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見えているか、あの眩耀の空が  作者: ジャミゴンズ
本編 陽はまた昇る
10/21

第十話 挑戦




            U 22




 オールカマーでの騎乗を終え勝利ジョッキーインタビューや諸々の手続きを済ませると、検量室で顔を洗う。

濡れ切った顔をタオルで拭こうと、手を伸ばした時に人影に気付いた。


「先輩、おめでとうございます」

「牧野……」


 牧野騎手からタオルを手渡されて、濡れた肌を拭う。

想像していたよりも非常に落ち着いた様子に、牧野は驚きを覚えながらも口を開いた。


「ワイルドケープリ、凄いですね。 芝重賞をいきなり取ってしまうなんて」

「……ああ、本当にすごい馬だよ」

「あはは、ちょっと意外ですね。 先輩は、もっと喜んでるかと思いました」

「そうだな……ちょっと前までは舞い上がって喜んでいたと思うぜ」


 タオルを握りしめている手をじっと見つめて、駿は感情を振り返った。

嬉しいか、それはそうだ。

JRA騎手として乗鞍と勝利を求めていた若かった時代、もしもオールカマーのような伝統ある重賞競走を勝っていたら狂乱するほどはしゃいで居たことだろう。

いや、半年前―――ダイオライト記念に挑戦していた頃でもそうであったに違いない。

ずっと競馬に携わって、それなりにレースを経験してきた。

ジョッキーとして何度夢を見た事か。

長年夢を見て、諦めて、それでもしがみつこうとして、逃げ出して―――ワイルドケープリに出会ってついに手に入れることが出来た、中央競争の初の重賞制覇の栄誉。

ああ、嬉しい。 嬉しいさ。 当たり前だろう。

でも、そんな自らの夢を叶えることが出来た歓喜よりも、それ以上に大きく自分の中で唸りを上げているこの感情は、安堵の方であった。

ワイルドケープリに走ることを認められた安堵だ。

かつて3歳ダートクラシック路線に進んだワイルドケープリは、間違いなく駿を騎手として認めていなかった。

いや、ただレースを走る為に必要だから背中に乗せていただけの存在だった。

乗り役として全うに仕事をこなせないどころか、居ても居なくても変わらないただの重しであった。

鞍上としてワイルドケープリの背に乗っていたからこそ理解できる。

乗り役の駿と、レースを走るワイルドケープリのお互いの距離感には見えない壁があって、いわゆる『折り合い』があう事が無かった。

それはダイオライト記念を走る前も。 その後も。

駿の勝手な都合や意思、ワイルドケープリの思惟や、やり方でずっとそうだった。

だけど。


「……やっと、馬と……ワイルドケープリと一緒に走ることが出来たんだ。 それが一番、俺にとっては大事な事だって思ったよ」

「馬と、走るですか」

「ああ。 俺はそれが……そうだな、それが一番嬉しいな」


 笑みを浮かべて手を握られ、牧野は駿の表情を眺めながら、今の言葉の意味を考えてしまった。

騎手なのだから、馬と一緒に走るのは当たり前の事なのだが、駿が言っているのはそういった意味ではないのだろうと思った。

考えに耽ってしまいかけた所で、短期来日しているアメリカ人ジョッキー、レイモン騎手が後ろに立っている事に気が付いて牧野は思わず身をよじる。


「うわっ、びっくりした! 急に後ろに立つなよ!」

「ソーリー、ゴメンね、マキノ。 へい、ハヤシダシュンさん! ハジメマシテですか!」

「あ、ああ、初めまして。 確か、レイモンさんだっけか?」

「そうです! 私はレイモン・B・オールマンと言います! ヨロシクね! ヨロシク!」


 笑顔で詰め寄られ、身を引いて苦笑する駿にレイモンは感動した様子で彼に声をかけた。


「美しい騎乗デシタ! ワタシ、またアナタと走りたいですね! ワイルドケープリはとても良い馬ですね! アリガトウございましたね!」


 ニコニコと上機嫌に、何の忖度も感じさせずに手を差し伸べられて駿は一瞬呆気に取られた。

