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25下

「吟遊は愛子を実験の対象としていなかった。彩戸が把握してないのがその証拠だ。だがお前は湯田さんに『お願い』して、愛子にもあの薬を飲ませた。愛子も『視線』を感じるように」

「思った通り、愛ちゃんはにいさんを支えとして平静を保った」

「夜持が消えたら、自動的に『視線』の主は夜持となる」

「そこは上手くいった。けれど、誤算も多かった」


 夜持を愛子の一部に格納し、彼女は満ちる。

 その彼女の横には、いつだって優子がいる。


 その未来を阻んだものは——


「お前が三絵図商店街を巻き込んで、図面を広げざるを得なかった理由は三つ。まず、夜持が目を抉り出した」

「あれには参った。可能性としては考えてたから、バックアップは存在してたけど、まさか本当にやるとは思わないじゃん。潰れているだけなら誤魔化しようがあるんだけど、根本的に無いのじゃあ、ね…」

「次に、豪雪で目玉が回収出来なかった」

「これも、考えられる限りでは最悪の展開。その後良好な保存状態で維持されているのが、不幸中の幸いだった」

「更には、手駒が一つ機能しなかった」

「手駒?湯田さんはかなりの大活躍だったように見えるけど」

 違うんだ轍刑事。

 ここで言う手駒とは——

「思った以上に、期待以下だった。調整が足りなかったと後悔してる」


「つまり俺が、日高創が使えなかった、ってことだ」


 夜持の目が見つかった日、まだ日付が変わったばかりの深夜に、俺は優子に相談されていた。

 優子は、「夜持の親友である」俺に、

「他の人間よりも夜持を知る」俺に縋りついて来た。


——()()()()()!日高クン!

——愛ちゃんが、このままじゃ…

——だから、手伝って欲しいんです!

——にいさんを、一緒に…!



——日高クン、行人にいさんを探しに行きましょう。



 俺は言われるが(まま)に動いて、誰かに見つかる前の夜持の目を、探し出して回収する端役だった。それが未達に終わった時は、今回の日下と同じような、「暴く者」の役を担わせる用意もあった。


 だが、俺は逃げた。


 その場から。

 優子から。

 愛子から。

 夜持から。


 人と、向き合うことから。


 結果、夜持の両目は関係ない人間が発見し、優子は俺の代役を探さなければならなかった。


「自分の制御下にない人間を頼るしかないが、ある程度優秀でないといけない。でないと、吟遊に脅威と見なされない」

「それでいて、私の狙いに気付かれてもいけない。その『有能な人物』に怪しまれてはいけないという点が、一番高いハードルだった。選定は大変だったんだから」

「だから、三絵図商店街を巻き込み、湯田さんに裏切らせたんですね。事態を複雑化することで攪乱になり、私の注意が逸れるだけでなく、『脅威』の数を増やすことで、吟遊側の警戒をも別方向に向けられます。一挙両得です」

 探偵に解かせる謎は、無駄に膨らんでいる程望ましい。

「だが待て、それでは今になって日高創を巻き込んだのは、余計な手順だったのではないか?実際そのあまりの無駄さに、日下真見は一時(いっとき)、途直優子を容疑者から外した程だ」

 彩戸、そういう所だ。

 「合理」という名のまやかし、それに拘泥し続けている。

 人の心が絡むと、途端に鈍くなる。


 だから、足元を掬われたんだ。


「愛子が優子と一つになるには、外側に対する執着を捨てさせる必要があった。全て内側に持ち込み、完結してくれなければならなかった。彼女が誰かを強く憎んでいたら、それも解消しなければいけなかった」

 愛子が赦さなかった人物。

 お察しの通り一人しかいない。

「愛子、お前は今何に怒ってる?」

「『何に』?それをアンタが言うの?夜持から逃げて、私達を見捨てて。夜持はアンタを、親友だって私に教えてくれてた。だからあの時、逃げたアンタにショックを受けてたのよ?助けて貰えるって信じてたから。それ以前に、夜持があんなに追い詰められていたのに、全然気がつかないんだもん」


