一話 泥中の蓮
U 01
星の海が白と赤に染められて、夜半ばから明くる暁の兆しが空を染め上げて行く。
光輝いた星が天空からゆっくりと落ちていった。
生れ落ちて初めて見た物は、流れゆく蒼星が黒の海を切り裂いていく朝焼けの景色だった。
外伝 その馬の名は ~ラストファイン~
第一話 泥中の蓮
「え、ハシルヒメモリを売却ですか?」
それは出し抜けに切り出された、思いがけない話であった。
地方競馬で数多くの競走馬を所持して、走らせている馬主の一人、五藤 茂樹オーナーが業界から撤退すると突然の報告。
オーナーが所有している繁殖牝馬であり、縁もあってそれを預託していた藤木 康夫氏は不意に訪れた凶報に呆気に取られてしまった。
ハシルヒメモリは競争生活は奮わず未勝利のまま引退したが、繁殖に回された牝馬だ。 今年で12歳であり、健康面でも問題の無い肌馬である。
血統を見れば母父にオルフェーヴルという偉大な三冠馬を持ち、その父は言わずと知れたステイゴールド。
藤木にとって凶報となったのは、少なからず愛着があるハシルヒメモリが手元から離れてしまうという事であった。
というのも、ハシルヒメモリの母であるハシルオヒサマ号を厩務員として担当していたのが藤木であったからだ。
「そうなんです、なのでハシルヒメモリも容態に問題が無ければ早々に輸送を行いたいと」
「ちょ、ちょっと待ってください。 まだ産後間もない事もそうですが、トネッコはどうするんです」
藤木は慌てた。
複雑な経緯を経て、昨年度クワイトファインという牡馬と交配を行ったハシルヒメモリは無事に受胎し、つい先ごろ出産を終えたばかりである。
母馬と仔馬が一緒に居るのには生物学的な側面において多くの理由がある。
最も直感的に理解しやすいのは免疫の獲得だろう。 授乳することによって母馬から仔へ、雑菌に対する免疫を得るためには良質な母からの母乳が不可欠だ。
「当然、期間は設けるつもりです。 おおよそ4ヶ月ほどを目途にしてほしい、と五藤さんからは申し入れられておりまして」
「そんな、離乳するにしても時期が早すぎますよ。 おおよそ半年から8ヶ月ほどが一般的なのは、ご存じでしょう」
個体によっては早くに離乳を行える仔馬も存在するが、それは食の観点や免疫力、他にも母と離れる際に発生しうる悪癖の発露やストレスなど。
様々な観点を鑑みてから慎重に決行するものである。 乳母をつけるにしても、4ヶ月も経てば時期が遅い。 そもそも、乳母の当てなどない。
藤木は個人的にも愛着のあるハシルヒメモリを留めようと、何とか説得しようとしたが、五藤オーナーも競馬の世界から撤退を判断した理由から逆に説き伏せられる事となった。
様々な事情が関わっていた。 藤木が望んでも、五藤オーナーが首を縦に振ることはないだろう。
最も大きな経済的な理由が出てしまえば、どうのこうのと話をする余地すら無くなってしまう。
その日、藤木は何をするにしても手が動かなかった。
翌日明朝。 日が昇る前の早い時間から、藤木は自宅から1時間の道のりを経て新潟の山間に向かった。
厩務員として競馬に携わっていた頃、藤木は最後に担当したハシルオヒサマ号が、引退後どうなるか判らないという話を聞き、引退馬のその後について考えていた事がある。
それは引退馬を、少なくとも個人的な感情がある馬達の面倒を見ようと決意するに至ったものであった。
結局は無事に繁殖に上げられ、安堵したことも懐かしい思い出だ。
その馬の子供、ハシルヒメモリをこうして受け入れることになったのは何かの縁があったのだろうと、今でも想いに耽る時がある。
規模は小さい。
老後の貯金を崩しながら、個人で営んでいるものだ。
妻が早くに逝き、子供も独り立ちしているからこそ出来ること。
今年の冬に一頭、預託していた肌馬が亡くなってしまって今ではハシルヒメモリとその子供だけとなってしまった。
面倒を見ているハシルヒメモリが居なくなれば、藤木自身の年齢的にも、この場所の役割はもう終わりなのだろう。