ややあって、その手を駿は笑顔を浮かべて握り返す。

やはり、他の人から見てもワイルドケープリと走る事ができていた。

客観的な視点からもそう見られていた事に、駿は喜色を浮かべたのだ。


「ありがとう、レイモン。 機会があるかは判らないけれど、その時がきたら宜しく頼む」

「ハイ! また会いましょう、ハヤシダさん!」

「あははは、ったく、レイモンほんと元気だな。 若いっていいっすね、先輩」

「お前だって年老いてるわけじゃないだろ」

「そうですけどね! それじゃ、次の乗鞍もあるんで、俺はこれで。 先輩、改めて重賞制覇、おめでとうございます!」

「ああ、牧野。 ありがとう」


 今からだ。

今、この時からが、本当の俺の―――林田 駿という騎手の挑戦だ。

初めてワイルドケープリと一緒に走ることができた、その手応えが掌に余韻として残っている。

牧野を始めとした、中央重賞で勝ち負けを経験しているようなトップジョッキー達にとっては当たり前のことかもしれない。

だが、駿にとっては大きな気付きと経験であり、そして未来に光が差すような手応えであった。

オールカマーは、ワイルドケープリと挑戦することの通過点にすぎない。

そうだ、駿自身も、父の巌も、そして馬主である柊オーナーもここが出発点なのだ。

目指す頂きはここではない。

夏に会合を開いて貰った料亭での出来事を、瞼を瞑れば容易に思い出すことが出来た。

行けることまで行く。

ワイルドケープリが、その闘志を燃やし尽くすまで。


「っし……」


駿は、無意識に力を込めて握り込んでいたタオルを肩にかけ、中山競馬場の検量室を後にした。




「いや、こりゃあ凄いな。 初めて芝を走って最後方から上がり3F32.0でごぼう抜きとは……」

「凄まじい末脚でしたねぇ。 こんな7歳馬はなかなか居ませんよ」

「歳もさることながら、相手も一流だぞ。 追い込み馬がハマる展開は色々見て来たが、コイツは鳥肌がたつくらい凄まじかった」

「そうですね、ワイルドケープリ……次走はオールカマー獲ったし天皇賞秋に直行ですかね?」


 ネットに競馬記事を上げているメディアの記者たちは、オールカマーで断トツ最低人気のダート馬が見せた驚異の末脚にネタの鮮度を見て今後の動向に注視していた。

今年の競馬、中央と地方を含めた馬券オッズで単勝最高額を叩き出したことも含め、既にインターネットの動画サイトでは複数のレース映像が出回っており、かなりの話題になっている。

一昨年のダービー馬トリフォッリオか、それとも春の大阪杯で三冠馬のクアザールを破るという快挙を成し遂げたデイビショップか、というレースが蓋を開けてみれば謎の伏兵にごぼう抜きにされるという衝撃の結末である。

何かの記念参加のような物だろう、と歯牙にもかけていなかった馬が中央の重賞という舞台で激走したのだ。

実際、ダート出身のワイルドケープリが芝の重賞に挑戦というだけで、心無いネガティブな反応が世間を風靡していた。

ダート路線の整備が始まった頃から、地方馬が芝に挑戦する気風も珍しくなり、重賞ともなれば住み分けが確立した昨今の競馬ではまず見ない光景だったからだ。

そんな馬に後塵を拝したデイビショップなどは、やり玉に挙げられて扱き下ろすような発言をしている人たちも居る。

だが、それは違う。

決してレベルの低いレースではなかった。

集まった面子もそうだし、競馬の展開としても凄まじくタフな物だった。

ラッキーパンチやフロックなどとはとても呼べない真っ当な勝利。

少なくとも競馬関係者が見れば、ワイルドケープリの実力を率直に認めていることだろう。


「次走がどこかはともかく、是非とも一度取材してこの馬の事を知りたいな。 明日の朝から早速取り掛かってみよう」

「分かりました、ちょっと許可を貰える前提で準備しておきます」

「頼んだ」


 オールカマーの優勝馬には天皇賞(秋)への優先出走権が与えられる。

普通に考えれば次走は天皇賞になるだろう。 面白い伏兵が出てきたことに、知らず笑みを浮かべてしまう。

 

