少年と毒華
ふわっとした雰囲気でお読みください
※今回はイオニス視点の話になります
初めて彼女と相対した瞬間、思い出したのはあの真っ赤な花の甘く刺激的な香りだった。
僕の名前はイオニス・ラインヘルト。ラインヘルト伯爵家の長男……ではあるけれど、家を継ぐ役割は弟のニルウァに譲ってしまった。 自分で言うのも変だけど、僕は代々続くこの家の当主になれるような器じゃないと感じたから。
弟のニルウァは僕が何年も先にやるような勉強を既に済ませているほど賢くて自分に絶対の自信を持っていて、家業に関わる商談にも既に関わっている。 ちょっとワガママなのが玉に瑕だけど……それも成長するにつれて大人しくなると思う。
……でも一番の理由は、僕が怖かったからだ。
優秀な弟の隣で何も取り柄がない僕が跡継ぎとしていることが、周囲からの僕と弟を比べて落胆する視線がただ怖くて、このまま大人になって望まれない当主になることが怖くて……弟に押し付けてしまっただけ。
そのことが分かっているのか弟は僕のことをひどく嫌っている。 家の中で顔を合わせても無視されるか睨まれるか嫌味を言われるか……それも仕方のないことだから甘んじて受け入れる。
母さんが僕達の関係を案じてくれているのは気付いているけれど、こればかりはどうしようもない。 ……もう少し大人になったら父様に相談して家から離れることも考えている。 家に残り続けるよりは辺境でもいいから離れた土地で、人目につかずゆっくりと薬草や花を研究したり育てて生きていけたらいいと思う。
僕は、逃げて逃げて、責任も重責もない人生をただ望む臆病でワガママな人間だ。
そんな僕だから定期的に行われるパーティーに参加する気はちっともなかったんだけど、母さんに強く言われてしまったので一度だけ出てみることにした。 ただし父様とニルウァも一緒なので、メインはそっちの婚約者探しで僕はそのオマケ。
でもやっぱり僕は華やかな空気には馴染めずに、父さんやニルウァから離れて会場の片隅でぼんやりとキラキラ光る世界を眺めていた。
今日はグランツ第一王子殿下がこの場にいらっしゃるらしく、そのせいなのかいつもこうなのかは知らないけど女の子の比率が高い。 女の子が着ているドレスが何の花に似ているかとかを考えていたけど、やがてそれも飽きて早く帰りたいとうつ向いていた。
やがてグランツ殿下が遅れて登場するとそれまで談笑をしていた皆がこぞって殿下へのご挨拶に向かう。 僕も行かなきゃいけないかな……と思ったけど、集まった人達の中にもう父様とニルウァがいるのが見えて寄りかかっていた壁から離した背中を再び元の位置に戻した。
そっか、僕はいらないんだ。
僕はもうラインヘルト家の跡継ぎじゃないから、殿下へのご挨拶に僕はいなくてもいいんだ。
そう思うと少しの寂しさと、それ以上の安心感が胸を満たす。
あぁ、はやく帰りたいな。 こうして立ち尽くしたままあとどれだけ過ごせば帰れるんだろう。 帰って温室の植物をノーム達とお世話しているほうがずっと楽しい。
……? こっちに来る子がいるけど……誰か気になる相手でもいたのかな。 女の子はほとんど第一王子狙いだと思ったけど。
でも……なんて言うか、凄く綺麗な人だな。 僕より年下……だとは思うけど、そう思わせないほど大人びた眼差しや堂々とした立ち姿に思わず目を奪われそうになるのを急いで逸らす。 初対面の女性をジロジロ眺めるなんて失礼だし……そ、その、あんまりにも綺麗な人だから見ているとドキドキして落ち着かない……。
「──こんばんは、少しお話よろしくて?」
『……、……? ……えっ?』
近くから聞こえた女の子の声にいったい誰に声をかけたんだろうかと視線だけ左右に向けるけど、近くに見える範囲に誰の姿も見当たらない。 なのに声がしたのはすぐ近くからで、思わずうつ向いていた顔を上げればすぐ目の前にあの綺麗な女の子が立っていた。
「あら失礼、声が小さかったかしら? もし宜しければ貴方とお話がしたいのだけど、少しだけお時間を頂戴してよろしいかしら?」
『……え、えぇっ?! あ、えっ、自分ですか!?』
「うふふ、嫌ですわ。 他に誰がいらっしゃるというの?」
口元に手を寄せて目を細めながら笑う彼女があんまりにも美しくて僕の心臓が大きく跳ねる。 でもそれと同時に……なんだろう、背筋にゾクゾクと寒気のようなものを感じてしまう。
彼女があんまりにも綺麗で、綺麗すぎて怖い。 脳裏に過るのは美しい姿と甘い香りで人を惹き付け、甘い蜜で堕落へ落とすスコピアの花。 僕はなぜか彼女がその花の化身のように思えてしまう。
「私、ミドカント侯爵家長女リコリス・ミドカントと申します」
『ぇ、ぁ、の……ら、ラインヘルト伯爵家長男、イオニス・ラインヘルトです……』
リコリス・ミドカントって……か、彼女があの“紅月の君”!? でも確かに彼女の赤に近い濃い緋色の瞳は、夏場に見る真っ赤な月のようだと本人を見て思った。
ででで、でも、ただでさえ侯爵家なんて格上の相手なのに、社交界にろくに出ない僕でも知ってるような有名人がなんで僕なんかに声かけるの……!? 緊張のあまり彼女のほうを見ることがとてもじゃないけど出来ない……!!
