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初めて会った時も
あいつは笑顔だった
僕が悪態をついた時も
あいつは笑顔だった
僕が一人で泣いていた時も
あいつは笑顔だった
夜道でその日のことを話す時はいつも
水族館に行った時も
あの日学校で告白した時も
明日のことを約束した時も
あいつは
一番僕が欲しい笑顔で
いてくれたんだ
分かってる
それは当然だって
それが自然だって
でも
僕には
それが生きる意味だったんだ
それが希望そのものだったんだ
今
黒ですらない
無に包まれて
だからこそ
はっきりと思い浮かぶ
あいつは
笑顔だったんだ
それが
「ほんとう」だ
だから
あいつに自由を
それだけは与える
約束
約束だ
※※※※
「“透明人間”を否定することに、心血を注いだ刑事がいました」
名は暗宮進次。
はっきりしたものしか受け入れられない、日本国家警察最後の抵抗者。
「どうやら彼は、“透明人間”という風説が生じたこと、それ自体に怒りを感じていたようです。それは間違った状態であるとし、矯正しようとしました。当初は地獄の果てまで追う覚悟があったようですが、結局、最後には目に見えない大きなうねりと、襲い来る日常に押し潰され、一度は心が折れてしまった」
3年間の、空白期間。
文字通り空っぽだった時代。
「先パイにとっちゃ、そのままの方が幸せだったッスね。その後あんな馬鹿やらかさなきゃ、不要な痛みも無かったッス」
「言っても仕方のないことですね、それとも——」
——未練があるのは、貴方ですか?
彩戸は、もうほとんど平衡を保てていない。
日下の揺さぶりを、馬鹿正直に喰らっている。
「日下、よく分からないんだが、暗宮さんの犯したタブーってどの行動のことだ?」
「それは一ヶ月前、ある転機によって始まりました」
転機。一ヶ月前。
——ああ、“会長”が。
「11月、闘病中ながら小康状態を保っていた矯平造が、容態を急変させました」
矯平造の死。
三絵図商店街にとって、世界の終わり、神の死に等しい。
それが、目前まで迫っているのかもしれない。
「どうするべきか、話し合われたでしょうが、有効な打開策など提案できる筈がありません。それどころか、突然総出で大騒ぎしたものだから、嗅ぎまわっている者達に勘付かれます」
「吟遊は、気付いたのか?」
「彼らも後に辿り着いたでしょうが、先に嗅ぎつけたのは、真文提さんです」
真文提。
暗宮進次のかつてのパートナー。
その執念を同じくする同志。
何かを突き止め、消えてしまったジャーナリスト。
「彼は3年もの間調べ続け、その網についに獲物が掛かった。実際どうです、湯田さん?貴方は手助けをしましたか?」
湯田さんにパスが行く。
「いい所まで迫っていたので、吟遊関係の情報を匿名で提供しました。彼はそれに関する資料を自宅に保管していたのですが、後に『行方不明事件の捜査』の名目で、全て持ち去られてしまいました」
受け取った彼女は、平常で答える。
「な、なんで…湯田さんが協力してるんですか…?さっきから、湯田さんは何が目的なんですか…!?そんな人に情報を流して、それで“吟遊”っていう人達を本気で潰せると思ってたってことですか?『正義感』って、何がこの人の『正義』なんですか…!?」
優子が事態に食いつこうとして、情報の濁流に飲まれ目を白黒させる。極度の緊張状態が続き、痛ましい程に疲労し切っている。それでも、自分で事件を嚙み砕こうと挑んでいるのだ。
一方愛子は、十七夜月博士から没収された、例の容器を凝視している。
「それは後程。それより重要なのは、3年間で最大の成果を得た真文さんが、次に何をするか、です」
次。
仲間は全て脱落し、
頼りの相棒もドロップアウト。
それにも負けず追い続け、
ついに苦節が実を結ぶ。
次にすることは——
「挫折した仲間に教えに行く。立ち直らせ、再び共に進む為に。そうだ、暗宮さんと、真文提は、会っている…!」
あの手帳の記述が蘇る。
あのタイミングで、真文が唐突に真相に迫った。それは、この一連の混乱があったせいか。
