赤い靴はいてた女の子
便箋に書かれた古くて短い原稿。
< 目と鼻と口。ある人物を描くのにその三つがあればいい。けれど、みっつが揃わなくたってふたつだっ て、そのひとだと伝わるものを描くことはできる。
目と鼻。暗闇から照らすように、静寂が広がっていく極小の灯り。
目と口。隠れていた鼻が存在を現してきた。だから目も口も何も語らない。
鼻と口。お喋りなくせに、こうしたときは笑うばかりで何も云ってはこない。
テーブルにおいたスケッチブックを取ると、画家は1行を唱えるたびにそのひとを描いていく。真っ白な中で消されていたそのひとをこすって炙り出すように。
目と鼻のそのひとは八十を過ぎた老人。皺や髪の線となるものは一本も加えていないのに、老爺か老女かさえ認められないのに、そのひとの八十年間の命が見てとれる。
目と口のそのひとのは、隠してる鼻が邪魔してくるのか少し時間が掛かった。
「一筆書きの曲芸が生業じゃないから」 これは言い訳じゃないよと茶目っ気な目が一呼吸すると、すぐにそのひとの中に舞い戻った。
描く対象に向かったら、先ほどまでの軽妙なお喋りを遮断する。広いお屋敷の2階すべてをぶち抜いたアトリエがどんなに静まろうとどんなに冷え込もうと構わない。此処のあるのはこのスケッチブックとわたしだけ。目と口のそのひとは画家の意を汲んでもう金輪際何も語らないと決めてかかった顔になった。
その代わりに、鼻と口のそのひとは、いままでの重々しさを照れたような一筆書きの気安さで仕上がった。ー取材のあとの夕めし、どこを考えてるの。締まりのないこんなお喋りにイラスト3枚もつければ、もう解放してくれてもいいだろう。
画家は、最初のいたずらっぽい浮足立った遊び人の顔をわたしに向けてきた。>
その便箋の最後には年月日が入っている。いまから60年もむかしの年月日。見つけたときもいくらか繊維が抜けて破片になって散らばりそうだから、アルファベット順に縦置きした美術全集のHの処に挟んでおいた。10年刻みで開けて眺めることがあるが、あたまの中の文面とそれは一文字一句すべて一致している。だからわたしが話したことを一文字一句そのまま筆耕してもらったように感じる。いつもそれを感じて厚い本を閉じる。
それは藤田さんの持ち込む段ボールから出てきた。財団の資料整理と称して。「世間の日の目に出したくないモノが混じっていたら除けといてください」と、ママと宗介に時折送り付けてくる段ボールの中に混ぜていた。
恭介が撮った写真や書きかけでやめた手紙や走り書き、デッサン、クロッキー、グワッシュが混ざっている。世間の目は判別できなくてもママの直感が「あの女」と判別できるモデルの画は、クロッキーとも呼べない毛糸の束の類いまで「私物」とマジック書きした段ボールの方に入れられた。宗介は、ママが一瞬で蚊帳の外に放れない立ち止まって読まなければそれと判別できない書き物の方をまかなった。もう美大に入った齢になっていた。ほかの同級生たちよりも複雑に成長した宗介はママの平穏な日常を乱さない役回りを担える齢になったと、自覚があった。
埋めたひとマスひとマスが見えてくるように丁寧に書かれた便箋は藤田さんの文字だった。うんと若い本当の女学生だった頃のものだ。田舎の高校生だった藤田さんから是枝恭介に結びつくものは何もない。そのころの藤田さんの吸う息吐く息のどこを探しても、あの男の中に入り込む隙き間は、真新しいスケッチブックどころか電話台の横のメモ帳の中を探したって皆無だ。あこがれが高じて同じ時間の並列に遺したものが、写真でも手紙でもな架空のインタビュー原稿なのは、藤田さんらしい。
でも、どうして、わざわざ段ボールに入れる細工までして、わたしに読ませようとしたのだろう。これをかいていた時の藤田さんが、大人を同じように勘違いしている同じ年頃のわたしに、どうして読ませようとしたのだろうか。わたしが「どうして」と想像する何に期待してたんだろうか。
楓よりも藤田さんの方が赤い靴の女の子なのかもしれない。
藤田さんはいつだってたくさんを回っている。一回でいいものを繰り返し繰り返し気の済むまで同じ処を回り続ける。是枝恭介をストーカーのように追い回し、とうの本人が忘れしまってる木端切れのことまで石に刻み残していく。
大好きな人だから
大好きな人の掌によるものだから
大好きな人が愛したものだから
大好きな人が傷つけてしまったものだから
大好きな人が困った顔してしまうものだから
