11
※※※※
黙れ
それを決めるのはお前達じゃない
ふざけろ
言葉にするだけでも惨たらしい
除け
構っている暇なんか無い
やめろ
決して奪わせるものか
返せ
諦めるわけがない
往くぞ
僕は必ず約束を守る
厭だ
失うなんてもう御免だ
厭だ
僕の希望を消さないでくれ
厭だ
厭だ
そこにあるのは僕の全てだ
厭だ
厭だ
厭だ
何故分かってくれない
どうして認めようとしない
いいじゃないか
誰にも迷惑は掛けない
ずっと空洞があって
他の人が当たり前に持っているものが無くて
だからせめてこれは
これだけは僕の手の中に——
それは初め 出会った
そ は水族 に行っ 時
れは が救 れ 会話
は僕 勇気 歩
そ は 学
い や …
………………………
………………
………
…
——千代子
※※※※
「…早速鬼のお出ましか?」
軽口でこの場の陰鬱を吹き飛ばす算段は、経過を見るまでもなく失敗だと分かる。
分かるが、しかし。
——こいつは、どういうことだ?
俺は放心しないために、脊髄反射で声を発した。
そう、いつも通りの想定外である。
ところが今回は、初めての珍事でもある。
日下真見すら、啞然としていたのだ。
事実、俺の知能指数低めの発言に対し、なんの口撃も襲って来ない。
俺たちが何を見ているのか、そこに何があるのかと言えば、実のところ何も無い。
そう、何も無いのだ。
三絵図商店街が無人の廃墟と化している。
………
——いや、それはないだろ
確かに、「人が居なくなってもおかしくない」と話してはいたが。
だとしても、これはない。
引き際が余りにも、鮮やかに過ぎる。
怯懦も震撼も通り越し、心は呆れて立ち尽くすばかり。
胸の奥の言葉を思わず、零してしまうことすらできない。
意識的にも無意識的にも、思考が完全に止まっていた。
「これは……なんというか……驚きですね…ええと、確かに事件関係者が全員共犯という筋書きはありがちですが…あー…」
あの日下が。
透明人間の登壇にも、国家国政の蠢動にも、即時襲撃密室事件にも、動揺しなかった底知れぬ解明者が。
その肩で百戦錬磨の気風を切り、威風堂々たるチェシャ猫のような、自称探偵他称変人、快刀乱麻日下真見様の歯切れが。
まるで、鈍。
異常事態。
それも他に類を見ない程に。
それでも流石と言うかなんと言うか。
「私は東側の店舗を確認しますので、先輩は西側をお願いします」
並んでフリーズしている内で、先に復旧したのはチェシャ猫の方だった。
「ほら、何マンボウみたいな顔晒してるんですか。そんな顔しても、貴方が水族館で人気者になることなんてありませんよ?嗤って欲しいなら後でいくらでも付き合いますから!ほら速く疾く!」
なーに「自分は冷静ですけど」みたいな顔してやがるんだ。
自分の阿保面間抜け面を、漏れなく遍く棚に上げて、よくもまあ人を哂えたものだ。
しかもなんか焦り過ぎて口調がわけ分かんなくなってんぞ。
だがここで争うよりも、俺は大人しく従って調査をする方を優先した。
この気持ちの悪い状況を解かなければならない。
その思いに突き動かされ、解を求めて店を廻る。
世界で最も切羽詰まった、無人・焦燥のウィンドウショッピング。
その結果分かったことは。
本当に人っ子一人いないという事。
生活がきちんと持ち去られ、目ぼしい物すら残ってない事。
今暫く、俺達はこの不快な不可解に、囚われ続けてしまうということ。
「実際どうだ?商店街全てが共謀したというシナリオはどこまで罷り通る?」
「辻褄は合います。例の『消失事件』も、目撃者が現れない不自然に対して、最もシンプル且つ美しく通せる答えはそれでした。ですから、考察自体は行っています。だからこそ、解せませんね。それほどまでに大勢が関わっていたのならば、何処かから漏れ出てもおかしくありません。裏切り者の一人や二人発生して当然です。いえ、あるいは三惠内一家の“トラブル”がそれに当たると考えることもできます」
日下は捲し立てる。
首を傾げて沈思黙考。
これは彼女なりの、平静へ踏み止まる為の儀式だろう。
考える端から表出させる。
像が結ばれた刹那に形を映す。
それによって迷える日下は、怜悧なままであろうとする。
襲撃の日に、俺がタスクを消化し続けたように。
あの日、送信済みを何度も確認したように。