しかし、林田厩舎への取材を終えると記者たちは途端に困惑の表情を浮かべていた。

今時代になってこんな『攻めた』陣営が存在するとは思わなかったから、余計にその戸惑いは強かった。




「え、天皇賞に直行ではないんですか?」

「そうですね。 天皇賞の前に、マイルチャンピオンシップ南部杯に向かいます」

「なるほど、やはりダートに……え、天皇賞の前に?」

「ええ、なにか?」


 巌は動揺したかのように困惑する記者を前に、不思議そうに眼鏡の淵を持ち上げた。

マイルチャンピオンシップ南部杯への出走を取り決めたのは、確かに急な話だったかもしれない。

しかしオールカマーを走り終わったワイルドケープリの様子から決断に踏み入った。

とにかくワイルドケープリのやる気が満ち溢れていて止まらないのだ。

何度も何度も、確認をした。

それこそ芝を主戦場として走ってきた強豪が集い、激走したばかりのオールカマーを走った直後だ。

脚、顔、発汗具合。 馬体のバランス、蹄の傷み具合や歩様や体温。 そして食事に、その便まで。

あらゆる面から見てもワイルドケープリのフィジカル面は完調であった。

そしてメンタル面は言わずもがな。

あえて巌は不遜を承知で言ってしまうが、ワイルドケープリが求める勝利への渇きは 『オールカマーごとき』 では満たされなかったらしい。

当然、満足してもらっては困るのだが、それでも帝王賞を走った直後と比べても遜色のない、覇気が鹿毛の雄大な馬体から日を追うごとに溢れだしているのだ。

さぁ、俺を走らせろ。

次はどこのレースだ。

喋れないはずの馬が、声を大にしてそう訴えかけているように。


「かなり厳しい日程になるかと思いますし、メイチで仕上げてくる馬も当然、出走してくると思います。 その事については?」

「相手が強いことなど、最初から分かっている事です。 マイルチャンピオンシップ南部杯も、天皇賞秋も、登録時点で出走予定の馬は確認しています」

「では、南部杯ではダークネスブライトやネビュラスター。 天皇賞秋では三冠馬のクアザールなどが居ることは承知であると」

「勿論。 なんなら記事にしやすいように言ってやりますよ。 勝つつもりです、我々は」


 おぉっ、とどよめく取材陣に記者の一人は喉を鳴らした。

オールカマーが開催されたのは9/25日。 盛岡競馬場でマイルチャンピオンシップ南部杯が開催されるのは10月9日。

中一週、それも輸送を挟んでダークネスブライト、ネビュラスターとぶつかる事になる。

しかもその後、11月1日に開催予定の天皇賞(秋)に向けて東京競馬場へと脚を伸ばすということだ。

その上で勝つ?

何を言っているんだ。

ダークネスブライトやネビュラスターに、当のワイルドケープリ号は勝利をしたことすら無い。

ずっと走っていたダート馬であるワイルドケープリ号が、大阪杯こそ取りこぼしたものの昨年、コントレイル以来のクラシック三冠を成し遂げ有馬記念と天皇賞(春)、宝塚記念を制覇して既にGⅠ6勝を挙げているクアザールにも勝つだと?

