なりわい
宗介は、初めてのものに遭遇すると、すぐにそれを足し算か引き算かで区分する癖がついている。それは、宗介に限らず年齢の移ろいによって感じ取れる感覚ではあるが、宗介はその嗅覚を己れの稀有なものとして信じている。
それは藤田さんに「ホンモノ」だと褒められた。肩書だけの理事長兼館長ではあるが、世間への社交の仕事は残される。何もなさなくても、言葉を通じて、審美眼に秀でている匂いを振りまくことが求められる。
宗介がその真水を見抜く方法は、それが引き算に耐えられるもので、引き算に引き算を重ねていった最後にいびつにならないものが残っていれば、それにはホンモノが宿っている。
素材は何でも対象となった。本業のアートだけでなく、1年後にアルバムを200万売った十代のミュージシャンのデビュー曲から、1年後流行語にノミネートされたスイーツまで、御用聞きに廻ってる藤田さんが出したカードから宗介が「真水」があると残したものはすべてホンモノになった。
流行物として世間にオープンされるものから、大きな欲と金の絡みから厳かに収斂されていくものまで、依頼は多岐に渡った。後者の臭いの強いものは、審美眼とはかけ離れた占い者の張ったりの類と認めた。
「どう、ホンモノみえてきたかァ」
行儀のよくない依頼主は、事前に藤田さんが何度も説明した作法を破り催促をかけてくる。宗介の手元には何も置かれていないのに、占い師だけにしか見えない特別な水晶でも仕込んでいやしないかと腰を低く回り込んで覗き込もうとするのだ。勝た負けのためだったら地獄の鉄火場までたどり着こうという手合いだ。恥も外聞もない。
こんなとき宗介は吹き出さないよう自分を抑えるのに必死になる。依頼主の後ろで控えてる藤田さんのハラハラドキドキの目と合ったら本当に危ういので、ぼうようを保って穏やかな笑みを返す。
「それほど長くかかるものではないので、もう少しだけ座っておまちください」
そのあと藤田さんには、行儀の悪い依頼主にはもう慣れたから、何年このお仕事してると思っているの、だいじょうぶだいじょうぶ安心して、わたしたちの幸せを台無しにしないからと、アイコンタクトを送る。
すでに、伝えるものは見えているのだ。「その会社、買いです」と告げるだけでいい。この依頼主は、何が見えてそう決めたかまで聞いてこない。背中を押すかとどめるか、その指示だけを欲してきているのだから。
でも百に一つ聞いてきたら、こう答えてあげたい。そこまでの筋書きを待って時間がかかっている。だから待たせるのはこちらの都合。
引き算を重ねて最後に見えてきたのは、チャンピョンベルト二本を肩から垂らした瘦せたボクサーだ。日本人のチャンピョンボクサーはみんな瘦せているが、この男はとくに瘦せている。もう一つのベルトをとるためフェザー級から二つ落としたあばらが出ている。だから満面の笑み。
それに比べ、倒されたチャンピョンは膝を折ったままピクリともしない。動いたら、自分のベルトが剝がされた未来に追いついてしまうから。息を止めれたら追いつかない未来が永遠に来ないと教えてあげたら、彼はそのまま息絶えるかもしれない。そこまでの絶望に打ちのめされている。
しかし、チャンピョンはそれを見ない。今と未来、彼がみているのはその時空だけ。だから、先ほどまで雌雄を決していた相手の姿は目に入らない。かつて同じチャンピョンであっても、過去は彼の眼中にない。絶望に打ちひしがれたかつてのチャンピョンに恋人が寄り添っていく。恋人は、打ちひしがれているひとの恋人ではない。満面の笑みを浮かべたふたつのベルトを肩に掛けたチャンピョンの恋人だ。チャンピョンは、自分の恋人が敗者に寄り添う姿まで目に入らない。
敗れたチャンピョンのあまりにも大きな絶望が大きな磁場をつくっている。男の絶望がつくった磁場は幸せの匂いを寄せ集める。恋人が求めるのは幸せ。それが匂いのはかなさであっても、かぎ分ける己れの鼻に噓はつかない。恋人は負けた男を抱き寄せる。幸せを抱くように、抱きしめるものが幸せであるように。絶望の穴が大きいだけ埋まっていく入る幸せは大きくなった。かつてのチャンピョンは敗れたが幸せを手にする。勝ったチャンピョンは、幸せは手にしない。勝利と引き換えにそれに気付く眼を失ってしまったから。
「最後に、二本のチャンピョンベルトを肩に掛けて満面の笑みを浮かべているあなたが見えます」
「それじゃ、買いだね。これでオレはふたつのカンパニーの社長だ」
言い終える前に依頼主のドアを閉める音が聞こえた。宗介にはそれがベルトを巻いたままリングを降りるチャンピョンと重なった。リングには敗れた元チャンピョンとリングから消えたチャンピョンの恋人の抱擁だけが残った。観客は感動している。拍手は鳴り止まない。タイトルマッチは終わり、それを見に来た観客たちは、全く別の出来事に拍手を送っている。
依頼したものの最後の引き算はもう終わっている。ホンモノは既に退場しているのだ。この拍手はわたしの都合、依頼にはまったく関係ないことだ。
宗介は自らがホンモノではないから、糊口をしのぐ方便などとうそぶいて美と接点をもたないそうした男たちの人生を軽蔑はしなかった。
「彫刻って、彫って中にいるものを救い出す作業だけなの」
宗介がそれを尋ねると、楓はそう答えた。
立ち止まらず、余計なことは考えず、ただ掘り進めていくだけ。掘り進めていけば、出して欲しがっているものがいれば自ずと顔を出すから。丸太も石もただ硬さが違うだけ。それが存在するなら、塊をほんとうに見つめていれば、中から声をかけてくる。
「雨に降り籠められていた日いつものように粘土あそびのしてたら、ママがみんなどかして、三つそろったそれを目の前に突き出したの」
檜の丸太と 鑿 木槌
使い方なんてしらないから金属は何度も木の肌を滑ったけど、丸太の中はよく見えていた。
へその緒がくっついている胎児。そのころは胎児なんて言葉はしらないから、赤ちゃんがちゃぷちゃぷしてるって、水の中にいたままだと溺れちゃうから助けてあげないと。
「ママがそういうの。楓が助けてあげないと、その赤ちゃん死んじゃうよって」
ここから出して、お願いだからここから救い出して
だから、彫刻は救うこと。線を引いたり光をみつける形をなすのは作業だし、仕事や芸術はラベルの名前。もっとぼんやりと大きいの。そう、止めたら気付く呼吸みたい。やめてしまったら掘り出せなかった相手といっしょに倒れてしまうもの。
「アンデルセンのおはなしの赤い靴はいた女の子と一緒。いったん身につけてしまったら、もう剝がすなんて出来ないもの」
手はそれが意思を持って動く。目はその存在を追いかける。一周して回っても、動いてるものが天に昇ってくれるまでは、灰になるまでやめられない。だって、目の前で動いてるんだもの、手を下ろしても何度でもやってくるんだもの。わたしひとりでどうこうするなんてできないよ。