きっとご令嬢の単なる気まぐれだろうし、すぐ僕に興味なくしてどこか行ってくれると思うけど……。
……そう思ったんだけど!!
「嫌だわ、怖いことなんてしませんわ。 そうお逃げにならないで、ねぇ?」
「まぁ、私の手よりずっと立派な手」
「では、戯れじゃなければいいのかしら?」
彼女は、その、い、今まで見たことも聞いたこともないくらい積極的な人だった……!! からかわれてる!? これからかわれてるの、僕!?
母さん以外の女性に触るなんて初めてで、彼女に捕まれたままその頬へ推し当てられた手から感じる柔らかくて温かい感触に指の先まで硬直しているのが分かる。 彼女の緋色の瞳は逸らさずに僕の目を見つめていて、その事に緊張で僕の視線は忙しなくあちこちへ移る。 だ、誰か助けて!!
すると首の後ろに違和感を感じて触ってみると、紐が切れたのか結んでいた髪がほどけて広がっていた。 おかしいな、自然に切れるほど使い古した髪紐ってわけじゃないんだけど……?
「まぁ、結っていた紐が切れてしまいましたのね。 ちょっとそちらにお座りになって下さいますか? 私、丁度よく髪を結うのにいいものを持っておりますので」
『い、いえ、大丈夫で……』
「お座りになって??」
『……は、はい……』
彼女の有無を言わさない圧力を感じる笑顔に思わず頷いてしまった……。 まるで無茶な仕事をした父様を叱りつける母さんみたいだ……。
言われた通りに椅子に座ると彼女は後ろに立って僕の髪へ指を通すけど、他人に髪を触られるなんて初めてだからか慣れない感覚に背中がぞわぞわする……。 うぅ……彼女の指が首を掠める度にくすぐったくて変な感じになる……。
「綺麗な髪をされてますのね。それに……
うっとりしてしまうほど、素敵な香り」
『ぅぇっ……!?』
耳に温かな息を吹きかけるように囁かれて思わず変な声をあげてしまった……は、恥ずかしい……!!
で、でも香り、か。 僕が作った試作品の髪用石鹸を使っているんだけど、女性はやっぱりこういう美容に関するものは気になるなのかな? 一応、今後改良して作る際の参考にしておこう……。
僕の髪を結い直してくれた後は先程までの急接近が嘘のように彼女はあっさりと離れていってしまった。 やっぱりからかわれただけなんだろうな……と再び壁際で立っているけれど、あんなことをされてはどうしたってあの子のことが気になって視線を向けてしまう。
すると彼女はその視線に気付いたかのように僕へ振り返ると微笑んで手を振ってくれた。 その微笑みがあんまりにも綺麗で、せっかく落ち着き始めた胸の鼓動がまた大きくなる。 僕の目、母さんに似てすごく細いから視線どころか起きてるのか寝てるのかすら分からないって言われるんだけどな……。
彼女がトラブルで会場を立ち去ると、少し前には僕なんて誰にも気付かれなかったのに今は何人もの人から遠巻きにチラチラと見られているのが分かる。 ……彼女、綺麗な子だし侯爵家のお嬢様だから僕みたいな地味なやつが話してたことが不思議なんだろうな……はぁ、早く家に帰りたい……。
すると父様とニルウァがどこか早足に僕の方へと歩いてくる。 やっと帰るのかな? それにしては何だか父様の顔は焦っている様子だし、ニルウァのほうは……苛立ってる?
