二話 太陽の馬
U 02
育成牧場へと移送されたラストファインは、その経緯から扱いには注意を要されていた。
母親と共に過ごした期間が通常よりも2ヶ月ほど短く、生産牧場というよりかは預託厩舎に似た場所で生まれたこと。
育成牧場に入るには早すぎるまだ1歳に満たない年齢。
そして、馬と人間に触れ合う機会が極端に少なく過ごした幼駒である。
青森で育成牧場を営む 茂原 修 牧長は下手な扱いをすれば競走馬にすらなれずに生涯を終えることを危惧し、知り合いの生産牧場に声を掛けた。
馬同士の関係性を育むこと、そして競走馬になるためには必要な馬として人間に関わる事を、育成牧場のやり方のままで教えてしまう事に危険を感じたのである。
第二話 太陽の馬
そんな茂原牧長の心遣いを知らないラストファインは、引き受けてくれた生産牧場で同い年の若駒たちを相手にひたすらに威嚇していた。
最初はこの場所に連れてこられた時に、競馬をする場所だと勘違いしたからだ。
箱の中で見た競馬では、同じ馬という生物が多くいた事を知っていた。
そして馬を見たのは母親以外では初めてで、ここには数十頭も同じような自分と体格が変わらない者たちが放牧されていたから。
そんなに沢山の馬が集まる場所は、箱の中で見た競馬以外になかったから。
つまるところ、ラストファインは若駒たちが集まった者たちを競馬で走る際に敵になることを理解してしまったのである。
それはまぁ、実際のところ間違いではないのだろう。
生まれた時から競走馬として育てられるサラブレッド、その名が示す通り"競い争う"のだから将来的に敵と認識するのは間違いないのだ。
だが、多くの幼駒たちはそんなことを今はまだ知らないのである。
馬を相手に、顔を見るたびに耳を伏せて威嚇。
草を食んでは威嚇。 ボロを出してまた威嚇。 最終的には身を捩って蹴り脚を繰り出すなど、ウマ付き合いも何もあったものでは無かった。
その内に同じ馬からも疎まれ、ラストファインは時に追いかけまわされ、それに反抗をした。
同期と比べても一際小さな体格故に、突っかかっては跳ね返されるという、見ていて気持ちがいいとは言えない光景に、生産牧場の人は預かったラストファインの扱いに頭を悩ませることになってしまった。
かといって、それじゃあ人に懐いているかと言えばまったくそんなことは無かった。
飼い葉を与えれば威嚇。 馬房の掃除をしようと牧夫が中に入ればまた威嚇。
何が気に入らないのか、下手に触ろうとすればまたまた暴れだして手が付けられなくなる。
ラストファインを相手にする時、牧夫は普通の馬よりも多くのコミュニケーションを取ってからでないと、肌に触らせる一事だけでも倍の時間を要することになった。
慣れない環境に適応するのに、時間が掛かっているのかとも思ったが、意外と早く生産牧場での生活そのものを受け入れているのは確かだった。
ただ一頭で居る時は、何の問題も無く落ち着きを得ているのだ。
特に、育成牧場へ送る前に、馬具の馴らしには普段からは想像もできないほど異様に素直に受け入れる姿勢を見せる。
ラストファインはいずれ来る、競馬を行う事にひたすらに前向きだった。
だから、競馬に関わる事に関しては何も文句を言わずに従順な姿を見せ、人々を感心させた。
人を寄せ付けようとしないのは、生まれついてから今まで、人がラストファインという自分を見てくれなかったからだ。
