キングサイズのベッドから
藤田さんはきっとこの部屋の階下に住んでいる。このソファの階下にとびっきりのキングサイズのベッドを持ち込んで、毎晩眠っている。
夜10時から深夜2時まで仰向けに眠ったまんま、天井を挟んで3メートル階上にあるソファに想いをはせる。大の大人3人がバカ騒ぎしてそのままお互いが重ならずに眠れるくらい広くて大きな、黒馬6頭の下半身の皮だけをなめして拵えたソファに、想いをはせる。
二人だけで自分が除かれた広さを楽しんでいるのか、それともひとりぼっちで二人の無駄な広さを持て余しているのか。
きっと、わたしに長袍を渡しに来た夜は、エレベーターを降りて地下の駐車場から'64年ベレットにエンジンをかけて、中華街の奥に仕舞いこまれた八十過ぎのテーラーの店まで回って直接受け取りに行ったのだ。着せる相手の小さな写真と「かっこよく」や「威風堂々」などと記した依頼主のメモ一枚あれば、注文をしくじることのない細長い指を持ったテーラーの店に。
なのに長袍はずっとワードローブに眠ったまま。なのに藤田さんは、咎めも悲しい顔もみせずにわたしに接してくれる。
ー あんな戯れ、しなきゃよかった。みんなセンターラインを外れたんだから、目利きでも占い師でも呼び名なんてどうでもいいことじゃない。
お互いそう言ってるはずなのに、そのすぐ後に藤田さんは膝を整える。 - そうはいきません。宗介さんは真っ当な所に住んでいるんです。このマンションだったら、もうこれより下の階には住めないひとです。そこから外れては生きてはいけない。どんなにあがいても生まれ出でた始まりは本人でさえ消せない。衒いはわかりますが、ほんとうに外れることは許されません。
- 藤田さん、外れちゃいけないのは長袍のこと、それとも楓とのこと。
本当のことを話したら藤田さんはどうするんだろう。戯れの匂いが充満したこの部屋を出て行って、階下の自分の部屋に戻らないままベレットといっしょにこのマンションを過ぎ去って二度とふたりの前に姿を現さなくなるんだろうか。
そんな日が、来るんだろうか。
たったひとりソファに横たわってると、右側に楓のいない世界が存在しないように左に藤田さんが座っていない世界は存在しない。
藤田さんから素振りを見せてくれれば、大袈裟なカミングアウトなんてなくなって少し驚いて受け入れる顔は出来てるのに、そんな日はけっしてやって来てはくれない。
だって。他人を挟まないちょっとした用事でも、わざわざエレベーターを下りて地下駐車場にある'64年式ベレットのエンジンの調子をみながら区内一周してからでないと、容易に上がってこれないひとだもの。そんな作法を挟んでまで階下に住んでいるのをひた隠しにしているひとだもの。こちらから、そんなこと、おくびにも出せやしない。
この3人の日常に、わたしだけがいなくなっても、ふたりは今日と同じように料理で膨らんだ腹を突き出しているはず。きっと、今度は、藤田さんがカレーを作る当番に回るんだろう。楓に教えてもらった楓のママのレシピに沿ったビーガンカレーを。
トマトベースにレンズ豆を練りこんだり、レンコンボールをパイ生地に仕舞いこんだり、高野豆腐をさらっさらのキーマカレーに模様替えしてみたり。
でも。わたしのママも楓のママも、わたしたちが食べてきたものはすべて藤田さんから習ったような気がする。わたしたちふたりの身体を構成している藤田さんの料理。そのことを楓に話したことはなかったけれど、きっと、わたしのカレーをスプーンですくってすぐにそれに気づいたはず。張り裂けるほどお腹がくちくなるまで同じものを食べてきたのだ。この感覚は共通。
破裂するほどに膨らんだ腹を上にあおむけになってると、階上と階下でつながるふたりの長電話のびりびりを感じてくる。
裸になって低周波の電気風呂に浸かっているときのビリビリ。それとそっくりの少し低音に変化したふたりのおんなの声が素通りする。
ファックスのあの一秒の機械音の中に紙一枚分の情報量が入るのだもの。わたしの身体には華厳経の巻物を流すように幾筋もの念が交錯する。そのくせ痛くも痒くもない。おんなのお喋りは男の身体を素通りする。
そんな風に階下の藤田さんは階上に横たわるわたしのソファに想いを抱く。わたしは仰向けの藤田さんのキングサイズのベッドを妄想して眠っていく。