第86話 獅子王、降臨
私はずっと求めていた。
男に戻ることを。
だけどそれは肉体的な変化だけを意味してはいない。それはそうだ。肉体だけ男になれば良いというのなら、それこそ『変身』して男体化すれば良いだけの話。
だけどそうじゃない。
私が求めているのはそういうことじゃないんだよ。
私が求めているのはそういった表面的な事ではなく、もっと深く、魂に刻まれた私の核の話だ。
男としての機能、役割、在り方。
それら全てを含んでこその"男"だと私は思っている。
だとするならば……私は今、ここで退くわけにはいかない。
退いてしまえば私は死んでしまう。
肉体と言う即物的な部分の私ではなく、魂の部分での私がどうしようもなく致命的に折れてしまうことが分かっていた。
自分を男だと思うのなら。
魂の部分で、自らを男だと主張したいのなら。
この瞬間だけは譲るわけにはいかなかったのだ。
吸血少女は男に戻りたい。
ならば唯一残ったこの魂だけは、何があろうと曲げるわけにはいかないのだ。
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「さっさと立てよ、土蜘蛛。こっちは時間がないんだ」
私の叱咤に呼応してか、土蜘蛛が鈍重なる体を起き上がらせる。
鈍重……そう。今の私にとって土蜘蛛の動きはあまりにも緩慢に過ぎた。
今まで付いていくだけで精一杯だったというのに。
吸血モードの上に獅子王降臨の重ねがけ。ステータスも一部四桁に到達するという異常事態だ。元々チートだった魔力も四桁だったところを見るに、その異常性が分かってもらえると思う。
ついに私は魔力以外もその人外の領域に踏み込み始めてしまったって事だ。ははっ、もう笑うしかないね。かつての平穏からどんどん道を踏み外していくのを感じるよ。
だけど……もう、それでもいい。
怪物に対抗できるのは同じ怪物だけ。
だったらこの身を人外にやつしてでも大切な人を守りきろう。
それだけが私に残された唯一の誇りだから。
「シッ!」
ドンッ! と強く大地を踏みしめ、駆け抜ける。それだけで地面にヒビが走り、周囲に爆風が撒きちらされる。まるでジェットコースターにでも乗っているかのように流れゆく視界の中、最速最高の鉄拳を土蜘蛛へと叩きつける。
「吹き飛べぇッ!」
バキバキと反動が手首から肩にかけて走り抜ける。
あまりの一撃に私の体が耐え切れなかったのだ。
だが、それだけの代償を支払った甲斐はあった。
ドオオオオオッ、と地鳴りにも重低音を響かせ、土蜘蛛の巨体が"宙に浮き上がった"のだ。
その出来の悪い映画のような光景に、私は内心で感嘆していた。
今の私は本当に強い。素手で土蜘蛛の装甲を貫くなんて、今までなら考えもしなかったことだ。
確かに土蜘蛛のステータスも鬼のように高い。
だが、それでも限界はあるということなんだろう。
これまでも感じていたステータスの差に関する違和感。
それが今、私の中ではっきりとした。
つまりステータスの数値は肉体の体積に"比例する"ってこと。
それはそうだ。もし、同じ筋力しか持たないなら重量の違う体では当然、重い方が苦労をすることになる。場合によっては自重すら保てなくなることだろう。
そういう意味で、体重の多い動物ほどこのステータスは高くなる傾向にあるということ。
私と土蜘蛛のステータスは大体倍くらいの開きがあって、私が負けている。
だけど……体重を、体積の比率を見るならばそれは二倍程度ではすまない。
つまりそれこそが今、私が土蜘蛛を圧倒している理由なのだ。
名目上の身体能力は負けていても、実質の運動性能は負けていない。
「ぐッ……!」
だが、この力にも反動はあった。
振り上げた右腕に走る激痛。
右腕の骨が例外なく砕けているのが分かった。
例えるなら軽自動車にスポーツカーのエンジンを載せているようなもの。肉体が耐え切れるはずがない。
本来なら諸刃の剣として機能するのであろう異能だが、しかし……
「私には……関係ないッ!」
『再生』スキルの恩恵により、即座に修復される右腕。
ほとんど一瞬で回復してしまったところを見るに、どうやらスキルの性能も向上しているようだ。これなら何の問題もなく全力を振るえる。
「なるほど、大体の感覚は掴んだ。基本性能と基礎能力の向上……派手さはないけど、かなり実戦的な能力みたいだね」
これまでステータスの不足に悩まされてきた身としてはかなりありがたい性能強化だ。土蜘蛛を相手にこれだけ戦えるってのは大きな進歩だね。
為すすべもなく逃げることしか出来なかった頃が懐かしい。
後は……
「すー……はー……」
深呼吸と共に意識を右手に集中。
かつてない純度、密度の魔力が収束していくのを感じる。
まだ、まだ……まだまだまだまだ、まだいける。
超高密度の魔力を物質として形成していく。
想像するのは私の代わりに戦ってくれたリンのこと。
ぼろぼろになりながらも戦い続けたその姿を脳裏に浮かべた瞬間……
──獣の刃が私の右手に顕現した。
それは魔力で固められた漆黒の爪。
かつてない純度で作られたその影魔法は全てを切り裂く鋭利さを持っていた。
まるで闇夜に浮かぶ半月のようにくっきりとその存在を虚空に刻むその魔法は……
「影魔法──『月影』」
どこまでも凶悪な牙を晒す、獣の爪。
獅子王として目覚めた私が始めて使えるようになった、新しい魔法だった。




