13下
登山開始から20分。
先ほど3合目を過ぎた。
周囲は未だ下界と変わらぬ様子で、今山中であるという実感はあまりない。
かの高尾山の登頂時間はだいたい30分から1時間と聞いたことがあるから、ペースとしてはまずまずである。
今回は手ぶらでは無く、負担——主に俺が負っている分——がとても大きい為、休憩を頻繫に挟んでいる。流石の日下も「軟弱ですねえ…」等の憎まれ口は叩かない。
ここで無理に急かしても、後で潰れたら意味がない。
場合によっては、帰りは全速力での逃亡になるかもしれない。無駄に消耗するのを避けたいのは、こいつも同じなのだろう。
「どうなって…いると思う?」
「何がです?」
「その集落だよ…。もし本当に…こんな所に…居を構えているのなら…、それは…どんな感じになっている…?いくら互いに…近くに居た方が良いとは言え…、ここで皆仲良く…身を寄せ合っているってのは…、狂ってるぜ…何が奴らをそうさせるんだ…?」
「不可解なのはそうですが、単に『狂っている』で片づけるのはいただけませんね」
日下はくるりとこちらを振り返る。
雰囲気は、鬼と透明人間について語った時や、動機という概念を否定した折に見せた、あの玲瓏な様と似ていた。
出来の悪い生徒に言い聞かせるような声。
「千引きの岩をご存知ですか?」
「チビキノイワ…生憎と…浅学なもんで…」
「日本神話で彼岸と此岸を分ける境界の役割を果たすものです。国産みの伊邪那岐が、その妹にして妻である伊邪那美から、逃れる為に置いたとされています」
その話なら知っている。
よくある「振り向いてはいけない」という禁を破り、死んだ妻の手で冥界に囚われそうになる、人間臭い神様の話だ。
「千人で力を合わせてようやく動かせる岩ですので——」
「千引きの岩か…成程…」
さて先輩、と日下は問う。
「これってあまりにも、簡単過ぎやしませんか?」
「簡単…?何が…?」
「約定を破り、多くの神を産む程の存在から追いかけられ…それを阻みつつ生者と死者をも別つ。世界を二つに割り、何者も通さない防壁。これ程重要なポジションにあるのが、単なる重いだけの岩ですよ?」
確かに、神様がその気になれば、好き放題動かせそうなものである。
「我々にとっての“正しさ”とは、そういったものです」
「ど、どういう…?」
「絶対に相容れない善悪に分けられるような顔をして、その実、我々自身が勝手に境界を引いているだけ。それを変えるには膨大な労力が必要ですが、本人次第で何時でもその位置が動く。一見不滅の重要さを持っているけれど、実際は絶えず変化している。千人集まって、その全員に共通していれば、それが“世界”の真理だと錯覚する。けれどそれは、精々が“世間”の決まり事でしかありません。ただ数が多いというだけです。それも、自分の身の回り限定で」
誰も彼もが、勝手に千引きの岩を置いている。
置き方は人によって、また同じ人間でも時期によって異なる。
確固たるもののように振舞うが、極めてあやふやで大した根拠も無い。
視界の中に居る多数派と、ズレないように調整された、同調圧力との妥協点。
そしてそれが、俺達の言う“正しさ”。
「私達に誰かが狂っているように見えるのは、その人の行動する上での理屈が、我々とはズレたところにあるためです。私達は思考の前提をまず持っており、それを軸として考えを組み立て、時に実行に移すというプロセスを踏みます。が、その“前提”が大きく異なる者が世の中には居るのです。それは、こちらの理には一致しない。故に『間違っている』と思われます。しかし、彼らの中ではそれが正しいのです。今まで触れて来た世間の中では、少数派というだけです」
先を急ぎながら日下は語る。
こいつはいつも淡々と、しかしどこか怒ったように教示する。
忘れてはいけないものを忘れた、愚かな俺達に突きつけるように。
「そうして、そういった“ズレ”は誰にでもあります。思想を全く同一にする人間が、二人以上存在することはあり得ません。『正常かどうか』という話なんて、『そのギャップが大きいかどうか』と言い換えられてしまいます。それがただ大きかっただけで、『狂っている』とされるのです。だから、本来この世界に“狂った”人間というものは、存在しないのかもしれません。定義が曖昧なため、おいそれと使っていい言葉ではないのです」
1+1を3と言う者が居たとして、それを間違っていると言い切ることはできない。
例えば10進数だって絶対じゃないし、「1とは何か?」と改めて聞かれて、明確に答えが出る者も少ないだろう。
だからその結論も、有り得てしまう。
そいつに何が見えているのか、それは本人にしか分からない。
人は「前提」を共有することでそれを回避しようとし、それを受け入れられない“ベース”を持って生まれた者は、その中では「狂人」とされる。
社会・道徳・倫理・マナー・常識…それらによって団結し、付いて来れない者を切り捨て、「正常な」“世間”を保とうとしている。
「普通」とは、「異常」を除いた末に浮上する、相対的な基準なのだ。枠から外れた者こそが、枠を規定している物なのだ。
絶対的な正しさなど、無い。
千引きの岩の先、“黄泉の国”とは、“理解不能”を押しつける、ゴミ箱みたいなものなのか?
