『二つ名:ポラリス〈北極星〉』
プロローグはこれで終わりです
目の前のふらふらとした男を殴ったしっかりとした感触を受けて、僕は『真名』が効いたことを理解する。一応、もうしばらくは『真名』の効果が続くので安心である。
男が村長の息子に放ったような超威力の火炎を熾さない限りは。さらに言えば、この男の『真名』も十分な脅威となりえる可能性があるが、魔力量消費が激しい五文節以上なら使うことはないだろう。
僕は素早く結論付けて追撃に走る。まだ、男は上半身しか起こしておらず、次は顔面に拳を打ち込むことが出来ると踏んで。
僕は大きな一歩を飛ぶ。男の顔面の中央に拳撃を合わせるために姿勢を低くして二歩目。一瞬、男と目が合った……未だに笑顔を絶やしていない、気味が悪い。
「ねぇ、それがあなたの表示なのですね? 『真名』までを使って私を攻撃したいのですか? そんなに敵対したいのですか? そうでしょう」
また口を半開きにした男は唾と一緒に血を飛ばしながら、飄々とした態度で喚く。ほざく。
もしかして、自分が絶体絶命な状況であるといことが分かっていないのだろうか?
確かにあの骨も残さず焦がし切るような炎があれば余裕があるのかもしれないけど、男は使う素振りすら見せない。……無詠唱なのか?
少しだけ無駄な思考が漏れ出してきたが、僕は切り替えてそれらを一切合切取り合わず、ただ当てることだけに集中する。距離は一メートル弱。
「ねぇ、そろそろ私も本気を出していいですか? やられっぱなしというのは私らしからぬ表示なのですよ、違いますか? そうで――――「黙れ」
男の顔面に触れた瞬間、全力で振り抜く。半ば、上半身しか起き上がっていない男を引き摺るようにして。地面が削れる音を聞きながら。
所詮はただ鍛えただけの拳だったが、勢いは十分。男は体を慣性の法則に乗っ取られ、地面を転がる。自分が思った以上に手が痛いし重い。よく見ると僕の手に男の唇からこぼれた血の塊が付いていた。
僕は今の会心の手ごたえから流石に気絶したと思ったのだが、
「……ねぇ、そろそろやめてくれませんか? 無理ですか? 無理ですよね? そうでしょう」
さっきよりも数段低い声で質問が飛んできた。もちろん、無視――――男の目は異常なほどに曇っていた。僕は鮮烈な、真っ赤な殺気を感じてすぐさま飛びのく。
ただ、漠然とした恐怖から。予想もへったくれもない勘から。
地面が抉れて火柱、いや、白い炎だから光の柱とでも言うべき存在が立ち昇る。
全てを消滅させる勢いで。そして、予想外なことに避けただけでは無事ではなかった。
違う、むしろ当然の結果だ。火が白くなるほどに温度が高いのならば、その火に炙られただけでも死ぬ可能性はある。
だから、僕の服の外の皮膚はあっという間にだれていく。顔や首が、それに目も。
痛い、張り付くように鋭い。内側から破れて崩壊するような感覚。
即座に本能は体が空中にあることを無視して頭を守るように手が操った。それほどまでに脳は危機感を覚えている。
しかも、超高温の猛威がそれだけなんてことはなかった。
物にはすべて発火点がある。つまり、服は、たった今身に着けている服は、燃え始める。
焼けるように、いや、比喩ではなく炎は身を焼いていく。
死ぬ――――ただ、それだけだった。回避なんて言うのは意味がなかった。
つまり、もしかしなくとも、僕なんてこの男はいつでも殺せたのか……。
死ぬ――――他の村人と、両親と、村長の息子と同じように。
いや、おかしい。おかしいよ。他の村人は切断死体だった。
結論――――襲撃者は二人以上いる。
だけど、だけれども、そこに気付くことが出来たけれどももう遅かった。
走馬燈ももう終わりを迎えたのだから。
しかし、最後に取って付けたように二言だけ声が流れてきたのを聞いた。
あの男ではない。もう一つの声を。
「少年、君には勇気があった」
「俺は君の勇気を称賛する、だから」
――――最後の文節は意識が掠れて聞き取れなかったけれど、
――――僕はこの最後の言葉を押し図ることは出来る。
なぜなら、この日を境に僕は『ポラリス』の二つ名を手に入れたのだから。
聖騎士と対を成す『星の二つ名』を、手に入れてしまったのだから。
つまり、彼はこう言ったはずだ。
「俺は君の勇気を称賛する、だから、君に『ポラリスの名を授けよう」と。
そして、意識は回復する。
彼は蛇の形をした影を自由に操って僕を優しく食らって、男を滅ぼすように激しく喰らう。
男はそんな蛇を払おうと何度も影の内部に光の柱を落とすが、影であるはずの蛇が払われることはなかった。いや、むしろ影はその光さえも喰らっていっそうに闇を深くさせる。
「ねぇ、どういうことですか? 『トゥバン』? これは明確な敵対行動と捉えてよろしいのですか? そうでしょう」
男は初めて顔を曇らせて彼を責め立てる。
「ああ、そうだ。『二つ名』も受け継がせてしまったしな。敵対行動の何物でもないだろう。けどな、俺は最初に言ったはずだ。子供には手を出すなって」
「ねぇ、確かに私が悪かったですね。でも、『二つ名』を与えてしまったあなたには勝ち目はないでしょう? なら、なぜ闘うのです? それがあなたの表示なのですか? 死にたいという表示ですか? そうでしょう」
そう男二人がやりとりを交わす間にも僕の体はなぜか急速に修復されていく。ただれた皮膚も燃えていた服も全てを元通りにして。魔法ならば尋常じゃない魔力量を要求されるはずだ。
それこそ、最強魔法:絶対零度に匹敵するほどの。
いや、今更驚いたところで遅いかもしれない。なぜなら、彼の出す影は比例的に大きくなって空間を埋め尽くしているし、男の白炎は威力が増しているようで地面の砂を溶かし、光沢のある硝子を大量に生み出しているからだ。
「違う。俺は死ぬのなんて真っ平だ、御免だ。至極、遠慮させていただきたいね。それに表示、表示うるせぇんだよ。俺は助けたいやつを扶ける、それだけだ」
そう彼は言い切ったものの、圧倒的優位に立っているにも関わらず、影を見て顔をしかめる。
「やっぱり薄くなるか……。しょうがない。おいそこの少年、ぼそっと突っ立ってないで逃げやがれ、それと、ハイト博士のところに行け。まあ、そこに行ったらお前さんが置かれた状況はよく分かるから」
なんて早口まくし立てる。しかし、妙な説得力があった、言われた通りに行動したくなるような。
多分、彼の内心の焦りがじりじりと零れ落ちていたからだろう。それだけ、彼に余裕はない。
心なしか影が光の柱を吸収できずに熱を漏らしているようにも感じる。
……彼の額から汗が垂れた。
もう、きっと僕にできることはもうないだろう。『真名』を行使したところであの男は倒せないことは分かりきっているのだから。だから、これ以上はここに居られない。邪魔なだけだ。
「分かりました、助けてくれてありがとうございました」
僕は一礼だけし、今までの光景に蓋をするようにして忘れるようにして、一切振り向かず思い出さず、ただ山を下って行くと決めた。
最後にほんの一瞬だけ、故意ではなく、本当にたまたま二人の男の横顔が視界に映った。
男が新しい玩具を買ってもらった子供のような無邪気な笑顔を携えて、血だらけの口から唾を落としながら彼に何かを話し掛けているところが。
僕は彼の顔を見なかったことにした。
これ以降、僕は故郷の村に帰っていない。