 「ねえ、行人?」愛子は隣の夜持に同意を求める。彼からどんな罵詈雑言が飛んでいるのか、どうあれ受け入れるしかないが、聞きたくない気持ちは消えない。


「無関係の所で、しれっとノンビリ生きているのだけはナシ。だからアンタを死ぬほど怯えさせて、そのザマを見て溜飲を下げる。それで良かったんだけど……今度こそ協力してくれるかと思えば、何を偉そうに、熱心なフリをして。アンタが保身の為なら本気を出してるのを見ちゃったら、余計に腹が立った。それで、とことんズタボロにしてやろうって思ったのよ」

 

 それが理由だ。

 俺の部屋を利用したのは計画の一環だが、あの恐怖演出の為でもあった。

 俺を確実に関わらせる為に。

 俺に罰を与える。それで愛子は俺を忘れる。

 愛子が納得するまで、俺は断罪され続ける。

「む、無計画にも限度が——」

「ダメでもともと、ってヤツだよ。実現性がそこにあったから、挑戦せずにはいられなかったんだ」

 そうして、俺がここに呼ばれたという事は——


「俺は、どうなる予定だった」

「さあ?撃たれて死ぬのかもね」


 愛子と反対に、優子は俺に一切興味が無い。

 俺を見る目には何も籠らず、笑顔を(つくろ)う手間すら惜しむ。

 用済みの犬にくれてやる、飴も鞭も無いようだ。

 道端で凍死したコオロギのように、近付きたくも注目したくもない。


 本当に、一切、どうでもいいのだろう。


 彼女は、愛子の中から消す為に、俺を再登板させたのだ。


 俺は、

 そうとも、俺は一丁前に傷ついている。

 でも今やるべき事は、そうじゃない。

 慰められることでも、恨み言を垂れることでもなく、

 本当に——

「すまない優子」

「別に、謝られたくない」

「俺が、あの時気付いていれば、お前にこんな事させなかった」

 俺が、もっと色々出来る男なら、逃げずにお前を救うことが出来た。

俺が、俺でさえなければ、もっとマシな結末も——



「勘違いしてるけど、終わらせないよ?」



 不意に。


 体温を。


 直に感じた。


 目の前に、優子の顔がある。

 能面のように、瞳に暗がりを(たた)えて。

 暖かい風、彼女が生きている証、それがその唇から離れ、俺の頬を優しく撫でる。

 鼻腔を擽るのは、甘酸っぱい、禁断の果実の誘惑の香り。


 彼女の鼓動すら伝わって来る。


 彼女と触れ合っているからだ。

 彼女と繋がったからだ。

 彼女と俺とが重なったからだ。

 

 熱が、


 腹の中から熱い猛りが、


 抱えきれない想いが、


——違う。


 俺は、両足が脱力していくのを、ようやく自覚する。


 鳩尾が外へと開き、急速に体温が奪われていく。


 離れていく優子。

 その右手が光を乱反射して、俺の眩暈を悪化させる。

——シングルエッジ・バタフライナイフ。

 それは、夜持の物だった筈だ。

 そういえば、持っていてもおかしくはないのか。


 これは、

 俺は、

——刺されたのか。


「まだ、『校閲』は利く」


 均衡が、傾く。


「せんぱい!」

 日下は一瞬で状況を理解し動き始める。

 が、

 その一瞬で盤面を変えられる人間もいる。

 彩戸にとっては充分な時間だった。

 日下が反応する隙を与えず腕を取り関節を()め床にねじ伏せる。

 その間も優子には淀みがない。

 俺の脇を通り抜け、傍にあった夜持の眼を確保しようと——

 それは既にそこには無かった。

 十七夜月だ。

 あの博士もまた抜け目がない。

 容器を抱えて舞台中央へ。

 彩戸に逃げる算段アリと見て、同道するべきだと判断したのか。

 距離を離された、優子は間に合わない。

 合流される。

 その前に、

 退路を塞ぐ者、湯田夕刻。

 役目を果たしきれなかった彼女はせめてこれだけでもと不退転の構えを見せる。

 懐に忍ばせた飛び道具でこの場を制圧しにかかる。

 体勢を起こしながら彩戸が湯田に顔を上げる。

 日下が何か叫んでいる。

 