「それ以外が有り得ないなら自ずとそれが真実ですが、しかし現時点では全ての道を潰せたとは言い難い。そして補強材料どころか、反論の糸口がいくらでも湧き出てきてしまいます。何よりも理由が無い。夜持さんは商店街とほぼ無関係。揉さんはこの場所の中心人物であり、力を合わせて排除してもむしろ打撃になる筈。何の得も無く、事故や怨恨にしては範囲が広過ぎる。誰かの衝動的な殺人を街ぐるみで庇っているというのが一番ありそうですが、それならトップ亡き後の集団で未だ守られ続けるほど慕われている、もしくは恐れられているその人物は何者なのでしょうか?それとも此処は、暗殺集団のアジトだったとでも言うのでしょうか。笑えますね」
クスリともせず、どころか眉一つ動かさない。
機関銃の如き独白は止まる気配を見せない。
隣り合うパズルのピースを見つけたことで、別の場所での破綻の連続。
脳を擽られるかのような焦慮を、振り払う為に口を回す。
「全て連れ去られ、持ち去られた?いいえ、騒ぎになっていないということは、この異変はどんなに早くても数日中、ともすると起こってから一日も経っていないケースも想定できます。そしてやるなら全部纏めて。でないと外に助けを請われる危険性が付き纏います。その前提で行くと、無理矢理連行されたにしては余りにも迅速、異常に静かな上に動きが目立たな過ぎです。逆に示し合わせて少しずつ準備を整え、一斉に夜逃げしたという仮定が一番あり得ますが、そうなると練度と結束に対する疑問がより色濃くなってしまいます。まるで軍隊です。何が彼らをそうさせるのでしょう。この事件、どこまでが計画され、どこからが偶然なんでしょうか?」
「偶然?ここに偶然なんてあるのか?あまりにも繋がり過ぎているだろ」
「これは推理小説ではないんですよ先輩。フェアさなんてどこにも保証されていません。どれだけそれらしく見えても、『偶発的事象』というのは常に可能性として存在します。今回の場合いつも以上に、それがどこまで場を転がしているか分からないんです。誰が図面を引き、そのどこにアクシデントが?もしや、徹頭徹尾、全てが意図を外れ、偶々起こってしまったとでも?」
「おいおい…」
その先は無限の回廊だ。
思考が深みから抜け出せない。
全てが疑えてしまうのだから。
暮れなずむ朱の陽光が、天板を通して道を照らす。
あちこちに放置されたリースや樅の木、彩り豊かな装飾。
灯りの点らないそれらは、鈍い光を跳ね返し、寂寥感をむしろ濃くする。
奇跡を伝える讃美歌が、どこからともなく聞こえてきそうな、反響する沈黙が場を満たす。
まるで、神殿。
——囲まれている…!
何故かそう思う。
神性を帯びた迫力が、音も無く俺達を押し潰す様を、目前にありありと描いてしまう。
誰かの目が、こちらを向いている。
見えない誰かが、
柱の陰に、
雑居ビルの2階に、
路地裏に、
排水溝に、
八百屋の台の下に、
扉と壁の隙間に、
電飾の向こう側に、
暗所に死角に狭間に空に足元にすぐ隣に背後に中に街灯に紙に壁に——
——ああ、これは…駄目だ。
「おい、おい日下」
「…なんです?今不快指数を上昇させる物をなるべく視界に入れたくないのですが。存在感を散らかった部屋のテレビのリモコンと同等クラスに落としておいてくれませんか?」
「なんかまだ大丈夫そうにも見えるが…ストップだ。一時中断。泥沼だぞ。完全に向こうのペースだ。『向こう』が何なのかは分からんが」
日下は漸くこちらを向いた。愛子みたいなのめり込み方をするな。見てるこっちが怖くなる。
彼女は拗ねたようにも見えるが、憎々しげな態度を取れるなら、立て直したと思っていい。
因みにだが、「こいつの御蔭で冷静になれたのは腑に落ちない」という心の声は聞こえてるからな。俺も経験者だし。
「アプローチを変えて、動機の方向から絞り込んでみるとかはできないのか?起こったことから外堀を埋めようにも、出てくる事実が珍妙過ぎて無理だろコレ」
方針の転換。
このまま“透明人間”を追いかけていると、そうと知らずに誘い込まれて、頭からバリバリ食われそうだ。
しかし探偵は難色を示した。
「本来、探偵が一番やってはいけないことは、動機から先に考えることですよ。補強材料とするなら有効ですが、推理の根幹にしてはいけません」
「何でだ?そこから解決できることだってあり得るだろ。事実、お前だって夜持の交友関係を探ってたじゃないか」
「先輩、何度も言うようですが、人の心を外から慮るなんて無理難題ですよ?屈辱で快楽を得る人間も、献身に憎悪を燃やす人間も、どちらも必ず存在します。同一人物でも、状況や環境が変わればまるで異なる動きをします。人の心理なんていういくらでも移ろい行く物を前提条件に組み込むのは、不確定を遥かに超えて、『危険』ですよ。あの時聞いたのは被害者近辺の変化についてです。その一例として身近なものを挙げたに過ぎません」
