必死に喉から絞り出して、走り続け追いかけて行く。
フェブラリーステークスで見つかった夜明けの兆しが、闇に飲まれていく。
暗くて冷たい世界が、広がって。
待ってくれ、待ってくれよ!
誰もいなくなる。
また誰も居なくなってしまう!
競馬で速くなるのが遅かったから。
競馬を上手くなるのが遅かったから。
俺が!
俺が頑張れなかったから!
だから居なくなる!
誰も居なくなる!
ワイルドケープリも!
ニンゲンだって!
俺の前から誰も! 誰も!
頼むから、俺を見て!
俺を見捨てないで!
待ってくれ!
待ってくれよ!
まだ頑張るから!
一杯頑張るから!
絶対、次も競馬で勝つから!
まだ走れるから!
だから、待ってくれ! 置いてかないで!
お願いだ! お願いだから!
俺を、見捨てないでくれえ!
―――太陽が、山間に沈んでいってしまった。
稲葉が必死に放馬したラストファインを追いかけて、ようやく捕まえれば。
ラストファインの顔は今までに無いほど砂をかぶり、涙で濡れていた。
稲葉が何度拭っても拭っても、その顔は乾かなかった。
ラストファインが馬場を爆走し、散々に暴れまわった夜が来る。
稲葉が身体に無数の傷をつけて寝起きに事務所に顔を出すと、引退日が4日後になったと巌調教師から告げられた。
林田駿は、ワイルドケープリが引退してアメリカに行くまで、預けられている預託厩舎に騎乗依頼を断って着いていっている。
そのままJRA短期騎手免許を取得して、アメリカに渡りに行くとも言っていた。
どう考えてもワイルドケープリにくっついて渡米する気が満々であった。
きっと種牡馬になったワイルドケープリを見る為だ。 旦那に振り回される妻の美代子さんが大変そうだと稲葉は思った。
事務所もすっかりと片付けられて、頼りにしていた先輩である山田と橋本も、居なくなった。
稲葉は寂しくなったこの場所を、思わず感慨深く見回してしまう。
「……終わりなんですね、テキ」
「ああ……そうだな。 この厩舎も、終わりだな」
様々な想いが駆け巡っているのだろう。
若造である自分なんかじゃ、きっと想像すらも出来ない苦労や苦悩を、この場所に立って築き上げてきた人だ。
辛いことも、良い事も、散々に経験してきただろう巌の邪魔をしないように、稲葉はラストファインの馬房にまた向かった。
陽が差す前にラストファインの馬房に顔を出すことが、最早習慣となっている。
この生活も、あと少しすれば終わりなのか。
そんな自分がまるで想像できなかった。
稲葉は思わず苦笑を零してしまいそうになる。 数年前まで馬の事なんて何も知らなかったのが、嘘のようだ。
いつもは稲葉の足音に反応して馬房から顔を出すラストファインだが、今日はまだ奥に居るようだ。
水の入れ替えの準備だけ済ませて、ラストファインの様子を窺うと、馬体を隅っこに寄せて横になっていた。
「珍しい、ファイン、寝てるのか」
水を入れ替えて、飼い葉の準備を始める。
もう引退だから、競馬に合わせていた飼い葉の内容も少しばかり変わっていた。
高タンパクなどを除き、健康維持を主体としたものだ。
分量に気を付けながら準備を進め、もう一度ラストファインの馬房を覗くと、やはり身体を倒したまま馬房の隅で耳を伏せていた。
「ファイン?」
稲葉はそこで様子がおかしい事に気付く。
飼い葉桶だけ交換し、そのままラストファインへと近づくと、その馬体を震わせていた。
稲葉が近づいた時に、顔を背けて、もう退きようが無いのに脚を伸ばして馬房の奥へと身体を揺らす。
まさか、何かの怪我か病気か。
稲葉は駆け寄ってラストファインの身体に触れた。 見た目から震えていることが判るくらいだ。
触ればその身体は震え切っている。
細かく呼吸を繰り返し、鼻息を漏らしていた。
稲葉は真剣な面持ちで、馬体をつぶさに観察した。 医者ではないが、多少の診断くらいはできる。
脚は大丈夫だ。
昨日、暴走して痛めた訳ではなさそうである。
便秘や風気などの疝痛か? 稲葉は寝藁の奥を探って落ちているボロを拾った。
普段の便の状態とさほど違いはない。 匂いも特に変わらない。 軟便でもない。
掌でラストファインの馬体を探る。 震えはあるが熱発でもない。 馬房のすぐ外に用意してある検温計を用意して調べてみても体温は正常だ。
詳しく検査をしないと、身体の異常は分からないかもしれない。
稲葉は巌調教師を呼んで医者を手配して貰おうと立ち上がった時に、視界の中にラストファインの蹄が飛び込んできた。
形が歪んでいる。
ずっと担当して毎日毎日見ている蹄が、普段と形が違う。 稲葉だからこそ、見た瞬間に気付けた。
何故か身を逸らして逃げようとするラストファインの脚を必死に抱えて、稲葉は蹄の奥を覗き込んだ。
裂蹄。
恐らく、何か小石のような固い物を踏んでしまったのだろう。
痛みによる震えか? ラストファインの顔を見る。
瞳を震わせて、今にも泣いてしまいそうだった。
何かおかしい。
稲葉の直感は裂蹄による怪我の影響だけではない事を察した。
林田厩舎にラストファインが来てから、最初から最後までラストファインの事だけを見て来た稲葉だけにしかきっと分からない。
何かに苦しんでいる。
人には分からない、何か見えない物にラストファインは苦しめられている。
稲葉はとにかく、怪我のことだけは話さなければとラストファインを置いて馬房から飛び出していこうとした。
ラストファインがその稲葉の姿を見て嘶いた。
一瞬だけ躊躇して、稲葉はラストファインへと顔を向ける。
「大丈夫だ、ファイン。 ちょっと待っててくれ!」
声をかけて消えゆく稲葉を見送ったラストファインの瞳から、小さな雫が頬を伝って落ちていった。