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藤田さんというひと

 楓は、場所も格好も場違いな所に、たったひとりでやってきた。

 礼服を剝ぎ取り、その小学生だった時のオーバーオールとツインテールを当て直すと、やっと、顔を向けて直に逢っている実感が涌いた。母はおばあさんになって死んで、この娘の母は年寄りにならないままに死んだ。残されたのは、白髪ばかりになった兄と歳の離れた幼さのずっと取れずにいるままの妹。幼さが取れないのは自分も一緒ではないかと、別のものを見つけるように楓を眺めてみる。

 

 この子が楓、たったひとりの妹、いまはたったひとりの身内。


 身体に比べて楓の掌は、かたいものを30年毎日握り続けた職人のようだった。宗介が目にしただけで一度も握ることなく日常を言い当てたので、楓は赤を赤らめてしまった。

 

 あっ、ごめん。


 ううん、いいの。もともと掌は大きかったんだけど、毎日こんなことやってたらね。でも、いきなりだから。すぐに、それ気づくなんて、やっぱり同業者だね。


 同業者といっても、いまは、もう裏方だよ。とうのむかしに、あなた・・・についてるような才能の神様は、あきらめてどこか遠くへとんでいってるはず。

 

 ー あなたたち。

 宗介は、あやうく「あなたたち」と呼びそうになった。楓の存在が分かる前から、家を出た父と繋がるひとたちを、父も含めてあなたたちと呼んだ。むろん、それは心象の中だけであったが、意識していても、こうして面と向かって話していると、そのかたちを別の呼び名で(くる)んで示すことができずにいた。 

 あんなにも、それを出さないように意識していたのに。そんなものを出してしまうのは、あまりにも大人げなく理不尽なことだと分かっているのに。きちんと用意することが出来ずにいた。


 ー 理不尽。

 このことばも繰り返してはいけない。母が消えてしまったいま、向かい風を遮るものがなくなったいま、40年の時間などあっという間によみがえってしまう。何も手を出さずに置きっぱなしにしていた熾火(おきび)は、だだじっと見つめるしかなかった十歳のときよりも熱く身体を蝕むかもしれない。

 ー そんなことは、この娘には関係のないこと。

 世間の親子よりも離れた妹を前にして、宗介は用意していた言葉を順々に並べ始めた。

「この間の監物登(けんもつのぼる)アートコンペ、審査員特別賞だったね。おめでとう」「若手登竜門の賞をとったのは聞いてたんだけど、楓の名前から順々に探してって、見つけるの少し苦労したよ」「同じ絵の方じゃでなくて、彫刻なんだね」

 楓はずっと同じ顔でにこにこしている。答える必要のある問いかけでなく、ただ埋めていくために言葉を編んでいるのをちゃんと分かっているのだ。

 つまづき、ぎこちない流れが繋がるうち、宗介は母が「お互いがたったひとりの血族」と繰り返しいった

心根が遅れて伝わってくる気がした。


 「おかあさん、5年も前に亡くなったんだね。しらなかったとはいえなにもできず・・・それなのに、こちらばかり無理いって」

 ただでさえ背ぃの高い宗介は、目の前のやせっぽちで小柄な娘との高さが公平になる手立てを考えあぐねていた。

 ー 藤田さん、どうしたんだろう。こんなときに一番に横にいてもらわなくちゃいけないひとなのに。

 困ったとき、足りないとき、次の一手が進まないとき、藤田さんを思い浮かべる。それは分かっているが、なぜ、楓のことまで同じように藤田さんを頼ってしまうのだろう。


 「いいえ」と、楓は応えた。ほかの問いかけと同じにうなずくだけで返ってくるとは思ってもみなかったのに、自分から問いかけておきながら唐突な顔が先に出てしまったかもしれない。

「藤田さんから、今日来てくれるよう告げられたとき、なんだかほっとしたの、胸のつかえがとれたような、おかしいんだけど不思議な感覚、いつも語られるだけだったひと、是枝のひとと逢うっていうのが・・・・でも、一度だけ」

 楓は迷っていた。藤田さんがいないことを機会と捉えて話し始めた。

「母は亡くなる前に一度だけ、お母様とお話したことがあるの、電話でだけど、きっと藤田さんもしらないこと。わたしのこと、お願いって。わたしまだ9才だったから。10才にもなっていなかったから、誰と話してるのか、何を伝えているのか、はじめは分からなかった。でも、」 