目的地についた藤木は、手馴れた様子で古びた厩舎の中を覗く。 音に気付いていたのだろう。
ハシルヒメモリは顔を出して、藤木の顔を見ると尻尾を振りながら、前脚を掻く。
その後ろ、母馬に隠れるようにハシルヒメモリの2034がそっと顔を出していた。 藤木はその微笑ましい親子の様子に笑みを浮かべ、何時も通りカイバの用意を始めた。
穏やかに流れる雲と、山間に響く鳥の甲高い声が響き、ハシルヒメモリはリラックスした様子で草を食み、その子は母の背を追って頭を振る。
長閑な景観の中で二頭連れたって放牧地を歩んでいた様子を、藤木は眺めていた。
「まぁそりゃね、五藤オーナーもほら、会社が傾いちゃったんじゃしょうがないでしょ。 誰だって自分所の生活が優先だよ。 馬に構ってられなくなったんだから」
「事情は分かるけどね。 あまりに急すぎて……竜ちゃん、それ受けになって無いよ。 5手詰めだよ」
「あ、くそ、ホント強いなヤスちん」
「ははは、将棋始めたばっかの人には負けてられないくらいには、それなりだよ、俺も」
「ちぇ、にしてもハシルヒメモリに付けた種が寄りにも寄ってクワイトファインっていうのがね。 もしかしたら五藤オーナーもロマン云々じゃなく、経済的な理由で提供したんじゃないの」
稲永 竜平は高校時代から競馬を切っ掛けに付き合いのある竹馬の友だ。
藤木は咳込みながら手順を示して、詰みの形までしっかり見せてあげると、稲永は両手を上げて降参した。
稲永は負けた将棋には興味を失くしてしまったのか、持参してきた食事を机に並べ藤木へと差し出す。
二人は食事を行いながら、話題はハシルヒメモリとその子供に移っていった。
机に立て掛けた、ハシルヒメモリを馬舎に迎え入れた写真入れを眺めて、藤木は息を吐いた。
「勘ぐりすぎだよ。 五藤オーナーは競馬に愛がある人だったさ」
「そうかい、それはそうなんだろうけど、実際問題どうしようっての?」
稲永は判っていながらも、重要な問題に触れた。 藤木は顔を顰めて冷やし中華の麺を啜る。
ハシルヒメモリが手元を離れる時が近づいている。
通常ならば共にその子供も引き取ってもらうのが道理だが、ハシルヒメモリを引き取った牧場からは拒まれてしまった。
五藤オーナーにはその旨を伝えたが、慌ただしく電話を切られて引き取り先は決まらなかった。
競走馬として見た時、実績が無く、活躍も見込めず売れる算段も取れない仔を養う余裕はないという理由が一番だろう。
ハシルヒメモリの売却先は五藤オーナーの方で既に決定されており、拒否された仔は行き先が今も決まっていないままである。
贔屓目に見ても4月生まれにしては馬体が小さいのは否めない。
もともとしっかりと競争生活に向けての飼料を用意することが、個人では難しかったのもそうだ。
放牧地の牧草も、何も手を入れていないから、栄養素の面で言えば遅れを取っているといえる。
何より免疫の獲得が十分かどうか、設備が無くデータも取れてないので病気も怖い。
競売にかけて売れなければ、そのまま引き取った相手の負担となってしまうことは容易に想像できるが……
かといって藤木が競走馬として登録する余裕は無いし、伝手もない。
農業大学などを頼る事も考えたが、結局はお金の問題と所有者の問題が出てきてしまう。
難しい顔で黙り込んでしまった藤木に、稲永は用意してきたノートパソコンを開きながら口を開いた。
「な? 金なんか無いからな。 ヤスちんも俺も。 金持ちの知り合いも居ないし、居たとしても競馬に興味が出るかって話だよ。 だからさ、持ってる人に頼ろうや」
「ネットで公募でもするのか? そんな簡単な問題じゃぁ」
「じゃあハシルヒメモリの仔を見捨てるのか? そんなの嫌だろ?」
「そうだけど……」
「だからほら、競馬が好きなら少しくらい関わり合いを持ちたいって興味を持ってくれる人が居る物さ。 知らんけど、やってみなくちゃ何とかなる物もならないぞ」
