第89話 名無しの男
ウィスパーという男がそのような名前で呼ばれるようになった経緯は簡単だ。
行き場を失い、自らが何者かすら分からなくなった虚ろの男。そんな彼にとってはぴったりの名前だっただろう。
違和感を覚えたのは10年ほど前のこと。
気付けば彼は親の顔が思い出せなくなっていた。
まるで虫食いにでもあったかのように、その大切なはずの記憶が思い出せなくなっていたのだ。
そこから異変は加速度的に進行していった。
どんどん脳内を犯されていくのを感じながらもどうすることも出来なかった。大切な記憶と言う名の葉を齧り尽くす忌むべき害虫。彼が全てを失うのにそう長い時間は必要なかった。
友人、故郷、親族、そして自分自身すらも。
全てを奪われた男は思った。
次は何だ?
何を俺から取り上げる?
記憶というかけがいのないものを取り上げられた男に多くの選択肢は残されていなかった。
次にいつまた失うともしれない記憶。
それは途方もない恐怖だった。
自分が自分でなくなっていく感覚。
少しずつ足元が崩れていく、そんな絶望の淵に立たされたウィスパーはたった一つの答えを見出した。
「何でも良い。俺に奴隷を売ってくれ」
奴隷商人の元を訪れたウィスパーは一も二もなくそう言った。
その際に、相手の商人に騙され厄介な獣人族という種族の奴隷を高額で売りつけられはしたが、幸いウィスパーには金があった。どこから手に入れたとも知れない金が。
そして手に入れた奴隷……リン・リーと名乗った少女に彼は言った。
「逃げるな。逆らうな。不満を漏らすな。それが俺からの最初の命令だ。そして……」
奴隷としての生活が長かったせいだろう。感情の消えた瞳で自分を見る少女にウィスパーは縋りつくように懇願してみせた。
「俺の事を……覚えていてくれ。可能な限りで良い。俺と言う人間が何をして、何を好み、どんな性格だったのかを覚えていてくれ……頼む」
それは記憶を失う恐怖から生まれた保険だった。
自分の記憶がまた失われることになっても、奴隷に覚えさせておけば少しは取り戻すことが出来るだろうと、そう考えていた。
「……分かった」
泣きそうな顔で頼み込む男に、リンは言った。
「貴方が望むなら……私は貴方のことを忘れない」
真摯な表情でリンは頷き、そして……
──こうして二人の主従関係が始まった。
(何で今になってそんなことを思い出すんだろうな)
土蜘蛛をルナに任せたウィスパーは手の中で死に掛けているリンを地面に寝かせ、その下に魔法陣を描いていく。
その心中を満たしているのは、小さな未練だった。
(……やっぱり俺は心のどこかでコイツのことを気に入っていたってことなんだろうな。いや……違うか。そうじゃない。俺はただ"依存"していただけか)
リンを犠牲にすることに抵抗がなかったといえば嘘になる。
だが、無理して切り捨てたかと言われればそうでもない。
彼は自分の命を助けるために、奴隷を捨てた。
それは動かざる事実だ。
だというのに自分はこれからしようとしていることには前回以上の抵抗を感じている。つまりはそういうこと。
名無しの男は自分が屑だとはっきりと自覚していた。
(はっ……笑わせる。何が俺のことを覚えていてくれだよ。こんな情けない醜態を晒すくらいなら最初からそんなこと頼むべきじゃなかった)
ウィスパーがリンに望んでいたのは記憶の補填。
いずれ自分に還元する記憶の補正を頼みたかった。
だが、それが他人を食い物にする醜い自分の記憶なら……そんなものは要らない。自分で自分を恥じるような結末だけは残したくない。それがウィスパーの残した最後の結論だった。
ルナとリン。
二人の間に深い絆が生まれ始めているのには察しがついていた。
見ていれば分かる。そして、後になって状況を知り納得したものだ。
ただ二人だけがこの世界でお互いの苦悩を分かり合える存在。
だけど……だけどだ。
それは自分にしたって同じことだ。
この世界から弾かれ、排斥され、一人ぼっちにされた孤独感。それなら自分も持っている。
だがウィスパーにはそれを口にすることなんて出来なかった。
──俺も仲間に入れてくれ。
そんな安い言葉が言えなかった。
自分の中にあるちっぽけな自尊心を傷つけぬよう。
だから、見ているだけで良いと思っていた。
どうせ、いつかは朽ちる友情だと斜に構えて眺めていた。
だが……彼女達は『本物』だった。
お互いがお互いを守る為、命を差し出しあうその光景はウィスパーの常識には当てはまらないものだった。
まるで光のように純真で、輝かしいその在り方。
ウィスパーは彼女達のその生き方を、高潔なる魂を……
──何よりも美しいと、そう思った。
そして、そう思ったらもう駄目だった。
鏡を見るかのように、自らの姿を客観的に眺めた時。そこには醜い魂を晒す屑が立っていた。
(俺の記憶なんかよりよっぽど大切なことがある。今はただ……彼女達を守りたい)
心を奮い立たせたのはそんな思いからだった。
道中使った魔術の起動に必要な最高級魔鉱石。
ウィスパーの数少ない財産だったが、使い捨てにするしかない魔鉱石をあそこで使ってしまったことに後悔はない。
それで彼女達が守れるのなら三年間分の労働が無駄になったとしても構いやしない。それに……"どうせ自分はもうすぐ死ぬ"。金なんてあっても無駄だ。
「俺の全てをお前に捧げよう。だから……死ぬな、リン」
ようやく完成した魔法陣。
その中央にウィスパーはナイフで切った指先から自分の血を滴らせる。
そして、聞きなれぬ詠唱を開始した。
「《我らが契約は不可侵・故に終焉を望む者・それ即ち契約者なり》」
間違えぬようしっかりと、かつ一秒を惜しむよう迅速に。
「《我が望みは回帰・始まりの時・その誓いを灰燼に帰す》」
始まりは小さな願いからだった。
ウィスパーのたった一つの願い。
誰もが当たり前に持つ、当たり前の権利。
ただそれだけが欲しかった。
しかし……
「《全てを水泡に・捧げる対価は我が血の記憶・今こそ権利を行使せん》」
それ自身がリンを縛る鎖なのだ。
ウィスパーはリンとの契約において、大きく二つの制約を設けた。
一つは絶対遵守の法。これは全ての奴隷に共通する魔法陣から受ける痛みの制約だ。
そして、リンの場合はもう一つ……それは獣人族のリンに課せられた肉体弱化の魔法陣。
本来なら肉体を強化する『付加』の水系統。その反作用を利用した肉体に直接働きかける沈静効果の魔法陣。その呪いは筋力、敏捷以外にも肉体が本来持つ自然治癒力の低下にも及んでいる。
元々は身体能力の高い獣人族を手懐ける為の縛り。
それが今……
「《我が望みは唯一つ・全ては自由の為に・その鎖を今こそ──解き放て》!」
ウィスパーの呼び声に応え……霧散するのだった。
そして、それは同時にたった一つの事実を意味している。
それは……
「ああ、これで俺はまた……」
ウィスパーとリンの契約の解除。
つまりは"奴隷解放"に他ならない。
こうして虚ろな男はまた、己にとって大切なモノを手放してしまうのだった。己の記憶、その保管庫と共に。