馬を嫌うのは、いずれ戦い競い合って、蹴落とすべき敵であることを知ってしまっているからだ。
そして、関わった人間はいずれ、必ずどこかに消えて行く事に気付いている。
暗い夜を照らす為に、馬を蹴散らさなければいけないことを覚悟している。
その人間が自分を見て居ようと、見ずにいようと。 馬がどれだけ周りに居ても関係なく、誰もいなくなる。
何も周りには居なくなるのだ。
だから、人の触れ合いを、馬との交流をラストファインは拒んだ。
どうせ居なくなるのであれば、誰がどう関わってこようと意味がない。
本格的に育成牧場へと移された1歳を迎えた春でも、ラストファインの態度と対応は変わらなかった。
なまじ、競馬を教え込む時は従順なので猶更、その人嫌い―――そして馬嫌いは目についた。
気付けばラストファインは孤独な存在となっていた。
誰をも拒み、馬社会から離れ。
誰をも拒み、人の関心からも逃れ。
ラストファインに関わる多くの者が口をそろえて話す。
ルドルフの血が、テイオーの血が。
クワイトファインのラストクロップ。
古い血統。
生まれの影響で身体が小さいまま。
馬体が余りに細い。
ヘロド系の後継になるかも。
ラストファインを見て談笑する人は、多くがこういった話題に終始する。
それを見て、ラストファインはまた、太陽の光を浴びながら自らの脚を見つめる。
暗い。
今見えるものは全て欺瞞の光だ。
ここは、暗い、暗い夜のままだ。
ラストファインは確信を深めていく。
この暗い夜を照らすには、太陽が必要なのだ。
瞬く星を消し去り、闇を切り裂いて輝く、光が。
初めてこの世界で見た時の様に、陽が闇を切り払って暗雲を晴らしていく光景が。
競馬だ。
ウマは競馬をするんだ。
競馬に勝てば、輝けるんだ。
何の根拠も無かった確信だったが、ラストファインにとっての真実はそれだけだった。
「牧長、ちょっと良いですか」
「ああ、どうした」
「ラストファインですけど、進みが本当に速くて。 人も馬も嫌がっているのに本当に順調なんですよ。 そろそろ行程的には1ヶ月も掛からずに終わってしまいます」
「ああ、その事か。 本当、どうしてなんだかな」
「預託厩舎などは、決まっているんでしょうか? 最悪、こっちで身体が出来上がる時期が来るまで預かるのも手だと思いますけど……」
「どうも所有している江藤オーナーの組合のほうで、所属厩舎のあてを用意するって話をしてあるらしいからなぁ。 進み具合やラストファインの状況を伝えて、一度ちょっと話し合ってみよう」
「ええ、そうしてください。 しっかし、異例が重なる馬ですね、ラストファインって子はホントに」
「生まれも育ちも、まぁちょっと特殊だわな。 話はそれだけか?」
「ああ、後この前の場外馬券場で買った馬券、配ったまま、回収まだしてないです」
「うるせぇー、そっちは全部負けたからいらねぇよ」
ラストファインは育成牧場の全工程を終えると、江藤オーナーを含めた馬主組合の者たちの判断で、そのまま林田厩舎へと移動することになった。
ラストファインは園田競馬を主体として営まれている林田厩舎へと、脚を踏み入れ馬房の中に入れられる。
今度こそ競馬をする場所についたのか。
ラストファインは鼻息を荒くして馬房の中で落ち着かなかった。
人を乗せる事をした。
馬が身に着ける装具も、全てつけた。
他の馬と競り合うように、長い道だけがある場所を併走した。
だったら、後はもう競馬を走るだけじゃないか?
