第84話 黒狼慟哭
獣人族の最も優れている点はその敏捷性にある。
周囲の壁を足場に、まるでピンボールのように周囲を駆け回るリンはまさしく一陣の風となっていた。素のルナはおろか、吸血モードのルナにすら匹敵する脚力を生み出しているのは一種の覚醒状態にあったから。
体内を光の如き速度で巡り巡る血液に自分の体がどんどん加速していくのを感じる。早く、早く、もっと早くと。
獣人族の中でも黒狼種と呼ばれる種族に該当するリンはその族性として月明かりの中限定で自らの身体能力を限界以上に引き上げることが出来た。
それは獣人族の中でも特に異端とされる能力。
時に興奮状態に陥り、周囲の敵味方関係なく襲い掛かるその姿から彼らは畏怖と共にこの蔑称で呼ばれる。即ち……
──『人狼』、と。
「アアアアアアアァァァァァッッ!」
伸びた鋭い犬歯に、ナイフのように鋭い爪。
獣の爪牙を身に宿すリンは今まさにその状態にあった。
月明かりの中でしか使えないはずの異能。それが暗闇に閉ざされた迷宮内で使えるようになった理由は分からない。
この窮地に自分の中にある人狼の血が騒いだのか、それとも……
──月の光に当てられ、それを強く守りたいと思った結果がこれなのか。
どちらにしろ構わない。
目的が達成されるなら。
ルナを……守ることが出来るなら。
「ラアアアアアアッ!」
体中を駆け巡る血液が沸騰するかのような勢いで熱く、熱く燃焼を開始する。
体内温度が急激に上昇することで苛まれる激痛すらも運動エネルギーに変え、リンは戦場を駆け抜ける。
あまりの肉体強化に体はぼろぼろ。細胞の一つ一つが無茶な駆動に壊死していくのが分かる。だけどそれでもリンは止まるわけにはいかなかった。
止まった瞬間に、土蜘蛛の攻撃が自分を貫くことが分かっていたから。
(死ねない……こんなとこでまだ死にたくなんてないッ!)
眼球の毛細血管が限界まで膨張し、すでに白目は真っ赤に染まりきっている。まるでルナの異能を借り受けたかのような姿のまま、リンは咆哮と共に土蜘蛛に肉薄する。
体のすぐ横を通りすぎていく死を紙一重で回避し、跳躍。
リンは土蜘蛛の頭上に飛び上がると、勢いそのまま上段蹴りを土蜘蛛の腹部に叩き込んだ。
「砕けろぉぉッ!」
──ドゴォッッッッ!
まるで爆発物でも投げ込んだかのような一撃に土蜘蛛の体が大きく傾く。だがそれでもダメージを与えるには至ってない。やはり攻撃力、決定力にリンは欠けていたのだ。
「く……ッ!」
自らの無能さに歯噛みしたくなるのを必死に堪える。
このままだと私は死ぬ。
そのことが分かっていながらどうしようもないのだ。
(ルナ……ルナ……ルナっ!)
死の縁にありながらも頭を占めるのはたった一人の少女のこと。
私の代わりに戦ってくれると言ってくれた時、涙が出そうになるほど嬉しかった。こんな自分にも奴隷としての役目以外に価値があるのだと、初めてそう言ってもらえた気がして。
だからこそ、こんな自分の為にその尊い命を散らしてはいけないとも思うのだ。こんな自分を認めてくれた彼女だけは死なせない。この命に代えても。
「守ってみせる……今度こそ、私は私の意思で運命を選び取る!」
それはこれまで隷属し続けてきた少女のたった一度の反逆だった。
こうして戦うことを選んだのだってウィスパーに命令されたからじゃない。
自分の意思で戦うことを選んだのだと高らかに謳い上げるのだ。
それ即ち──黒狼慟哭。
忌み嫌われる人狼としての在り方すらも呑みこみ、自分の在り方を定めた少女の雄叫びに他ならない。
「運命なんて知るかっ! そんなもの関係ない! 身分も種族も出生も何もかも関係ないっ! 私を優しく撫でてくれたあの人の為に、私の為に立ち向かおうとしてくれたあの人の為にっ! 私は……私になるんだッ!」
運命の操り人形としてではなく、一介の奴隷としてではなく、醜い人狼としてではなく、ただの一人の人間、リン・リーとしてあの人の隣に立ちたいと強く思うから。
あの人のような強さを自分も放ちたいと思うから。
