マーボー豆腐からの湯豆腐
午前の必須単位の授業が終わり、午後の小テストに備えて、僕は教室へ急いた。
教室に入ると、予想外な事に、あまり人はいなかった。
困惑はしているけど、とりあえず席を取るために、前の列にカバンを置こうとした。
そして、黒板の前を通る時、ふっと黒板の方を見て、大きく書かれた文字が目に入った。
『急用が出来たから、今日の授業はおやすみ、テスト用紙は宿題として、次回提出してください。』
その内容を読んで、僕は少し驚いた。
周りをよく見ていると、一番前の列の中央の席に、クラスの人数分のテスト用紙が置かれていた。
僕のスケジュールでは、午後の授業はこの先生の授業だけ。
だから、黒板の文字通りだったら、テスト用紙を持ったら帰っていい事になる。
しかし、本当に帰っていいのかと、僕は戸惑った。
そうして考えていると、弁当を持ってきた別の学科の先輩が教室に入り、そして彼は黒板を見て、顔色一つ変えずに、スマホを取り出した。
「なあ、俺だけどさ、やっぱ午後のネッカフェ一緒に行くわ。休みになったからさー。」
テスト用紙だけ適当に手に取り、そのまま話しながら教室から出て行った先輩を見て、僕はテスト用紙を一枚取った。
慎重にテスト用紙を折り、それをカバンにあるクリアファイルに入れた後、僕も教室から出た。
学校から出るバスを乗り、気づいたら終着までついたバスから降りて、僕は時間を見て、また迷い続けていた。
午後の一時過ぎのこの時間帯、いつもなら、僕は教室の中にいて、授業なりテストなりを受けている。
しかし、この時間が空いてしまい、僕は何をすればいいのか、考えがまとまらなかった。
『グー』
腹の虫の声を聞き、そう言えば、テストの予習をできるだけするようにと思い、おにぎりを買っただけで、僕はまだ何も食べていなかった。
帰っていいと分かって、待ち時間の間に食べてしまおうと、バス停まで歩いたら、丁度バスが来ていて、僕はそのままバスに乗った。
結局、昼の時間は全て移動に費やして、おにぎりすらも食べていなかった。
カバンにはおにぎりが入っているままだけど、せっかくなので、前々から気になっている店とか、入ってみようと、僕は決めた。
「好きな席にどうぞ、決まったら呼んでくださいね。」
店員にそう言われ、僕はカバンを置き、渡されたメニューを開いた。
店内の辛い香辛料の香りが鼻に入り、四川料理はどんな物なのかはわからないけど、辛いものがあるという事だけは、匂いで分かった。
料理の紹介文を読んでいると、『本格的なスパイスを使用し、本場の味を表現する!』との一文に、目が止まった。
本格的なスパイスなんて、家にあるはずもなく、どんな味なのか想像はできないけど、メニューにある写真を見ると、すぐに僕の心は決まった。
メニューを閉じ、注文するために、僕は店員を呼んだ。
頼んだ料理を食べて、結論だけ言うと、物足りない。
いや、マーボー豆腐は確かに美味い、美味かったけど、馴染みのない辛味が刺激的で、辛くてピリピリしてて舌が痛くなる感覚に、少しだけ困惑してしまった。
肉と豆腐の比率はほどよく、違う食感と味わいに、ご飯がかなり進むようなものだけど、肝心なご飯の量が、足りない。
しかし、追加で何かを注文するほど、懐に余裕がなく、僕はさっさと支払いを済まして、店から出た。
まだ辛子の香りがまだ鼻腔の中に残り、食べたばかりなのに、またマーボー豆腐が食べたくなった。
なら、いっそのこと木綿豆腐を買って、家にあるネギとひき肉で作ってみよう。
