プロローグ
不定期更新ですので、暖かい目で気長に待っていて下さい。
不気味なまでに静まり返った夜の城に1人の女が歩いていた。
女の名前はテル。顔の半分以上を布で覆い、その素顔はほとんど見えない。更に全身を黒い衣装で包み、肌が露出している部分も、ほとんど無い。
足音も聞こえず、闇の仕事に携わる者であることは間違いないだろう。
テルは音も立てずに、ある扉を潜った。
そこには1人の男が待っていた。
立派は椅子に腰を据え、部屋の灯りは落としており、傍らにランプを携えていた。
男はテルが来た事に気付いて、顔を上げた。
「首尾は?」
「私がしくじるとでも?」
「……そうか」
男は懐から袋を取り出し、テルに投げて寄越した。
「まいど」
テルは素早く、それを拾い、踵を返した。勿論、物音は立てない。
「待て」
男がテルを引き止める。
「なんだい?」
テルは振り返らず足を止める。
「本当に、もう辞めるつもりなのだな?」
「くどいね」
テルは今夜の仕事を最後に、闇稼業から足を洗うつもりだった。
「あんたを、その玉座に付けてやってから、もう40年経つ。私の身体は、もうあっちこっち悲鳴を上げてやがるのさ」
「……」
「あんたの治世は、もう安泰だろうさ。稀代の名君と謳われ、更には優秀な跡継ぎも居る。周辺諸国との関係も良好。本当なら、私みたいな存在はとっくの昔に必要無くなってたのさ」
「……」
男が何も言わなかったので、テルは、そのまま振り返らずに去って行った。
「すまない、テル……」
城を出てすぐにテルは自分が尾行されている事に気付いた。
「はぁ、やれやれ」
そうなる気はしていたのだ。
あの男の裏側を全て知る自分を、生かしておく理由はないだろう。
それでも、テルには、もう闇の仕事を続ける事が出来なかったのだ。
「テルだな?」
顔を隠した4人の屈強な男達が周りを囲んでいた。その中でも、明らかな1人出来が違うのが、居た。こいつが今話しかけてきたのだろう。恐らく、リーダーであろう。
「違うと言ったら、見逃してくれるのかい?」
「わかっているんだろう」
「まぁね」
いくらテルが優秀な密偵でも、正面から男4人に叶う訳がなかった。いや、そもそも、このリーダーだけでも勝てないだろう。
「あんた見た事あるね。将軍様じゃなかったかい?」
ましてや、それが自分の国の軍部のトップの人間であるのだから。
「……やれ」
将軍以外の3人が同時に斬りかかってきた。全員国の兵士か何かだろう。同じような剣を持っていた。
流石に、ただの袈裟斬りでは、テルには当たらない。
ひらりとかわし、背後の男の更に背後に向けて跳んだ。
そのまま、背後から首筋を穿ち、背後に居た男を一撃で昏倒させる。
左右に居た男2人が、そのまま斬りかかってくるが、大きく後方に跳びながら、男達に向かって、何かを投げた。
右側に居た男は自分の首筋を抑え、首を捻った後、白目を向いて倒れた。
左側の男は飛んできた何かを剣で切り落とした。
(隙だらけだよ)
その隙を見逃すテルではなかった。すかさず、近付き、針を刺そうとして、
「!」
慌てて飛び退いた。
ガンッ!と大きな音を立てて、地面に剣が刺さっていた。
将軍が近付いて来ていたのだ。
「くっ……」
そして、その剣は血に染まっていた。
「幕だ。ネズミよ」
テルは斬られた左脇腹を抑え、蹲ってしまった。
(鈍っちまってるね。やっぱり歳には勝てないね)
「死ぬ前に、部下に盛った毒の解毒剤を出せ。持っているのだろう? ネズミとは言え、女性の身体を物色するのは気が咎めるのでな」
そのまま殺されると思いきや、何やら、将軍が甘い事を言い始めた。
「……死ぬような毒じゃない。ただの麻痺毒さ。1時間程で目を覚ますさ。特に後遺症も無い」
「わかった」
それだけ言うと、将軍は剣を構えた。
「最後に言い残す事はあるか?」
「将軍様はとんだ甘ちゃんだね」
「何?」
テルは最後の気力を振り絞って立ち上がる。
「何も喋らせずに殺せって言われなかったかい?」
「むっ……」
図星だったようだ。なにせ、自分は、あの男の弱味を幾つも握っているのだ。
「あの坊やは12歳までおねしょが治らなかったんだよ」
「何を……?」
「あと、9歳の時、年上のお姉さんに一目惚れして、即座に求婚。本気にされずにあしらわれたのさ」
「だから、さっきから、何を……?」
最後に、あの男の恥ずかしい話を暴露するくらいは、許してもらえるだろう。
テルの行動を読めない将軍は狼狽えている。チャンスだった。
「顔を見られるわけにはいかないんでね、あばよ!」
懐から何かを取り出し、将軍に向かって投げる。
「無駄な事を!」
将軍はそれを斬り捨てるが、それこそがテルの狙いだった。
斬り捨てられたのは煙幕弾だったのだ。
一瞬で煙幕が辺りを覆い隠した。
「何っ?!」
煙幕が晴れた時にはテルの姿は消えていた。
「やられた……」
「閣下」
唯一無事だった部下の男が話しかける。
「どうだ?」
「2人とも命に別状は無いかと」
「そうか」
あのネズミは、初めから、こちらを殺すつもりはなかったようだと、将軍は気付いていた。
王からは敵国のスパイだと聞いていたが、自分の事に気付いたし、王からの命令を言い当てられていた。
(まさか、あのネズミは、我が国の側の密偵だったのか?)
聞き出そうにも、見事に逃げられたし、あの傷では助からないだろうし、二度と会う事は出来ないだろう。
将軍――オウギュスト・ハインネルは、少しの心残りを感じながら、王宮に帰って行った。