押し付けられるようにしてノートパソコンの画面を見て、藤木はまた驚いた。 経緯や概要を個人に関わる所は上手い具合に伏せてあり、殆ど全て理解しやすいように纏められていた。
思わず稲永の顔を見返してしまう。
ハシルヒメモリの写真もしっかり入れられており、今風の綺麗なページ構成は多くの人が興味を抱くだろう構成だった。
パソコンの操作そのものが覚束ない藤木が、同じことをやろうとしてもきっと酷い案内になってしまったに違いない。
不細工なウインクをかまし、稲永は笑った。
「俺も退職して現場を引退してから暇だから、ヤスちんの事手伝うよ」
「竜ちゃん……ありがとな」
そうして時は流れ、公募を集ってハシルヒメモリの2034を競走馬に、という藤木と稲永の活動の成果は残念な事にすぐには出ず。
馬舎に向かって世話をし、家に帰り細々と競走馬としてハシルヒメモリの2034が生きて行けるように、目標金額を集める算段を立てる生活が淡々と続いた。
藤木は休まずに活動を続けていたが、ある日から咳が酷くなり、やがて昏倒してしまう。
ハシルヒメモリと別れを告げた1ヶ月後に、肺炎で入院することとなった。
母馬であるハシルヒメモリが馬運車に乗せられて引き取り先の牧場に向かって行く。
決して大きくはない山間に建てられた馬舎の中、それでも其処でたった一頭となってしまったヒメモリの2034にとって、そこは大きくて暗い世界であった。
たった一頭で山間の中に取り残されると、情けなく嘶き、声を響かせる。 物音に過敏になり、恐怖に涙を溢れさせた。
太陽が落ちて夜が訪れると、身体が勝手に震えだした。
母を探して馬房から顔を出す。
真っ暗な景色が広がって、暗雲に月が隠れれば何も見えない世界に包まれる。
空を瞬く星々と、月明りだけがほんの少しだけ、孤独を紛らわしてくれる。
長い長い、暗く冷たい夜を凌ぐと、やがて陽が昇る。
この時間帯になって人が現れると、ヒメモリの2034は喜びを露わに藤木へと顔を擦りつけた。
放牧地に出されれば、藤木が柵の外に出る迄はずっとその背中を追って後を追う。
自分とは違う、何者かの体温が震えた身体を唯一落ち着かせてくれることに、ヒメモリの2034は気付いていたから。
頬を撫でる手が安心を齎した。
暖かな陽光が差している時だけは、無邪気にはしゃげた。
そして陽が落ちる。 赤く染まった夕焼けは、山間に遮られていき青と黒の帳が呑みこんでいく。
藤木は居なくなり、また大きな暗い夜が訪れる。
この場所は嫌だ。
早く陽が昇って欲しい。
馬房で震えながら、ハシルヒメモリの2034は朝を焦がれて待つようになった。
そうしたある日、台風が来た。 9月の入りの頃だった。
強風によって叩きつけられる音が、暗い馬房を強く揺らす。
激しい雨が、音の洪水となって耳朶を響かせて、厩舎の床を水浸しにした。
その日、藤木はカイバと水だけを用意し、激しい咳を繰り返しながらすぐに帰っていった。
そして残されたのは暗闇と激しい風雨による音だけになる。
ヒメモリの2034にとって、何時もよりも長い夜であった。
馬房の隅に寄りかかり、時に寝転がる。 立ち上がってカイバ桶を覗き、水を飲む。 そしてまた身体を震わせる。
山の中から姿も見せずに大きな獣の声が鳴った。
その声に驚き、ヒメモリの2034は狭い馬房のなかで必死に辺りを見回して恐怖を飲み込んだ。
暗かった。
暗くて、冷たかった。
その内に、ヒメモリの2034は自らの境遇に疑問を抱いた。
何故、自分は闇の中に居るのだ。
何も見えない中で風雨に打たれて震えなければならない。
それは疑問から、怒りという感情に変わっていった。
闇を睨みつけ、自分を恐怖に蝕んで縛る何かに、ヒメモリの2034は声をあげた。
台風の夜。 山間の馬舎に一頭の幼駒の嘶きが響いた。 何度も、何時までも。
台風が過ぎ去った、雲一つない蒼がどこまでも突き抜けて行く空に浮かんだ太陽が照らす馬房の中。