そうと決まったら、父さんに献立の連絡をしないと。
メッセージを入れて、少ししたら、既読のマークがつき、そして、目を輝かせるパンのスタンプが帰ってきた。
何故その選択なのか、いや、そのスタンプを贈ったのは僕だけど、選ばれたそのスタンプを見て、僕は少し和んだ。
どこかにやけそうになる顔を抑えて、僕は簡単にスタンプで返して、料理するために、家へ急いた。
豆腐を買い、家に戻った僕は、一度買った食材を冷蔵庫に仕舞いに厨房に入った。
炊飯器に洗った米を入れて、スイッチを忘れずに入れたら、僕は家事に取り掛かった。
丁度いいタイミングで洗濯機の洗濯モードが終わり、二人分の服を干した後、僕は晩ご飯を準備するために、厨房に入った。
必要な調味料と鶏ガラスープの素を用意し、豆腐、ひき肉、ネギ、生姜を取り出して、食材を切る準備をしていたら、スマホから通知音が鳴った。
念のために手を拭き、スマホのロックを解除したら、父さんからのメッセージが見えた。
『なんか飲み会に行く流れになったから、帰りは遅くなる。』
予想外の連絡に、一瞬だけぼーとしてしまったが、仕事での付き合いなら仕方ないと納得し、僕は豆腐を半分冷蔵庫に戻した。
今回に鍋を置き、その中に水を入れて、火をつけて、水を沸騰させる。
沸騰を待っている間に、僕は包丁を握って、ネギと生姜を刻んで、豆腐をサイコロ状に切った。
普通作っている時、豆腐は大きく切り過ぎると、崩れやすくなるけど、おうち料理だし、大きいのが食べたいから、僕は豆腐を大きめに切った。
鍋から音がしたのを聞き、僕は沸かしたお湯の中に鶏ガラスープの素を入れた。
しばらくスープの素が溶けるのを見て、お湯の色が変わったのを確認したあと、僕は豆腐を中に入れた。
豆腐を湯通しするその間に、僕はフライパンを用意し、その中に油を入れて、刻んたネギと生姜を入れたら軽く炒めて、そして、ひき肉も入れる。
「あっ。」
ここで、僕はひき肉をうっかり全部投下してしまった事に気づいた。
父さんが飲み会に行くなら、多分食事もするだろうし、量はちょっと多すぎる。
しかし、調味料を加える前だし、後で分ければいいと考えた僕は、そのまま炒め続けた。
炒めていくと、段々と肉の匂いとネギの香りが強くなってくる。
肉に火がちゃんと通したのを確認した後、僕は火を止めて、フライパンの中のひき肉を半分ぐらい取り出した。
そぼろとしてそのまま使うのか、または別のものに使うのかは、後で考えるとして、僕は茹だった豆腐を鍋から取り出して、それをフライパンの中に入れた。
家で作るマーボー豆腐は、身も蓋もない言い方をすれば、香辛料が足りるはずがない。
だから、塩と安定の豆板醤を入れた後、僕は好きなようにラー油と唐辛子を入れて、味見しながら、辛すぎず、塩辛くならないように、味を整えた。
とは言え、気が付けば、フライパンの中身が大分赤くなり、それでも辛さが足りないと感じるが、これ以上は健康に宜しくない、ような気がする。
自分の辛さ耐性に呆れずつも、僕はマーボー豆腐を大皿に盛り付けた。
大きいなお椀を手に取り、思うがままにご飯を盛ったら、大皿とお椀を持って、僕は居間へ移動した。
マーボー豆腐を結構辛く作ったから、食べながら、汗が頬を沿って流れ落ちる。
けど、崩れた豆腐も、なんとか大きい形を保った豆腐も、好きなだけ食べれて、そこに肉、ネギ、生姜、どれも辛味とうまく絡めて、とても美味しかった。
何よりも!ご飯のおかわりができる!これほど嬉しいことはあるだろうか!