人間は競馬を見て、あの箱で見て、喜んだり悲しんだりする。
競馬をしなければ、ウマは何者にも注目されず、誰からも見られない。
そして、暗い夜の中をさまよう。
負けたウマはどうなる。 存在そのものを忘れ去られて消え行くのか。
誰からも何からも消えて行くのか。
逆にウマの周りに何も居なくなるのか、どちらかなのだろう。
それならば産まれた意味はどこにあるんだ。
だから、競馬をする。 競馬で勝つ。
勝ったウマは讃えられ、話に上がる。 そして認められる。
他の誰でもない、自分の為に……競馬で勝つための場所。
やってやるんだ。
負けない。
絶対に逃げない。
競馬で勝って輝いて見せる。
馬房の中で脚を掻き、身体が自然と揺れて馬房の壁を打つ。
心臓の鼓動に血が湧きたった。 抑えられない興奮に鼻息が漏れる。
―――おい、うるせぇぞ
思わず馬房から顔を出す。
今まで見たことも無いほど図体のデカイ馬が、ラストファインの隣の馬房に居た。
そして、今までに無いほど鮮明に声が聞こえた。
人間の出す音でもない。 馬が出す嘶きでもない。
はっきりと、意味が理解できる言葉で話しかけられて、思考が止まる。
―――考え事ってのは頭を冷やしてするもんだぜ。 判ったら空でも眺めて没頭してな、ちび
諭されるように言われて、ラストファインは驚きが止まないまま、踵を返して馬房の中に戻るウマを見送ってしまった。
その後すぐに、人間たちが現れて騒ぎ出す。
考えを纏める暇もなく、図体のデカイ馬に声を掛ける事さえ出来ずに身体を触れられる。
ラストファインは結果、邪魔な人間達をどかそうと本気になって暴れだした。
デカイ馬はラストファインが走る練習をする前に、ちょっかいを出してきた。
何がそんなに構いたくなるのか。
一刻も早く競馬をする為には邪魔な存在だ。
歯をむき出しにし、耳を伏せ、拒絶を繰り返しても構うことなく、どこ吹く風と話しかけてくる。
生まれた時から沢山の馬と一緒だった? 知るか、そんな話をしてどういうつもりだ。
人間たちが構い倒してくるのはレースをするため? 競馬をする為に馬が走ることなんて、とっくに理解している。
競馬を勝つにはコツがある? 勝負ごとにそんな些細な事など考えている余裕なんてある訳がないだろう。
―――命を揺らして、走っている。 俺はそのブッチャーに言われたんだよ。
このデカイ馬の話を聞いていてラストファインは、殆どの事がどうでもいい下らない話であった。
そして、もうすでに競馬をしているこの馬が、他のウマに勝利を譲っている等とふざけた戯言を語った瞬間に、ラストファインは鼻で息を吐き出し嘲笑った。
何もかも理解をした振りをしながら、結局、一番肝心なところを見失っているバカな奴。
競馬は勝負をする場所だ。
自らの存在を懸けて価値を証明する為の場所だ。
競馬で敗北を受け入れた時点で、それは馬としての自己証明から逃げていることに他ならない。
格好をつけたつもりで、驚くほど滑稽であることを分かっていないじゃないか。
ウマが、競馬をする根本の事すら分かっていないのだから、この図体ばかりの奴の『程度』が知れるという物だ。
勝つためだ。
勝って、自らが何者であるのかを、全てを示すこと。
そして、何よりも、この暗い世界を照らすこと。
仕方がない、気は進まないがこんなに熱心に話しかけてくるのなら本質を教えてやる。
この格好の悪い、気取った図体だけがデカイ馬に教えてやる。
善意でデカイ馬に、如何に情けなく、格好悪くてダサい奴なのかという教えを説いたら、何が気に入らなかったのか。
デカイ馬は本気で怒って踊りかかってきた。
抵抗を試みたものの、体格差からかどうしても吹き飛ばされて地面に転がされてしまう。
話をすることができる、そんな役にも立たない能力を持つ、このデカイ馬の事が心底嫌いになった。
こんな情けなく、競馬で勝負すらしない惨めな奴、怒ってくる奴と一緒に暮らすなんて。
その日は結局、走る事もできずにラストファインのストレスだけを募らせて終わってしまった。
いつになったら競馬をすることができるんだ。
いつになったらこの暗い夜は晴れるんだ。