 破裂。

 弾けた。


 速い。見えなかった。

 彩戸の左手に何時の間にか黒い凶器が握られていた。

 次に銃口は後方へ。

 続けて連射。

 次も。

 その次も。

 次々と。

 日下が甘くなった拘束を抜け出し拳銃を蹴り飛ばす。

 だが既に命中していた。

 出口付近の警官が飛びのく。

 血を流している者もいる。

 須臾(しゅゆ)の間、逃走経路が浮上する。

 周囲を固めている人員は、烏合の衆の寄せ集め。

 火器の扱いに慣れていない、やり合った経験など言わずもがな。

 優勢なら勇気を出せても、劣勢時は簡単に崩れる。

 連携も不十分で、死の恐怖で踊らされ、浮足立つし怯えて固まる。

 包囲に穴が開くのは、当たり前の帰結と言っていい。

 湯田がゆっくりと倒れゆく。

 優子に助けを求めるように、伸ばした手は虚無を掴む。

 しかし彼女は、尚も這い進む。

 横を十七夜月が通り抜ける。

 日下が飛ばされた。

 (はや)った足運びでは彩戸に通用しない。

 合わせられ投げられ距離を稼がれた。

 冗談みたいに遠くへ放られ受け身を取ってすかさず起きる。

 再びその脚を届かせる為に。

 スタートダッシュ。

 が、足りない。

 その前に彩戸は優子と衝突する。

 決着が付き、どちらかが逃げ(おお)せる。

 優子の最優先排除対象は、彩戸になった。

 武装はもう無い。

 湯田が切り開いた血路。

 たった一度のチャンス。

 格闘技は優子も心得がある。

 得物は彼女だけが持っている。

 条件は幾許(いくばく)か有利。

 それで実力差を埋められるか。

 それが分かれ目。

 最後に賭けに出た優子を前にして、

 彩戸は、

 

 その口角を、横へと引き伸ばして上弦を描き——


——笑った?


「運が良かった。奴から没収したこれを、まだ持っていたのだから」


 さっき取り出したのは、弾倉(マガジン)を入れ替えるタイプ、自動式拳銃(オートマティック)

 ではこれは?

 もう一丁。

 回転式(リボルバー)、小ぶりなフォルム、偶々持っていた物。

 そうだ。

 暗宮進次の、「お守り」だ。

 

 最後に勝負を決めたのは、妄念に憑かれた猟犬だった。


 そして、


 最後の破砕音が、


 鳴り響いた。




 “シリンダーギャップ”、という言葉を聞いたことがある。

 リボルバーの構造的な弱点。弾丸を籠めるパーツと銃身(バレル)部分との間にある、回転を阻害しない為の隙間。

 発砲時、その部分から高圧のガスが噴き出し、下手な持ち方をしていると指が飛ぶ。

 と言っても弾倉の銃口側、発砲者とは逆方向で起こる現象。

 “凡ミス”の次元であり、手慣れた者なら犯さない過ちである。

 ただ、構造的にそういった危険性がある、という話。

 そも鉄砲というものは、内部で小さな爆発を起こし、金属の塊を射出するという、力任せなコンセプトがベース。

 ならばその動作によって、大きなエネルギーが生じるのは、自然な道理であり避けられない条理。

 

 仮に。


 もし仮に、この破壊を、手元の側で発生させようと改造したなら?

 破片が手前へ集中的に飛ぶよう、構造を(いじく)ったなら?