しかし暗宮は、それを妄言として取り合わなかった。
「それだけではありません、彼は明確に拒絶したんです。“透明人間”を反証することで一致していた盟友が、それ以上に胡散臭い情報を持ってやって来た。幻想に逃げた者達を、共に糾弾していた筈が、隣から離れ向こう側に付く。白か黒かで考えることを好む彼からすると、“白”として迎え入れたにも関わらず、『“黒”だった』『“黒”になった』という事態です。許し難い背信行為です」
一方真文は、食い下がった。
去ろうとした暗宮を引き留め、戦線への復帰を求めた。
再起を促し、舞台に上がらせようとした。
暗宮からすれば、整理をつけようとした決意を揺るがす、破滅への誘惑にでも見えたのか。更に真文の話は、自分が散散否定してきたものを、受け入れろと言っているようなもの。
「誰かが作った怪しい何かが殺したので、裁く方法がありませんでした」。
そんなもの、納得できない。
彼にも分かってはいた。この世界は、はっきりしたものだけでは無いと。
だから、それをゆっくりと飲み下していた最中だったのだ。
そんな時、無理矢理喉元へと流し込まれた、口に苦い薬になる毒。
もっと早ければ、彼は喜んでその提案に乗ったかもしれない。
もっと遅ければ、彼は全てを諦めて、何の感慨も抱かなかったのかもしれない。
けれど、それはあの時起こった。
内側が坩堝のように掻き混ざっている、まさにその時に。
そして暗宮が見せた過剰な拒絶反応に気付いたのか否か、真文はどこまでもしつこく説得し続けた。
彼の目の前に、見えない振りをできない程近くに、提示し続けたのだ。
耳障りで、屈辱的な、その申し出を。
だから暗宮は——
「暗宮進次元刑事は、真文提を殺害し、その両目を抉りました」
「なっ…」
轍刑事の当然の驚愕。それと比して、彩戸広助は冷淡だった。
当然か。彼らが知らない筈が無い。関係者全員が口裏を合わせる商店街内部とは違う。監視の目の前で、単独で、突発的に、計画性などなく行われた殺人。
察知されるに決まってる。
「いやいやいやいや!それこそ納得いかないよ!なんで殺しちゃうのさ!?」
「ですから、そこを考察することは無意味ですよ。その時それが起こってしまった。それ以上のことは何もありません。どうしてもと言うのなら、彼の性格故と言うべきでしょう。曖昧なものを許せない彼は、人を敵か味方に二分したがる」
味方でないなら、自動的に敵である。
「しかし、眼球を抉り出した理由は説明できます。真文提さんの死に、意味を持たせようとしたんです。本来割に合わない『人殺し』に、後付けで理由を添えようとした」
きっと暗宮は真文から、「両目を抉られた死体が消える」という話を聞いたのだろう。
そして、それが噓偽りであると実証するつもりだった。
少なくとも、彼が思いついた真文提殺害の合理的な理由がそれだった。
真文は間違っていた、だから殺した。
そしてこれからその行動を利用して、馬鹿げた風説の反証とする。
自分の主張が、やってしまった事が、正しかったと、そう言い張る為に。
「彼は、それはもう驚いたでしょう。遺体は早晩発見されると思っていましたし、直ぐに逮捕される事も覚悟していました。ところが——」
「真文提は、『行方不明』になった」
殺人事件が、消えた。
噂は、本当だった。
暗宮はあっさりと、巨大組織の暗躍という仮説を受け入れた。
もう少し早くそれが出来ていれば、そのコンビは吟遊に食らいつけたかもしれない。
けれど暗宮は誤ってしまった。止まることも、出来なくなってしまった。
今回得た大きな手掛かりから、事件の全てを解き明かすのだ。
それが今までの死に、自分の罪に、意味を持たせる唯一の道なのだから。
「そしてこの出来事で、大きな進展を予感したのは彼だけではありません」
真文提の死によって、踊らされたもう一つ。
「吟遊もまた、今回の殺しに注目しました」
彼らにとっては、初めて捉えた殺害現場。今まで隠されていたものが、漏れ出でた瞬間。
ここしかない。
停滞を打破し、全てを解決するには、この綻びを広げるしかない。
