カレーの日
カレーの仕込みに入いる。今夜はきっと、楓は階下まで降りてくるはずだ。
このマンションの上と下に分かれて住み始めたから7年が経つ。ママとふたりで住み続けていた最上階の方を楓のアトリエに改築し、空いてた下の階を買い取って家具ごとそっくり移ったのだ。楓の方でも東京に住んでいないとなにかと不便なようになっていたし、藤田さんの敏腕によって裏の「目利き」の依頼は大げさに羽振りよくなっていき、藤田さんの管理している財団は、引き出すより預ける方が多くなってきていた。
もちろん今までどおり報酬のことなど存ぜぬ顔をとおしているが、楓を手元に呼ぶこともマンションの改築も相談やお願いごとでなく結果報告で伝えると、藤田さんは珍しく身体を硬くした。
宗介は少し身構える藤田さんの手を握る。ー 安心して、ぼくを信じて。藤田さんがむかししてくれたことを素直に向けたら素直に握り返して呉れた。
「だいじょうぶだよ、藤田さん。世間がややこしくなることなんて起きやしないから。美しく才能あふれる彫刻家の住んでる場所はわからないし、目利き稼業だって、むかしながらの茶屋を通す作法を心得た上客は、そいつの住処かになんか興味ないから」
藤田さんが一番気に入ってくれてた半ズボン履いてたときの顔でそう言うと、根拠のない安心感が藤田さんを包み込んだ。そう宗介には見えた。こんなまがいものに首まで浸かってると、内輪のこととて芝居じみてくる。
定規を曳かずに宗介がラフスケッチしたふたりのメゾネットハウスは、是枝恭介財団と足立建築設計事務所と山の井マンション管理組合の実務によってかたちになった。
階上の壁は取り払われて木槌と鑿の硬質の音の連続に耐えられるボードが貼られる。もう、ツインドラムのセットを運び入れても、だいじょうぶ。楓は、そこに桂の木の塊と木槌と鑿、そしてトランク一つ分の衣服を運び、あとは自分一人の日常を占有するためのベッドと冷蔵庫を買いそろえた。
宗介はその階下に、いままでとそっくりの部屋をしつらえた。マンション管理組合から紹介された建築家の足立さんに初めて会ったとき、開口一番そのことを伝えた。「階上に住むものの生存の音が、この部屋だけに納まるためにわたしは階下に住むんです。その以外の変化はこの部屋には必要ないんです。だから、このままそっくり階下に移してください」
足立さんはこだわってくれて、キッチンの香辛料は同じ壁際の引き出しに同じ順に並んでる。
午後いっぱいで粗彫りの音が終わったから、今夜は楓は出来上がったカレーの匂いを合図に階下に降りてくる。2週間も山に籠もっていた大蛇が腹を空かせて里に下りてくるような顔をして。
アトリエとセットのメゾネットプランを楓に話したとき、階下に沈む前のダイニングテーブルの真ん中をじろじろ見ながら「此処をそっくり沈めるなんて面白そう」と目をキラキラさせていた。
アトリエのプレゼントより、この部屋がズキズキ音を立てて沈み込むさまを想像して、ワクワクしてる。
「これだけあれば、アトリエで使うには申し分ないだろ」
「お風呂とトイレだけくっついていればいい。わたし、料理しないからキッチンいらないし」
「それじゃ、このキッチンもっていこうかな。階下の部屋、ほんと、そっくりになるよ」
「ねぇ、そこ、わたしのダイニングにしてもいい」
「もちろん、おなかが空いたらいつでもやってきて。ドアは開けてるよ」
「ドアを開けてるってお隣の家みたいで変じゃない。上下繋がったメゾネットにしようよ、その方がひとつ家って感じがするし」
階上階下に穴をあけ梯子を通すアクリルチューブの管をふたりでラフスケッチした。足立さんに手渡したたら面白がって管理組合に「ぜったいだいじょうぶだから」の説得までやってくれて、かなりの追費はあったようだが追加工事は秘密裏にしめやかに執り行われた。
カーン、ガっズグっズグっ カーン、ぐぐぐぐっグっ
しばらくは静謐だった階上のアトリエから第一声が鳴る。楓が再開したらしい。丸木に鑿をあてる音は、打ち込みの第一声を除けば木肌を抉り出す濁りなんて心地いいものではない。楓の鑿は「この刃があたらなければ」この世に顔を出ずとも済んだ外連味、その濁音が続く。
カーン、かりかりかり カーン、かりかりかり
刃のリズムは単調になってくる。楓は仕事が早い。迷いはないから時間を巻き戻すように存在するものを掘り出してくる。
