第62話 獣の笑み
終わった。
湖の主であるクラーケンはそう感じていた。
僅かばかりに抵抗はされたが、これまでの餌と同じ。結局誰も自分には勝てないのだと。そう思っていた。
だからこそ……死んだとばかり思っていたその少女が紅色に輝く瞳を見開き、"笑み"を浮かべた瞬間、かつて味わったことがないほどの戦慄を覚えた。
それは、生まれ始めて感じる感情。
即ち……『恐怖』であった。
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何を悠々と泳いでやがる、この蛸が。
私はまだ死んでない。まだ戦える。
勝手に見切りをつけて勝利の余韻に浸ってんじゃねえ。
勝負はまだ……分からない。
とはいえ、空気を吐き出した時はもう駄目かと思ったよ。
──体の一部をエラ呼吸できるように『変身』させなければね。
だけどこれで互角。私も水中で活動できる。
勝負はこれからだ。
手始めに私を貫いていた触手を影槍で斬り飛ばす。
触手は本体ほどの魔法抵抗を持っていないみたいだからね。私の影魔法でも十分対処できる。となると問題はどうやって本体に攻撃を加えるかだけど……まだその方法には目処が立っていない。
けどまあ、焦る必要もない。
時間はたっぷりとある。
限界まで付き合ってやるさ。
(覚悟しろよ。こうなった私は……しつこいからな)
クラーケンの瞳が私をじっと見つめている。
そこに垣間見えるのは戸惑い、困惑。その類の感情だ。
この好機に追撃をしかけてこないのも、そういう迷いがあるからなんだろう。自分に迫れる存在なんて、想定すらしていない面だ。
いいね。実にいい。出来ればそのまま慢心していてくれ。
強者が弱者に食われる時ってのはいつだって慢心が原因なんだから。
そのまま大人しく……私に食われてくれ。
──ドンッ!
操魔法を使って、水中を高速で移動する。
ここにきてようやくクラーケンも私の復活を悟ったのか、今更のように触手を伸ばし水流を操作してくる。
だけど今の私を捉えることは出来ない。
触手を振り切った今、水流操作の妨害程度では追いつかないのだ。
(また触手に捕まると厄介だ。ひとまずは回避を最優先にする)
だが、それは逆に言うと触手に捕まった瞬間先ほどのように大ダメージを負うことが確定するということでもある。ある程度対抗できるようになったとはいえ、フィールドは向こうのホームだ。一瞬たりとも油断は出来ない。
水中を人魚もかくやという速度で泳ぎまわり触手を回避し続ける。時にはかわせそうにない触手を影魔法で対処しながら。
魔法の大原則として、複数の魔法は同時に行使できないという弱点がある。
私の場合でいうなら水中を移動するための操魔法と、触手を排除するための影魔法は同時に使用できないということ。そのため、影魔法を使う瞬間だけは減速せざるをえない。
更に言うなら、この複数の魔法の切り替えは脳にかかる負担が大きい。
操魔法でかわすか、影魔法で迎撃するかの判断。
術式の切り替え、効果半径の再指定、事象干渉の具現化。
それらの思考を一度でもミスれば終わるという極限状態の中、瞬時に選択していかなくてはならないのだからそれも当然といえば当然。
師匠のところでアホみたいに鍛えられていて良かった。
ギリギリだけど何とか付いていけている。あの二年半がなかったらとっくの昔に私は死んでいただろう。師匠には感謝してもしきれないね。
(ぐっ……! とは言っても水中で戦うのはいくらなんでも不利すぎる。早いところ陸に戻らないと……)
少しずつ余裕が切り取られていくのを感じる。
一度でも攻撃を食らえばそこから悪夢のようなコンボに繋げられてしまうことだろう。集中スキルを切ってる暇がない。
ひりひりとした緊張感。
ここが戦場なのだと痛いほど理解させられる。
生きるか死ぬか。
食うか食われるか。
嗚呼、本当に……"楽しい"なあ。
一歩間違えば即死に繋がる断崖絶壁。その縁に立っている実感。
これだよ……これが生きるってことだよ。
前の人生では勿論、この世界に生まれてからもずっと感じることの出来なかった『生』の感覚を今、私は強烈に感じている。
この体に生まれてよかった。
この世界に生まれてよかった。
戦える体、戦える相手、戦える運命。
その全てに感謝を捧げたい。
今はそんな気分だ。
(面白い。この世界は本当に面白い!)
ネトゲなんかでは味わえない本物の緊張感。
きっとこの世界には私よりも強い存在が山のようにいるのだろう。
それが今は堪らなく愛おしく感じる。
思えば昔からそうだった。ネトゲに傾倒したのも、あの世界で最強と呼ばれる存在になりたかったから。
負けず嫌いの私の本領、その本質だ。
誰よりも強くありたい。
もっと広い世界を感じていたい。
今よりずっと高い、頂点の景色を見てみたい。
だけどそのためには……
(お前が……邪魔だ)
クラーケン、お前は最強には程遠い。
私はお前よりももっと恐ろしい存在をこの目にしたんだ。
だから……お前程度に殺されてやるわけにはいかない。
こんな辺鄙な湖でふんぞり返っている井の中の蛙に負けるわけにはいかない。
お前も……私の餌にしてやるよ。
目の前の強敵に対する対抗心が恐怖を上回った瞬間、私の中で一つのスイッチが切り替わった。ニュートラルな状態から興奮作用の強い吸血モードへ、そしてそこから更に一段階上……言うなれば好戦的な戦闘モードへ。
自らの精神状態をそう定義した私は無意識の内に口元を吊り上げ、三日月を形成していた。つまりは……
《スキル『威圧』を入手しました》
──獰猛な獣を思わせる、歪な笑みを。




