18下
その男は、急いで“博士”の元へ向かっていた。
通い慣れた様子の建物。その一室。
刺激臭や、鉄が焼けたような匂い、血の香りが充満するその場所。
ライトで集中的に照らされている部分と、そうでない薄暗い箇所の差が激しいそこには、電子顕微鏡や何かの液体、箱のような機械類、種々雑多な容器…。
まるで黒魔術か錬金術の工房。
透明な膜で隔てられた先では、白く清潔な布につま先から頭まで身を包み、目の前の玩具に熱中する研究者。
散らかされた混沌の中でありながら、滲み出す外連味が、整えられた舞台のように見せる。
彼らが今やっている職務、その為に必要なものをここに持ち出していた。
だが急遽、それを検められるという報せが入った。
それは困る。ただでさえ最近目立ち過ぎたのに、これ以上襤褸を出すわけにはいかない。
「おい博士、一端中止だ。暫くそれを戻す必要が出来た」
「はあて、これはとてもとても貴重なサンプルだよ?文字通り世界に一つ!…否、二つか。その価値を知らぬ無作法者に触らせるなんて、リスクが高いとは思わんかね?」
芝居がかった口調に苛つかされるが、ここで激昂しても意味はない。
なるべく穏やかに交渉する。
「こちらでしっかり管理する。その唯一の手懸りが消えて困るのはこちらも同じだ。それでも、今は堪えろ。でなきゃ全て台無し、ご破算待った無しだ」
「おいおい、君らも大したことないねえ。隠すのは得意分野なんだろう?」
「限度がある。お前は成果を上げないままに、もう4年だ。それが突破口になるのか、それすら既に怪しい。これくらいは譲歩して貰おう。我々の宿願が人魚姫のように、水の泡となり儚く消える、ってのはお前だってごめんだろ?」
「そうだねぇ…ハッピーエンドで終わりたいのはその通りだ」
手応えあり。行けそうだ。
「少しの間、その眼を返してくれればいい。何も見つからず、それで終わりだ」
「例の偽物で充分じゃあないか?」
そう、これまでならその手で良かった。今更調べる者などいなかった。だが、今回の相手は違う。
「例の鬱陶しい小娘だよ。こちらの情報を小出しにしてる誰かさんのせいで、“吟遊”にまで辿り着かれた。もうそろそろ限界だ。この拠点も海外に移転する必要があるかもしれない」
「ああ、あの“探偵”か。致し方あるまい。あれは、面倒だからな」
あとは調査の手が追い着く前にとっとと——
「面倒で申し訳ございませんね」
博士の背後、スポットライトの外から、するりと歩み寄る、黒衣の芸術。
この世ならざる、刺すような美貌。
件の「探偵」、日下真見が姿を現す。
念の為の非常口。そこから逆に、脅威が招かれる。場所が特定されているどころか、構造まで把握されている。男は衝撃を受けながらも、次の手を算出するべく頭を回転させる。
「やあやあ、これはこれは。君にも困ったものだ。そりゃあ見学したいのは分かるがね?それならそうと事前に言ってくれれば、私も完璧な持て成しを見せれたのだが」
“博士”は調子を崩さない。いつも通りに役者めいて、全てを躍らせる指揮者を標榜。
「残念、嫌いな人の想定外を起こすのが大好きなんです」
そう言いながら、日下は“博士”に接近する。
「その茶目っ気は嫌いじゃないがね」
そうして俺達は入室した。
男から「眼」と「吟遊」という言葉が出た時点で、GOサインが出た。
確信するに至ったのだろう。あの資料の内容、それがある程度真実であるということを。
日下の後に俺と警官達、それらに続いて途直姉妹。
男が入ってきた入り口からは、別働隊が次々と詰め、粛々と逃げ場を塞いでゆく。
だが男を直接捕縛しにはいかない。下手に刺激して本格的な戦闘になるのを避けるべき、それが日下からの提言だった。
博士の手元から、小さな金属製の入れ物が取り上げられる。
きっとあの中に、冷凍保存でもされているのだろう。
俺達は、男——彩戸広助と、博士——十七夜月望に、遂に対峙した。
「一応お決まりのセリフを言っておくッス。何故ここが?」
彩戸がお道化て問う。
「正直に言えば、総当たりです。神暮山にもう一つ施設がある場合や、サンシ製薬本社にある場合、どこかの空き家の地下等々。調べられるところは調べ、可能性が潰しきれない地点全てに見張りを配置しました」
「警察自体が信用できないのに、よく人が足りたものだな?」
「民間の調査機関も雇わせて頂きましたから。私の自腹ですけど」
「普通の」探偵の皆さんには感謝である。
彩戸達が焦って、脇が甘くなっていたのを差し引いても、良い仕事をしてくれた。