と、脳内でそう叫んでいると、いつの間に、大皿の中にあるマーボー豆腐を完食してしまった。
少し名残惜しいけど、お椀の中のご飯も食べきって、僕は食器を持ち、厨房の中に入った。
使った食器を洗い、厨房の片付けも一緒に済ませて、汗を一杯流したから、僕は風呂に入った。
外行きのコンタクトレンズを外し、メガネをかけたあと、僕は普段着に着替えた。
カバンを掴み、居間に戻った僕は、適当に音楽を流しながら、気が進まないけど、今日の宿題となったテスト用紙と、割と真剣に向き合った。
「はあー、終わった!!」
ボールペンを置き、思わず声を上げて、僕は怒りを込めてそう言った。
この先生の授業は難しくないけど、問題は先生の作るテストの問題。引っ掛けにトラップ、形容ギミックも多すぎる。
答え自体が単純なだけに、余計に自分の回答が信じられなくなる。
こうしてじっくり考えられる時間があれば、案外面白い問題が多くて、ちょっとだけ楽しいかも。
まあ、やはりとても面倒くさいけど。
『ガチャ。』
「たーいま……。」
玄関から父さんの疲れ切った声が聞こえて、僕は宿題のテスト用紙をカバンに突っ込んで、玄関の方に行った。
「ちょっ、大丈夫か?」
遠くてもわかる酒の匂いと、何故か普段よりも白くなった父さんの顔を見て、僕は思わずそう聞いた。
そうしたら、父さんはぼーと僕を見たあと、搾り出すように声を出した。
「あー、悪いけど、なんか食べ物ある?」
「え、あるけど、飲み会に行ったんじゃないの?」
「それが聞いてよ、完全に騙された、完全に。」
「分かった、とりあえず居間に行こう、ここは寒いから。」
「うん?おう、そうだな。」
遠慮もなく肩を掴まれて、父さんの口からの強い酒気を感じ、僕はなんとか父さんを支えて、二人で居間へ移動する。
移動している間に、父さんから話を聞いた。
どうやら父さんが現在単身である事を知って、会社の同僚が父さんに女を紹介しようと呼んだらしい。
父さんといえば、予約した飲み会に欠員が出ると困るという話を聞いただけで、途中まで周りのノリがわからなかった。
そして、これが合コンである事をやっと理解し、半端黙々と飲んだお酒のおかげで、その場から離脱したらしい。
「お肉が美味しいと聞いたのに、うっ、気持ち悪い……。」
「大丈夫?水飲む?」
「いや、もう、何も飲みたくない。」
ソファーに倒れるように座る父さんを見て、僕は少し考えたあと、父さんにそう聞いた。
「豆腐があるけど、食べる?」
割とある程度の間が空き、もしかして聞いてなかったのかと考え、もう一度聞こうとしたら、小さな声で、父さんは申し訳なさそうに答えた。
「あー、マーボー豆腐か、今辛いのはちょっと……。」
「なら、湯豆腐は?」
返事がない、けど、わかりやすい父さんの頷きを見て、僕は厨房に入り、棚の中を探してみた。
昔キャンプに行った時に使った携帯式のガスコンロを見つけて、それを陶器のお鍋と一緒に取り出した。
冷蔵庫を開けて、お鍋に取っておいた鶏ガラスープを入れて、それをガスコンロと一緒に持て、居間のテーブルに運んでいく。
コンロにガス缶を設置し、お鍋をコンロに置いたら、ガスコンロに火をつけて、僕は一度厨房に戻る。
木綿豆腐を適切な大きさに切り、ネギの太い部分を豆腐と同じぐらいの長さに切った後、豆腐とネギを大皿に乗せて、それも居間へ持っていく。
鍋の中に豆腐とネギを入れたら、蓋をして、僕はもう一回厨房に戻り、今度は残ったネギと生姜を刻み、小皿に載せて、塩、醤油差しとラー油をトレーに並べた。
そして、お玉、箸にお皿、お椀、一人分の食器を用意できたら、それもトレーに置いて、僕はトレーを持って、居間に戻る。
いつの間にか、父さんはテーブルの前に移動し、眠たそうな目をしながら、お鍋を見つめていた。
僕が戻ってきた事に気づくと、へらっと父さんは大きく笑みを見せ、どこか無邪気な声で、父さんは僕に言った。
「なんかさ、鍋を見ると、テンションが上がる。」
「確かに、湯気を見ているだけでも、なんか楽しいよね。」
「ね。」
僕がトレーから食器をテーブルに移すのを見て、父さんはゆっくりと手を伸ばして、僕にそう確認した。
「そろそろいいかな?」
「いいと思う。」
「へへ、じゃあ、開けるか。」