底知れぬ自信を見せた巌に、集まった記者の一人が今しがた思ったことを追うように口を開く。

そうだ、どこからその自信が来る。

はっきり言わせて貰えば、馬を酷使するだけの酷いローテーションなのではないか。


「さて、どこで誰が相手でも我々は挑戦する側です。 ワイルドケープリのベストを我々は探り、その中で挑戦をするだけなのです。

 我々がただの馬鹿であったのか、そうでないのかは挑戦を終えた後に思う存分、寸評して頂ければ結構。 どこまでも行くし、どこまででも止まらないつもりです」


 

  【ワイルドケープリの次走は マイルCS南部杯。 掲げるのは挑戦の二文字か】


中山で開催されたGⅡ競争。 産経賞オールカマー(9/25日。 芝2200) で勝ち馬となったワイルドケープリ号(牡・7歳)

地方競馬から中央重賞を制した馬は数多くいるが、転厩せずに地方馬のまま中央重賞を勝利した馬となると久々の快挙と言えるだろう。

そのうえ、上がり3Fのタイムは32.0。 競馬に触れて長い人ほど、この数字がどれだけ驚嘆する物なのか理解できるはず。

今、競馬関係者はもとより、その圧巻のオールカマーで話題を攫っているワイルドケープリ号に我々は取材を申し込んだ。

ダートから芝への転向そのものが珍しいが、取材班がワイルドケープリ号を管理している林田調教師のもとへ訪れると、非常に驚かされることになった。

それは陣営がかなり強気にローテーションを組んでいるという事実である。

題した通り、オールカマーを見事に勝利したワイルドケープリ号は、その次走をマイルCS南部杯へと進める方針だと、林田調教師は言う。

実はこのマイルCS南部杯には帝王賞にて惜しくも敗れた、ダークネスブライト号とネビュラスター号が出走を表明している。

ワイルドケープリ号にとっては中央重賞の勲章を引っ提げて、リベンジに行くという形になる。

ダート重賞はダイオライト記念だけしか取っていないワイルドケープリ号。 本質的にはやはりダート馬ということで、次走の選定は納得のできるものだ。

しかし、我々が驚かされたのは、その後だった。

なんとマイルCS南部杯を走ったその後は、優先出走権を得た 天皇賞(秋) へと向かう事を、この時点で陣営は表明している。

調教師である林田 巌(71歳)が話している事から分かる通り、馬主である柊 慎吾氏も納得しているということになる。

オールカマーから南部杯には中一週。

南部杯から天皇賞(秋)では中二週という、凄まじいローテーションだ。

短期間に集中してレースを組むこと。

オープン馬クラス以下の競走馬には、まだ連闘をすることがあるなど決して珍しい事ではないとはいえ、中央重賞を勝ち取った馬がこれだけ『攻めた』ローテーションでレースに挑む事は珍しいだろう。

筆者の記憶によれば、こういった変則的なローテーションを採用する陣営は失って久しい。

しかし、ワイルドケープリ号は年齢的な意味合いでも挑戦をしなければいけないのかも知れない。

天皇賞(秋)以降の予定は未定とのことだが、オールカマーで見せたような凄まじい驚異の追い込みを、砂の舞台でもう一度見せてくれるのだろうか。

そして陣営にとっての挑戦が良い結果になれば、競馬の歴史にまた一つ、偉大な蹄跡を残してくれるのではないかと筆者は期待せずにはいられなかった。

時代に反するように挑戦をしていく姿勢。

年甲斐もなくワクワクとする、期待を胸にワイルドケープリ号の幸運を私も祈りたいと思う。



   【ダート王者ダークネスブライト・連覇へ自信を漲らせる】



 帝王賞を征した後、放牧に出されて心身共にリフレッシュしたダークネスブライト号。

ダート界隈を牽引する、世代の顔役として名実ともにその実力を発揮している当馬は、次走を昨年も勝利を飾ったマイルチャンピオンシップ南部杯へと定めた。

2歳から3歳まで、本格化する前は苦難の道のりを歩んでいたダークネスブライト号。 調教師である羽柴 有信は体調の管理に最も気を使っていたという。

ドバイワールドカップを含め、4歳春から本格化してからはダート競争で圧倒の戦績を残してきた。

その原動力としてダークネスブライトを支えてきた陣営は、決して苦い蹄跡を刻んできた3歳までの道を忘れてはいない。 

体調にひ弱な面があることが弱点であった。

風邪をひく、バボウの中で倒れ込む、のど鳴りが出る、などダークネスブライトは事あるごとに体調面に不安を抱え、出走数の少ない限られたチャンスで勝利をもぎ取ってきた馬である。