「当然、博士にも監視を付けました。彼が頻繁に出入りするところにも。…因みに前者は私自身の担当です。あとは、焦った貴方が駆け込んでくるのを待つだけでした」
ここは、「名義人が警察関係者である場所」を探していた時に見つけた場所だそうだ。轍をフル活用して手に入れた図面の中で、四方を壁に囲まれた不自然なスペースを見つけた。非常口の存在は、ある程度予想できるものだった。
まあ、全て日下から聞いた話だが。
「力任せッスか…」
「こちらにも余裕が無かったもので。これ以上悪い方向に転がる前に、とっとと終止符を打ちに来ました」
「悪い状況?問題は解決したぞ。こちらとしては裏切り者が気になるが、君たちにはもう実害が無いだろう?急ぐ意味が分からないが…」
この十七夜月とかいう男、これだけの事態の中でまだ惚けてやがる。
「お前いい加減に」
「確かに。通常なら一旦落ち着いたと考えて、外堀をゆっくりと埋めていきます」
日下までとんでもない事を言い出した。
「おい、あんなに沢山人死が出てんのに『落ち着いた』はないだろう」
「大勢だろうが一人だろうが、死は不可逆であり、当人にとっては大事ですよ。だからこそその捜査とは慎重に、仕損じることがないように、確実な方法を選ぶべきです。そう、本来なら」
彼女はそこで、十七夜月の方へ前進する。
カン。
「ですが今回がそうも言っていられない。貴方が関与していましたから」
踏み出した一歩が鳴り響く、堆積した暗闇を晴らすように。
侃。
「分からないな。私を知るなら、むしろ人類の為に目溢すべきではないかね」
「貴方がそういう方だからこそ、見えてないことがあるのに無理矢理進む危険性があるからこそ、私はここに止めに来ました」
彼女の音声が場を支配する、遠きも近きも釘づけるように。
緘。
「君は、私の栄光を知らないから、そう言える。
私は、成功した!」
「確かに、貴方は成功例を得ました。だからこそ、私は貴方を信用できない。全てが薄っぺらであると言い切れます」
彼女が舞台に登っていく、物語を終わらせるために。
綸。
「一時の感情に流された者の愚論だ。非常に残念だな」
「ほら、それが本性でしょう?幸せを語りながら情感を蔑視する。理論武装での正義面なんて、ただ気持ちが悪いだけです」
彼女の白い手が払われる、その場の支配者を決めるように。
これは主役の登場シーンではない。閉幕の為の舞台装置、その降臨場面だ。
日下は止まる。
十七夜月を尻目に、彩戸に立ち塞がる。
さっきから、いや神暮山から帰ったあの日から、思っていたことがあった。
——怒っている。
日下はきっと、秘かに、しかし滅茶苦茶にキレている。
この事態を引き起こしたらしい、吟遊という組織や十七夜月にか。
止められなかった自分にか。
「この場で、私の語りで、この事件の幕引きとさせて頂きます」
探偵は解いていく。
ゴルディアスの結び目を、
一本一本丁寧に。
「『幕引き』ッスか?国家権力でもないのに、何の権限があって?何が出来るッスか?我々を拘束しても、その中枢を裁くことは出来ないッスよ。わざわざ訪問していただいたところ恐縮ッスが、子どもがどうこうするような問題じゃあないッス」
そうだ。こいつらを壊滅させることは、不可能だろう。
それを承知で、日下はここに乗り込んでいる。
「国の代役をするつもりは毛頭ありません。もしそれだけなら、私も彼らもここにはいませんよ。これは、警察職員の皆さんに無理を言って、私の職務に付き合っていただいている状態です」
俺達がここに居ることに、何らかの意味がある。
きっと日下の仕掛けは、そうでなければ発動しないのだろう。
「警察の仕事は、事実を突き止めることです。私の仕事は、誰かの真実を見つける手伝いをすることです。よって、これは法による正義ではなく、一種のセラピーのようなものですよ。事実はただそこに在り、始まりも終わりもありません。人は、その中に始点と終点を打ち込み、区切ることで受け入れる。それぞれの『真実』として」
もとより、愛子達の為の場である。
探偵の本領は、断罪には無い。
「それに、貴方にも損ばかりというわけではありません。聞いていただければ分かります」
意味深長なことを言いながら、彼女は彩戸を牽制している。
「何分見切り発車です。これからの話は、多分に推論が混じります。そのことを念頭に置いてお聞きください」
上手に究明者。
下手に巨悪。
その中心で、
少女は完結させる。
「始まりは、遠い遠い過去の話です」
烏の濡れ羽のような髪、
夜のように黒いワンピース、
その中で白く耀う、玉の肌と手袋。
蠱惑的とも幻想的とも言える世界を纏いながら、
“探偵”、日下真見は
“終わり”を始めた。