第61話 湖に潜む怪物
まずい! まずいまずいまずい!
何だコイツは! この怪物は!?
くそっ! しまった。迂闊にも奴のテリトリーに入ってしまった。
ステータスは土蜘蛛に劣る。だけど、水中では間違いなくこいつの方が脅威だ。
早く……早く岸に戻らないと!
取ったばかりの魚を投げ捨て、私は全力で岸を目指す。
あのクラーケンの瞳は間違いなく私を見据えていた。獲物を狙う目をしていた。
こんな圧倒的に不利なステージでは戦えない。少なくとも陸地に上がらなければ。
だが、それは向こうも分かっていること。
そうそう簡単には見逃してくれない。
(……っ! 触手かっ!?)
私の前に網のように広がっていくのはクラーケンの触手だ。
私がずっと蛇と見間違えていたのは最初からクラーケンの触手だったらしい。それが数十本近く。あまりにも多すぎる触手群だ。
すでに私の逃れる隙間は存在していない。上手くクラーケンの触手に絡め取られた形だ。だけど……こっちにもまだ手段は残されている。
(頼むぞ……影魔法!)
両手に魔力を集中し、勢いよく射出するのは巨大な獣の爪。
熊手のように伸びた影は触手のスクラムを切り開き、強引に隙間を生じさせる。ここだ。ここを逃せばもう機会はない!
(操魔法……発勁ッ!)
続けて発動させるのは周囲の水を利用した操魔法。
それを私はジェット噴射の要領で活用し、泳ぐ速度に勢いを付ける。
慣れないフィールドとはいえ、何も出来ない訳じゃない。
むしろ、水中の方が私の手数は多いかもしれないくらいだ。
影魔法が水中でも機能しているのも大きい。火系統の発火型魔術とかは水中では使えないから場所を選ぶ魔術だが、影魔法にはそんな制約もない。
これらの魔法を使っていけばクラーケンの触手から逃れるくらいなら出来る……なんて、思っていた時期が私にもありましたよ。ええ。
だけどどうやらその考えはおかんの作った卵焼きよりも甘かったらしい。
次々と迫り来る触手群は私の体に絡みつき、逃亡を邪魔してくる。
一つ一つ、影魔法で切り飛ばしているけど数が多すぎる。
足の触手を剥がす間に腕や首に、首の触手を剥がす間に胴や足にと際限がないのだ。
加えて……
(ぐっ……周りの水が、奴の方に……っ)
クラーケンには『水流操作』のスキルがある。
そのせいで、何もしなくても奴の方向へ自然と引き寄せられる格好になっている。湖を上から見ればきっと渦巻状に蠢く水流が見えることだろう。
まるで蟻地獄。
湖に入った瞬間、すでに私はあいつの領域に飛び込んでいたらしい。
あまりにも迂闊な自分を罵ってやりたい気分だけど、今はそんなことをしている暇すらない。早くこの触手と水流の対抗策を見つけなければ。そうしないと……
(まず、い……そ、そろそろ……"息"が……)
吸血鬼といえども、ベースは人間だ。
息が出来なければ当然死ぬ。
焦り始めた私は軽率にも『変身』スキルを使って、体を魚群に変身させ逃亡しようと試みた。
だが……クラーケンの生み出す水流の中、小さな魚に分裂するのはまさしく愚行だった。あっという間に水流に押され、クラーケンに飲み込まれていく私の変身体。
(っ、ミスった……今ので右腕一本、持っていかれたか……)
咄嗟に元に戻ってはみたが、飲まれた分、右腕が欠損してしまっていた。
恐怖は不安を助長し、不安は焦りを生み、焦りはミスを招く。
落ち着け……今までだって圧倒的に不利な状況からでも何とか切り抜けてきたじゃないか。どこにも焦る必要なんてない。考えろ……活路を探せ。
背筋に走る悪寒をかき消すように自らを奮い立たせる。
まだだ……まだ私は負けてない。
(……ッ、来るっ!?)
右腕を再生する暇もなく、クラーケンは猛攻を続ける。
体にまとわり付く触手が強引に私の体を引っ張りこみ、更なる水深へと誘う。水流操作と相まってほとんど必殺の陣が出来上がってしまっている。これを攻略するのは骨が折れそうだ。
そして、多分……その時間は私に残されていないだろう。
なら!
(一瞬で……クラーケンを屠るッ!)
私は水流に抗うのを諦め、逆にその水流を利用することにした。
操魔法とあわせ、爆発的に速度を加速した私は弾丸のような勢いでクラーケンに突撃する。いきなり逆方向に力が加わったせいか、触手の拘束も僅かに緩んでいる。
良し……この隙に勝負を決める!
影魔法を使って両手に短剣を生成する。
射程よりも威力と強度を重視した影魔法でクラーケンの本体へと強襲をかける。だが……
(ぐっ……なんだこの硬さはっ!?)
私の作った刃はクラーケンの皮膚を浅く切り裂くだけで停止してしまっていた。恐らくこれはクラーケンの持つ『魔法抵抗』のスキルの恩恵なんだろう。
魔力で作り上げた影の刃では届かない。
私の持つ、最強の攻撃手段が封じられた瞬間だった。
そして……クラーケンの触手がお返しとばかりに、水中を動き回りまるで鞭のような動きで私の体を強かに叩き付けた。
クラーケンのスキルも本体に近ければ近いほど効果を発揮するのだろう。
今まで以上の勢いで振るわれた触手は私を弾き飛ばし、水底へと叩きつける。
その時点ですでに意識が朦朧とし始めていたが、クラーケンは更に追撃をたたみかけてきた。まるで串刺しにするかのように鋭い触手が私の腹部に突き刺さり、水底に縫い付ける。
「ご……ぼっ……!」
僅かに残った空気と共に、吐血してしまう。
口から漏れた空気の泡はゆっくりと水面へと向かい、そして……
……私の頭上を覆うクラーケンの巨体にぶつかり、弾けた。




