魔法全部使える──んだけどなぁ……。
芝の乱れの一つも許されぬ、スピルバグ家の美しき庭園にて。
緑のど真ん中に少年が一人、あどけない表情に貴族の威厳を併せ持つのは、今日十三歳の誕生日を迎えたばかりのカネル・スピルバグである。
対面に立つは、メイド服を身に纏った若い女。侍女の一人、不敬の代名詞ことアリアだ。何故か物凄く震えている。
少し離れた位置に立つ父、ラレル伯爵に、カネルは尋ねる。
「お父様、屋敷にはちゃんとした訓練場があったはずでは……?」
「お前の魔法の威力に訓練場が耐えれたらな。レンガより土の修復の方が容易い」
「なるほど……」
ラレルは青ざめた顔色のアリアには別段目もくれず、そのままカネルに向かって声を張り上げた。
「カネル、次の三級魔導士資格試験はいつか分かるか」
「一年と三日後です!」
「三日後だ!間に合わせるぞ!」
「んなアホな!!」
父の無茶苦茶な提案に、カネルは盛大なツッコミをかましたところだった。
カネルが魔法の実戦訓練を行うのは、この日が初めてであった。
実戦訓練、すなわち戦闘を想定した魔法の使用は、魔導士資格取得可能年齢である十三歳より許されている。
それ未満の責任感に欠ける子供が魔法を使うのは、学校教育の実習授業あるいはやむを得ない自己防衛でしか許可されていない。
ジプネ王国の法律は実に几帳面なのだ。
もっとも、十三でほぼ成人扱いをされるというのは、十九でまだ酒を飲めなかった日本人のカネルからすれば随分危なっかしい決まりなのだろうが。
さて、そんな決まりの中で、父ラレルは息子が条件を満たして十時間も経たぬうちに訓練を始めた。今朝、カネルが教会を訪ねてからたった三時間後のことだった。
せめて甘い誕生日ケーキを食わせてあげてからでもいいものを。その行動の早さからも、ラレルの教育の本気度というものが窺える。
「ご主人様、私まだ死にたくないです」
手合わせ相手のアリアは、カネルの前に恐怖し震えている。
無理もない、これから自分が相手をするのは、自分よりも何倍も強力と分かっていて、それでいて初めて人に向けて魔法を撃つ魔法使い。
「そういうわけで、加減には注意してくれ、カネル」
ラレルもただそう言うしかなかった。
ちなみに、この失礼侍女アリアがこの屋敷で雇われている理由というやつが分かったのがつい先ほどのことだ。
どうやら彼女はそこそこ優秀な魔法使いらしい。
なんでも街でも名の知れた冒険者だったらしく、いつかの仕事でラレルとのコネクションがあったとのこと。
それで、何かの事情で冒険者を辞めてからというもの、侍女兼カネルの魔法教育補佐として雇われたのが十年ほど前。
確かに家庭教師の時にはいつも横に控えていたが、「膵臓にぐって力入れて股関節にグバァ」とか「くるぶしでほにゃーって感じるんですよ」とか「脳汁を右の肺に注ぐイメージ」とかわけの分からないアドバイスばかりしていたものなので、私もカネルもただのアホだと思い込んでいた。
いや、ただのアホではあるのだろう。しかしただちょっと感覚派なだけで、魔法の才能自体はラレルに認められるだけはあるらしい。
しかしその才能というのも、稀代の天才カネルの前ではガクブルの姿勢で。
「──それでは、はじめっ」
ラレルの掛け声とともに、アリアは腰が引けたまま「へぅっ」と素っ頓狂な声を上げていた。
「さて、お手並み拝見……」
今日も私は、この暗闇からカネルを見守っている。
「カネル様、ほんとに手加減してくださいよ……」
戦闘開始の合図からまもなく、アリアは自分の体を青い光で包む。
防御魔法の一種『プロテクター』である。
魔法使いは基本、戦闘開始とともに自分に防御魔法をかけるものなのだ。
そんな初歩的なことは、勿論カネルだって知っていた。
カネルは学もあり戦闘シミュレーションも散々してきたので、この時のための知識は十分すぎる程だった。
魔法戦闘における定石や基本的な戦略というやつを理解した上で、どのように考えながら戦えば良いのか、どのように立ち回れば相手を出し抜けるかということも分かっていた。
──けれど。
「……カネル様?」
カネルが防御魔法『自由の加護』を発動したのは、アリアより数秒遅れてのことだった。