それに、と日下は宙を見上げて語る。
「それに、人が人を殺すのに、特別な理由なんて無いですよ。少なくともこの国では」
——それは、
「どういう意味だ?人を殺すなんてこと、理由も無くやるような奴が逆にいないだろ」
「いいえ、冷静になれば殺人なんて、割に合わない手段ですよ。法治国家の中でなら、発覚すれば人生の終わり。たとえ逃げ果せたとしても、生きて意識のある間なら、その未来に怯え続けて、それで何を得られます?地位や財産、一時の快楽?他にやり方があるでしょう。ハイリスクにローリターンです」
「だが、それこそ分からないだろう?殺人以外に悦楽を感じられない人間だっているかもしれない。失うものが何もないヤツだっているだろう?」
「確かに、何事にも例外は存在します。ですが、それは結局『やりたいからやった』に過ぎない。目的としての殺人はあっても、手段としての殺人は、下の下以下の最下策ですよ」
「じゃあ、『動機』と呼ばれるものは一体なんなんだ?お前の理論だと意味が無いのか?」
「本人や関係者、その事件を知った者が納得する為の後付けですよ。本人は自分の行動を、已むを得ない当然のことだったと正当化したい。周囲はそれが特殊な事態であり、自分達とは違う世界の出来事であると安心したい。その利害が一致したところに、『殺人が起きた理由』なんて幻想が生まれるんです。ですが、全ての殺人の『動機』なんて一言に集約できます。乃ち——」
——可能だったから。
「そこに人がいて、自分に殺せる手段があって、目撃者が居らず、邪魔も入らず、そんな時、その思いつきを実行するかどうか、その二択を間違えた者が、人を殺すんです」
そんなの、理由と言えるのか?
それで、人は人を殺せるのか?
そんな理屈が通るなら——
「それじゃあ、お前が、人殺しに特別な理由が無いと言うならば、人殺しが起こるのは普通であると、そう言えることになるぞ?」
「当然でしょう?誰にでも起こり得る事ですよ。例えば、貴方は平気な顔をして拳銃を人に向けていられますか?阻む物の無い高所で、手を伸ばせば届く場所に人がいる、その状態に耐えられますか?それを怖いと感じるのは、一瞬でもその瞬間を想像してしまうからですよ。自分が手に掛けるその『もしも』を」
人は行動の前にまず思い、その為に手足を脳が動かす。頭にイメージが浮かんでしまえば、後は実現の命令が、電気信号と化して伝わるのみ。たったそれだけで、出来てしまう。気の迷いが今に介入する。ほんの少し、現実への一歩。
その結果の大きさに拘わらず。
「だからこそ、事件からの逃げ方や、事件後の動きの理由を探すことはあっても、殺人そのものの心因を考察するなどということはあり得ません。そんなの、いくらでも捻じ曲がりますよ。やってしまった当人の中ですら、変形していきます。犯人自身も分かっておらず、自分が動く理由になりそうなことを、後から必死にひねり出すんです」
それが本当なら、理由も無く人が死ぬ。そこにあるのは単なる衝動。それも指先一つ分の。備えようも調べようも、出来ることなど有る筈が無い。
「じゃあ、人の行動から読むのは無理なら…もうどうにも——」
「いいえ、人殺しにこそ付け入る隙がある」
日下の双光が力を帯びる。真っ直ぐ前を向き、首は斜めに。
「てめえが今動機なんて分からんって話したんじゃねえか」
「動機はいずれも同じだってことですよ。それに、『事件後の動きの理由を探すこと』は有ると言いましたよ?その頭の側面に付いている穴、機能してないようですが、もしや単なる虫食いでしたか?」
暴言が出る平常運転ぶりに安心すればいいのか、二転三転する主張に憤ればいいのか。
「大勢の人間が巻き込まれている以上、誰か一人の享楽のためということはまず考えなくていいでしょう。ならば今回も御多分に漏れず、その機会がやってきてしまっただけのこと。出たとこ勝負の事故のようなものです。殺人の傾向が他と同じなら、事が起こった後の動きもまた読みやすい」
殺人の直後、最初に行われるのは——
「隠蔽です。損得勘定すらできない状態から脱した後、人は自分が合理的であると思い込み安心しようとする。これは利害の計算の上で行われたものだと盲信しようとする。だから、出来るだけ理に適った事をしようと悪足搔きを始めます。代表的なものが、死体を運ぶ・隠す、指紋を拭き取る、手や身体を洗うという偽装工作です。そちらはむしろ分かりやすい。世間一般で言うところの“正常”に無理矢理合わせようという、涙ぐましい努力が見えますからね」
