第95話 吸血鬼の本能
迷宮内に存在する深層と中層の丁度境目付近にて。
手近な段差に腰を下ろすウィスパーは貧乏ゆすりを繰り返しながら、ちらちらととある方向に視線を送っていた。
「……ルナの奴、遅いな」
懐から手巻き式の懐中時計を取りだしたウィスパーは中を確認して眉を潜めた。
ルナが彼の前を去ってからすでに一時間近く。
いくらなんでも時間がかかりすぎだった。
「まさかあいつに限ってやられたなんてことはないだろうが……」
ここはフェリアル迷宮。
何が起きても不思議ではない。
もしもルナの身に何かあったのなら……探しにいかなければならない。
だが今のウィスパーにはそれが出来ない事情があった。
彼の隣ですやすやと寝息を立てる少女、リンがいたからだ。
土蜘蛛と戦った疲労はやはり大きいようで、多少ゆすったくらいでは起きる気配がない。彼女を一人置いて探しにいくようなことは出来ない。そんなことをしたらルナに殺されてしまう。
「ったく……こんなことなら俺が狩りに行くんだったぜ」
「誰が狩りに行くって?」
唐突に聞こえた声は背後から。
バッと飛び起きて、構えるウィスパーの目の前には……
「何だ……ルナか。驚かすなよ」
ずっと待ち続けた少女の姿があった。
「ごめんごめん。思ったより時間かかっちゃってさ」
てへぺろっ、と舌を出すルナ。
あざと可愛かった。
「ったく、本当に頼むぜ。こっちがどんだけ心配したと思ってんだ」
後ろ頭を掻きながら愚痴を零すウィスパー。
素直に安心したと言えないあたりが彼らしい。
そんなウィスパーの態度にしかし、ルナはなぜかにこにこと笑みを浮かべていた。
「なんだよ」
「別に。ウィスパーが私のこと心配してくれて嬉しかっただけ」
そう言ってにこっと笑みを浮かべるルナ。
その可愛らしい仕草に思わず心臓が高鳴るのをウィスパーは感じていた。
(おいおい……何考えてんだよ俺は。相手はまだ子供だぞ)
そして同時にそんなことをちらりとでも感じてしまった自分に酷い嫌悪感を覚えていた。
「どうかしたの? ウィスパー、顔赤いよ?」
そして、それを表情にまで出してしまう始末。
いよいよ恥ずかしくなってきたウィスパーは視線を逸らし、
「いや……別になんでもない」
平静を装いながらそう言うのだった。
「お前も疲れただろ、リンと一緒に寝ておけよ」
「おお、急に優しいね、ウィスパー。でも大丈夫だよ、まだ眠気はそんなにないから」
「……そういや吸血鬼ってのはあまり眠らない種族なんだったか。なかなか便利な体を持ってんな」
伝説とまで呼ばれている吸血鬼。
それが目の前にいることが未だに信じられない気分だったウィスパーはルナの体を改めて眺めてみる。
歳相応の身長に、透き通るような白い肌と銀の髪。整った顔立ちからは将来は確実に美人になるであろうことが伺える。
しかしそういう外見を除けば、ルナはどこからどう見ても普通の女の子にしか見えなかった。その実、大の男でも適わない力を持っているというのに。
「その細腕のどこにあんな力があるんだか」
「ふふ……気になる?」
思わず漏れた独り言にルナは怪しい笑みを浮かべた。
例えは悪いがそれはまるで獲物を見つけた蛇のように……
「……ルナ?」
「気になるなら……教えてあげる」
妖艶な笑みを浮かべるルナはそう言ってウィスパーとの距離を詰める。
反射的に後ろに下がったが、ルナのほうが早かった。
胸の辺りを軽く押されたウィスパーは尻餅をついてしまう。
そこでウィスパーはルナの様子がおかしいことに気付いた。
すでに吸血状態を脱しているのだろうルナはやや血走った瑠璃色の瞳でウィスパーを見ていた。そこに宿るのは思わずぞっとするような怪しい光。
「おいルナっ、やめろ!」
「怖い? だけど心配しないで、すぐ……終わるから」
つうぅ、とウィスパーの胸元を指でなぞるルナ。
咄嗟に恐怖を感じたウィスパーは何とかルナを押しのけようと力を込めるが、無駄だった。吸血状態ではないといえ、ルナの身体能力はすでに成人男性のそれを遥かに凌駕している。元々魔術師として体を鍛えこんでいないウィスパーにはどうしたってその拘束を解くことは出来なかった。
「な、何をするつもりだっ!」
「ふふ、安心して。これからするのは……とっても気持ちの良いことよ」
舌なめずりするルナがより一層ウィスパーに密着する。
顔と顔がくっつきそうなほどに接近した二人。
キスでもされるのかと思ったがそうではなかった。
ウィスパーの唇を通り過ぎたルナの口元はそのまま……
「ぐ……ああッ!」
ウィスパーの首元、その太い血管に鋭い犬歯を深々と突き立てるのだった。
痛みは一瞬。まるで注射でもされたかのような違和感だけが首元に残っている。
「ん……あ、ん、んんっ!」
「る……な……」
一心不乱に首元にかぶりつくルナ。
吸血鬼に血を吸われると激痛と共に死に至ると伝説では言われていた。
だが今、ウィスパーを満たしているのは苦痛ではなかった。
まるで背筋を直に撫でられているような感覚。体の倦怠感と共に、天に昇るかのような射幸心。
一言で言えば……とても気持ちが良かったのだ。
だが……
「や、めろ……ルナ……っ!」
その快感に負けたら駄目だと本能が訴えていた。
弱々しさを増す手つきで何とかルナを押し返そうと抵抗する。
だが、すでに意識すら朦朧とし始めていたウィスパーはそのまま……
(駄目だ……もう、意識が……)
ゆっくりと抵抗力を奪われ、ついにその手が地面に落ちた。
完全に物言わぬ体となったウィスパーに対し……
「……あはっ♪」
口元を鮮血で塗らすルナは無邪気な笑みを浮かべていた。
それはそう、どこまでも楽しそうに。