生きてるうちも死んでからも是枝恭介を回り続けている。真面目でしつこくて嫉妬深く、そして空回り。藤田さんの生涯は是枝恭介を想い始めた女子高生から何ひとつ変わっていない。お金と棲家と粉を吹くような身体は変わっても、その中に入って操縦している小さな女の子の顔は少しも変わっていない。
死ぬまでに世の中のすべてを描けると信じていた是枝恭介。その一番尖んがってたときの是枝恭介は藤田さんの中では変わっていない。晩年がどんなに情けなくときどきの女に張り付くように生き永らえていったとしても。半身の麻痺で絵筆はおろかカレースプーンさえ握れなくなり白髪に変わった長髪の中で隠れるように生き永らえていったとしても。
だけど、藤田さん、落ちぶれた是枝恭介を見てもあなたはけっして手を差し伸べようとはしなかった。ただ見届けるだけでしたね。亡くなってからの事務処理の手際の良さを考えれば、どれだけ深くても堕ちた穴から救い出すことはできたと思います。
あなたはしなかった。なぜ、それをしなかったのですか。
言わなくても結構、分かっていますよ。あなたは待っていたのです。自らそんな恥ずかしい声は出せなかった。あの時から30年以上、ママやわたしなんかよりも昔から赤い靴を履いて回っているあなたに是枝恭介が気づいてくれることを。-気づいてくれる女は、もうわたししかいないー それまで指一本動かさずに、そんなよすがを見せずに、回り続ける森の木の隙間から覗き込んではいまかいまかと待ちわびていたんです。
それが、最後の最後に楓のママが拾ってしまった。是枝恭介が今までの所業すべてを「抜け殻」と賛辞する女の子を授かった。辛かったでしょう。苦しかったでしょう。それとも拍子抜け、肩すかし。神様なんかいないって笑うしかなかったでしょうか。
でも、そうした結末をあなたは受け入れた。受け入れるだけがあなたの人生でしたから。己れから打って出るるような芸当、藤田さんには似合わない。種の落ちた植物は、育つにせよ枯れるにせよそこにとどまるより手立てがないのですから。
それなのに、なぜ、ほかの種を育んできたのですか。楓を見守りわたしたちを庇護してきたんですか。是枝恭介が死んでからの方が、藤田さん、あなたは生き生きとしている。いきいきと是枝恭介に繋がるすべてのものを愛おし続けている。それが不思議でならないんです。
こうしてくたくたになったまま楓と藤田さんに挟まれてソファに沈んでいると、これからのことなんて何ひとつどうだっていいことのように思えてくるんです。ずーと閉じたままのこのドアを開けた先がすべて火だるまだったとしても、世間様とか世界とか宇宙とかそうした取り巻くすべてのものが最後だと教えてくれても、それがいったいどれほどの意味を持っているのか価値を持っているのかと勘定する気が起きないのです。
ーこれが最後だから。
何度もこうした夜が繰り返されてきた。そしてまた今夜が最後だと言い含められてきた。ドアを開けたこの先が火だるまになっていて、本当のこの世の終わりと繋がっている。そう信じることがこの部屋のソファに佇む3人が平穏でいられる唯一のお守りになってからどれくらい経ったでしょうか。
でも、今夜は本当に最後かもしれない。3人が3人とも好き勝手に話し始めたから。ソファにはいないけれどもいてほしい人達と通じ始めたから。それは、わたしのママであったり楓のママであったり是枝恭介であったり。
是枝恭介は、この期に及んでも父でいることを由とはしない。いまさら父親の顔など拵えてはまずかろうと、いつもわたしや楓をたぶらかす。そのくせ藤田さんには男の顔はけっして見せようとしない。見せたがるのは画家の顔か、大物カリスマの顔。他人と対峙するのに手札を切りながらの性癖は金輪際変わりようがない。
わたしのママと楓のまま、ママがどちらのママなのか分からなくなる。それがどちらであってもママはママよ、といってくれる。だから藤田さんの前にはやって来ない。女は死んでしまうと、藤田さん本人でさえ気づかない藤田さんの女の匂いが臭くてたまらないのだ。ママと呼ぶ仔にはどちらの腹で宿したなんて、もうどうでもいいこと、関係なくなっている。齢が幾つになったとか、その仔が男の子なのか女の子であったかとかの余計な口上はいならない。
子どもたちなのだ。その子たちが自分たちの同胞でありさえすれば。愛おしさや慈しみがいまでも育まれているのなら、子どもたちへの口上はいらない。