第87話 失ったはずのもの
跳躍と共に、振りかぶる。
私の右手に纏うように展開されるのは巨大な獣の爪だ。
魔力を限界まで収束し、固めたこの刃は圧倒的な質量を持っていた。
ともすれば振るうことすら困難になる重量。だが、今の私にはそれを軽々と扱える筋力値がある。
「震えろよ、土蜘蛛。これが貴様を殺す獣の爪牙だ」
リンの代打として、私は重量そのままに土蜘蛛に向けその一撃を振り下ろす。
そして……
──ズバァァアアアアッッッ!
高い魔法抵抗を持つ土蜘蛛の体はまるで熟したトマトのような柔らかさで血液を空中に撒き散らす。緑色の体液を返り浴びながら、私は更に前へ前へと進んでいく。
「ラアアアアアアアッ!」
私が右手を振るうたびに切り裂かれる土蜘蛛の体。
ガリガリと体力が減っていくのが見て分かる。
今までは貫通することすら叶わなかったというのに、今はまるで水の中を掻いているかのような呆気なさだ。
闇系統の本領は『収束』。つまりは、一点突破の切れ味にこそ、その持ち味がある。限界まで研ぎ澄まされた魔力は全てを切り裂く圧倒的な破壊力を持っていた。
射程は相変わらず5メートル程度しかないけど、それでもこれは圧倒的だ。
強度、存在感、質量、切れ味、弾性、伸縮性、扱いやすさ、全ての面において今までの『影魔法』を凌駕している。
私は試しにと、左手で細長い影糸を生成し操作してみる。
──影魔法・殺陣。
局地的にではあるが、展開された影糸を土蜘蛛の体に巻きつける。そして、そのまま強引に引っ張ると……ブシャァッ! と気持ちの悪い音と共に、土蜘蛛の脚が一本、根元から両断された。
うええ、これだから節足動物は気持ち悪いんだよ。
生理的な嫌悪感を誘う姿だ。
さっさと退場してもらおう。
「ふんッ!」
回し蹴りを土蜘蛛の胴体に叩き込み、吹き飛ばす。
元々の体力が高いこともあり、この程度では土蜘蛛を殺すには至らない。だが隙を作るには十分だ。
今はリンが心配だし、さっさと逃げることにしよう。
「……リンっ!」
駆け寄ると、リンの顔は青白く変色してしまっていた。
呼吸が荒い。脈も弱々しく、不規則だ。
「これは……まずいことになってきた……」
私は自分の傷ならいくらでも修復することが出来る。
だけど他人の傷はどうやっても治すことが出来ないのだ。
治癒系の魔術には水と光の両方の性質が必要……なのに、私にはそのどちらにも適性がない。どうやっても使えない魔術なのだ。
吸血鬼の伝説として血を浴びせれば傷が治るというものがあったので試してみる……が、駄目。どうやらこれはガセだったらしい。
他には吸血鬼の眷属にすれば治癒力が上がる可能性があるが、私にはその眷属化の方法が分からない。リンから血を吸ったことがあるけど、吸血鬼になっている様子はないし、そもそも私だって吸血鬼になってレベルを上げなければ『再生』スキルは手に入れられなかった。
眷属化したところで、すぐに『再生』スキルが入手できる確証なんてどこにもない。となると……私には打つ手がなくなる。安全なところに運び、簡単な治療を行うしか出来ることがない。
「……くそっ!」
私は……無力だ。
吸血鬼の能力?
ああ、すげえよ。圧倒的だ。
再生に魔法に身体強化、なんでもござれの万能種族だよ。
色欲の恩恵?
ああ、魔力のチートに奥の手である獅子王。
どっちも最高にずるい力だよ。
……だから?
だからなんだ?
そんな力を持っていても、私は大切な人一人癒すことは出来ないんだよ。
今まさに傷つき、倒れているリンを助けてあげることすら……私には出来ないんだよ。
「リン……リン……っ!」
「る……な……」
すでに意識が朦朧としているのか、定まらない視点で私を探すリン。
早く……早く何とかしないと。
「……ッ! くそっ、こんな時に!」
リンの体を抱え、私は逃走を始める。
倒れこんでいた土蜘蛛が起き上がり始めていたのだ。
ゆっくりはしていられない。だけどあまり激しく動くとリンの体に障る。
「どうする……どうすればいいんだよッ!」
土蜘蛛を殺すことは出来る。
だけどそれではリンを助けることが出来ない。
制限された動きの中、私は土蜘蛛が放つ糸の弾丸をまとめて回避しようと試みる。だが……
「う……」
「──リンッ!? ぐっ!? がああああぁぁぁッ!」
傷が痛むのか、苦悶の表情を浮かべるリンに私は大きく動くことが出来ず、土蜘蛛の糸をまともに食らうのだった。
『固定』に特化した土系統の魔力により、凝固した土蜘蛛の糸。まるで針のように鋭い切っ先を持つ糸が私の体中を突き刺す。
何とかリンにだけは攻撃がいかないよう、調整することが出来たけど……駄目だ。このままだと逃げ切れない。
リンをもう一度安全なところに避難させてから、戦うか?
いや、土蜘蛛はまだまだ体力を残している。それだと戦っている間にリンが死んでしまうだろう。それだけは……駄目だ。
(だったらどうする……どうすれば良いッ!?)
後一人、頼りになる仲間がいれば話は違っただろう。リンの治療を任せて土蜘蛛を相手にすることが出来る。だけど……一人戦いに来た私には頼れる仲間なんて残ってはいなかった。
全て、"あの時"に失ってしまった。
ウィルの信頼も、ノワールの期待も、クリスの親切も、ジルの歓迎も、ウィスパーの忠告も全て裏切って、私はリンを選んだんだ。
唯一、レオンだけは私の味方をしてくれたけどここに来る途中で限界まで血を吸ってしまった。これ以上、彼を頼ることは出来ない。
あれほど頼もしかった仲間達だけど、結局はこうなってしまった。
やはり……吸血鬼という人種は、受け入れられることなんてないのだ。
「リン……やっぱり私達は……どこまで行っても……」
胸の中で静かに消えようとしている命の鼓動に、私は絶望し……そして……
「ルナッ! こっちだッ!」
──私の名を呼ぶ、その声が耳に届くのだった。
「《創造せよ・形ある物・その身を以って・我らを守り給わん──【アルケミー】ッ》」
その声の主は続けざまに魔術の詠唱を行い、地面を隆起させ即席の盾を作り出した。そして……
「《炎精よ・我が呼び声に応え・燃え盛れ──【フレイミー】ッ!》」
私達がその内側に入ったのを確認して、特大の爆炎魔法を放つ。
空気を燃料に火炎を周囲に撒き散らすその魔術は土蜘蛛の体を焼き、視界を遮る機能を果たした。まさに時間稼ぎのための一連の魔術起動。
その見事なまでの連携をたった一人で行ったその男は……
「さあ、今の内に逃げるぞ……ルナ」
感情を漏らさぬ無表情のまま、名無しの男・ウィスパーは私の前に現れるのだった。