 無理な注文ではない。

 見た目だけは敵を殺す道具で、中身は使用者を罰する“びっくり箱”。

 弾丸の発射能力すら犠牲にして、ただ手元で炸裂するだけの玩具(おもちゃ)

 作ろうと思えば、実現できるだろう。


 そんなこと、普通はやる意味が無いだけだ。




 優子の頭を過たず撃ち抜き、十七夜月と共に離脱する。

 彩戸が組み立てた、完璧な道順。


 問題は、土台に獅子身中の虫が棲んでいたこと。


 彩戸は理解できない。

 彼女が倒れ()さない理由。

 優子が減速もせずに無傷で間合いを詰め、十七夜月の喉に光を突き立てる。

——銃声はした。

——狙いも完璧だった。

 刃を引き抜き彩戸へと吶喊(とっかん)する。

——いいや、今は失敗を埋め合わせなければ。

 持ち直した上で次弾を撃ち出そうとし、そこでようやく彼は気付いた。


 右手が、さっきまで銃を握っていた掌が、


 見るも無残な惨状となっていた。

 

 肉が抉れ、骨が見え、人差し指は千切れる寸前。

 武器なんてとっくに取り落として、ただ馬手(めて)を不格好に差し出しただけ。


 彼は、何が起こったのかをそこで理解した。

 優秀であるがために察してしまったのが、彼の最大の敗因だった。

 それに気付かなければ、迫る刺突に反応し、防御できたかもしれなかったのに。


 優子が(くう)に線を引く。

 手元から外側へ腕を振り切る。

 宙を赤く切り分ける。

 飛び散った真紅は、空間が生きていたかのよう。

 外に出てはいけないものが、開いた隙間から滴り落ちる。

 彩戸は、もう呼吸すら困難だ。

 当然だ。呼気の通り道が断たれたのだ。

 その顔は、悔しそうに見えた。

「先パ…ガッ…何し、くれて、スかぁ……そんなに見通、ゴボッ、見通せる、なら…なんで…」

 「なんであんなことを」、そう言っているように聞こえた。

 

 してやられた。


 暗宮進次の“お守り”は、初めから敵に奪わせる予定だった。

 仕掛けの端々から感じ取れる、暗宮への悪意。

 彼は、それを逆用することにした。

 最後の抵抗にと持っていた、あまりにも小さくか弱い武装。

 これ見よがしに振り回し、切り札であると見誤らせる。


 最後の希望それ自体を使い、寄り縋っていた者を叩きのめす。

 性格の悪い奴なら考えつきそうな事であり、それをやられるのを暗宮は期待した。

 最後の最後で隙を作れる可能性を、対手(たいしゅ)の側に忍ばせる。暗宮がやったのはそういうことだ。

 事実、彩戸はここぞという場面でそれを使った。

 彼を殺す為の道具が、逆に仇敵の命を救う。

 そんな皮肉を込めようとして、見事に術中へ真っ逆さま。

 結果的に言ってしまえば、素手で戦った方がマシだった。


 しかし彩戸は何故、その銃を持っていたのだろう?

 暗宮の死から一月程、その間私物として持ち歩いていたのだろうか。

 証拠品の一つとして、組織に提出するのが普通。

 少なくとも、詳しく調べる筈。

 けれど彼はそうしなかった。

 組織に個を捧げた彼が。

 面白さで動く男が。


 きっと、彼の“憧れ”の遺留物だったからだ。

 彼が尊敬し、目標にしていた者の、形見。

 彼にとって、暗宮は死んだ者だった。

 あの日、覚悟も大儀も無く真文を殺し、後付けで暴走する暗宮を見て、彩戸は「猟犬」の死を悟った。

 それを受け入れる為に、気持ちの整理の為に持っていたもの。

 過去をそれに閉じ込め、今と切り離すゴミ捨て箱。

 だから警戒していなかった。

 だからそれと向き合わなかった。

 

 それが今、復活した。

 

 全盛期の冴えとキレを見せる、辣腕(らつわん)刑事が生き返った。

 暗宮は、落ちぶれてなどいなかった。

 人殺しも、暗宮進次の考えの一部だった。死者の意味不明な迷走ではなかったのだ。


 彼は自分を見失わずに、変わらず明晰で優秀なまま、真文提を殺したのだ。

 

