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崩壊は、直ぐに始まった。
勢い余って衝突した人混み同士がお互いを揉みくちゃにして一体となる。
そうなるともう止まらない。
もともと何を追いかけているのか分かっていない者も多かった。最初にぶつかった先頭に気をとられて目標を見失い、結果として自分も直進するか、それとも無理矢理止まるしかなくなる。前線は前から合流する別動隊と、後方から来る増援に押し潰され、木霊する哀願が混乱を加速させる。
もう誰一人俺達を見ていなかった。それどころではなかった。
俺達の動きなんて追っている場合で無くなったのだ。
だから、見られずに潜れた。
「どさくさに紛れて」とは、まさにこのことだろう。
「これは…洞か…?」
巨木の根は固くしっかりと張り、斜面でもそう簡単に倒れない。地滑りを抑えるという役目もある。その強固な樹木の周囲は雨風で削られ、時に空洞になったりもする。
こういった傾斜地では、土が重力に引かれ、風雨に削られても、なお真っ直ぐに伸びることで、木の下側に空間ができているのをよく見る。
今俺達が居るところは、そういうところだった。
「先輩、少しお静かに…。呼吸音が大き過ぎます」
「俺達が…降りて来た、方向からじゃ…、ここは、見えなかった、と…思うが…?」
「先輩、地形を記憶しておき、使えそうなものをマークするのは基本ですよ?ただでさえ我々は、ここでは新参者なんですから」
つまり、登っていた時にここを見つけて、道順まで覚えていたというのか。
そういえばこいつ、矢鱈と記憶力が良かったな。
「じゃあさっきの体術も…、その、『使えそうなもの』の一貫か…?足技ばっか、使ってたが…」
「体格では私の年齢、性別ともに不利ですからね。相手の上から振るうのではなく、下から突き上げる、それがコンセプトです。相手の下半身への攻撃が多いのも、利点の一つですね」
「でも、後ろも見ずに…どうやって背後の人間の位置が分かった…?結構正確に捉えてないと、さっきの動きは無理だよな…?」
「そこは気配を察知すれば無問題です」
バケモンかよ。
「そこまでするか。って言うか、どうやるんだよ」
「気配というのは、主に雑音や肌の感覚といった、ちょっとした変化のことですよ。『背後に誰かいる』と感じている時、大抵風の音やちょっとした痒みで錯覚している場合が多いんです」
「つまりお前は、自分に掴みかかって来る奴が出て来るのを待って、そいつの足音を聞き分けて反応した、と?」
「逃げることを想定しているのなら、その手段くらい考えますよ、当たり前じゃないですか」
「簡単に言ってくれる…!それにあの技の数々…やっぱり達人か何かだろ」
「買い被り過ぎです。截拳道を少々齧っただけですよ」
「功夫映画の世界の住人かお前は」
もうやだこいつ。どこ突いてもハイスペックが出て来やがる。
とは言え助かった。暫く周囲の喧騒が収まるのを待つ。
連中も急いでいるようで、俺達を改めて捜索するつもりはないようだ。今の混乱の中で怪我人が多数出たのだろう。立ち上がれない者に肩を貸し、動けない者は担ぎ上げ、そうして上側——きっとこの集団の中枢がある場所——へ戻っていく。
「さっきのクソMPK野郎はなんだと思う?」
「あの泥んこ気障ミリタリー変質者なら、まあ拳銃を携帯している時点で、普通に考えて警察官か自衛官のどちらかですね。敬礼の仕方がいやに整っていたのを見ると、後者でしょうか」
「自衛隊って、銃持ったり、帽子かぶったりすると敬礼が変わるんじゃなかったか?」
「正式な場所ではなかったので、そこは掘り下げる意味は無いです。重要なのは、冗談で咄嗟に出た敬礼すらキチンと作法に則っていたことです。見事な人差し指、手のひら、腕のラインでした。教練が最も厳しい自衛隊の所属、若しくは出身であると推定されます。脇が開いていたのを見るに陸自か空自でしょうか?」
威嚇とはいえ暫定自衛隊がぶっ放した可能性に辟易すればいいのか、ふとした悪ふざけでそこまで特定してくる探偵に恐れ慄けばいいのか。俺はこいつに嫌がらせする時は、余計な煽りは一切しないと決めた。まあそれでも瞬殺で見破られるだろうが。
まだ波は引かない。人熱れで暑苦しい。だがこちらを見られる心配はあまりしていない。俺達の前に根が張っているため、覗き込むように見なければ、空間があることにすら気付かないだろう。
気を抜いたからだろうか。俺はずっと聞いてみたかったことをふと思い出した。
「なあ、お前はどうして“探偵”なんてやってるんだ?」
日下はこれまで数多くのスキルを披露してきた。それこそ戦場で生きる者のような妥協無き研鑽を積んでいた。
彼女の覚悟、あるいは強迫観念は、どこから生まれ出でたのか。それに感化され、生死の境に足を掛けてしまった、今だからこそ気になった。
ただ、訊いてはみたものの、答えを期待していたわけではない。本当に、「聞こうとした」という事実だけあれば、後悔しないという程度の心持だった。
幾千もの罵倒を想定していたし、もともと険悪な関係が、更に悪化することも考えられた。
が、実際はどうかというと、日下は少しの沈黙の後、
「終わらせたかったからです」
意外にも答えを口にした。
「何を?」
「…先輩、貴方は夜持さんを殺した犯人が見つかったとして、それでどうします?」
「どうって、そりゃ——」
——どうするのだろう?
