ある訪問者の旋律
六畳半の部屋には贅沢なほど煌々と差し込む陽射しに目を覚ました僕はアッサム茶葉100%のリーフティーをこしらえ、ショパンをイヤホンで聴きながらベランダで空想のひとときを過ごす。このような習慣が定着するまでは、まるでブルジョアジーの零落した姿のように自らによって俯瞰され、こっぱずかしくもなり、アッサムの味覚とショパンの旋律を忘却の彼方に追いやっては、ここから伺える景色、つまりは、隣のツタが生えた古民家や、私鉄線の踏切、カラス、雲、ゴミの回収車、コンクリート、風、など僕の存在との等価性を湛えた存在を検知し、一般庶民としてのアイデンティティーに安堵をおぼえるほどであった。僕の名は和田孝介という。名を名乗る事は君と世界を始めたいという宣言だ。何を語るにも、一人ではつまらない。君から見える景色、音、匂いを是非とも教えて欲しい。君から紡ぎ出された物語と私は呼吸したい。そう、そして、君の中の一人が今ベランダから伺える。彼女はこちらに手を振って微笑んでいる。先月結婚を申し込み、承諾してくれた彼女。彼女の名は―折角だから彼女の方から語らせることにしよう。
私。和田の妻。津田麻衣子。婚姻届けを昨日役所に出したばかりだ。私は、今、夫の姿を下から眺めている。下からというのは、夫が上にいるから。私にとってここは坂を登ってきたところの平地。ボロアパートに止まったカラスが一匹飛んでいった。それから近くに流れる用水路のせせらぎが聞こえる。それから古いお宅の家からハンバーグの焼く匂いがする。私に文才はない。けれど、私の言葉は私の言葉だ、と躍起になる。だから、見える景色、音、匂いが私を通じてあなたへ向かうのだ、と。あなたは今何を飲んでるの? 何を聴いているの? 声に出しては言わない。表に見えるあの二階までの螺旋階段を登って、あなたに直接聞けば良いのだから。
「お帰り」
「うん」
「どうだった?」
「今日は疲れた」
「そっか」
「何飲んでるの?」
「アッサム。結構、濃い味なんだね」
「そう?」
麻衣子は僕の膝に座った。
「私にもちょうだい?」
猫のような唐突な仕草で、風のような潔白さで、雫が落ちる必然性のように、しかし、どこか遠慮がちに全体重を私に預けない。その違和感は「重い?」という彼女の発声によって埋め合わせられる。彼女の頬にかかった髪をかきあげ「重くない。ちゃんと乗って良いよ」と私は言う。彼女は僕の左耳からイヤホンを抜き出すと、自分の右耳に入れる。彼女の重みを受け止められる喜びが、ショパンのノクターンの叙情性とのシナジー効果によって絶頂を迎える。僕は彼女に接吻をしようと唇を近付け―ドドドバンッ。
こういう時に訪れる異質的な現象は物語のクリシェともいえるだろう。容赦がない。音がした扉の方に首を回転させた僕と麻衣子の視線の先には、黒ずんで破れたチョッキ、乱れた白髪交じりの髪の老人が血相を変えて、ハー……ハーと呼吸のリズムを失って立っている。麻衣子がグッと僕にしがみついた。僕も麻衣子の両腕にグッとしがみついた、否、抱え込んで麻衣子を守ることに注力する。二人とも声が出ない。本当に驚いた時に声が出るタイプと出ないタイプがいるが、僕と麻衣子は後者で、世界に対して受け手に回ってしまう性格が共鳴して婚約につながったとでもいえよう、とにかく老人が立っているのだ!