ハシルヒメモリの2034は立っていた。
気付けば、ハシルヒメモリの2034の馬房のベニヤで遮られていた壁が壊れていた。
空を見上げ、陽の光を浴び、そっと脚を外に向ける。
照らされた雨露を反射させながら木々がそよ風に揺れて。
放牧地まで脚を運べば、青々と茂る草木に光が溢れていた。
それをじっと見つめて、ただただ立ちつくす。
その日、藤木は来なかった。
「竜ちゃん、入院することになった。 お願いがあるんだ」
「それより、身体は大丈夫なのかい」
「夏風邪をこじらせて、肺炎だって言われた。 歳も取っているから、入院しろって」
「救急車で運ばれたって聞いた時は何事かと思って心配したぞ。 無事なら良かった……それで、ヒメモリの仔の事だろう」
かつては斬新的だったクラウドファンディング。 今でも様々な形に変わって運用され、競馬界隈でもいくつか実績のある資金繰りの一つ。
それを聞いた時は、ヒメモリの仔の事も簡単とまでは行かなくても、きっと何とかなると思って提案、実行に移した稲永であったが、応援する声こそ挙がれど金を出してくれる人は10人に足らずであった。
ネット記事を作っている知り合いの競馬記者に、伝手を頼ってヒメモリの事を記載するよう依頼をしたが、話題に上がることも無くひっそりと記事は埋もれて行った。
競馬に興味が無い物にとって、血統を守ることに価値を見出せない。
競馬に携わる者であれば、古く廃れた血が復古することなど現実的にありえないと見切ってしまう。
血に文句を言っても仕方が無いが、これがもしディープインパクトを始めとした流行血統であれば少しは違ったのだろうか。
「判った、とりあえずヤスちんが戻るまでは俺が面倒を見よう」
「ああ、本当にすまん、ありがとう。 判らないことが在ったら電話をくれ」
「今日は人と会う予定があってもう無理だが、明日から行くよ。 病院なのに、朝方に掛けてもいいのか?」
「お医者さんに相談して、許可を貰う。 頼んだぞ……竜ちゃん」
稲永は溜息を一つこぼし、翌日の準備を今から始めないと、と首を振った。
競馬は好きだが、実際に馬の―――それも幼駒の面倒を見るなんてことは初めてだ。
思いつく限りの準備をしても、きっと足りないはず。 公募のページを一度開き、閉じる。
頑張ってください、応援しています、というメッセージが一件だけ追加されていた。
街から離れた山間の馬舎は車でおおよそ一時間。
起床時間はそれよりも早くなるし、馬の準備を始める事を考えると2時間は必要だろう。
「気楽なもんだ、ちぇ。 しょうがねぇな。 こうなったら巻き込んでやる」
一人でずっと面倒を見るには、ハシルヒメモリにも、その子供にも情熱が足らないことを稲永は自覚していた。
これが将来を約束された名血の馬であれば、もっと興味を抱いたかもしれないが。
古臭い血統。
走るとは思えない小さくみすぼらしい身体。
自分から始めたクラウドファンディングの公募にも、情熱が薄れ始めてきているのを自覚している頃。
友人との約束という義務感だけでは、きっと続かない。
車に乗り込むと、稲永は持ち歩いているノートパソコンを立ち上げて、競馬仲間にダイレクトメールを打った。
古い友人から、ネットだけでしか会話を交わした事の無い人、公募に応援メッセージを送ってくれた、見も知らない人たちに手あたり次第だ。
他人の迷惑といったものすら考えない、半ばヤケッパチの行動だった。
そうして翌日、公道を走って山間の林道を抜け、厩舎に辿り着く。
稲永がそこで見たのは、台風の影響で崩れたのだろう。 馬舎の馬房の中から抜け出して、一頭。
簡素な仕切で放牧地で佇む幼駒の姿。
一日とはいえ、誰も居ないこの場所で過ごしたからだろうか。 少し馬体がやつれていたが、その顔には思いのほか気力がみなぎっていた。
稲永は、恐る恐ると近づいていった。
踏み足に、ヒメモリの2034は少しばかり後ろに退いた。