『ど、どういうことだイオニス、お前がなぜあの令嬢の……! ……いや話は帰ってからだ、行くぞ』
『……まさか、あり得ない……なんで紅月の君が、こんなヤツに……!!』
『え、あの、父様なにが……?』
僕は訳が分からないまま父様に手を引かれてパーティー会場を後にした。 帰りの馬車の中でもかなり重苦しい空気が漂い、父様は腕を組んだまま難しい顔で何か考え込んでいるしニルウァはイライラを隠さずに爪を噛みながら時折僕のことを睨んでくる。 本当に何なんだろう……。
家に到着しても父様は難しい顔のまま僕の手を引いて屋敷に入り、出迎えてくれた母さんが少し驚いた顔をしていた。 ニルウァは不機嫌そうなまま足早に自分の部屋へと帰っていってしまう。
『お帰りなさいませ、あなた。 イオニス、ニルウァ。 それにしてもどうかなさったの? 怖いお顔になっているわ』
「……これを見ろ」
そう言って父様は僕の髪を結わえていたものを取り外して母さんに渡す。 それは……えっ、リボン!?
『まぁまぁ!? まさかイオニスが誘いのリボンを!? いったいどちらのお嬢様から……っ!?』
母さんは驚きつつもどこか嬉しそうな声で白いリボンに施された名前の刺繍を確認したけど、途端に言葉を詰まらせて父様の顔を見た。 父様も険しい顔でゆっくりと頷く。
『リコリス・ミドカント侯爵令嬢……かの才女【紅月の君】からの誘いだ』
『え、えっ? リコリス様ってあの……? な、なぜそんな方が接点のない我が家に……』
『詳しくは分からんが……何故だかあのお嬢さんはイオニスをやたらと気に入っていたようだ。 人目も気にせずイオニスにすり寄っていたし、このリボンも他の者に見せ付けるように結わえていた』
『あらまぁ……それはまた、随分と積極的な方なのね。 だからこそ逆に消極的で奥手のイオニスが気に入ったんでしょうか?』
『分からん。 だが侯爵家からの誘いだ、断ることは許されない』
父様と母さんの視線が揃って僕へと向けられ、思わず体が強張る。 大人顔負けの発想力と知恵で既に王家にも献上されるようないくつもの技術や品物を生み出す【紅月の君】……確かに僕より年下の筈なのに大人の女の人を前にしているような緊張感があった。 ほんとになんで僕にリボンをくれたんだろう……?
もう遅いから彼女を我が家に招くことに関して詳しい話は明日にしようと部屋に帰されお風呂に入ってから寝間着に着替えベッドに潜りこむけど、今日の出来事が繰り返し頭の中をよぎって上手く寝付くことが出来ない。
母さん以外の女性からあんなに触れられるなんて初めてだった。 母さん同士が仲が良くてたまに遊びに来るマルドン伯爵家のお嬢さんはいるけど……彼女は僕のこと嫌ってるし、まともに話をしてあんな風に触られた経験なんてない。
……綺麗な人だったな。 きっと大人になったらあの花みたいに華やかで真っ赤なドレスが似合うような人になるんだろうな。
そんなことを考えたら、なぜだかふと無性にあの花を一目見たくなった。 しばらく悩んだけどベッドからおりて光晶石のランプを手に部屋を出て暗い廊下を進み、キッチンの裏口からこっそりと屋敷を出て庭にある温室へ向かう。 月明かりで照らされた庭ではノーム達が楽しそうに踊っていた。
『のっ? のむ! のむむ!』
『こんばんは、ノーム。 邪魔をしてごめんね、ちょっとだけ花を確認したら戻るよ。 また今度遊ぼうね』
『のむぅ……』
僕に気付いたノーム達はみんな笑顔で僕に駆け寄ってきてくれるけど、夜中だし一緒に遊べないことを伝えるとガックリ項垂れてあからさまにしょげてみせる。 ノームはすごく素直な精霊だから感情がすぐ顔や動きに出るんだよね、可愛いなぁ。
でも気持ちの切り替えも早いほうなのですぐに立ち直ると『のむ~♪』と呑気な声を出しながら手を振ると元の位置に戻って踊りを再開する。 あれ何してるんだろうなー、遊んでるのか儀式的なものなのか……まぁいいか。
庭の片隅にある温室に入ると目的の鉢が置かれている棚へ歩みよりランプの光で照らす。 棚の真ん中にちょうどあの花……スコピアの花が置かれていて、真っ赤な花弁を閉ざす蕾はあと数日で開花するだろう。
そっとその花に顔を寄せれば、まだ蕾であるにも関わらず人を惹き付ける甘い香りを周囲に広げていることを感じる。 花開けば更に強く、そしてもっと魅力的に香り人を寄せ付け、狂わせる蜜で心を掴んで決して逃がしはしない。
「……リコリス様、か」
目を惹き付ける綺麗な姿、甘く刺激を含んだ言葉、あぁやっぱりそっくりじゃないか。 なら彼女が与える蜜はきっと、さぞかし甘い甘い猛毒なんだろう。
それなのに僕の頭の中から彼女が消えないのは、もう僕が知らず知らずの内に彼女の与える蜜を飲んでしまったからなのだろうか。