「水をくれ」
私は硬直した夫の腕を振りほどき、六畳の部屋に剥き出しのキッチンに素早く移動して、素早く男に水を差し出した。男は震えながら水の入ったコップを素早く受け取ると、コップを傾けて素早く飲み始めた。私は、それだけ必死だったら、自分で蛇口を捻って飲んでしまえば良いのにと思った。ゴクゴクゴクッと男の喉が鳴った。飲み干してもう一杯とコップを差し出す男は少し微笑んでいた。散り散りになった前髪から覗けた眼は透明で綺麗だった。素早く、素早く、この男の為に私は尽くした。何かそうしなければならないような気がした。体が勝手に動いた、とでも言えようか。それでいて夫は今―
いつの間に麻衣子はあのような俊敏さを獲得したのだろうか。僕のプロポーズという緊急事態には一カ月の時間を要したというのに。あのコップはもう使いたくない。見知らぬ老人の唾液が一度付着したと思えば、反吐が出そうだ。客、という第三者を迎え入れるほど、新婚の僕と麻衣子の間の二者間はまだ淡く、どんな事があっても夫婦共々乗り越えていきましょうという誓いの中の「こと」が今まさに起こっているのであろうが、それを互いのクリアするべき「こと」として認めることが僕には認められない。そこに立つな、そこで水を飲むな、妻に関係するな。何にも知らないショパンはその間柄を意味付けるようにアンダンテ・スピアナートと華麗なるポロネーズを奏で始める。彼女の耳に入っていたはずのイヤホンは壊れたメトロノームのようにリズムを失い僕の顎の下でフラフラと揺れている。
「ありがとう、ありがとう。いやあ、助かった。助かった。水は飲まんとならんな。水は」
男は私にコップを返すとそのまま扉の方へと向かった。私は「待って」と言ってみた。言ってしまった。どうしてだろうかと思う暇もない間に男は振り返った。
「あなたは誰?」
「……ああ、誰、だろうね。言うなれば、そこのゴミステイションの回収業茶だが」
僕はその光景を是とするかのようなショパンに苛立ち、イヤホンを荒々しく抜き取った。
「ここは人ん家だぞ!」
「人の家」と、この一介のゴミ収集業者の視点から言及するほど自分がこの老人の身を案じてしまったことにさらに嫌悪感は増す。
「警察を呼ぶ」
麻衣子は「ちょっと、孝ちゃん」と言う。
「これは犯罪でしょうが! 不法侵入でしょうが!」
男は夫の言葉に躊躇することなく、私と夫の方を交互に見た。まるで慈しむような眼光。そして「私は言うなれば、あなた方の子です。建設現場で怪我をして働けなくなった私は生活保護申請をする気力もなく、路上の空き缶を集めては、コンビ二の廃棄弁当を貪りました。街に剥き出しの鼠のように徘徊し、翼を失ったコウモリのように伏しました。そんな時、私を産み落としたあなた方の事を考えました。あなた方は私に何をお望みになったのか、果たして、鼠やコウモリが繁栄するそれよりも躍起になる生殖活動があったのかどうか確かめにきました。言うなれば、私は望まれて産まれた子ではなく、自分に水分を与え続けない事が最も私の世界への接続方法として最もふさわしい行為ではないかと、自己確立したアイデンティティを自分ではない誰か、まさか自分を少しでも愛した人間がこの世に存在しているとしたらなどと、虚妄に苛まれ、時空を超えてここまでやってきたというわけです。どうか、今、この瞬間の幸福を忘れないでいただきたい。それは私自身に対する私への提言でもあるのでしょう。言うなれば、何も言えません。そうですとも、私はつまらぬゴミステイションの回収業者です。お水をありがとう」と言った。のだろうか―あなたは私達の―それで? ―今日は、火曜日で―回収日じゃない―
ノクターンの旋律は僕と麻衣子の物語の広がりを讃えているように淡い。僕の唇は優しく、麻衣子の唇に触れる。北風に揺れた麻衣子の髪の毛が僕の頬を撫でるように靡く。隣のツタが生えた古民家、私鉄線の踏切、カラス、雲、コンクリート、風、全てが僕達にとっての始まりの色彩を放っている。もし、突然、老人が勝手に部屋に入ってきたとて、僕は警察なんかに通報はしない。それほどまでに君と紡ぐ世界は愛おしい。例えば、君と―それは、そう、これから、君と―そうすれば、ここから始められる。僕は20年先の未来から戻ってきたように今、この瞬間を、掴み切れなくとも、温める。もしも、君と始まる物語の中に君との子がいるとするのであれば、僕は精一杯、今からの広がりの中で、その子の幸福とつながっていきたいと思う。そう思う。僕は君をたった今、本当に、愛しているという言葉が形骸化をしても、それ以上君の唇とベランダに吹き込む風の柔らかさがそれとして、絶妙に、終わりのない旋律を奏でている。新たなる訪問者を今なら最大限に慈しむことができるだろう。今なら、今なら―
(了)