 彩戸の千引の岩が、単なる石ころに成り果てた。

 理想そのものだった人物がとった行動が、どう見ても正解から程遠いようにしか思えない。


 なら、今まで信じてきたものは、一体何だったのか。


 その揺れが、ブレが、敗着の決定打だった。


 夜持の眼が優子の手に渡る。

 日下は迂闊に近づけない。

 こういう時、殺すのに躊躇が無い方が速い。

 そして速い方が、殺せる。

 じりじりと、間合いを測り合う二人——

 その日下の背後、地が隆起し襲い掛かる。

 湯田夕刻。

 この局面においてなけなしの力を振り絞り日下に組み付き動きを止める。

 死兵とは、いつの時代も厄介だ。

 死者とは勇者以上に、(おそ)れを知らないものだから。

 


 決着。



 これで詰み。

 

 優子は問題なく愛子を伴い、この混沌の出口へと——


「ねえ、優子」


 愛子が知らぬ間に、中央に歩み寄っていた。

 優子へと向かいながら、問う。


「夜持が見えなくなったのは、あんたのせいだったの?」

「………うん、そうだよ、愛ちゃん」


 その時の、

 今にも泣き出し、

 喚き散らしたいという衝動を、

 諦念と絶望で抑えつけた、

 そんな(ひず)んだ笑顔を、

 せめて大切な人の前では、

 最期まで綺麗なままでいようと、

 覚悟に満ちたくしゃくしゃの異相を、

 

 俺は一生忘れないだろう。



「じゃあ、あんたが敵じゃん。()()()()()()、消えてくれる?」

「分かった。大好きだよ」



 誰も間に合わない。

 自分自身を掻っ切るのに、これ程躊躇(ためら)いの無い人間がいるなんて、俺は想像だにしていなかった。

 

 喉を、ではない。

 首の後ろ、頸動脈を確実に。

 彼女にとって、愛子は本当に分身だったのだろうか。

 この行動を見ると、それ以上の何かがあるようにも見える。

 

 けれどそれを確認する術は、もうどこにも無かった。




「さよなら」

 



 そうして、最後に立つのは、途直愛子。


 夜持の目を拾い上げ、取り込むかのように抱きかかえる。

 全てを白く染める照明の下、その場で両の膝を突き、祈るように指を組み、ただ穏やかに微笑みかける。

「これでずっと、一緒だね」

——ああ、彼女は今、足りたんだ。

 そう思った。




 時間が動き出し、喧騒が訪れる。

 誰も彼もが慌てている。

 ある者は外に応援を呼びに行き、またある者はどさくさに紛れて“後片付け”をする。


 戸惑う観客に囲まれた舞台上、幸福な結末(ハッピーエンド)を迎えた少女を望み、俺は寒さと倦怠感に耐えつつ、スマートフォンを耳元まで持っていく。



——お兄ちゃん?



「よう…結芽(ゆめ)…」

——珍しいね、電話なんて。

「そうだな、初めてだ…」

——……もう、いいの?

「ああ…今まで、ごめんな」

——ううん、それじゃあ、


 バイバイ。


 引き延ばしを重ね続けた、


 逃亡劇の幕が降りる。

 

 見物する人間も、アンコールもなく、


 緞帳が世界を覆っていく。


 どうなるのかは分からない。


 だが、これで終わりでも良いと思えた。


 俺はもう、


 受け入れてしまった。


 光の全てが奪われる直前、


 それが眼中でちらついた。


 灯りが集まる檀上から駆け降り、


 他に目もくれずに走り来る彼女。


 閑古鳥が鳴く客席が、


 たった一つだけ埋まったように、


——ああ、見られている。


 柔らかく暖かな感慨に包まれて。


 俺の耳は何も拾わないが、


 声を届かせようと必死なのは分かった。


 もう見えない筈なのに、


 俺の中に鮮烈に、


 少女の姿が灼けついている。


——まだ、死にたくないな…


 何も届かぬ水底に、


 溶暗の中で静かに沈み、


 日高創は、


 そこで途絶えた。

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