アリアにラレル、私までもが、その一瞬の間に疑問を持つ。
「カネル、実戦では一秒の隙が命取りだぞ」
「はい、お父様……!」
少し緊張しているのか、などと思いながら、ラレルはアドバイスを飛ばしていた。
「カネル様の十八番、史上最強の防御魔法ですね……それじゃ私も手加減しません」
先手を取ったのはアリアだった。
アリアの左手が空を切ると、風が一本の刃になってカネルに襲い掛かる。
風魔法『鎌鼬』は大きな弧を描きながら伸びていくと、そのままカネルに命中。『自由の加護』に深い傷が付いた。
「…………」
「カネル様、どんどんいきますよ……!」
今の一発で少し調子に乗ったのか、アリアは立て続けに魔法を放つ。
炎魔法『フレア』、水魔法『ジェット』、光魔法『灯の刹那』……全ての魔法は、カネルの防御魔法に吸い込まれるように命中していた。
その時点で既に、ラレルは変だと感じ始めていただろう。
私も同様だった。
「…………」
「舐めてくれちゃって……でもこのままゴリ押しです!」
土魔法『サンド・アモ』、闇魔法『針地獄』、炎魔法『爆炎』……。
そこでアリアもようやく異変に気付く。
カネルは微動だにしなかった。
攻撃を躱す素振りもなく、何か魔法を発動する予兆もなく、ただ立ち尽くしていた。
「カネル、何をやっている……?」
ラレルは困惑しながらも、棒立ちのカネルを見守っていた。
勝負は最後まで分からないもの。これが何かの策である可能性もあるのだ。
そう思っていた矢先。
パリン、と音がした。
カネルの防御魔法が割れたのだ。
他でもない、敗北の合図だった。
「カネル、どうした……!」
駆け寄ったラレルの言葉に、カネルは依然困惑した様子でいる。
「いや……あの、お父様」
目をあっちこっちに泳がせながら、カネルはしばし言葉にならない声を繋いでいた。
「初めての実戦です。少し緊張して、混乱してしまったのですね」
アリアのフォローにも、ふるふると首を横に振る。
あの気品溢れるカネルとは、まったく違う姿に見える。
「あの、僕……分からなくなってしまって……」
つまりは混乱していたのだろう、と、ラレルも優しく息子に寄り添っていた。
ああ、確かに初めて人に魔法を向けるとなるとこのようになってしまう子も少なくはないだろう。
大丈夫、少しずつ慣れていけばいいものだ。
そう言って、その日の訓練は終わりになった。
──その時から、私は既に気が付いていた。
カネルは初めての戦闘に恐怖したりなどしない。
彼が言った「分からなくなった」というのは、そういうことだ。
どうして今の今まで失念していたのか、我ながらも不思議でならない。
圧倒的な才能を手に入れても、魔法の知識を身に着けても、カネルには大きな問題が残っている。
それは、カネルが前世より引き継いだ記憶。
生まれ変わる前から変わっていない、彼の性格。
──少年、カネル・スピルバグは優柔不断であった。換言すれば、著しく決断力に欠けていた。
街に出れば公道を三周はしてから食事処を決めるタイプだったし、進路を決める時はいつも父とひと月以上じっくり話さなければ飛び級を決断できなかった。
そんな人間が、この世界に存在する何百の魔法の中から一瞬の判断で一つを選ぶとなればどうだろう。
攻撃魔法か防御魔法か、何属性の魔法を使おうか、どの魔法の組み合わせが最適解か。そんなことを悩み考え抜いていては、戦闘が終わるどころか日も暮れてしまう。
あろうことかその絶望的な性格を持って生まれてしまったカネルは、何百の魔法という選択肢を、可能性を得てしまった。
それは強大な才能であり、しかしカネルにとっては他でもない短所だったわけだ。
彼が戦闘中に動けなくなってしまうのも、無理はない。
随分と間抜けな話だ。
彼の優柔不断は、いつも見ていて飽きない。
「はよ決めろよ」ってツッコミを入れたくなる。「何してんねん」って笑い飛ばせる。カネルは面白い、あれは酒の肴になる。
でも、今日はどうしてか笑えなかった。
彼が間抜けな死に方をした時でさえ、私は爆笑していたのに。
人の夢が壊れる瞬間というのは、流石の私でも笑えなかった。