その次の日、ラストファインは初調教となる馬場でぐうの音も出ないほどデカイ馬にぶっ千切られて、実力と言う形で思い知らされた。
―――ちび、ブッチャーと俺を馬鹿にするには早すぎんぜ
―――いいか、お前はまだ競馬をする以前の段階ってことだ。 ハヤシダキューシャは競馬をする為に俺達ウマを鍛える場所だ
―――あー? 生まれも育ちも関係あるかよ。 速い遅いがこの狭い世界じゃ一定の価値だ。
うるさい。 そんな事は分かっている。
―――判っちゃいねぇさ。 まずはテメェの背中に乗っけてるニンゲンをちゃんと見てやれよ。 競馬は俺達ウマだけで走ってるわけじゃねぇんだ
―――そもそも、走り易いからって走り方を変えないなら、ニンゲンの方に寄り添ってもらわなきゃならねぇんだ。 それで結果が出るなら良いけど、お前じゃ無理だろ
―――ハミってのはニンゲンがウマに意思を伝える為の道具だ。 耳と目も重要だが、口にも意識を残すんだ。 そうしないと負けるぜ
偉そうに語る情けない馬、そんな馬の背中の影すら踏めなかった。
次の日も。 その次の日も、力の差を見せつける様に隣で走るデカイ馬に、ラストファインはまったく太刀打ちできなかった。
他の厩舎の馬達は、そんなラストファインを見て、そして何も無かったように通り過ぎて自分の調教へと向かって行く。
見守っていたニンゲン達は誰も彼も、ラストファインを千切って走り去っていくデカイ馬の背中を見ていた。
その豪快な走りは園田の調教馬場の衆目を浴びるのに十分だった。
それは誰が見てもそうだった。 ラストファインもまた、気付けば目を奪われデカイ馬の背中を追っていた。
情けなく、口煩いだけのデカイ馬は、本当に脚が速かった。
誰も追いつけなかった。
この園田という馬場で、ラストファインが見た中では一番速くて強かった。
ラストファインは躍起になって必死に脚を回した。
負けてなるものか、とがむしゃらに、速くなろうとした。
だが、どれだけ頑張っても、他の馬にさえ置き去りにされて、余りの惨めさに感情をかき乱され、自覚なく顔を濡らした。
そんな日々が続いて、デカイ馬は隣の馬房の中で急に嘶いた。
―――くそがよ、どいつもこいつも、ふざけやがって、決めたぜ
普段とは違った様相に、ラストファインは馬房から顔を出してデカイ馬を見つめる。
何処かでこのデカイ馬が競馬をするという話に気付いて、思わず声をあげる。
―――うるせぇな、テメェは少しでも速くなるために調教でも受けてろよ
ラストファインは怒りを抱いたが、速さを引き合いに出されて黙り込んだ。
悔しさに歯噛みしていると、デカイ馬は言った。
―――逃げるのは止めてやるよ。 テメェがその気にさせたんだ。
そう言ってニンゲンに何処かに連れてかれたデカイ馬。
そいつは宣言通りに、競馬を勝って帰ってきた。
顔に目立つ、傷痕をこさえて。
ラストファインが顔の傷の事を尋ねると、デカイ馬はなんだか小さくなって、そっぽを向いて黙り込んでしまった。
「テキ、ちょっと良いですか。 ワイルドケープリの事を見てて忙しいとこアレなんですが」
「おう? 稲葉君どうした」
「いえ、その、ファインの調教なんですが、すみません。 暴れてしまって」
「ファインがか?」
「ええ」
ファインの調教も担当している橋本と厩務員の稲葉は、申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。
その様子を見て林田巌は帽子をかぶり直して、眼鏡の位置を直しながら一息はいた。
面倒を見ていたという生産牧場で、育成牧場で人にも懐かず馬も嫌いだ、という話は聞いていたが、併走を頼んだ相手に迷惑をかけるほどとは思わなかった。
「理由は分かりそうか?」
「すみません、いざ、走ろうってなった時に急に暴れてしまって。 原因はちょっと」
「じゃあしょうがねぇな。 先方には俺の方から謝っておくから、乗り運動だけして馬房に戻しておいてくれ」
「わかりました」
去っていく稲葉達を見送って、林田巌はどうしたものか、と頭を悩ませた。
ラストファインはその経緯から4月に産まれたにしては同年代の馬と比して、その身体が成熟するのが遅れている。