確か、馬の前に立って自分が安全な存在だと示さなければいけない。 聞きかじった知識を動員し、稲永はヒメモリの2034と恐々とコミュニケーションを取っていく。
30分以上も続けた、赤の他人が見ていれば滑稽とも思えるその邂逅の成果は、確かにあった。
稲永が慣れない様子で用意した飼い葉に口をつけ、ヒメモリの2034は稲永という人間を受け入れたのである。
「くぅ、思った以上に大変だ。 こりゃ、呼びつけた奴も最初は一緒に居てやらんとまずいな」
代わる変わるだ。
ハシルヒメモリの2034は来なくなった藤木は居なくなり、自分を見守るニンゲンが毎日変わっていることに気付き始めていた。
母は居なくなり、そしてニンゲンも居なくなり、変わっていく。
何か、義務的にそうするようになっているから、そうしている、という風な形でヒメモリの2034に食事と水を与えて一息をつく。
殆どのニンゲンは触れ合う時間も恐々としており、遠巻きに見守るだけの時間が多かった。
お互いがお互いに、距離と壁を作り、相手に戸惑っていたとも言える。
稲永はその事に気付いてはいたが、誰もが余りに馬という生物との関わり合いが薄すぎて、どうすることも出来ずにいた。
むしろ何も分かっていなくても、何とか助けてくれようと人が訪れてくれるだけ幸いなのだ。
稲永の感謝とは裏腹に、ハシルヒメモリの2034は新しく来るようになった者が、馬舎の中で小さな箱を見つめていることが多い事に寂しさを感じていた。
朝、食事を用意し 『ヒメモリの仔』 と呼ぶ自分を何時も昼間に過ごす放牧地に放ると、その日は陽が沈むまで馬舎や建物の中で殆どを過ごしている。
もう記憶にも朧げな母の事を、時に思い出しながら草を食み、周囲を窺う。
ヒメモリの2034は変化の乏しい世界の中で、放牧地から丁度見えるよう設置された、箱の中に映る物をじっと眺めている人間とその箱の映像を覗いていた。
それは競馬と呼ばれる物だった。
ハシルヒメモリの2034を殆ど見ないで競馬や他の映像を人間達は見ていた。
そして競馬と呼ばれる何か、ウマという存在に、感想を言い合い、歓声をあげて喜んだり悲しんだりしていた。
思えば、藤木というニンゲンも自分を見る事よりも、ハシルヒメモリという母を眺めていた事の方が多かった。
人は変わっていく。 だが、誰が来ても同じだった。
ハシルヒメモリの2034の周囲は暗かった。
誰も見ていない。
誰も見ない。
最初から自分は闇の中に居た事を、この頃に自覚をした。
箱を見つめるニンゲンから視線を逸らし、ハシルヒメモリ2034は山間に昇ろうという太陽を、その場で立ったまま眺め続けた。
まだ、ここは明るい。
あの空に、陽が昇って山に遮られて光が落ちいくまでは、此処は明るく照らされているのに。
でも、ここはずっと暗い夜のままだ。
わっと、声が上がってハシルヒメモリの2034は再び、箱を見つめるニンゲンを見た。
競馬を見ていたニンゲンが、立ち上がって手を振って喜んでいた。
あの箱のウマのように、競馬が出来れば変われるのだろうか。
朝が、来るのだろうか。
ハシルヒメモリの2034はじっと自らの脚を見つめた。
陽の光に照らされ、朝霜のおりる青草が視界に星を散らばした。
もう真っ暗な夜の雨は、嫌だった。
「本当か!?」
「嘘言ってどうすんの。 公募してることを知って、知り合いの馬主さんが少し興味があるって言ってくれたんだよ」
ジャパンカップ当日の朝、競馬番組を見ていた稲永の元に吉報が舞い降りた。
関西で地方競馬の組合馬主協会に参加している、江藤 勇気オーナーが声を掛けてくれたのだという。
馬主登録は組合で共有する形となり、代表に江藤が据わってくれるらしい。
公募に達する金額すべてを出してくれる訳では無いが、それでも大きく動いて、競走馬への登録が現実味を帯び始めてきた。
一度に大きく動いたからなのかは判らないが、公募のページも何処の誰かも知らない人が、血統を守る人たちということで動画にまとめてくれたようで、一気にハシルヒメモリ2034の事も世間に広く知れ渡った。