格別の勝利の味も、辛酸にまみれた敗北の味も経験してきた。

気性面は競走馬と思えないほど穏やかなこの馬が、勝負の場所であるレースで結果を残しているのは、陣営の努力と愛情、そして人と馬の間にある深い絆を結んでいることである事は、明白だ。

そんな陣営が今回ばかりは文句なし、と追切後のインタビューで自信をのぞかせた。

羽柴氏は誰が相手でも負けないくらいに仕上がった、体調面も万全、後はレース当日まで気を抜かないよう様子を見るだけです、と胸を張ったのだ。

ダート王者として、決して平たんではない苦難の道を乗り越えたダークネスブライト号が、その実力を遺憾なく発揮する舞台が整ったのである。

マイルチャンピオンシップ南部杯連覇。 その栄光はもうダークネスブライト号の足元にまで来ているのかもしれない。


「連覇が目の前に? 口が裂けてもそんなことは言えないよ」


 羽柴調教師は、目の前の記者を笑い飛ばすように鼻を鳴らす。

ダークネスブライトの実力は本物だ。

それは残してきた実績と勝利の数が言葉にせずとも証明している。

ダートの世界でがむしゃらに、ひたすらに勝利を目指してきたからこそ、掴み取れた結果だ。

多少の幸運もあったが、差し引いてもダークネスブライトが力で捥ぎ取ってきた栄誉である。

弱点である、ひ弱な体質面に対応する為にあらゆる手段を講じてきた。

馬具の調整、装蹄に臨む時期、レースに向けて仕上げる為の調教指示の選択。

最もダークネスブライトの波長に合う騎手の選定から、普段の過ごし方まで。

輸送にも弱く、ドバイワールドカップの話が持ち上がった時に、馬主に最初に難色を示したのは羽柴調教師だった。

本格化を迎えて勝利を積み上げた栄光とは裏腹に、厩舎内でダークネスブライトは苦しみに喘ぐ日々が長く続くようになった。

どれだけ神経質になっても満たない。

過度とも思えるほどケアをしても、万全とは程遠い。

ずっとずっと、何時でも何処であっても、ダークネスブライトという馬にとってレースに臨むことは、言うなれば挑戦だ。

王者などと持て囃されていても、勝利を確信して送り出したことは一度も無い。

此度のマイルチャンピオンシップ南部杯だって、調整こそは今のところ上手く行っているが、何時ブライトの体に変調が起こるか分かったものでは無いのだ。

それでも勝利を手に入れる事が出来ているのは、その素直な気性と、人間好きな性格ゆえだろう。

どれだけ苦しくてもダークネスブライトはレースに臨めば懸命になる。

人が厩舎に居なくなると、寂しさから声を上げて嘶いてくる。

鞍上の川島の意思に素直で、どんなレースも変幻自在な脚質を用いて必死になって勝利を手繰り寄せて。

先頭でゴールし、勝負に、レースに勝つことで人が喜ぶことを知っている。

そして、その喜びがまるでダークネスブライト自身の喜びの様に、レース後はぐったりとした様子を見せながらも無邪気にはしゃぐ。

競馬で見せる風貌とはかけ離れた、可愛らしい馬の姿で。

勝ちを重ねるごとに人々が喜び、その喜びと期待に答えようとするダークネスブライトにとって、勝利は重荷になってしまった。

人が喜ぶことで、際限なく、限界を超えようと頑張ってしまうダークネスブライトを苦しめてしまう事になった。

一年前、ダークネスブライトの事を思えば思うほど、矛盾した感情に羽柴調教師は悩みを抱えていた。

勝たせるのが自分の仕事で。

勝たせてしまえばダークネスブライトが潰れてしまいそうになって。

だから羽柴は何度も同じことを記者に告げてきた。

ダークネスブライトは世間で言われているような絶対無敵の王者ではないと。

生まれ育ちが恵まれている訳でもなく、体質に難題のあるこの馬は。

それでもその体に爆弾を詰め込んで、比類なき戦いを続けるこの青鹿毛の馬こそがどんな歴代の名馬よりも勇敢な馬で、誰よりも誇り高き挑戦者だと、羽柴はそう告げてきた。

連覇が当たり前ではない。 挑戦の結果、連覇する事になるのだろう。

ダークネスブライトという馬に人生を注ぎ込むほど入れ込んだ男は口を開く。

心配と、自信を言葉にする。


「ダークネスブライトが負ける時があるとすれば、私が失敗したときか、ヤネの川島が間違えた時だけです。 ダークネスブライトは頭一つ突き抜けて、ゴール板を駆け抜けますよ。

我々の期待に応える馬ですから。 その挑戦を支えてやる事だけが、私の仕事です」



   【ダート三冠馬ネビュラスター・王者への挑戦、激発の闘争心を露わに】


 10月9日に行われるマイルチャンピオンシップ南部杯に向けての最終追切が行われた。 そこで抜群の仕上がりを見せたのがダート三冠馬・ネビュラスターである。

芝からダートに転向してからは無敗で連勝記録を伸ばし、かしわ記念まで重賞含む7連勝と無類の強さを見せていた。

アクシデントにより、かしわ記念の勝利を逃し、帝王賞では半馬身届かずにダークネスブライト号の後塵を拝す結果になったが、決して力負けはしていない。

何より、ネビュラスターはその闘争心が敗北を経た事によって漲っているという。

管理している雉子島 健 調教師は良い傾向と捉えており、ダークネスブライト相手でも勝ち負けになるだろうと太鼓判を押していた。

ネビュラスターは芝を走っていた時代、その敗北に闘志を燃やしてダートで花開いた。

レースで敗北することを理解しており、敗北による悔しさが勝利への渇望を沸き立たせ、それが競馬の強さへと変換されているのだ。

もともと気性が荒く、レースへの集中力が散漫になることもあったが、かしわ記念・帝王賞と立て続けにタイトルを逸したことに奮起したのかネビュラスター号の意気は天を衝く勢いだと話す。