俺は、ずっと役立たずだった日高創は、その時何をしようとするのか。
愛子は、あれ程夜持に思い入れていた途直愛子はどうだろう?彼女は、警察に突き出すだけで納得するだろうか?
「ひとつ昔話をしましょう」
日下は訥々と語り始める。
「私の父は、弁護士でした。それも、法曹界ではちょっとした…有名人だったらしいです」
父親自慢にしては棘のある声。不穏な過去形での叙述。
なんとなく、先が読めてしまう。
「私は父が嫌いでした。腕は良かったようですが、金の為なら手段を選ばず、詭弁と脅迫と袖の下を巧みに使い、法廷自体を煙に巻く。そうして他人の生き方を振り回すクセに、自分はのうのうと図太く生きる。そうそう、当然の如く、家庭を顧みない人でもありましたね」
聞くだに最悪な親である。関わりたくない人間筆頭であるのに、そいつの背中を見て育つというのは、どれ程深く苦しい事なのだろう。
「母は、そんな父を何故か愛していました。それが余計に腹立たしくて…そんな私の遣る瀬無さなど知らず、あの人は何時だって自由で、楽しそうでした。偶に私を視界に入れたと思ったら、その時だけ家族ごっこを強要してくるんです。あれはただ、『父と娘』というのをやってみたかっただけでしょうね」
そんな父親がある日、
「轢き逃げに遭って死んだんです。酷く呆気ないものでした」
日下は当時、酷く混乱したと言う。
殺しても死なないしぶとさを感じさせる、生命力に溢れたクソ野郎が、視界の外であっさり死亡。湧き出でたものは悲しみではなく、納得いかぬものへの探究心。
「必死に調べましたよ。と言っても、幼い私には何の力もありません。父に負けるのが嫌で、当時から勉強していたので、知識だけはありましたが、それでも人生経験の浅い童女。高が知れています。それだけでどうにかなるものでもありません。ですので様々な人の力を借りました。あの父にも協力関係の人間は居ましたし、母も顔が広い方でした。常日頃から、父の仕事で関わった人々と仲良くなっていたので、警察関係者の協力が得られたことも大きかったですね」
………………ちょっと待て。
「それどれくらい前の話だ?」
「5年前ですね」
「小学生じゃねえか!?」
「力を貸して頂く交渉の際、泣き落としの効果は絶大でした」
「そりゃそんだけちんまい奴に泣かれちゃあなあ」
今もあまり背が高くないというのに、当時はどれ程ミニサイズだったのか。
「皆さんお優しかったです。『お願いだからここで泣くのはやめてくれ』とかよく言われました」
「想定よりもえげつなかった」
その頃から良い性格してたのか。
嫌でも想像してしまう。
今の日下をそのまま小さくしたかのような、庇護欲を煽る愛らしい美少女。
そんな彼女が耳元で、
「今この場で泣き叫んだら、皆さんどう思うでしょう?」
とか囁いてくるというのだ。
当事者としては、二度と思い出したくもない悪夢だろう。
と言うかこいつ、しっかり父親の能力を継いでいないか?
