第93話 たった一つの冴えないやり方
「終わったよ、ウィスパー」
「……そうか」
土蜘蛛を討伐してすぐに私とリンはウィスパーを探しに迷宮内を探索した。
すると5分とかからず、壁際に座り込み俯くウィスパーの姿が発見できた。
だけど、なんだか少し様子が変だ。
「何かあったの?」
「……リンを奴隷から解放した」
「それは聞いた」
「なら分かるだろう。俺はこれまでリンに対し幾つもの苦痛を与えてきた。もしかしたら死んだほうがマシだと思ったかもしれん。だが俺はそれさえも許さなかった」
「……つまり?」
何だ? ウィスパーは何を言おうとしている?
「報いは受ける。こうなった以上はな」
そう言って立ち上がったウィスパーは瞳を瞑り、両手を高く掲げて見せた。
もしかして……
「リン?」
ちらりと横に視線を向けると、そこにはいつもの無表情を保つリンの姿があった。
だけど、リンもウィスパーが何を言っているのか分かっているのだろう。未だ抜刀したままの短刀を握り締めている。
つまりウィスパーは"殺せ"と言っているのだ。
今までの恨みから考えればそれも当然のことだと。
確かに私だってガンツを殺した。奴隷として扱われ、酷い目に遭わされたからね。そうしたことに関して後悔したことは過去一度もない。
だからこそ良く分かる。この場、この瞬間。奴隷の身分から解放されたリンがウィスパーに報復を考えるのは当然のことだ。
ウィスパーに抵抗の意思はない。
またとない復讐のチャンスが訪れたのだ。
「……ウィスパーは死にたいの?」
リンが問う。
「……ああ」
ウィスパーが答える。
「俺は許されないことをした」
「……ウィスパーは何も悪いことをしていない」
「法律的にはな。だが、倫理的には決して許されることじゃない。誰かが誰かを虐げ、隷属させる。それは紛れもない悪だ」
ウィスパーは己の行いをはっきりとそう断罪した。
「罪には罰が必要だ。そしてその罰を下せるのはやはりお前しかいない、リン」
「…………」
私はリンとウィスパーの関係性をそれほど深く知っているわけではない。だからリンがどうしようとしているのかさっぱり分からない。
もしかしたらリンは……ウィスパーを殺すかもしれない。
「……ウィスパーはそれで良いの?」
「ああ。さっきも言ったが俺はもう覚悟を決めている」
瞳を開き、リンを見つめるウィスパーはどこまでも真剣な表情のまま語りかける。
「正直に言おう。俺は……もう疲れたんだ。この生活に、この人生に。いつまた記憶を失うともしれないこの俺自身に。だから……頼む。俺を終わらせてくれ。何も持たない、名無しの男の生涯を今ここで」
ウィスパーの言葉にすでに強制力はない。
だが真摯に頼み込むウィスパーはそれを本気で望んでいるようだった。
罪には罰が与えられる。そして罰を与えられれば許しが得られる。
ウィスパーは自分の命をもって贖罪を果たそうとしているのだ。
私はウィスパーの過去を知らない。
記憶の欠落がどの程度のものなのかも知らない。
だからウィスパーの苦悩も、悲痛も分からない。
それを一番良く知っているのは……私ではない。リンだ。
これまでずっと一緒にウィスパーと居たリンにだけ分かることなのだ。
そんなリンがウィスパーの頼みに対し、返した答えは……
「……ウィスパーは料理を食べるとき、好きなものは最後に残す」
「……何?」
そんな、この場の会話にそぐわない意味の分からない答えだった。
「何を言っている、リン?」
「ウィスパーは左利き。だから魔鉱石の指輪も左手に嵌めている」
ウィスパーの問いを無視して、リンは語り続ける。
「ウィスパーは甘い食べ物が好き。前に蜂蜜をつけたパンを食べたときにとても嬉しそうにしていた」
それはリンが知るウィスパーの記憶。
「ウィスパーは綺麗好き。一度寝床の掃除を忘れていたら怒られた」
この場にはそぐわない、しかし確かにあった二人の記憶。
「ウィスパーは血が苦手。ナイフを持って戦うのも得意じゃない」
「リン、何が言いたい?」
「……ウィスパーは一日に一度必ずお祈りを捧げる」