そう言って、父さんは手を伸ばし、素早く鍋の蓋を開けて、それをテーブルに置いた。
ふわっと白い湯気が鍋から溢れ、僕は少し距離があるから、暖かいなと感じるだけだったが、鍋のまっすぐ前に座る父さんのメガネは真っ白に染まった。
「おお、真っ白だ!」
声を聞いて、父さんの方を見たら、白くなったレンズ越し、父さんと目があった。
数秒後、突然父さんが大きな声で笑い出して、僕も釣られて、笑ってしまった。
「あのさ、父さん、それずるいよ。」
「そう?頂いてもいい?」
全く気にせず、ただ箸を握り、ウズウズしている父さんを見て、僕はなんとか笑いを抑えて、父さんにこう答えた。
「はい、どうぞ。」
「わーい、いっただっきまーす!」
子供っぽく両手を合わせたあと、どこかおぼつかない手つきで箸を使って、豆腐を取ろうとする父さんを見て、僕はさっとお玉を渡した。
お玉を見て、キョトンとした顔で僕を見たあと、父さんはお玉を受け取り、そして気づいた!かのような表情になり、父さんはお玉で豆腐を掬った。
「そうだった、こっちのがお玉だった。」
「……酔っ払ってますか?」
「うーん、酔っ払っ、てる?」
普段では絶対見れない父さんの姿を見て、僕は酔っ払う事が想像以上に凄まじい事だとわかった。
わかったけど、少し不安になって、僕は父さんに聞いたみた。
「お酒を飲んだらさ、誰でも酔っ払うの?」
「ほ?ひはうおおもふよ。」
暖かい湯豆腐を頬張りながらも、父さんは答えようとしてくれた。
その返事を聞いて、少しだけ笑いたくなるけど、食事の邪魔になってると思い、お茶でも入れようと、僕は立ち上がった。
「っ、どうした?」
急いて豆腐を飲み込んだ父さんに気づき、僕はちょっとビックリして、変な声で返してしまった。
「んや!?お茶を入れようかなーと思って。」
「そうか、僕の分も頼んでいい?」
「もちろんだよ、父さん。」
元々そのつもりだったし、当たり前のようにそう答えたら、父さんは嬉しそうに笑い、次の瞬間、何故か涙目になりながら、僕にこう言った。
「やっぱりお前は僕の自慢の子だ、気遣いもできるし料理もうまい、絶対にどこへも出さないぞ!」
「いやいや、そこはどこへ出しでも大丈夫と言ってよ、てかどこへ出される予定はないけどね!」
「大丈夫だけどさー、出したくない場所あるやん。」
もう酒を飲んでいないのに、完全に酔っ払ってる父さんを見て、これ以上この話題を続けたらまずい気がして、僕は少し強引に話題を変えた。
「そうだ、湯豆腐だけで足りる?他になんか食べる?食べるなら準備するよ。」
「そう、だな、もう少しくらいなら、入りそう?」
「じゃ、準備してくるから、ちょっと待ってて。」
「はーい。」
父さんの気の抜けた返事を聞いて、僕は厨房に入り、残ったご飯と卵を冷蔵庫から取り出した。
そぼろの他にも、何かお雑炊に合うようないい物はないかと、そう思いつくと、僕はちょっとだけ冷蔵庫の中身を確認した。
そして、タッパーたちに貼ってあるメモを確認したら、漬け物が入ってるタッパーを、いくつか見つけた。
漬け物を取り出そうとして、父さんの言う『もう少し』ってどれくらいだ?と疑問が浮かんだ。
父さんに聞いてみようと思い、僕はお茶を入れて、一度居間に戻った。
「これは……。」
足音を立てて、テーブルの前まで歩いたのに、父さんは目を閉じたまま、椅子に持たれるように座って、いや、寝ている。
そんな体勢で寝たら絶対キツイと思って、僕は頑張って父さんの体を支えて、とりあえず近くにあるソファーに座らせた。
父さんを起こさなかった時に安心したら、湯豆腐に使うガスコンロの火を思い出して、それが消してるかどうかが気になり、僕は慌ててテーブルまで戻った。
ガスコンロを見ると、ちゃんと火が消していて、僕は安心した。
ガスコンロから視線を移すと、鍋の中にある豆腐は全部食べられて、用意された薬味の小皿も、ほぼ全部綺麗に空になっていた事に、僕は気づいた。
もしかしたら、父さんはただお腹が空いていただけかもしれない。
けど、用意した料理を全部食べてくれた事は、やはり嬉しい事だ。
椅子に座り、僕は自分が入れてきたお茶を飲みながら、片付ける前に、僕は溢れんばかりの喜びを、噛み締めていた。
次は何にしようかな。