「お前の言っていた『理由』ってのは、殺人の理由じゃなくて、殺人が隠される理由のことか」
つまり、これまでの摩訶不思議な現象を、全て隠匿のための努力の結果、もしくは経過であると言うのか。
だがそれはおかしい、嚙み合わない。
秘匿を暴かれたくないのなら——
「目ン玉を放置するのはむしろ逆効果だろ」
「そう、ですから最初からそこがおかしいんです。今回の犯人が取った奇行の内、最たるものが死体遺棄です。どういった理屈で動いたものやら」
「理屈」…例えばそれが隠蔽工作になるとしたら。
「“鬼”の噂によって、真犯人をこの世のものではない何かにしたかった…とかか?その為の小道具って感じで」
「先輩じゃあないんですから、そんなことで警吏の追走を潜り抜けられると計画する程、脳天気な相手だとは思わないです。ましてや証拠も無いファンタジーなんて、存在を立証することすらできないんですよ?罪を被る人柱として、最低最悪の人選です。何か古くからの伝承等があるわけでもないんですよ?ぽっと出の怪現象、“透明人間”なんて。だいたい、その為に意図的に造り出した噂であるなら、もっとそれらしいことをすればいいじゃないですか。『目を狙う鬼』なんて説得力皆無です。正体と行為に結びつきがありませんから。見えないのに更に見えなくしてくる化物なんて、二度手間も良いところです。信じさせようとして、どういった企図が浮かんだ結果、そんなものをでっち上げたのか。理解に苦しみます」
連撃の果てに、ふとした思いつきを、襤褸雑巾のように打ち捨てられた。
しかしいつだったかの俺の疑問も、強ち的外れでは無かったらしい。
問:何故“鬼”だったのか?
答:隠滅或いはミスリードに必要だったから。
透明人間が恐怖の原点に近い事は分かった。そこから鬼が生まれたことも。だが、選ばれた理由が他にもあったとしたら?
さて、「見えない人型」が出張ってきたことで何を隠せた?どこを間違えさせられた?もっと目を抉り出しそうなヤツも居ただろうに、百鬼夜行の中から呼ばれたのがそれであったことに意味があるのでは?
見ると日下は明らかに不本意そうだ。俺との会話で思考回路に、正常な動作が回復したことが、余程頭に来ているらしい。
それも不甲斐ない自身に対して。
挽回するべく、毎度のように、黒髪靡く頭が横へ、瞼の奥は夜半の闇へ。
「もともとなんの背景も無い場所に湧いて出た怪談…いいえ、もし既に舞台が整えられていたとしたら?ならばそれは何のために?…違う、ここで重要なのは、追うべき“なぜ”は…タイミング?うむむ、全体像を完成させるにはパーツが——」
不気味な電子音。
日下のコートのポケットから振動。
——吃驚した。
着信音に“ロンドン橋落ちた”のアレンジバージョン設定してるやつ初めて見たぞ。
誰も居なければ跳ね上がっていた。
「はい、こちら日下調査事務所」
しかもそれ仕事用の携帯かよ。
「ああ、轍さん。どうされました?…はい?再燃?透明人間が?何を言っているんです?少し落ち着いて下さい」
どうやら相手は、犬のお巡りさんらしい。
なんだかややこしい話のようだが、これ以上掻き回すのはやめてくれ。
「行方不明?何方が?公安?すいません、順を追ってお願いします」
どうやら願いは届かなかった。新たな厄介事の介入。
問い質す探偵の口調にも、尋常ならざる剣呑さが乗る。
当然俺も耳を欹てて、展開の把握に努めようとする。
焦ったような“犬”の声が聞こえた。
昨日のような悠長さは無く、切羽詰まった男の声音。
「だから!先輩と音信不通になってるの!真見ちゃんにとって重要な情報を持ってるかもと思って連絡入れたら、全く繋がらなくて。でも今そんなことしたら、大変なことになるって分からない筈ないのに!」
「ですから!その方の姓名をお願いしますと——」
「暗宮さんだよ!暗宮進次先輩!今とある事件の容疑者でもあるから、そう簡単に見失われるわけないんだ!」
動き出している。
何かが暗躍している。
誰かが俺を見ようとしてくる。
視線が痛いほどに、俺を付け狙ってくる。
事態は未だ完了してない。
ずっと止まっていた車輪が、
グルグル
ぐるぐる
廻り始めた。
回転に巻き込まれた者の名は。
暗宮進次。
聞いた名だ。
繋がったのか?
偶然なのか?
見えない。
見られているから、
何も見えない。
もし何かに食われたならば、
臓腑の底から、
外を見ることは出来ない。
だとしたら俺たちはもう——
吞み込まれて腹の中なんじゃないのか?