「リン……良いか、よく聞け。お前はもう奴隷じゃない。俺が昔に命令したことを覚えているのならそんなもの、もう律儀に守る必要はないんだ。お前はもう自由なん……」
「ウィスパーはっ!」
ウィスパーの言葉を遮るように、リンは大声を上げた。
今まで一度も聞いたことのない、リンの大声。
見るとリンは……
「ウィスパーは……いつだって私の歩幅に合わせて歩いてくれた……」
ぼろぼろと、大粒の涙を流していた。
ずっと無表情を貫いていたリン。そんな彼女が見せた泣き顔に、ウィスパーも驚いているようだった。そしてその理由にも。
「リン……」
「私はウィスパーを殺さない……殺せないよ……」
からんっ、からんっと空虚な音を響かせてリンの持っていた短刀が地面を転がる。空いた両手で瞳を押さえるリンの背中はとても寂しそうに見えた。
「リン、俺は……」
そんなリンの様子に手を伸ばしかけ、止まる。
まるでその資格なんて持っていないとでも言うように、ウィスパーは握り締めた手をそのまま引っ込めた。そして……
「……さよならだ、リン」
こちらに背を向け、たった一人で歩き出してしまうのだった。
遠ざかっていくウィスパー。
広がり続ける二人の距離に、私は……
「ウィスパーっ!」
彼の名を呼び、駆け出していた。
そして……
「ルナ……? って、おいッ!」
「歯を、食いしばれっ!」
力の限り……は顎の骨が粉砕してしまうので、相当の手加減をした力でウィスパーの顔面を殴りつける。それでもたまらず地面に倒れこむウィスパーは頬を押さえたままでこちらを信じられないとでも言うような目で見ていた。
ったく、信じられないのはこっちだってのに。
「どこへ行くんだよ、ウィスパー」
「……俺にはもうお前達と一緒にいる資格なんてない」
「資格? 誰かと一緒にいるのにそんなものは必要ない。自分で決めた縛りに自分で絡まってどうするんだよ」
本当なら二人の問題に私は突っ込むべきじゃないんだろう。
だけどどうしても許せなかった。
「だが俺は……罪を犯した。どうしたって許されない罪を」
自分を卑下するウィスパーの物言いが。
そして……
「──ふざけるなよ、ウィスパー」
そんなものの為に命を捨てようとしているウィスパーのその態度が。
「罪なら私だって持っている。聞け、ウィスパー。聞いてくれ!」
ウィスパーの首元を掴んだ私は強引に体を起こさせ、目の前で言い切ってみせる。
「罪は誰だって持っているものなんだ! お前だけじゃない! 誰だってそれを抱えて生きている! 私にはそれが分かるんだよ!」
鑑定を持ち、人々の罪を見続けてきた。
確かにその数値に大小はあれど、しかし0なんて人間は今まで一度も見たことがない。つまりはそういうことだ。
「しかし……」
「しかしじゃねえだろっ、ウィスパー! いい加減に気付けよ! 今、お前がするべきことは潔く身を引くことでも、許しを求めることでもないっ!」
いい加減我慢の限界だった私はウィスパーに詰め寄り、啖呵を切ってみせる。
憤怒は私の罪じゃないっていうのに。ああ、嫌な気分だ。
だけど言ってやる。ウィスパーと……そして誰よりリンの為に。
「見ろっ!」
指差し、ウィスパーの視線を強引にそちらに向けさせる。
その視線の先にはリンがいた。涙を流し、たった独りで座り込むリンの姿が。
「お前のすることなんて一つしかない。泣いている女がいるんだぞ、だったら額を地面に擦り付けてでも詫びろ」
古今東西、女の涙を前に男のすることなんて決まっている。決まりきっている。
「私はウィスパーのことをほとんど知らない。だけどこれだけは知っているぞ」
ウィスパーの過去は知らなくても、それだけは分かっていた。
「謝ってこい。お前は"男"だろうが!」
「…………っ」
私の剣幕にウィスパーはついに折れた。
項垂れ、小さく頷いたウィスパーはリンの元に歩み寄り、そして……
「すまない、リン。本当に悪かった。今までのこと、全部……」
吐き出すように、今までの罪を懺悔するのだった。
「すまない……本当にすまない、リン」
静かにその頬を一筋の雫で濡らしながら、ウィスパーは謝り続ける。
リンの傍で、彼女が泣き止むまで。
ずっと、ずっと……いつまでも……