同じ厩舎に唯一居る、ワイルドケープリとは併せる以前の問題である。
競走馬である以上、他の馬たちと必ず一緒に走る必要があるのに調教中の併走で暴れだすなど、競馬以前の問題だ。
一度、自分が見定める必要があるだろう。
何にせよ、まずは身体を作るところから始めないとラストファインは話にならないが、余りにも酷いようなら実際に競馬を走らせる際の作戦にも影響を及ぼす可能性がある。
「しかしまぁ、走ることに関しては素直だ。 競馬に熱意があるし育成牧場で併走に問題があったとは聞いてないが、ん? 待てよ……」
巌はふと気付く。
もしかしたら、ラストファインは無自覚にワイルドケープリと調教を重ねたせいで萎縮してしまっているのではないだろうか。
実際、ワイルドケープリと離して調教を始めても、勝手に近づいて行ってワイルドケープリがラストファインをぶっちぎっていってしまうから、対処法も無いのだが。
そもそも、ワイルドケープリは林田厩舎の中でも……いや、園田競馬全体で……それ以上の抜群の才能と能力を持っていると巌は確信している。
そんな馬に散々に千切られてしまえば、馬本人にその気はなくても心が折れてしまっていることもあるのではないか。
杞憂であればそれでいいが、問題があるならまた、馬に迷惑を掛けてしまっている。
直近のかしわ記念が終われば、帝王賞まで時期は空く。
そこでラストファインに必要なのは自信の回復と、そして何よりも急務は人との―――ここでは林田厩舎に所属する者との信頼関係。
「もう6月に入るな……時間が微妙だ、間に合うか」
巌はワイルドケープリの姿をしばし眺めてから立ち上がり、厩舎へと戻っていった。
いくつか時が流れ、ワイルドケープリのかしわ記念が終わった。
巌は厩舎の事務所でパチリ、とホワイトボードの上に置かれた磁石で音を鳴らす。
瞼を抑えて巌は溜息を吐き出した。
ラストファインの人嫌い、馬嫌いは、良くこれで育成牧場の行程をこなせたものだと感心するほどだ。
担当につけた稲葉は苦労していることだろうが、良く踏ん張ってくれと直接願ったおかげか、辛抱強くファインを見てくれている。
かしわ記念を終えて、息子の駿の落馬。 レース後の手続きやこれからの予定。 柊オーナーとの会合。 そしてラストファインとの付き合いに組合馬主協会とのやり取り。
ワイルドケープリがやる気を出してからというもの、休まる暇がまったく無い。
いや、調教師としては喜ぶべきことだろう。
隣の馬房から、大きな嘶き声と何かがぶつかった音が響く。
顔を出せば、稲葉がラストファインを宥めながら馬房の中に入っていくのが視界に入る。
しばらくこの馬を見ていて巌には気づいたことが幾つかある。
その中でも一つハッキリと分かった事は、この馬は夜が苦手だということだ。
夜、ラストファインが一頭でも問題ないように担当である稲葉の出勤時間帯をずらして対応しているが、効果があるのかどうかは分からない。
そして、誰であっても人も馬も頼らないはずの馬が、競馬に関する事柄にだけはトコトン素直に言う事を聞いてくれる事だけは分かったのだ。
この馬は競馬に熱意がある。
理由は分からないが、育成牧場で順調だったのもそれが原因だ。
この真っすぐな競馬に向かう意思が、ワイルドケープリの燻った心の炉心に火を灯したのだろう。
巌は何もない中空を見る様に顔を上げてしばし思考を巡らした。
そして、一つ唇を噛むと、先ほど貼ったばかりの磁石を剥がし、ラストファインの予定を消す。
そしてマジックペンで二文字だけを乱雑に書いて筆を置いた。
ラストファインとワイルドケープリ、どちらの枠も跨ぐように 『併走』 とだけ書かれていた。
まだ夜も空けない中、馬蹄を響かせて連れ立ち歩き、林田厩舎から出てくる二頭の馬が居た。
風もなく、音も無い。
時折車道を通り過ぎて行くトラックや車のエンジン音が響く。
稲葉厩務員に連れられて、ラストファインは殆ど毎日と言っていい頻度で来る馬場へと脚を踏み入れた。
かしわ記念という競馬で負けた、デカイ馬は時折顔を夜空へと向けて、ゆっくりと後ろを歩いてくる。
少しだけその視線の先を、ラストファインは追った。