「“探偵”も…そっち側じゃ…ないのか…?理を押しつけて…一本に纏めて…しまうだろ?」
「そういう側面もあるというのが、この役割の厄介な点でも、興味深い点でもあります。探偵は、事件を終わらせるために後から介入しますが、第三者視点の押し付けによって、事態を歪めてしまう可能性もあります。いえむしろ、『歪める』ことこそが本文です」
であるからこそ、そこに気を付けながら、関係者全員の腑に落とせる地点を探すのだと言う。
その為には、自分には無い筋道と哲学に、支配された人間が居ると、忘れてしまってはいけないのだと。
「自分の“普通”を絶対視すると、往々にして完全な全体像は掴めなくなります。見えていないなら、当然見逃してしまうものです」
ならば。
たかが軒先を並べるだけの関係性だった彼らが、共犯となり、逃避行を共にし、文明から離れ、他の人間から隠れ、利便性を捨てて、法を蔑ろにして。
そこにどんな合理があるのか。
夜持はどうだったのだろう。
それまでの自身とはかけ離れ、絶望の中でも微笑を浮かべ。
そこには何があったのだろう。
彼の“前提”とは、軸となる理とは、なんだったのだろうか。
それを垣間見る会話があったと思う。
何の話だっただろうか。
“青”。
「青」とは、何を指していたか。
7合目も過ぎた。
冬だというのに、虫がうざったくなってきた。
一応痒み止めも持ってきて正解だった。植物にかぶれるということもあり得る。
某有名メーカーのもので、効きが良いので愛用している。
山とは不思議な場所だ。いつもの街と同じ地面、見上げれば同じ空、吸い込めば同じ空気。住宅も、駅だってすぐそこにある。
なのに、異質な空間として受け取ってしまう。
山中異界、と言うのだったか。
鬼が「この世ならざる者」なら、きっとこんな場所に住んでいるのだろう。
そう思わせるような、重苦しい昏さ。
お日様は、枝を抜けても雲隠れ。
まるでヴェールに覆われたみたいに、この辺りは彩度から違う。
切り取られているのだろうか。
なら川は?
おとぎ話にあるように、
本当にあの世へと繋がっているのか?
そこで世界が二分されているのか?
否、切り取っているのは、きっと俺達だ。
今分かった。
日下が言っていたことはこういう事か。
殺人に理由を求めるのも、理解できない理屈を「狂い」と表現するのも、姿無き脅威に形と名前を与えるのも、全て線引きだ。
怖いものに向き合うためか、それともそこから逃げるためか。
自分と「違うもの」を勝手に決めて、自分を「普通」の場所に置く。
「普通」から外れたら、関係ないものとして振る舞う。
それが、“鬼”なのか?
世間から、外れてしまったものが。
見えないから、いない者になったそれが。
そうやって、この世の全てを、「見えるもの」だとしておきたいのか。
だが、目を逸らすと、見えなくなるものもあるんじゃあないのか?
奥深くに踏み込んでいるため、そろそろ順路の外の調査を、検討していい頃合いだ。
だというのに、日下は迷い無く先を急ぐ。
「おーい…この辺りは…いいのか…?」
「見当を付けている場所があるので、そちらから先に。地形的にも最も可能性が高い場所です。おおよそ8合目付近なので、それ以外は下りながらでもいいでしょう。それまでは黙って——」
——何だ?
風景に代わり映えは無い、草木生い茂る山中。
だが今、明確に何かが異なった。
何が?