きっとあの犬刑事も、その時の被害者かその知り合いだろう。
「そうして犯人を見つけて、それで何かが解決するわけでもないです。それでも、その事件を終わらせたかった。それで終わると思っていたんです」
日下とその犠牲者の共同戦線によって、犯人は炙り出され、事件当時の詳細も明らかになった。
問題はその後だ。調査の結果、一つの結論が出た。日下の父は——
「自殺、その可能性が高かったそうです」
その時、彼は自分からトラックの前に飛び出したという。
両手を左右に開き、目を瞑り、満足そうな表情を浮かべてふらりと目の前に現れた。運転手はそう語った。
その時の彼女の想いが、俺の中にも流れ込むように感じられた。あったのは、ただただ後悔。生前からもっと知ろうとしていれば、もっと腑に落ちたかもしれないのに。生きている間は、向き合うことを拒絶してしまった。理解の機会を自ら逃した。それをひたすらに悔いている。
日下は答えを掴んだ筈だった。なのに、手中のそれを引き摺り出してみれば、底なしの不定形だったのだ。
「ただ、怖かったのを覚えています」
「怖かった?」
「私はあの人が憎くて、だからこそ誰よりも見続けてきた。そういう自負がありました。それなのに、そんな相手に全く理解不能な行動をとられて、どうしようもなく不安になりました。あの人は、何の罪悪感も無く人を踏み潰し、誰かの心を弄び、“真実”という言葉なんて全く信じていなかった。周りがどれだけ不幸であっても、自分だけは幸せで居続ける。そうでないなら周囲の側を変える。前向きな人です。前向き過ぎて、進行方向の全てを蹴散らす程に。それが、自殺?どうして?私は、あの人を一ミリたりとも理解できていなかった?あれだけ観察し、調べ、そしていつか打倒しようとしていた相手を、しかし見ることができていなかった」
次に来るのは、絶望だ。
人が人を理解することなど、一生かかっても不可能だと。
分かり合うことなんて、夢物語でしかないのだと。
「私を支えたのは一つの事実でした。私が彼を理解出来ていなかった。その結論は、私自身が見つけたものです。私の力で得たものです」
日下は見つけ出した。
きっと放っておいても警察は解明しただろう。だがそれを日下自身が動かしたことに、きっと意味はある。俺の対極に在るような行動力である。
「私の中で、その事件は終わりました。私が主体的に行動し、一つの決着をつけたことで、私は主人公になり、その物語は幕を閉じました。もし警察からの報告を待つだけだったなら、私は今も、終わらせることのできない迷路の中に居たでしょう。事件の解決とは——いいですか先輩?当事者にとっての事件の解決というのは、自分に“納得”することです。自分のあずかり知らぬところで、真相を漏らさず用意されても、それでは何も終わらないんです。犯人逮捕は、ゴールではありません。動機が問われるのは、逮捕後も納得いかない人間が、何かを得ようとするためです。しかし、『身近に居た人の死に対して何かをしてあげることができた』、そういう実感が持てなければ、何が分かっても折り合いなんてつけられません。ずっと囚われるんです。自分で何かをしなければ、永遠に」
自分の持つ手段の全て、考えられる全部、それらを残さず吐き出して、それでようやく「終わった」と言える。
たとえ最後に来るのが諦めだったとしても、それは結末であって、新たな始まりとすることが出来る。
何もしなかった者は、始めることができない。同じ場所に留まり続けてしまう。
誰かを雇うのでも、ビラを配るのでも、祈るのでも何でもいい。
何か、少しでも解決の方向へと進めた、進めようとした実感が無ければ、納得することが出来ない。
「『聞こうとした』という事実だけあれば」、そういうことだ。
そうか、だから俺は、いつまでも夜持から逃れられないのか。
「私は、手段になりたいんです。終わらせるための手段。警察は放っておいても捜査をする。けれど、どんな事件でも事実関係を暴きだす、そんな探偵を見つけ、それに依頼したなら。それだけで大いなる貢献と言えます。解けなかったとしても、『あの探偵がダメなら仕方ない』、最高の解明者ならそう言わせることが出来ます。私への捜査依頼は功績になり、それが“納得”に繋がります。全ては、滞りなく幕を引く為に」
そうして彼女はまた沈黙した。
偶に飴玉を噛み砕く音以外、何も発さなくなってしまった。
………待て、どこから出したその飴。何時口に含んだ。
荷物は大部分を投げ棄てた筈だが、ちゃっかり甘味は確保してやがった。
この探偵は、日下真見は、俺を巻き込んだのは愛子達からの依頼だからと言っていた。俺の受け身姿勢にも、度々苦言を呈していた。実際に嫌悪感を覚えていたのも、自身で動く大切さを知る、彼女の為人なら頷ける。
だがそれは、もしかしたら日下なりの優しさなのだろうか。
俺を嫌いながらも、一人では動けない俺の為に、俺を突き動かす脅威を演じてくれたのだろうか。
俺と夜持の煉獄を、終わらせようとしてくれているのだろうか。