ただし、これまでの徹底ぶりから考えると、簡単に過ぎる発覚。彼らも馬鹿ではない。しっかりと罠を警戒していた。拷問の際に暗宮に問うていたのも、その“罠”の内容なのだろう。
つまり、ここからどのような手順で吟遊に損害を与えるつもりなのか。露見しない予定だったのか、それとも見つかる事まで計算の内か、こうなることまで織り込み済みか。
怯えながら、測っていたのだ。
そこに一切のビジョンは無いのに。
突発的なアクシデントを、有機的な計画の一部と、そう考えてしまったのだ。
吟遊が描く“敵”が、より大きく・暗く・得体が知れなくなっていく。けれどそれは、全ての出来事の裏に、作為を見出そうとしてしまった為。吟遊の一人である彩戸広助に、コンタクトをとって来たことも、疑念を大きくした要因だろう。
全体で一つとして見てしまったからこそ、吟遊は勝利不能な戦いへ、その身を投じてしまったのだ。
納得できないものに、“化物”や“鬼”といった形象を与えて、それで腑に落とそうとした。
して、しまった。
存在しない巨悪と対峙する、憐れな愛国の戦士達。
騎士道に狂い風車に挑む、ドン・キホーテの喜劇のように。
彼らは次に、彩戸広助を監視の任に就け、暗宮がやったように彩戸を“殺して”、その出方を窺った。
——目立って見せて、出方を窺う。成程、俺達は奇しくも同じことを考えていたワケだ。
目には目を。
暗宮の行動の反動のように、吟遊もまた大胆な一手に出た。
彼が接触した吟遊の構成員に、「行方不明」の名目を与え、その身を隠させる。
あからさまに、“陰謀”を匂わせる。
暗宮が、どう反応するのか。
彼が“裏切者”と結託しているなら、彩戸の失踪が狂言であると知っている筈だ。それを、態度に出してしまうのか。それとも、何も知らされていない末端なのか。
「黒幕なわけがないッス」
彩戸は暗宮に対しては、甚だ色濃く軽蔑している。
けれどそれはある意味…いや、今は関係ないか。
「先パイはそんなに賢くないッス。単なる独りよがりの暴走か、知らずに黒幕に操られていただけ。あんな、頑迷固陋を絵に描いたような人間、それくらいが関の山ッス」
「それでも、他に手掛かりが無い以上、吟遊は彼に張り付くしかなかった。そして、彼に期待していたのは湯田さんも同じです。彼女は、彼が真相に辿り着くことを願っていた。しかしそのうち、彼が答えを得るのは厳しいと気付き始めた。警戒され過ぎていたために、見られずに道標を渡すことは困難。真相に近づいた彼を見て、流石に泳がせるのも限界であると感じ、吟遊が確保するという決定が下れば、それを阻止することも出来ない」
そして暗宮は、捕まった。
「暗宮進次さんは…どう、なったんだ…?」
「あ?あんなダメ男の心配ッスか?奇特ッスねえ」
彩戸は俺の質問に、まるでどうでも良さそうに、
「死んだよ。遺体も処理した」
あっさりと、そう答えた。
彼の末路が、疑いようもなく、定まってしまった。
「最後まで、泣けども、叫べども、何も喋らなかった。我々は彼の捜査資料を入手している。彼が何を知り何を知らなかったか、その全てが聞かなくても分かる。だから、そんな意地を張らずに、楽に死ねば良かったのだ。愚かな男だよ」
それは、とても寂しい。
酷く、侘しい。
彼は最期まで、訳も分からず死んだ。
苦悶の中で、頭を巡るは疑問の数々。
何が起こっていたのか。
何が行われていたのか。
誰がこんなことを始めたのか。
何故、自分はこんな目に遭っているのか。
何故、自分はこの事件を忘れられなかったのか。
何故、自分は真文提を殺してしまったのか。
何故、自分は——
この時代・この場所に、生まれて来てしまったのか。
自らの存在が、全て間違いのように感じられる。
何一つ、意味の無いこと。
むしろ、いない方が良かったもの。
彼は、自分の存在意義すら、はっきりと確信できていない。
そうして暗宮進次は、
丹畝市の端、
忘れられた神の山で、
誰にも見られることなく、
自身が産み落とした業火に焼かれ、
此岸を手放した。
その意識の終わりに見た、
生死の間にある分け目もまた、
曖昧模糊としたものだった。