横を見ると、日下は鋭い目つきで周囲を睨んでいる。
やはり何かおかしい。
これは、そう——
「ざわめいている?」
「いいえ、むしろ逆です。静かすぎるんです。だからちょっとした、木々の揺れる音すら拾ってしまうんです」
「静かって…」
そうだ。さっきまでは鳥の鳴き声が聞こえていた。
動くもの達の気配があった。
よく見るとあれだけ鬱陶しかった、蜘蛛の巣の量が明らかに少ない。
自然と、俺達の足が止まる。
「真偽の程は定かではありませんが、観光客が山彦を面白がって叫ぶと、鳥達は恐れて逃げるか身を隠してしまうという話を聞いたことがあります。ここにいる者達もまた、人の気配に怯えているとしたら?」
「あれか?虫ッコロの巣は人が大勢行ったり来たりしたせいで、自然と大規模撤去されてしまったってことか?」
「今だけは貴方の勘の冴えを歓迎しますよ、先輩」
ということは、俺達は予想以上に、正解に近づいていたのか?
「おい、どうする?早速ドンピシャかもしれねえぞ?」
「最悪、その荷物は投棄してしまっても問題ありません。食料などはこちらのバックパックの中です」
今それを言うということは、その行動が必要になるくらいの、「最悪」の事態が起こる可能性が、決して低くないということ。
つまり、問題大有りである。
俺達は道の端を通ることにした。正直気休めだが、素早く身を隠すことができるかもしれない。
歩みはより緩慢に。乃ち極めて慎重に。
装備があるのだから、時間的余裕は幾らでもある。ならば用心深過ぎるということはないだろう。
それに、人の生活の痕跡を見つける為にも、ただ足早になるのは得策ではない。
現に、日下が何か見つけた。
唐突にしゃがみ込んだかと思えば、黒く深い瞳でもって、草叢の方を凝視している。
「なんだ?」
「ここの地面…ここだけ枯草が多くないですか?」
空気を震わせる、隙間風のような会話。
見ると、確かにそこだけ枯葉が、異様なくらいに積もっている。
風の悪戯だとしては、少々整えられ過ぎである。
「だが、人が通ったなら、逆にこういうものは散らされるんじゃあ?」
「それこそ逆ですよ。人が通る為に除けられた障害物は、やがて自然と決まった場所に寄せられます。人の活動で部屋の隅に埃が追いやられ、やがて層を形成するように」
「若しくは」と藪の先を睨み、
「足跡のような手掛かりを視認されないように、手近なもので埋めてしまう場合です。こうなると不自然な堆積によって、却って目立ってしまうのですが」
要するに、こういう明らかにおかしな塵の山があるなら、まず人の関与を疑えということだ。
「…この先か?」
「恐らく」
空気が一瞬にして張り詰める。
俺たちは既に、禁断の領域の、その入り口に足をかけている。
降りるならここ、今のうちだが、俺にはもうその気はない。
日下に至っては言わずもがな。
目配せの後、一言も交わさず、俺達は草藪へと突入する。
ただし、ゆっくりと。
何処かで誰かが見ているのだから。
俺は、見られているのだから。
焦らず。
急がず。
音を出さず——
遠鳴り!
乾いた破裂音。
足の下で、無数の命が蠢く感覚。皆怯えているのだ。
森がその雑多な狂騒を取り戻す。
耳を澄ませば、怒号が聞こえてくる気もしてくる。
ざわり。
ざわりと。
息を吹き返すように。
「あー、一応言っとくが、俺じゃないぞ?」
「の、ようですね。しかし今のは?まるで——」
——まるで、銃声。
その時、俺は危うく思慮を手放しそうになった。
——……冗談だろ?
「猟銃の類でしょうか?何に向かって?食料確保の為の狩り?」
「おい」
「彼らは逃亡中ですよ?見つかるリスクを冒してまで銃を使用する理由が分かりません」
「おい」
「戦闘でしょうか。では何と何のぶつかり合いなのか…ここに来てとうとう内部分裂が——」
「おい!」
「なんですか、今考えてますから待ってください!」
「違えよ、聞け!というより見ろ!」
俺の指す先に視線を滑らせ、
日下は、言葉を失った。
灯。
緋。
毘。
火だ。
陽光が遮られた、
仄暗い山中に。
ゆらりと。
ふわりと。
無数の妖火が
舞い散る。
舞い踊る。
遠く、
枝葉の簾の先。
ぽつぽつと点り。
行きつ戻りつ。
百鬼夜行でも見ていると言うのか。
俺達が見ているものは、
この悪夢の
“本筋”なのか?
出口の方へ
向かえているのか?