直(じか)の楓
はじめて逢った楓の顔は、きょとんとしていた。場違いな所に置かれている、でも、無理を吸い込んでまでそれに自分を合わせようとしない、そんな顔。
葬儀の会場は、父も一緒の三人でむかし住んでいた屋敷を充てた。いまは、記念館か美術館の名が冠されていて、技量のないわたしにはそこの館長の肩書を当て側われている。
「やはり、ご自宅から出棺されるのがよろしいかと」
藤田さんはそう助言してくれる。助言だが、表向きのことは一切おんぶにだっこの私たち親子は、その指示に従うだけだ。藤田さんは、わたしにというよりその後ろにいる母が見えているのか、二人に向かって話しかけているようだった。
「2週間前、母の意識がしっかりと戻ったんです。あんなに混濁していたのに、生まれ変わったみたいに。あとのことは藤田さんと何でも相談するようにと。あー、これは今に始まったことじゃなく、わたしたち親子にとっては、父が出て行ってからずっと守ってきたことですけど」
藤田さんは少しだけほほを緩める。わかっております、承っております、と伝えるように。
「それと・・・・」わたしが口ごもっているのを察したようで、藤田さんがそのあとを告げた。
「楓さんのことですね。きちんとお呼びして参列してもらうようにと、奥様から承っております。奥様はとてもそのことを気にされていました。自分が亡くなったあと、宗介さんは本当にひとりぼっちになってしまう。わたしがいなくなったあとで、血の通った身内と呼べるのは、楓さんおひとり、あの娘もきっとそのことを分かっているはず、そのためには、きちんとまっすぐに逢わなければいけない、顔をみて、言葉を交わして、あとはお父さんの血がうまくやってくれるはずだから、と」
葬儀にお呼びしているのはそうした事情のよくわかるせんせいご夫妻と親しい方ばかりですから、「ご心配には及びません」と最後に付け足した。
長年、父のお世話役をしていた藤田さんは、父が出ていった後も、わたしたち親子が依然そのままであるよう形を設えて呉れていた。藤田さんがいなければ、とうに親子夫婦の中身のなくなってしまっている私たち3人はますますバラバラになっていただろう。それを、父が死に、こうして母が死んでも、夫婦の、親子のかたちをとどめていたのは藤田さんのお陰だった。
父が死んでも藤田さんがそれを続けているのは、職務というより生きようだった。是枝恭介が死んだ後も、画業ばかりか、画人の幹から伸びる枝葉のことごとくを寸分に渡り見渡している。それは、表向きはわたしたちであったが、現実は藤田さんだった。今日の葬儀もそうした流れで運ばれていくのだろう。藤田さんの「ご心配には及びません」は、そうしたことも含まれているのだろう。
いつでも、藤田さんの話はその言葉で終わりになる。いままで母が正面で聞いてたその言葉を、これからはわたしが正面で聞くことになる。
「はじめまして、楓です」
宿にしたホテルで礼服に着替えたばかりのきょとんとした顔に、10年前に楓の存在を初めて聞かされたときに見せられた写真を重ねてみた。デニムのオーバーオールにツインテールの上半身だけ映った写真。小学六年生にしては大人びていると、格好の子供っぽさとのギャップが余計にそのことを意識させたのを覚えている。
写真は3枚だった。生まれたての赤ちゃんの写真、七五三のお祝いの写真、それとツインテール。
そのときも、母は突然に楓の存在を切り出し始めたのだ。
「大和屋のモンブラン、カニクリームコロッケ食べたあとでも食べられるわよね」
わたしがコーヒーを用意する前に皿に乗せ、先を待っている。ずっとたまっていたくせに、それをおくびにもださない。それがこの人の長所であり短所だ。
「意外といってはなんだけど、お父さんが長く愛した女の人はその娘のお母さんさんだけだったそうよ。うちを出るきっかけになった女じゃないわ。60を超えたあのひとを親子ほど離れた身で支えてくれて、女の子を生んで、しばらくは3人で親子を続けてくれた女。それなのに、70を目の前にしているのに、いつもにように、服を脱ぎ捨てるみたいにプラリと出ていったそう」
藤田さんの名は出さなかったが、聞かされた声のまま母は伝えている。
「でも、その女、そうゆう男と分かって子供をつくったのね。あとは未練たらしい真似なんてしないで、是枝恭介の血を育てるように英才教育をしたそうよ。粘土あそびの大好きな女の子に、毎日なんでもつくれるだけの環境を10年間与え続けて、そして亡くなった。35才、本当に若い」
モンブランを食べ終わったわたしは、ただ写真の女の子を眺めているしかなかった。
「楓ちゃんっていうの、その子。きっと、お母さんの苗字で通すつもりだったからその名前にしたのね。だって、是枝楓じゃ、木の枝ばっかりで痛々しいじゃない」