瞬く星が雲に隠れたり、月の明かりに照らされたりしながら、ちかりちかりと存在を主張する。
「ほら、ファイン。 大丈夫だぞ。 今はもう朝だぞ~」
稲葉が首筋に手を触れて、落ち着かせるように声を出す。
この頃になると、ラストファインは自らの脚が競馬に立つに足る資格が無い事を実感していた。
どれだけ思いの丈を募らせたところで、目の前の図体のでかい馬に脚は届かない。
他の馬にだって、一緒に走れば後塵を拝すばかり。
そんな奴等が競馬にいけば、それより速いウマ達がぐるぐるに居て、情けなく負けるのだ。
ラストファインは自覚なく涙を流す。
首を下げて地面を見る。
周りはとても暗かった。
声が掛かる。
―――何やってんだ、ちび。 行くぞ
牧野と言う人間を落として、練習を拒否している。 ラストファインから見ても競馬に不真面目なこの馬が、とんでもない速さで駆け抜けていく。
放馬と騒ぐ人間たちを尻目に、ラストファインはその背中を追った。
走っても走っても、追いつけなかった。
何処まで行っても届かなかった。
ソイツが脚を止める迄。 ラストファインは心臓がはちきれるほど大きく息を吐きだしているのに。
自然と下がった頭の上に声が掛かる。
―――競馬を知らないお前に言うもんでも無いと思うが、競馬をしなくちゃ競馬には勝てないんだ。
―――ただ走るんじゃないんだぜ。 『頭』を使わねぇと負けちまうぞ。
―――競っているのは同じウマだ。 だから頭をより使った方が勝ち星を拾えるのは道理だろ? 速い遅いは多少関係あるが、重要なのは展開とレースそのものをコントロールする事だ。
―――走り方一つとっても考える事はあるぜ、ソノダの競馬は砂だから最低限の力は必要だ。 特に前脚が砂に入る時と抜きの時の角度もな。 砂だって地面だから、反発力を推進力に変換できるんだよ。 分かるか?
ラストファインはデカイ馬がまったく何を言っているのか分からなかった。
だから、その事を素直に伝えた。
デカイ馬は呆れたように鼻息を漏らし、今度は良く分からない擬音を例えにラストファインへと声をあげ、実際に走り出す。
やっぱり何を言っているか分からないし、走り方に変化があったのかも見えなかった。
言葉の意味は半分くらいは理解できるが、肝心な部分はあやふやだ。
真面目にやって欲しい、とラストファインは言った。
―――ったく、しょうがねぇな。 ちゃんと教えたとおりに出来るまで付き合ってやるよ
ラストファインとワイルドケープリは傍から見れば自由に馬場を駆け回って遊んでいた。
時折激しく動き、ワイルドケープリの背をラストファインが追っていく。
人から距離を取る様に。
牧野騎手と稲葉厩務員がようやくと言った形で走り回って二頭を捕まえると、デカイ馬は朝焼けの空を見上げた。
―――しっかりついて来いよ。 俺はお前にちょびっとは期待してるんだ
前を歩くデカイ馬……いや、ワイルドケープリというウマは昇っていく太陽を見上げながらそう言った。
その言葉は、『ラストファイン』そのものを見てくれている事に気付いて顔を上げる。
ワイルドケープリの背中を視線で追った。
自然とラストファインの視界を埋め尽くすように、ワイルドケープリの馬体の影から光が差す。
でかくて情けないだけの馬だったのに、気付けば誰よりも寄り添ってくれたワイルドケープリという存在が暖かく感じた。
―――ちび、『競馬』に勝つのは大変だぜ
ラストファインは顔を上げてワイルドケープリを見つめた。
太陽の光が差し込んで立ち眩む。
身体を一つ震わせて、ラストファインは眩さに目が瞬かせながら、ワイルドケープリの背中を見続け首を伸ばした。
分かっている。 今はもう。
この身の惰弱を知った。
でも、いつか必ず。
きっと、この太陽のように。
決意を抱いていると、太陽は見なくて良いと茶化すようにからかわれて、ラストファインは怒った。
自覚なくラストファインは涙を流し、そしてワイルドケープリはリンゴを取り上げられた。
負けない。 絶対に逃げない。 誰であろうと。 何者でも。
ワイルドケープリの大きな馬体の向こうから昇る太陽に照らされて。
その日からラストファインの周囲は少しだけ、明るくなった様な気がした。