埋められた時間の千倍の速さで救い出すのだという。
- 百年の樹なら30日で、二百年なら70日で
救い出されるのは幼い仔がほとんど。まれに老婆のときもある。男であることや若い女であることはない。それでも才能溢れる美しい彫刻家の元には切らず注文がくる。
「わたしの彫刻ってお金になるんだって。藤田さんが宗介さんには内緒だって嬉しそうに教えてくれた」
と、楽しそうに話してくれる。ふたりともお金が出ていくより入ってくる存在になったのだ。
「ふたりともお金を使うの、下手だよね。ううん、どこで使えばいいかのかさえ分かっていない。私が使ったのは、メゾネットハウスを拵えたときだけ。五十を過ぎてもわたしの毎日なんて、藤田さんが連れて来た依頼相手に目利きするか、楓や藤田さん相手にカレーを振る舞うだけ。どこにお金の算段に悩む隙間があると思う」
「わたしだって同んなじ。テレビや雑誌じゃヨーロッパのカフェにいるとこばっかり映されて、そんな使いまわしばっかり。ほとんど階上のアトリエで引きこもって、鑿を振るうか眠っているだけなのに」
腹に入るだけのカレーを詰めると、楓は動きをやめてソファにうずくまり眠っていく。
「眠るのは得意だね」
「眠るのは本当に得意。年長さんの可愛い小さなベッドでだって、寝返り打たずに16時間眠り続けていられるから」
「目が覚めたら、それを救い出すまで彫り続けるんだろう」
「だって途中でやめちゃったら、あたまが出たのに息が出来るまでに彫らないと死んじゃうもの」
「あのとき、72時間ぶっつづけのときは、しんそこ心配したよ。天井をとおして聞こえてくる鑿の濁音が止まないんだもの。一呼吸も途切れずに、次の朝が来て夜が来て朝が来て夜が来た」
「あんな奥に隠れているなんて思ってもみなかった」
「どれだけ深かったの」
「あたまが見えてから1めーたー30せんち。その子の臍の緒が下にまっすぐ1めーとる垂れてたの。ほんと小さな子。片手で持っても掌が広く感じられるくらいの小さな仔」
「あの子大好きだったよね。藤田さんに渡すとき、別れ惜しそうだったから」
「あんしんするんだよね、あんなに小さいと何処かほかの所に行ったりしないから。反対にお婆ちゃんは」
「向こう岸に渡ったっきりで、こっちへは戻ってこないから」
「動かないのがわかってるから、あんしんする」
「楓がこんなに不安ばかり産んでいくのは父のせい、是枝恭介のせい」
なんで、その名を、こぼしてしまったんだろう。あふれるほど溜まった場所なんてなかったはずなのに。
はじめてだった。ふたりの間に繋がるもののベールがはがれるように横たわった。
「なんで、いきなり、・・・・・・前触れもしないであのひとの名前を読むの」
捻ったように楓は涙を流した。こんなにもはらはら流れるように人は泣けるものなのかと、感心する涙だった。涙は止まることを忘れたように流れていった。楓がほんとうにこのまま涙で溶けて消えてしまうかと心配した。
宗介は両袖が楓の涙で冷たくなっていくのを感じながら、父と娘に横たわるものが想像もできないくらい大きなものであるのをしった。
汲み出される涙の重さ冷たさは、漆黒の大きな伽藍になり変わる。
- 高くて深い真四角な闇屋がすっぽり収まる伽藍
楓の身体から伽藍はしっかり立ち昇っていき、以降楓の身体は漆黒の艶やかさと切り離せないものになった。
キッチンを持たない楓は、はらが空いたら階下へ降りる。楓の空腹は、一日三度のそれとは違う。ひとつの終わり、ひとつのけじめ、彼女の中での節目ごとに、ひからびた身体に水を注ぎこますように楓は宗介のキッチンにやってくる。
階下の部屋中いっぱいにクミンとシナモンの香りが立ち昇る。
ママがいたときから、わたしには決まった食事習慣というものはなかったの。
ママが料理を作った日が食事の日。おなかが空くことは教えてもらわなかった。ただ食べた後の満腹は、ママが空になった皿を取り上げて更におかわりを盛ろうとするのを両手で遮り、「もう、かえで、お腹いっぱい。もうスプーン一杯だって入らない」と言っていたので、教わらなくても分かっていた。
そのほかの日は全てが空腹の日。程度の差こそあれそれを感じてはいたのだろうけど、「傘がないからって、雨が降るのに髪の毛や身体が濡れて冷たくなる」のを拒むことなんてできなでしょう。それと同じ、ただ受け入れていくだけのこと。