だから……お願い、神様。今だけでいい。この一瞬だけでいい。私にあの人を守る強さをください。あの人のような強さを……私に。
「あああああぁぁぁぁぁッ!」
決死の特攻を仕掛けるリン。
勝てるはずのない戦力差。
だが今この瞬間において、リンは土蜘蛛を圧倒していた。
ただ一度の反撃すらも許さず、蹴り、殴り、斬り、突き刺し、切り刻む。
時には自らの牙で直接歯向かいながら格上殺しの牙を尖らせ続けるのだ。
一瞬でも気を抜けば即座に死に至る。それが分かっていたからリンは圧倒的な速度、手数で押し切るしか生き延びる道は残っていなかった。
加速し続ける肉体を極限まで研ぎ澄まし、自分の限界を超越していく。
土蜘蛛の攻撃は一度たりともリンの体を傷つけてはいないが、その暴走じみた肉体行使はリンの体に甚大な被害を与えていた。
たった一歩動くだけで体中の筋肉が悲鳴を上げる。
たった一度殴るだけで体中の骨格が軋みを伝える。
たった一振り銀刃を振るうだけで血液が弾け飛ぶ。
まさしく自壊しながら突き進むリンはそれでも止まるわけにはいかなった。
もう一度……もう一度だけで良い。
もう一度彼女に会いたいと、強くそう思うから。
彼女の記憶に残る私の最後の表情があんな格好悪い顔なんて、許せないから。
私はもう一度ルナに会って、今度こそ本物の笑顔で死んでいきたい。
それだけをリンは切望していた。
だが……
「ぐっ!?」
運命とは、地力の差とは根性や精神論でどうにかなるほど甘いものではない。
僅かに生まれた隙に強引にねじ込まれる土蜘蛛の反撃。
巨体そのまま体当たりするかのような勢いで突っ込んできた土蜘蛛の特攻をリンはかわしそこねてしまった。
「が、はッ……!」
その結果巻き起こるのは致命的な損害。
たった一度攻撃が掠っただけでリンは腐り落ちた木の葉のように吹き飛ばされてしまったのだ。
そうして元々死にかけていた体がついに限界を迎える。
血反吐を撒き散らしながらリンはそれでもふらつく体を必死に支えようとしていた。
「私は……もう一度……ルナに……」
どくどくと流れ出ていく血液が一秒毎に命を削っていくのが分かる。
──嗚呼……これは駄目だ。もう……私は"助からない"。
本能的に悟る自らの敗北、死の運命。
だがそれでもリンに残った理性はその運命を拒絶しようとしていた。
震える足で立ち上がる。折れた腕で必死に短刀を構える。
魂を鼓舞し、決意を燃え滾らせる。
全てはそう……もう一度ルナに会うために。
だが……
「…………くぅっ」
目の前に聳え立つ怪物の何も映さない眼光を前に、その恐怖は確かにリンの体を侵食し始めていた。
嫌だ、怖い、誰か助けて。
そんな情けない言葉が口から漏れかかる。
言ったところで誰が助けてくれるわけでもないというのに。
(ごめん……ルナ……私はもう帰れないよ)
緩やかに朽ちていく魂の鼓動。
やはり自分は偽者。紛い物だったのだと、リンは無意識の内に涙を流していた。月光のようにはなれない。自分はただ月の美しさに遠吠えを零すただの狼犬だったのだと。
(ああ……最後にもう一度だけ……)
自らの運命を認めた少女は瞳を閉じ、全てを諦めた。
「会いたい……」
最後の最後、叶うはずのない夢を零しながら。
「会いたいよぉ……ルナぁっ!」
そして……
「ああ、私も同じ気持ちだよ──リン」
リンにとっての"英雄"が、その姿を現した。
まるで御伽噺に登場する王子様のように、軽々とリンの体を抱きしめたその少女は優しい声音と共に跳躍する。
──ドオオオオオンッ!
寸前、二人の居た場所を貫く蜘蛛の足。
間一髪のところでリンを助けたその少女はお姫様抱っこのままリンを安全なところへ運んでいく。何が起きたのか理解できなかったリンはその瞳を開き、瞠目する。
「な、なんで……」
それは求めてやまなかった姿。
リンにとっての光の象徴。
「何でここにいるの……"ルナ"っ!?」
銀色の髪を揺らし、その瞳に紅の光を灯すルナ・レストンの姿がそこにはあった。