 楓はもう一度、はなしを自分で区切った。そして、そのときの自分を呼び戻したのを確認してはなしを続けた。

「そのとき、知ったの。ママが死んじゃうこと。ママ、はらはら涙を流していたんだもの。きっとお母様も泣かれていたんだと思う。その時間は長かったと思う、ううん、時計の時間じゃないの、本当の時間、そのときのママとお母様とわたしの時間。怖くなって離れようとするわたしの手をママは離してはくれなかった。ママの掌を通じてお母様とわたしは初めて逢った。だから、受話器を渡されて何ひとつ話す言葉を持たなくても苦しくはなかった。時間が過ぎていく度に堆積していく重みを感じたいた。きっとお母様も。これは、ママとお母様とわたしの秘密。そのふたりがいなくなったのだから話してもいいと思う、あなただけなら。あなただけなら繋がっても許されることだと思う」


 楓の区切ることのない長い話しが終わる。「繋がる」と直にいった口がそのままそこに立ってている。いままで細く小さく(くく)っていたものが生身の身体をもった存在であることを一緒に告げられた気がして、宗介はふたりきりでいることに息苦しさを感じた。

 息苦しさも繰り返してはいけない言葉だと言い聞かせて、示し合わせたくせにいつまでもふたりの元に来ないでいる藤田さんをなじった。


 「ごめんなさい、遅くなって。ほんと、一を言えば十が分かるひとが一人もいなくて。ほんと、手がやける。宗介さん、ちゃんと楓ちゃんをエスコートしてきてね。ほんとよ」

 今日の集まりがどうしても今よりも過去に目が向かう湿っぽさを察して、どうかそうした煙が立たないよう努めて明るくしているのか、今日の藤田さんはいつにもましてさばさばしたおばさんを演出している。「ほんと」ばかり繰り返してるのに気づかない顔してるけど、本当はふたりのぎこちないやりとりを壁の影から一部始終観察していたのだろう。

 全てにおんぶにだっこのくせに、宗介は藤田さんに心を開いたことはない。幼いときからの、父の側のひとを「あのひとたち」と括る呼び名から外れることがなかったからだろうか。ただ、このひとがなぜこんなにも自分たち親子に尽くしてくれるのか、それが不思議でならなかった。多分、その方不可思議さが大きいのだろう。


 藤田さんとの関係は是枝恭介がうちを出ていったあとから始まっている。親しくしていると思っていたひとたちが時候ばかりの尻すぼみになるに従って、いつまでも同じ立ち位置に居続ける藤田さんの全身だけが砂が引くように現れ、浮かび上がってきた。

 ほかは全て、わたしたちにとっては全てに完璧な藤田さんは、自分の周囲に無頓着なとことがある。でも、そのおかげでわたしたちの寂しい穴はそれ以上大きくはならずに、埋めていってくれた。

 藤田さんは不思議な人だ。背景はいまだわからない。もともとがそうしたものを一切もっていないひとなのかもしれない。

 同業者のサロンで口にのぼるような(いず)れかの才覚をみせたことはないし、父に愛されるような溢れる容姿を持ち合わせてもいない。いつだって財団の事務局のような脇の立ち位置を占めていたような気がする。

 たとえば、集合写真のいつも前に立っているひとに首から下どころか顔さえ半分隠されているひと。それが、周りがひとり消えふたり消えて、撮す写真も小さくなり、カメラマンに中央に行くように追いやられ、本人の心根なんてほっぽらかしにされたまま一番前の真ん真ん中の座布団に座らされている。誰かがしたわけでも藤田さんが意図したわけでもないのに、それからの40年間ずっとわたしたちの写真の真ん真ん中にいるひと。おばさんでもパトロンでも勿論わたしたちの愛人でもないのに、お世話ばかりして、なんで他人のために自分の人生の3分の2を捧げられるのだろうか。


 それは、理不尽ではなく不可思議。藤田さんの不可思議はためらわずに何度でも使っていい言葉。


 宗介は心を開かない意固地さで脇を固め藤田さんに甘え続けた。あれほど世間には厳しく律している母も藤田さんは世間ではないと決めてかかっているように扱った。無理ごと金ごとなんでもねだれば、藤田さんはランプの魔王のように用意してくれる。


 都心のマンションに住み、世間との煩わしさと乖離し、それでいながら後ろ指を指されない高等遊民


 美大を院まで務めて世間が期待する技量の備わっていないことを6年の間に十分自覚したあと、猶予期間をおくため箔をつけるため、海外のそうした場所で模様替えをしている間に藤田さんはちゃんと是枝恭介の財団をつくって理事長兼館長の椅子まで用意していてくれた。

 それを当然に受け取る仔、そのことに眉をひそめない母親、親子は飼いならされることを自然なものとし、心根を許さないことで自負心を保った。老いても、母が死んでしまっても高等遊民は続く。母が死んでも、藤田さんが死んでも、宗介が死なない限り、高等遊民のルールは続いていく。


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