普段なら暴れだすようなシーンでもじっと我慢し、調教に身が入っているのだ。

陣営はこの闘争心こそがネビュラスターの原動力であることを理解している。

今がベストの状態であると確信するほど、マイルチャンピオンシップ南部杯に向けて集中を保っている事が関係者の総意であった。

その集中力はまさに追切の調教に現れていて、叩き出した抜群の時計という、数字で証明した。

間違いなく砂の舞台では実力が突き抜けているネビュラスター号。 

体調面に不安はなく、メンタル面で今までにない成長を垣間見せている。

帝王賞にてダークネスブライトにつけられた半馬身。 その背中はもはや射程の範囲内か。

ネビュラスター、新たな勲章へ視界良好である。


「―――ぐっ! ど、どうどうどうどう! 終わりだ!」


 ネビュラスターは調教を終えようとすると、納得がいかないかのように暴れだす。

とんでもないパワーと体力だった。

調教をつけていた、主戦騎手の田辺は騎手としては大ベテラン、50歳を迎えようかという経験豊富なトップジョッキーである。

競馬を扱ったバラエティ番組にも数えきれないほど参加し、当然レースでの勝利数も1500勝を越えていて一流と言っても良い騎手である。

往年の名馬の背中を追った事も、名馬と讃えられた一流馬の背中に乗った事も、何度もあった。

ネビュラスターはそんな馬たちと比べて、見劣りしない―――どころか抜群に優れているところがあった。

身体ではない。 精神だ。

それがこの、闘争心。

ネビュラスターを管理している雉子島厩舎では、その調教の激しさから体調よりも先に精神的に参ってしまう馬が出てしまう事がある。

インターネット等で多くの人から、馬を壊していると批判するような意見が散見されている程だ。

実際、昔ながらのやり方を変えないのが雉子島調教師である。

雉子島の師匠であった調教師のやり方が、今でもずっと続いているからだ。


「おい、ナベ。 そろそろ切り上げてやれよ、ネビュラスターが壊れちまうよ」


 馬を壊していると世間から言われているような男に、そんな事を言わせてしまう。

田辺は顔を顰めながら、ようやくネビュラスターが落ち着いた頃を見計らって馬から降りると頭を掻く。


「あのな、健ちゃん。 俺だって何度も止めたよ。 でも止まらないんだよ、ネビュラスターは」


 帝王賞でダークネスブライトに負けた。 かしわ記念でディスズザラポーラに負けた。

それが判っているから、ネビュラスターはその敗北に打ち震え、そして切れたのである。

連勝していた最中、厳しい調教を嫌がって暴れだすのが常だったネビュラスター。

だというのに、無敗だったダートで敗北を経験してからは、むしろ調教を終えようとすると暴れだすのだ。

芝で走っていた時にぶち折れ、ダート転向して取り返した尊厳。

それを今また、自らの脚で取り戻そうと、がむしゃらにネビュラスター自身が鍛えているのだ。