お金がなかったわけじゃない。秘密の行に依るでもない。憎んでの仕打ちでもない。だから、ひもじくはなかった。
ー 喉の渇きは他には代えられないけど、食欲は所詮はひとの欲だから。だんだんに膨らんでくる類いのものだから。一日に3回なんて決める必要ないじゃない。
それがママの根っこにある。習慣。日常。ただそれだけのこと。それがわたし。ずっといまのいままでのかえで。
こうしていまはママが作ったカレーを宗介さんが作ってくれる。宗介さんはママよりも料理が上手。多分、ほかの誰よりも料理が上手。宗介さんの料理食べてから他の料理は食べられなくなった。
冷蔵庫にいれてあるのは飲み物だけ。冷たくないと飲んだ気がしないのでベッドのほかにある唯一の調度品の小さな冷蔵庫。水ばかりも苦でないんだけど、あの72時間があってから「これだけは頼むから一日3本のんで」と宗介さんが瓶詰めした飲み物がそれとは別に20本入るようになった。
冷蔵庫のドアを開けると、白色の照明を浴びたオレンジ色アントシアニン色ピスタチオ色した250mlきっちりに詰められた飲み物が迎えてくれる。中身はすべてフレッシュな果物、野菜、根っこから成り立つもの。
わたしたちが植物以外から何かを摂取することはない。
ー わたしが感じるそのときが、宗介さんにはどうして分かるんだろう
救出作業の目途がみえてくると急激にお腹に意識が向かう。すると、わたしよりもそれをしってたかのようにクミンの香りが昇ってくる。階上と階下を繋ぐアクリルチューブを伝わって宗介さんのワキガそっくりのクミンがここまでやってくる。
クミンに混じってシナモンとカルダモンの香りが、する。きっと大量のホウレンソウがねじれた筋肉みたいにパイ生地に包まれグリルされてるんだ。ショウガとウコンの繊維から染み出た薬効はギリシャ産のオリーブ油に溶け込んで蒸し焼きのパイ生地に染み込んでいる。
ママはどうしてカレーしか作らなかったんだろう。宗介さんに聞くと、それはママがじゃなくて楓がカレーしか口にしなかったから、楓の食べ物はカレーだから、と答える。
宗介さんのママもと聞くから、ママは何でも。わたしなんか足元にも及ばないくらいの料理上手だったよと答える。世界旅行なんて行く気が起きなくなるくらいどんなものでも作ってくれる料理上手だって。
「パパのため・・・是枝恭介のために、そんなにたくさん、ありとあらゆるものをたくさんつくってくれたの・・・」
楓は、呼び名でなく、名前を挟むことでふたりの父を話せるようになった。お互い人生の一部にかかわった父ではあったが、楓はわたしが持ち合えなかった濃密な時間を持ち合わせている。そして、それを、まだ私には伝えていない。
だから隠すように結界を張る。わたしが、裏で占い者の真似事をするような男なのを忘れて。
わたしは占い師だから、それを匂いで感じる。感じるのは占い師だからと嘯いて。
「あのひとは・・・父は美しいものには目がないだけだから。腹を旨いもので満たすことなんかに興味はまったくなかったさ。そうした次元とは全く別な場所にいたんだ」
これだけでは楓の鼻の先を風で巻いたように子供じみている。大人げない。
「父は、他人のつくった食い物で己れの身体を満足させる男じゃないから。食い物はすべて自分で作っていた。尊大な男だから、勿論わたしたちにもそれを食べさせた。思いっきり甘いビーフシチューや、嚙み切るのをあきらめさせるような硬いソーセージなんかをね。だから、ただでさえ食が細くて出されたものは何でも半分残してしまうわたしには、料理上手な母親が必要だったんだ」
食が細くて半分しか食べられない男の子と偏食でカレー以外は受け付けない女の子。並べたら、どちらが愛おしい存在か。
「楓の食べるカレー、父は食べたのか」
「食べた、食べた。鍋いっぱいをそっくり胃袋に流し込むみたいに」
流し込むように食べる楓の身体から、クミンとカルダモンとシナモンとコリアンダーそれにショウガとウコンが粉を吹いたように発散される。お互いの身体を巡ったスパイスは2ヵ月後に新しい細胞に宿り、生まれ変わった匂いで発酵される。
父はきっとそう信じて鍋いっぱいのカレーを胃袋に流し込んだんだろう。わたしたちの前では一度もみせたことがなかったのに。