今までの活動が何だったのか、と思うくらいには瞬く間に目標金額まで達成となった。
稲永は、そこで藤木へと吉報を届ける為に電話をした。
「もしもし、吉報だぞ! ヤス―――」
『お掛けになった番号は、現在使われていないか、電源が切れている為、掛かりません』
藤木康夫は、肺炎の進行が速く進み、73年の生涯を閉じていた。
ハシルヒメモリの2034は、新潟県にある山間の馬舎から青森の育成牧場へと移されることになった。
通常とは経緯が異なるため、かなり特別な措置となったが、江藤オーナーの計らいによって育成牧場での生育と、そのまま競走馬として転用できるように用意されたものである。
金額は協会の負担となっており、金銭面での心配はまったく無くなった。
稲永は藤木の代わりに諸々の手続きを行い、移送当日になってようやく、馬舎へと顔を出すことができた。
稲永が巻き込んだ競馬友達も、全員は見送りに来れなかったが4人ほど集まっている。
世話をしたハシルヒメモリの2034 改めて、クワイトファインのラストクロップであることを意味している名。
ラストファイン。
単純だけれど、だからこそ分かりやすいのだろう。
そう江藤オーナーを含む馬主の方々に名付けられた若駒が、顔や背を撫でられて別れを惜しまれている。
夕陽が差し込み始めた空を見上げて、稲永は息を吐いた。
終わってみれば4ヶ月弱。 あっという間と言えるか。
大した思い入れも無かったのに、実際に関わってみるとこれで別れる、という事になんとも寂しい感情が去来するものだった。
勝手な物だな、と稲永は思う。
好奇心や興味心で顔を突っ込んで、ずっともっとハシルヒメモリと、その仔に熱情を傾けていた人がここには居ない。
そんな友人のためにも、ラストファインに頑張って欲しい―――なんていうのも、烏滸がましい話だ。
ルドルフ・テイオーに連なる血。
かつての栄華を誇った血統を守るため。
クワイトファインの後を継いで、後継種牡馬に。
たいしてラストファインそのものを見ていなかった、情熱の無い男が託して良い願いでもないだろう。
出来るとするなら、少しばかり臆病で。 でも触れ合いにはおずおずと応じる。 そんな一頭の馬そのものにエールを送る事くらいだ。
「……贅沢な話だ。 それを出来ずに死んじまった男がいるんだ」
感傷的な気分に顔を振って、稲永はラストファインへとゆっくりと歩み寄った。
顔を向けて稲永を見て、ラストファインが目を細める。
最後まで人には愛想が良くなかった馬だったが、こうして触れ合えると、やはり可愛いものだ。
競馬が好きでも、馬に実際に関わることが今まで無かったから、余計にそう思うのかもしれない。
顔を撫でて、別れを告げる。
「じゃあな、元気でやれよ」
稲永は頑張れなどとは言わない。
代わりになるなんて思わない。
それでも。 精一杯を手のひらに込めて贈る。
この旅立ちが幸福であるように。
他の奴らが言っているような競走馬として大成しろとも、血を繋ごうとする人間の顔色を気にしろとも、何も言う必要なんて無いだろう。
ただ、ハシルヒメモリの仔として、ラストファインとして、元気に一生を過ごして欲しい。
それだけを込めて、稲永はそれを別れとした。
そっと差し出した手の平に、ラストファインが頭を押し付ける。
その様子にラストファインが分かってくれたなんて、人間の思い込みでしか無いのかもしれないが、稲永はそうであれば良いと思った。
馬運車に乗り込んで、1年にも満たない期間を過ごした生まれ故郷の馬舎をラストファインが後にする。
じっと馬運車が見えなくなるまで見送って、それぞれが帰り支度をする頃に、稲永は車で持ってきていた花と、一枚の写真を放牧地に添えた。
友人へと送る、ハシルヒメモリの写真と手向けの花は山間の放牧地の傍らで、陽光を受けて輝いていた。