温いやり方をしている訳ではない。 むしろネビュラスターに期待をかけているからこそ、雉子島は調教メニューを厳しく詰めている。


「負けず嫌いにも程があるぜ。 健ちゃん、もっと馬を上手く制御してくれよ」

「喧嘩売ってんのか、こら。 馬鹿言ってんじゃねぇ、俺だって困ってんだからよ」

「実際どうすんのよ。 負荷が掛かりすぎてるでしょ」

「……いっそ行くとこまで行くか。 人が馬に気合で負けちゃいられねぇだろ」

「え、本気か」

「腹くくれよ、ナベ。 いっそ壊れるくらいに追い込むぞ。 最終追切の後、南部杯前の間だけ休養に中てるぞ。 それまでネビュラスターが満足するまで付き合おうじゃねぇか」

「健ちゃん、そんなんだから世間の評判が良くならねぇんだぞ」


 言いながら、田辺の顔には笑みが浮かんでいた。

敗北はいらない。 雉子島も田辺も、そこは同じ意見であった。

ネビュラスターに恵まれたこの闘争心は、あらゆる馬の頂点に立つと確信させるほどにむき出しになっている本能、才覚だ。

それを承知しているから、普段から厳しいトレーニングを積んでいる。

それを更に、引きあげる。

それでも届くか、届かないか。 ダークネスブライトは勿論。 ダート三冠全てのレースでネビュラスターにしつこく食らいついてきたディスズザラポーラがいる。

そしてネビュラスターの更に後ろから圧倒的な加速で背後を窺うワイルドケープリが居る。

どの馬も恐ろしいほどの実力を秘めており、ネビュラスターが次に敗北を喫した時に、もし萎えてしまったら。

敗北を予感して、ネビュラスターとしての根幹、闘争心が失われてしまったら。

雉子島厩舎にとってダート三冠の栄誉を授けてくれた、この激しい気性を隠しもしない若武者は、芝で挫折した時にダートへの挑戦を決意した。

そしてまた、ダート競争においても大きな壁にぶち当たっている。

その壁を乗り越える為に挑戦しなくてはならない。

勝利という二文字だけが求められる。

ダート王者の看板を、ダークネスブライトから譲り受け、ダート三冠馬の貫禄を落とさない為にも。


「ああ、良いね。 こういうのが競馬をやってて、俺は好きな仕事だって胸を張れるんだ」


 田辺は快活に笑った。 

雉子島は馬房に引っ張られていくネビュラスターを見守りながら田辺と肩を並べ、同感だ、と零して煙草の煙を大きく吐き出した。


さぁ、ダークネスブライト、ディスズザラポーラ、ワイルドケープリ。

砂の舞台でまた会おうじゃないか。

勝つのはこの、闘争の挑戦―――それを真に知っている、ネビュラスターだ。

 



マイルチャンピオンシップ南部杯



10月9日 ダート1600 良馬場 天候/晴れ。


岩手・盛岡競馬場の地に、挑戦者たちが一同に集った。


東北の地。



その秋空の下で、真のダート王者の称号を賭けた戦いが、始まろうとしている。



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